徒歩日本二周目(≧∇≦)只今関東地方!

昨日は今日の物語 今日の後に今日は無し…

新政府重臣の書簡…

2013年09月19日 | 日記
大久保から木戸への書簡にこうある…

会津は全く孤立落日の状態に至れり
城下は灰燼と帰し
弓は折れ、矢は尽き候時宣に及び候…
まことにもって、大愉快と申すべし…
          大久保利通より

戊辰後の東北各藩に対する処遇は
封土没収と藩主交代を命ぜられたが
マジで本当の実際は
減封による処分のみにて済んでいる…
仙台藩は六十二万石が二十八万石へ
南部藩は二十万石から十三万石に
長岡は七万四千石から二万四千石に
奥羽越後十九藩と関東の四藩他二藩
そこからの没収石高は
百五十万石ともいわれているが
会津藩だけは全てを没収されている
それは諸藩への見せしめでもあった…

以後
明治政府の財源は東北越後が負担し
高位高官の恩賞もそこから捻出
同時に薩長首脳の財産も
膨れ上る一方だったと言われている…
戦功のあった賞典禄は
薩摩長州両藩主に永世賞典禄十万石
西郷が最高の二千石
木戸と大久保は千八百が下付された…

戦に敗れたるは時の流れなり
しかし以後における会津への仕打は
薩長への憎悪怨念を膨らませていく…

斗南の仕置き…

2013年09月19日 | 日記
斗南藩領は二戸郡金田一以北の
三戸、五戸、野辺地、野辺地で
その間には七戸、八戸が挟まり
分断されていた…
肥沃な土地だけが外されている
そこに罠があった…

原田五郎右衛門は事前調査の際
「政府の保護無く生計保てず」
と報告したが
陸奥移住は薩長政府の絶対命令
拒否する事は到底出来ない…


後年市街地郊外で
幾つもの土盛が見つかっている…
掘り返すと
親子三人川の字になり埋葬され
餓死か凍死か疫病かまたは
豪雪で家がつぶれ圧死したのか
極貧に耐えきれず
多くの人々が原野の下に眠った…

まこと流罪にほかならず
挙藩流罪という
史上かつて無き極刑に在ざるか
そんな憎悪怨念が残るのみに候…

会津人が長州と
未だ和解を拒む理由のひとつに
この斗南藩の仕置きがある…

会津から斗南へ…

2013年09月19日 | 日記
田名部に数千もの藩士が押し寄れば
街は当然ごった返し
寺という寺はみなその宿舎に当られ
町屋にも当然収容しきれず
近隣農家へも分宿する有様となった…

ある古い著書の中に
その当時の様子を記した一文がある
(本のタイトル忘れちゃった無念)

田名部に秋浜という古い宿屋があり
そこの老女が親から聞いた話として
客の中に
会津で家老だったような人もいたが
決して威張る事も無く
皆礼儀正しく互いに労りあっていた…
田名部の人々には前代未聞であり
ただ眼を見張るばかりであったが
目に見えて二つ大きな影響が表れた…
そのひとつは礼儀作法であり
町民はおのずから
その風を見習うようになったという…
そして今ひとつは学問である…
土地の人々にとって
決して迷惑な侵入者ではなく
下北の夜明と言っても過言では無し
そんな好意的な観察も残されている…

円通寺は容保公父子が起居した場所
近くの徳玄寺は藩庁役割を担い
門前に立つと感慨深きものが湧いた…
近年会津藩士の末裔の方々により
百四十年祭が催されたと聞いている…