ゆっくり行きましょう

気ままに生活してるシニアの残日録

映画ケン・ラッセルの「マーラー」を再び観る

2023年04月11日 | 映画

映画「マーラー」(1974、英、監督ケン・ラッセル)を観た。3度目だ。先日テレビの録画で読響のマーラー交響曲6番の公演を観たから、再びマーラーのことを少し知りたくなって見直すことにした。

監督のケン・ラッセルは英国人で2011年に84才で亡くたっているが、ウィキペディアによれば、過激な作風とエキセントリックな言動で知られ、そのセクシャルな演出で教会をはじめ多方面から批判を受けた、マーラー、リスト、チャイコフスキー、エルガーなど伝記映画を得意としているそうだ。

今回はある程度事前に、或いは映画を観ている途中でウィキペディアとかこの映画について書いているブログなどを適宜参照にしながら観たが、結論としては、理解できた部分もあるが、よくわからないところが多い映画だということだ。

理解できたところの例としては、映画のはじめの方で駅の列車の中からホームを見ると白い背広を着た紳士と白い服を着た少年がいる場面があり、これはマーラーをモデルにしてヴィスコンティーが作った映画「ベニスに死す」をイメージしていると言うのはわかった、音楽も映画と同様交響曲5番のアダージェットが流れていた。また、マーラーの妻のアルマが草原の中の牛たちから首にかけられているカウベルを取り外している場面がある、これは先日聴いた交響曲6番で使われているカウベルと何か関係がありそうだとは思ったが単なる偶然か。しかし、こんなことは普通の人は予備知識なしで観たら何の意味だか全くわからないであろう。

よくわからなかった例としては、皇帝に謁見してウィーン歌劇場の監督への就任を依頼する場面のあと、その場所の建物の地下道を歩きながらある部屋に行き着き、中にいるフーゴー(ヒューゴーと発音されているように聞こえるが)という人物に会う、彼は牢屋に入れられているような感じで素っ裸で楽譜を書いており、その楽譜を尻で拭いてマーラーに渡す、このフーゴーとは誰かわからない、映画ではマーラーと同学年の友人の作曲家のような言い方をしているが、1860年生まれのドイツの作曲家・音楽評論家のフーゴー・ヴォイスのことか。ネットでマーラーとの関係を調べてもあまり出てこない。

もう一つ挙げれば、冒頭の場面、湖に突き出た小屋が映され、それが突然燃える衝撃的な映像、これが何を意味しているのか、マーラーの破滅を意味しているのか、みている人がそれぞれ解釈すれば良いと言うことなどだろうけど、これだけセンセーショナルに演出して勝手に解釈しろはないだろうと思うが。この小屋はマイアーニックにあった作曲小屋だとは思うが。

監督のこのような制作姿勢というのは如何なものかと思う。良くマーラーのことを勉強している人にしか理解できない、それで良い、と考えているとしか思えない。比喩とか茶化しとかもちりばめられているが、その意味を全部わかる人は相当なマーラーの愛好家だろう。ただ、マーラーを演じたロバート・パウエルが写真で見るマーラーそっくりなのは見事だ、映画の中の言動もさもありなん、という感じだ。

マーラーの交響曲のCDを全部持っているわけではない、それは先日の宇野功芳さんの解説を読んだからだけど、今後も機会を見つけてマーラーの音楽を聞き続けて行きたいとは思っている。

主な出演

ロバート・パウエル:グスタフ・マーラー
ジョージナ・ヘイル:アルマ・マーラー
アントニア・エリス:謎のコジマ・ワーグナー
ピーター・アーン:マーラーの弟オットー・マーラー


映画「ペルシャン・レッスン 戦場の教室」を観る

2023年04月07日 | 映画

池袋の新文芸座で「ペルシャン・レッスン」(2020年、ロシア・独・ベラルーシ、監督ヴァディム・パールマン)を観た。新文芸座は改装のため休業していたのでしばらく行ってなかったが改装後初めて行った。ロビーのレイアウトが大きく変っており、良くなった、明るくて良い雰囲気になった。映写室内もシートも立派になったような気がするし、スクリーンも大きくなったような気がする。高級感が出てきた感じで好感が持てた。値段は1本観てシニア1,100円。

今日の映画はドイツとロシアとベラルーシという今となっては異色の組み合わせの映画で、しかも戦争映画だ。2020年の映画だからまだウクライナ戦争前だ。この映画の監督はウクライナ生まれの人だ。ドイツの映画はやはりナチスものが多いと感じているが、今回の映画もナチスものだ。ナチスものは悲惨な話が多いのであまり観る気がしないのだが、レビューの評価がまあまあなため見てみようと思った。

