*心と生き方のために
「傍流でしか見えない大事な事がある」
前回「聞く力」を掲載いたしました。引き続き、民俗学者の宮本常一にまつわる
ところの続きです。
宮本常一は、アカデミズムの支流ではなく、役職に就いたのも晩年で人生の大半
は、食客として人の家で暮らしていたという。
21世紀に生きる子供たちが、「元気が無い」と言われるのは、子供達の心の中に
住む、他者が少ないからではないか昭和30・40年代は、祖父や祖母、近所に住
む人達が子供に声を掛けた。「こんな生き方をしなさい」、その子供の事を心から
思った言葉を投げかけたものである。
自分のことを本当に思ってくれている他者が、何人心の中に住んでいるか。この量
がその人の強さであり、魅力なのではないでしょうか。賢者の書物を私たちが読む
のは、他者の言葉を多く心に住まわせるという要素があるからだと思う。
宮本常一の中には、何人もの他者が住んでいた。例えば渋沢敬三(渋沢敬一の孫、
後に日銀総裁)小学校の教員だった宮本は、徐々に民俗学に目覚め昭和14年、
家族を大阪に残し、布団と着替えだけを持って上京した。
宮本には、「満州の建国大学に勤めないか」という依頼が舞い込んでいた。意気揚々
と上京した宮本に、出迎えた渋沢敬三は「行くな」。「君には学者になって欲しく
ない、民俗学の資料が乏しい、君にはその発掘者になってもらいたい」。
「日本中を歩き資料を収集せよ」と言ったという。
大学の職を得て、家族一緒に暮らせる好条件を渋沢は「呑むな」と言ったのです。
そして「大事な事は主流にならぬ事だ。傍流でよく状況を見ていく事だ」と。宮本は
『渋沢先生のこうしたこまごまとした人生的な配慮に、私は本当の師を得た思いを深
くした』と感服し、満州行きを取り止めたと言います。
途中、研究調査で名を上げた宮本に、数々の就職以来が持ち込まれたが、渋沢は、
「私に任せておけ」と言って、断っていたという。ようやく就職が許されたのは、
昭和38年武蔵野美術大学の教授職だった。この時宮本は56歳でで、その時を待っ
ていたかのように渋沢は他界したのである。
一見渋沢は乱暴なように思えるが、そうではない。宮本は渋沢のアドバイスに素直に
聞き従ったゆえに、今尚認められる民俗学者となりえたのです。師の言葉を素直に聞く
事も才能だ。渋沢と宮本の関係は、コーチとプレイヤーだ。プレイヤーが頭を働かせ事
は大事だが、戦略は、視野の広いコーチに従ったほうがうまく行く。演技が上手いと評
される俳優の多くが、実は監督の指示に従っていただけたという事は良くある事である。
コーチ的存在の言う事を素直に聞くという事は、一つの才能なのであると言う。
宮本常一は、父母との関係も、コーチとプレイヤーのようであった。特に父の存在は大
きく、1週間も一人で旅をするような父であったが、各地で得た知識は息子に言って聞
かせた。「私の生きて行く為の方向を決めさせてしまったのは父だった」と言うくらい、
大きな存在だった。16歳の時、宮本は大阪へ出る事を決意する。
すると、父は、宮本に10の事を言って聞かせる。宮本はそれを忘れない様に書き留めた。
① 汽車に乗ったら外を見る(土地や暮らしの観察)
② 新しい土地では高い所に登れ(土地や道の掌握)
③ 名物料理を食べよ(土地の文化水準の掌握)
④ できるだけ歩いて見よ。
⑤ 金は儲けるより使うほうが難しい。
⑥ 30歳までお前を勘当したつもりでいるから、好きなようにやれ。
⑦ 困った時は帰って来い。
⑧ 親が子に孝行する時代だ。
⑨ 良いと思った事をやれ、失敗しても責めはしない。
⑩ 人の見残した物を見るようにせよ、その中に大事な物がある。
宮本常一にして、この父ありか。①~④は渋沢敬三が宮本に命じた内容そのままである。
渋沢の「傍流になれ」は、そのまま⑩ではないか。
宮本は、父の言葉を受けて、こう記してある『私は、この父の言葉に従って今日まで歩み続
ける事になる』これが、宮本常一という偉大な、民俗学者誕生の理由である。
現在の生活に於いて、目先の物事に一喜一憂して、名誉や役職に固守している現代人の生
き方に、何か考えさせられるのは私だけではないと思います。
子供の天性を知り、しっかりとした言葉を投げかけ、素直な人間形成に導く事の大切さを、
そして、主流にいる者には見えない何かを、傍流に立って見ると、本当の姿が見えてくると
いう。
現在、各方面に於いて主流にいる方に、一度、傍流に立って見直す大切さを教えているよう
に思われます。心と生き方のために・・・・。
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