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徒歩日本二周目(≧∇≦)只今関東地方!

昨日は今日の物語 今日の後に今日は無し…

略奪の軍艦…

2013年09月21日 | 日記
下北にも
戊辰戦争の被害は伝えられる…

脇野沢の港に西軍軍艦が停泊
村人はみな山へと逃げ込み
西軍の兵は豪家の倉庫を開き
貯蔵していた
三千両の金を奪い去った…
それが元でこの家は没落
艦長の名は牟田口某と伝わる…

色々見たり読んだりしてると
会津だとか薩長だとか
二面的に見てしまう所がある…
しかし
本当の被害者は誰かと問えば
意思表示も決定権も無く
ただ歴史に巻き込まれていく
農民や町人達なのである…
それは今の時代にも通じている…

山川の晩年…

2013年09月21日 | 日記
本来の山川の力量からすれば
陸軍の中枢に進むべきだったと
後世の歴史家達は語る…
だが会津人であるが為
不遇な扱いに甘んじる事となり
最終階級は陸軍少将…

しかし後に薩摩出身の文部大臣
森有礼に能力を買われ
東京高等師範学校や
東京女子高等師範学校の校長に
軍人身分のまま転身…
旧制中学や高等女学校、そして
師範学校の教員の育成に当たる…

学校運営や管理などは
全て教頭以下にまかせて丸投げ
その分学生との対話に力を入れ
卒業する生徒達を自宅に招き
生きるに困れば何時でも来いと
生徒達を見送り続けたと伝わる…

歩く時は一人、付き人も好まず
宴会は特に嫌いだった…
「税金の無駄使いである…」
地方の視察での知事の誘いでも
山川は互いに酒を持ち寄り
二次会への馬車を用意されても
決して乗る事は無く
いつもさっさと歩いて帰った…

馬には乗らずに峠も歩いて超え
後に貴族院議員となり
いよいよという時に病に倒れ
明治三十一年の二月四日この日
五十四歳で永眠している…

死後、松平家の顧問職は
弟健太郎へと引き継がれていく…

十倉新八…

2013年09月21日 | 日記
移住者のひとり十倉新八の最初の住居は
三戸小渡村の天井も畳も無い八畳間に
一家五人が犇めいて暮らしたと云われる…

その後三本木に移り暫く農業に精を出し
やがて三本木の街で
甘酒や濁酒、駄菓子の製造と販売を始め
明治五年六月
函館に渡り警察官の道を歩むが
その後文官に転じてさらに開拓使に奉職
やがて郡上となり
晩年は七尾村会議員、上磯村長を務めた…

戊辰以後の歴史から姿を消した会津人達
その一人一人を追えば
それぞれに物語とドラマが残されている…

改革の追風…

2013年09月21日 | 日記
話は少し遡る…
明治四年十月に府県制度が制定され
青森県が生まれた…
権惨事は弘前の権惨事を務めていた
野田という旧熊本藩士
これが薩摩や長州ではなかった事が
会津にとっての幸運であるといえた…
実際に野田という男は
出身に捉われぬ平等な人間でもあり
後年それに助けられる事にもなった…

翌々年、明治政府の教育改革により
全国に公立小学校が開校
貧しき中でも斗南藩校を設け
子弟の教育にあたってきた旧藩士は
多くの学校の校長や教頭
各町村の職員にも採用をされている…
そこには
権惨事である野田の温情も見えるが
会津人の学問や行政手腕が
高く評価され求められた事でもある…

報復…

2013年09月21日 | 日記
山川は西征別働軍の参謀に補せられ
別働軍総督黒田清隆中将と
第二旅団長山田顕義少将らとともに
民家にて軍議をこらしていた…

夜も更け込み、そのうちハラも減り
「どれ、飯でも食うか…」
山川は呟やき囲炉裏に火箸を渡して
味噌を付けた握り飯をじっくり炙り
一人旨そうに食べた…
黒田は薩摩、山田は長州
二人は涎を流し握り飯を見つめたが
山川は我関せず
悠々とその握り飯をほうばった…
それは薩長に対する仕返しでもある…

あの時ぐらい旨い握り飯はなかった…
山川は後年そう振り返る…