徒歩日本二周目(≧∇≦)只今関東地方!

昨日は今日の物語 今日の後に今日は無し…

続々・山川という男…

2013年09月19日 | 日記
その山川にも弟妹がいた…
弟健太郎は米国エール大に留学
物理を専攻し
後に東京帝国大学総長を務める…
妹の咲子もまた津田梅子と共に
日本で最初の女子留学生となり
米国へ渡る…
帰国後は鹿鳴館の華とうたわれ
後に薩摩の大山厳と結婚した…

華やかな家族に見えるが本来は
賊軍会津が留学出来る筈なく
健太郎に関しては黒田清隆の
「賊軍の子弟も入れよ」という
気まぐれな鶴の一声があり
咲子の時に至っては時代的に
女子の留学希望者がいなかった
という理由も語られている…

しかしながら
この家系の血筋が秀逸な事には
何ら疑う者はいない…

続・山川という男…

2013年09月19日 | 日記
会津戦争における山川の登場は
後々の多くの物語にも描かれる…

日光口で土佐藩勢と戦う山川は
敵の囲む会津へと戻り
楽隊を先頭に
笛太鼓と獅子踊りで戦場を舞い
敵が見とれる間に入城を果たす…
その豪胆で華麗な策には
敵軍の板垣退介も苦虫をつぶす
日光口でも土佐の兵は山川に
さんざん翻弄されていたからだ…

山川大蔵という男…

2013年09月19日 | 日記
会津藩士山川大蔵は
外国奉行の随員として海を渡り
帰国後藩改革に当ろうとした時
鳥羽伏見の戦いが起こる…
旗色悪き大坂籠城戦が始まるや
二四歳の若さで軍総裁に推され
辛酸を舐めながらも
武器も弾薬も食糧も切れる中
ひと月の籠城戦を指揮した事は
とても見事であるとその歴史書
は語っている…

かつてエジプトのピラミッドを
見学した山川は
現地ガイドが東洋人をさげすむ
態度を見せたので
その男を殴り飛ばした事もあり
恐らく日本人で初めて
エジプト人ガイドを殴った男で
あると記録される…
その山川が会津藩士達の纏め役
斗南藩権大惨事となった…

犬肉と戦場…

2013年09月19日 | 日記
それは有名な話だといわれる…

ある日から食事は毎日
塩で味付けをした犬の肉となり
五郎は無理に口へ放り込むが
のどに支えて吐き気をもよおし
それを見た父が怒鳴りつけた…

武士の子たる事忘れしか!
戦場にありて兵糧尽きたならば
犬猫たりとも
これを喰らいて敵と戦うものぞ
ことに此度は西国賊軍に追われ
辺地に来たれるなり!
会津の武士共餓死して果てたと
薩長の下郎共に笑わるるは
のちのちの世までの恥辱なり
ここは戦場なるぞ
会津の国辱
そそぎうるまでは戦場なるぞ!

この言葉は陸奥に来た会津人に
共通のものだった…
いづれこの恨みは晴らしてやる
それまで歯を食い縛って耐える…
そういいながら
極貧の暮しに耐えたと言われる…

柴五郎…

2013年09月19日 | 日記
会津藩士の子弟に柴五郎という男がいた…

五郎は戦後召還された兄太一郎に付添い
しばらく江戸の謹慎所に暮らすが
勉学の機会もなく、兄の手配により
土佐藩公用人の家へ学僕として奉公する…

勝者と敗者には月とすっぽんの差があり
謹慎所や倉庫に押し込まれた会津と違い
勝者の屋敷には妾や女中や家来
そして若党のほかには三人の馬丁がいた…
まさに、勝てば官軍であった…

ある夜
料亭の宴席にて五郎は座敷へと呼ばれる…
「この小僧は会津武士の子でな
 母も姉妹も自害して果てたるよ…」
芸妓女衆が大勢はべる酒席でそう言われ
五郎は胸中煮えたぎる思いで唇を噛んだ…
五郎の祖母、母、兄嫁、姉妹はみな
敵が城下を攻めた日に悉く自刃している…

そして五郎はほどなくしてその家を出る…
一年奉公して貰った餞別は一分
その帰りに夕立に遭い雨傘を買求めたら
代金は一分だった…
五郎はその悔しさに涙が止まらなかった…

後年彼は軍人となり
薩長の軍閥の中で屈辱を味わいながらも
陸軍大将に登りつめ
欧州各国により勲章を授与されるまでの
逸材へと成長していく…

五郎は江戸以後の少年期を斗南で過ごし
むつ市運動公園の傍にはその跡地が残る…