テキスト主体

懐中電灯と双眼鏡と写真機を
テキスト主体で語ろうとする
(当然、その他についても、語ったりする)

戦場カメラマン

2012-09-04 22:28:10 | 日記
渡部陽一さんのタレント活動で飛躍的に認知され、山本美香さんの非業の射殺で言葉通りの意味がまだ失われていないことを知らしめたコトバです。

私にとっては、沢田教一、ロバート・キャパ、一ノ瀬泰造の順で想起されるコトバです。



上の写真は沢田の「安全への逃避」、下はキャパの「人民戦線兵士の死」です。”崩れ落ちる兵士”としても知られるキャパの写真は、数年前にヤラセ疑惑が持ち上がったことがあり、ご存じの方も多いかと思います。

ただ、これらの写真が撮られた頃は戦場カメラマンという呼称ではなく、従軍カメラマンと云われていました。この時代、戦争というのは、自軍と敵軍が、特定の戦地にて、きまりごとをある程度守りながら行う、戦闘行為だったのですが、今の戦争は2国間で行われるより、クーデター、政府軍と革命軍で行われる割合がずっと多くなり、国同士で争われる戦争も、相手を屈服させればそれでよい紛争より、相手を殲滅するまで闘うような、宗教、主義の対立による戦争、経済的事由に後押しされ、金融マーケットがダメ出しするまで続けられる戦役などのように、従軍というくくりでは、齟齬が生じるケースが多くなってきたので、コトバも変わってきたのだと考えています。統制の取れた軍による戦闘は少なくなり、さらにガンカメラの発達により、現代的な軍そのものがカメラマンを必要としなくなってきたとも云えます。
現代において、金融マーケットが大国間の最大の戦争抑止要因となってからも、小国間の戦争、内戦、唾棄すべき聖戦で行われる戦闘は、その残虐さを薄められることなく存在していて、それを報道しようという戦場カメラマン達の動機に、従軍カメラマンの時代との違いはあまりないように思うのですが、その行動が、戦場が存続する事由を低減する役に立つかどうかは、疑問を挟む余地が多くなってきたと感じています。
有り体に言って、戦闘で被害を受け、死ぬ子ども達より、経済格差で死ぬ子ども達のほうが多いのではないかとも考えます。
逆説的に云えば、戦争をするための武器取引がより経済格差を広げ、却って悪い結果に繋がる、そんないやな時代になったということ。それなら、戦場カメラマン達の動機に、もっと違った方向性があっても良いんじゃないかと思うのです。
戦争の実情を伝える一枚の写真、一本の映像で感情に訴えるよりも、風評や、人気や、噂と思惑により敏感なマーケットを刺激する方法があるのではないかという、願望に近い思いです。
かつてはソ連はじめとする共産圏、現在では中共が提供する安価なコピー兵器は、崇高な人格や、優れた叡智、無辜であどけない子どもを、あっけなく蹂躙します。戦争の非情をいくら敷衍しても、金の流れを産む限り、より経済格差は広がり、負の連鎖が止むことはないと思うのです。
拝金主義に半ば屈服するようで、苦い思いなしに、考えることは出来ないのですけれども。