ストーリーは(ネタバレ)、ナチに捉えられたユダヤ人が森の中に連れて行かれ、銃で射殺される、もうダメだと思った直前、1人のユダヤ人ジルが撃たれたふりをして倒れた、それを見破られると言い逃れとしておれはペルシャ人だと言う。上司のコッホ大尉からペルシャ人は殺さずに捉えろと言われていたので大尉のところに連れて行くと、大尉はペルシャ語を教えろと言う、ペルシャ語など本当は何もわからないため、処刑者のリストを見ながら適当なペルシャ語をでっち上げてレッスンする、この大尉の夢は戦後、兄弟のいるテヘランで料理店をすることである、連合国が攻めてきて現地を撤退するタイミングでイランに逃走したが、入国審査の時に自分が習っていたのはいい加減なペルシャ語であることがバレてとられられ、偽ペルシャ人は生き延びてナチの殺害を告白する、というもの。

この映画の主役は偽ペルシャ人のユダヤ人だが、もう1人の主役とでも言って良いのがこの大尉だ。映画ではこの大尉も含めた将校たちが現場の悲惨さなど無いがごとく酒や食事を満喫し、虎の威を借りてユダヤ人たちに対して残虐に、居丈高に振る舞う小人物ぶりがいやというほど映される。組織の命令とあらばこうまで下劣な行為をするのが人間だ、と思わせる、ナチスものの一つの教訓なのだろう、本映画もその点、例外ではない。人間の愚かさだろう。この映画は実話に基づくとも説明があった。

出演

ナウエル・ペレーズ・ビスカヤート(37、アルゼンチン):ジル(ユダヤ人、偽ペルシャ人)
ラース・アイディンガー(47、独):コッホ大尉


映画「僕たちは希望のいう名の電車に乗った」を観る

2023年04月06日 | 映画

ロシアによるウクライナ侵略に関連して過去のロシア、ソ連の恐ろしい悪行の歴史が再確認されているが、1956年に起きたハンガリー動乱もその一つだろう。そのハンガリー動乱に影響された東ドイツ側の高校生たちの行動と葛藤を描いた映画「僕たちは希望のいう名の電車に乗った」(2018年、独、ラース・クラウメ監督)を自宅で観た。原語のタイトルを直訳すると「静かなる革命」(THE SILENT REVOLUTION)となる。

戦後、ドイツが東西に分割されソ連と西側諸国で分断統治された時代、まだ、ベルリンの壁ができる1961年より前の1956年、西側の飛び地ベルリンは一時東側により封鎖されていたが、この頃封鎖は解除され東西の行き来は電車でできた。そんなとき、東側の高校生2人が電車でベルリンにある祖父の墓参りに行き、そこでハンガリー動乱のニュースを聞き驚く、ハンガリー民衆が勝利しそうな雰囲気だったからだ。

東側に戻り、学校の教室で生徒たちにその話をし、西側のラジオが聞ける生徒のおじさんの家に集まり情報収集をすると、ソ連が再び侵略を開始してハンガリー側に多くの犠牲者が出たことを知り愕然とする、そして、ある日、教室で授業が開始される前にハンガリー民族の犠牲者を悼んで授業の最初の2分間黙祷を捧げようとなり、それを実行すると、それが反革命分子の行動になるとされ、学校内だけでなく教育大臣まで出てきて大問題になり、首謀者捜しが始まる、首謀者が明らかになれば退学、明らかにならなければクラスは閉鎖され全員卒業できなくなり、エリートコースから外れることが決定する、という事態になる、そして仲間割れの可能性、家族に対する当局の圧力、家族からの説得、その他、ありとあらゆる困難な状況に見舞われ、生徒たちはどう行動しらたよいか悩む・・・・・

これは実話に基づくと、冒頭のテロップに流れる。さもありなんと思わせる展開、どうなってしまうのだろうとハラハラドキドキの連続。自分だったらどう判断して行動するか、考えさせられる映画だ。

ハンガリー動乱後もソ連は1968年のチェコのプラハの春の武力弾圧、ロシアになってからの2008年ジョージア侵略、2014年にクリミア半島侵略、2022年ウクライナ侵略と悪辣さをあらわにしている。こんな時期にこの映画を観て、いろんなことを考えるのは有意義であろう。良い映画だった。

出演

レオナルト・シャイヒャー(テオ)
トム・グラメンツ(クルト)
ヨナス・ダスラー(エリック)
ロナルト・ツェアフェルト(テオの父)
ブルクハルト・クラウスナー(国民教育大臣)


