徒歩日本二周目(≧∇≦)只今関東地方!

昨日は今日の物語 今日の後に今日は無し…

広沢の先見…

2013年09月20日 | 日記
南部公は代々
下北の牛乳を竹筒に入れて
盛岡まで運ばせ愛飲した…
いずれこの国も牛肉牛乳を
口にする時代となる…
広沢はそう分析していた…

日本が世界列強と肩を並べ
そして
外圧から日本を守るには
強力な軍備がいる…
それには軍馬が必要となる
広沢の脳裏には
そんな推理もあったようだ…

広沢は後年
日本最初の洋式牧場を開き
後に明治天皇が
天覧のために訪れている…

国を富ますは
商工農を預かる実業家なり
役人ではない…
そんな言葉が既に当時
人々の口々に語られていた…

余談ながら
その広沢の腹心だった男に
北村豊三がいる…
彼は後年牧場を独立させ
軍馬生産に大成果を上げた…

青森県知事を三期預かった
北村正哉はその曾孫に当り
さらに長男の北村正任氏は
毎日新聞社社長
日本新聞協会会長を務めた…

因みにこのへんは
殆ど全部が資料丸写しだが
それらの牧場は
今でも三沢にあると聞いた…

青森の形…

2013年09月20日 | 日記
広沢安任という会津藩士がいた…

彼の頭にはひとつの試案があり
それは斗南とか南部とか
狭い区域ごとでの行政ではなく
この地域全体で
未来を考えるという事だった…
勿論そこには
斗南だけでは成り立たぬという
逼迫した裏事情もある…

この時広沢の中にあった構想は
弘前、黒石、八戸、七戸、斗南
の五県を合併させ
大県をつくるというもの…

しかし、ひとつだけ問題がある…

それは津軽と南部の犬猿の関係…
戊辰戦争で津軽は
奥羽越同盟を離脱し薩長につき
南部はあくまでも東北に殉じた…
それだけに
津軽を信用出来ぬという意識が
南部人にはある…
しかし広沢の考えは違う…

南部は会津同様朝敵ではあるが
津軽は同盟離脱で薩長側に付き
それだけに新政府の信頼がある…
とすれば
津軽と合体したは何かと好都合…

現在の青森県はここで誕生する…

埋葬かなわず…

2013年09月20日 | 日記
戊辰戦争における会津藩の戦死者は
三千人といわれているが
農民や町民など非戦闘員を加えると
その数は数千人を越える…

多くの婦女子が捕えられ辱められた
怒り恨みに加えて
遺体は埋葬する事を許されず
無残野晒に放置されたまま冬となり
さらに翌年春になりながらも
まだ埋葬供養が許されなかった事も
薩長に対する怨念が渦巻ていた事の
要因だと歴史書は強調する…

一方の斗南はまず戦没者供養だった…
自刃した白虎隊の墓所を建てたのも
三戸に入植した藩士と言われ
観福寺という寺の中にあり
近在に隊士の姉が住んでいたと伝う…
会津における白虎隊士の墓所建立は
それより更に時が過ぎてからとなる…

その後の会津…

2013年09月20日 | 日記
敗戦後の会津を支配したのは
占領軍による軍政…
占領軍には薩長土は加わらず
加賀と松代と越後と高田四藩
最高責任が加賀藩にあり
その下が他の三藩であったが
強大な権力をもった福井藩の
監察「久保村文四郎」が
徹底的に会津を痛めつけたと
記録には残されている…
だがそんな会津にも
帰国者達は次々とやって来た
ここに一つの記録が残される…

斗南帰りの類右衛門の一家は
同じ帰国の四所帯と同居した…
故郷でありながら
屋敷も土地も財産も何も無く
日雇いや内職の仕事を探した…
この年七月
長男の秀太郎が痢病にかかり
命を落とす…
「長男を失い悲しみ絶えず」
その悲しみにやつれ果てた妻
ミヨは翌年五月に死亡…
弟の死と母の死
長女のサタは翌月衰弱死した
二十歳の若さである…
類右衛門の母親も斗南の地で
栄養失調にて亡くなっている…

廃藩置県…

2013年09月20日 | 日記
戊辰以前欧州を見聞しながらも
そのうちみるみる雲行き悪化
その時の藩執行部は全員引退し
二四歳山川が全て背負わされた…

大坂籠城の指揮や会津降伏手続
主君の助命嘆願と斗南藩創設
御家再興にあたっては
仇敵達に頭を下げる屈辱さえも
幾度となく味わっている…
しかし
廃藩置県はその全てを無にした…

会津松平家再興を夢見て
斗南の地に渡った一万七千余人…
斗南藩でも武士でも無くなった
この日から人々は
新しい暮らしを求め散ってゆく…

北海道に渡って漁労に就く者
ツテを求めて故郷会津に帰る者
病人を抱えやむなく残る者
元会津士族という身分を隠し
日雇い労働にて細々と暮らす者…

会津藩再興の夢はここに終えた…