映画「NTLive かもめ」を観る

2023年04月04日 | 映画

池袋のシネ・リーブルで英国ナショナル・シアターの演劇を映画化した「かもめ」を観た。土曜日ということもあって結構客が入っていた、比較的若い人が多かった、文学部の学生かと思われる若い女性たちも目立った。特別料金で3,000円。

作:アントン・チェーホフ
脚本:アーニャ・リース
演出:ジェイミー・ロイド
出演:エミリア・クラーク(36、英)、トム・リース・ハリーズ、ダニエル・モンクス、ソフィー・ウー、インディラ・ヴァルマ(49、英)

「かもめ」はロシアの作家チェーホフの同名の戯曲、イギリスのどこかの劇場(ナショナル・シアターだと思うが)で演じられた舞台劇。原作の「かもめ」は一度読んだことがあったが「桜の園」ほどの印象はなく、あらすじなどもうろ覚えだった。時間は3時間弱と長い。実際の舞台は4幕だが、映画では1幕から3幕までが同じ舞台設定だったので一気に放映して、その後休憩があり、舞台転換の後の第4幕を後半に放映した。

舞台は別荘の一室を想定しているが、何の飾りもない壁に取り囲まれた殺風景な舞台。そこに登場人物が椅子に座り、最初から全員勢揃いして会話をする。これも一つの演出方法だろうが、退屈さは免れない、出演者が台本を持って朗読しているのを聴いているのと大差ない気もした。

ストーリーはとりとめもないもので、劇作家の主人公の青年が別荘の近くに住んだいる若い女優志望の娘に惚れて、振られる、若者は娘に銃で撃たれたかもめを渡し「今に僕はこんなふうに自分を撃ち殺すのさ」と意味深なことを言う、母親は若い人気作家を愛人としているがその作家が息子が惚れてる若い娘と愛し合うようになり結婚する、若者は自殺を試みる、何年かたって若者は売れっ子作家になったところにむかし惚れた若い娘が夫も子供も失って戻って来て「私はかもめ」と言うが・・・・

映画を観た後で、ネットでいろんな説明を読むと、この劇はシェークスピアの「ハムレット」を意識して書かれたものだとか、太宰の「斜陽」にも「かもめ」を意識して書かれている部分があるなどの指摘があった。なるほどそういう部分もあるかもしれない。

この映画で報じられている演劇では、俳優たちはマイクを使っていた、劇場が広い場合、これで良いのではないか、日本の場合、広い劇場でもマイクを使わず、俳優たちが大きな声で怒鳴っているような発声で演技をしているケースも多いように思える、マイクを使い普段の会話のように話した方が良いと思うのだがどうであろうか。

さて、3時間にもなる映画を観るときは事前に綿密な予習が欠かせないなと思ったが、それにしても自分にはあまり迫ってこなかったな、というのが感想である。

 


映画「チャーチル」を観る

2023年03月25日 | 映画

映画「ウィストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男」(2017年、英、ジョー・ライト監督)を観た。これは第2次大戦でドイツがベルギーやフランス、オランダに侵攻し陥落寸前になり、イギリス軍も大陸で追い詰められた時、チェンバレンに代わってチャーチルが首相に選ばれ、その後のイギリスの決断とその過程を描いた映画だ。

チャーチルは軍部からフランスのイギリス軍は陥落寸前で対処のしようが無いことを報告され、外務大臣のハリファックス卿からはイタリアから和平交渉の仲介をするとの提案を受けているので交渉のテーブルに着くべきだ、これ以上の犠牲は出すべきでないと迫られた。これに対し、チャーチルは最後まで戦うべきだ、カレーの4000人の部隊がドイツの注意を引きつけ、その間にダンケルクの30万人のイギリス兵を救出すべきだと説く。国王もチャーチルの今までの失敗ばかりしている実績やチャーチルの性格を好きになれず、和平案を支持するが・・・・

この映画は先日見たばかりの「ダンケルク」をイギリス側から見た映画と言える。いろいろ考えさせられるとこがあった。

  • チャーチルは最後まで戦い抜くことを主張し、自国が不利な状況での和平ではヒットラーの傀儡国家、奴隷国家になるだけだ、そのような国家は再建不可能だ、戦闘に負けたけど最後まで戦った国家の再建は可能だ、と映画の中で言った。これを実証したのが日米戦争における日本ではないだろうか。今のウクライナもそういう考えで戦っているのだろう。しかし、実際問題、難しい判断であろう。例えば、大陸でのドイツの侵攻によりフランスは降伏してパリは陥落した、最後まで戦う、という感じではなかったのではないか(この点は不勉強で知らないが)
  • ダンケルクの30万人を救うためにカレーの4000人部隊が犠牲になる、と言うチャーチルの考えにハリファックス卿らは無駄な犠牲だと反対するが、このような冷酷とも言える考えができる人が非常時には必要なのだろう

この映画ではチャーチルの「最後まで戦う」と言うことが美談のように扱われているが、これに対してハリファックス卿とは別の観点からチャーチルを批判しているのが中西輝政教授の「大英帝国衰亡史」だ、教授は最後まで戦い抜くという無謀な決断の結果、戦後は莫大な債務を抱え、戦争で多大な死傷者を出し、植民地はすべて失い、中東からは撤退し、友人だと思っていたアメリカからは支援を打ち切られるなどの冷たい対応をされ、大英帝国の衰亡とアメリカへの覇権移動を決定的にしたと分析している。映画でも最後にテロップで「戦後、チャーチルは選挙で負けて退陣した」と流れているのは、この点を暗示しているのかもしれない。だとしたら、監督はたいした者だ。では、どういう対応をすべきだったのか、それは教授の本をご覧頂こう。

 


映画「すべてうまくいきますように」を観る

2023年03月17日 | 映画

近くの映画館で「すべてうまくいきますように」(2021年/フランス・ベルギー/フランソワ・オゾン)を観た。フランソワ・オゾン監督というので観たくなった。脚本家エマニュエル・ベルネイムによる小説を原作とする。この脚本家は女性で2017年に亡くなっている。オゾン監督が以前、この原作を映画化しないかと言われたがその時はまだ自分にも身近な問題でないので断ったが、最近、自からもそのような問題を考えるようになったので、映画化したと言っていた。

ストーリーは、ある日、85才の父親が脳卒中で倒れ入院し、体が思うようにならなくなる、娘2人たちが看護するが、医者からは再発の可能性もあると言われる、別居している母親もかけつけるがなぜか冷たい態度、看病していくうちに父親は「もうやりたいことが何もできない、終わらせてほしい」と娘のエマニュエルに言う。安楽死を調べてみるとスイスでできることがわかり連絡をとって話を聞き、その方向で進めることになるが・・・・

この映画のウェブサイトを見たらオゾン監督のインタビュー動画があったので見たら、「このような状況に遭遇したとき、どう考えるか、どうするか、観客に考えてもらいたい、どれが良いとは言っていない、自分もどうしたらよいかわからない」と言っていた。このような観点から映画を作ってくれる監督は大歓迎だ。

監督の言うように、この映画を観れば誰しも自分が同じ状況になったらどう対応するか考えるであろう、最近ではゴダールの安楽死が報道されて驚いたばかりだ。自分は、次のように感じた。

それは、この父親が入院後、しばらく寝たきりになり発作を起こして看病をしている娘をあわてせさせたりするが、しばらくすると自分でベッド横の椅子に座ることができたり、娘たちとレストランで食事をしたり、孫の音楽の演奏会に出席したりしていることだ。これをみた日本の年寄りは誰でも「これなら生きていけるのではないか、なぜこんなに回復しているのに死にたいと思うのか」と感ずるのではないか。この父親は事業で成功した金持ち、母親も彫刻家で生活に困っていない、娘たちも中流以上の生活をしている、よって、安楽死は金持ちにしかできない特権とも考えられるが、映画の中でスイスの安楽死させる会社の責任者が費用は1万ドルくらいだと行っていたように思うから、そんなに高額ではない、普通の家庭の人でもできる気もする。ただ、ここでオゾンが問題提起しているのは安楽死と言うより尊厳死と言うべきものかもしれない。言い方によってだいぶニュアンスが異なる。

エマニュエルをやったソフィー・マルソーは知らない女優だったが良い味を出している。彼女の映画をもっと観てみようか。フランソワ・オゾンと組んた映画も多いらしい。また、シャーロット・ランブリングは好きな女優だったが、結構年取ったというかそのようにメイクしているのだろうが、「スイミング・プール」に出たいた頃がちょうど今のソフィー・マルソーくらいの年齢だったのだろう。良い女優だ。

映画の中で、この家族はクラシック音楽に深く関係している一家で、ブラームスなどの曲が何曲か流れていた。その中で自分はシューベルトの幻想曲ハ短調D940がなんとも言えないもの悲しい雰囲気で好きだがAmazonで検索しても全くCDが無いのはどういうわけだろう。

観て損のない映画だと思う。

ソフィー・マルソー(エマニュエル、娘、姉)(57、仏)
アンドレ・デュソリエ(アンドレ、父親)(76、仏)
ジェラルディーヌ・ペラス(パスカル、娘、妹)(52、仏)
シャーロット・ランプリング(クロード、母親)(77、英)
エリック・カラヴァカ(セルジュ、夫)(57、仏)


映画「ダンケルク」を観る

2023年03月14日 | 映画

Netflixで「ダンケルク」(2017年、英・仏・米、クリストファー・ノーラン監督)を観た。昨年、中西輝政教授の「大英帝国衰亡史」を読んで、このダンケルク撤退作戦のことが書いてあり、印象に残っていたのでその具体的なイメージをつかむのも有意義だと思って選んでみた。

ダンケルク撤退は第2次大戦のヨーロッパ大陸での戦闘でドイツ軍の攻撃に連合国軍が敗退を続けてついにフランス沿岸のダンケルクの砂浜に追い詰められた時、チャーチルのイギリスが決死の撤退作戦をたて見事に成功した大撤退劇だ。これにより英軍や英国民の士気が大いに上がり勝利に結びついた。脱出した兵士の数は30万人と言われているが信じられない数だ。奇跡的な成功といわれる。中西先生の本では、あまりに成功があざやかだったので、ヒトラーが和平への道と閉ざさないためにわざと見逃したのではないかという説がある、と解説しているが、そんな気もする。

映画は実際のダンケルクでも行われたので非常にイメージがわきやすい、映画の冒頭のダンケルクの砂浜に撤退する兵士たちが列をなして船の到着を待っているシーンは本当にこんな感じだったのだろうな、と思わざるを得ないようなよくできたものだ。6000人ものエキストラを動員して撮影したそうだ。

ストーリーはこの脱出劇を陸・海・空の3つの立場から同時進行で描いたもので、せりふがほとんどなく、場面の描写のリアルさで勝負している。この作戦では民間の商業目的の船も徴用して、これらの小型船たちがダンケルクの海岸に大挙して押し寄せ、救出に当るという本当に信じられないことが行われ、成功した。そのうちの1つの船に焦点を当てて映画は作られていた。ドーバー海峡は狭く、距離が短かったことなどの要因があり成功したのだろうが、ドイツ側もこんなことをやるわけないと油断があったのか。

この小型船がドイツ戦闘機に襲われる危機的な状況の描写が少ないことや、ドイツ機の攻撃から守る役割のスピット・ファイヤー英空軍機のたった3機に焦点を当てたこと、そのうちの最後の1機が最後エンジンが止まっていてもダンケルクの海岸でドイツ戦闘機を打ち落とし砂浜に着陸すところなど、非現実的なところもあるけど、娯楽映画と割切って、本で読むだけでなく、映像で具体的な戦闘のイメージをつかむという今回の目的は十分に達成できたと思った。


映画「白鯨」を観る

2023年03月06日 | 映画

TV放映の映画「白鯨」を観た。この映画を観るのは二度目だ、面白かった記憶があるので、もう一度観ようと思った。「白鯨」(1956年、米、ジョン・ヒューストン監督)はメルビル(米の作家)の同名の長編小説(1851年)を映画化したものだ。

出演者で印象に残った俳優のみ記載すると

  • エイハブ(船長):グレゴリー・ペッグ(ローマの休日で有名)
  • スターバック(副船長):レオ・ゲン
  • スタッブ(二等航海士):ハリー・アンドリュース
  • イシュメール(最後に生き残る):リチャード・ベースハート
  • クイークェグ(イシュメールが宿で知り合った友人、一緒に船に乗り込む):フレデリック・レデブール

映画の中で特に最初に船に乗り込んだところで乗組員の説明がありスターバック(副船長)については、親子代々鯨捕りの達人で物静かな中に勇気があり船には欠かせない人であり、いざという時、頼りになる。スタッブ(二等航海士)は冗談の好きなノンキ者でいつも笑っている賢い男だ、とある。

物語は、港に行き着いたイシュメールが安宿でクイークェグと知り合い、捕鯨船に乗り込むと、エイハブという船長が何か迫力があり、以前大きな白鯨を捕ろうとして足を一本失い、鯨の骨を義足にしていることを知る。捕鯨船は鯨を捕って、その脂を取り出し生活用に使う目的で出港するものだが、船長は白鯨への復讐を優先して捕鯨の途中で白鯨を追いかけることを決め進路を変更する。そして、ついに白鯨を見つけ闘いを挑むが最後は・・・・

映画を見直してみての感想

  • 船長の個性が強烈に描かれているが補佐役のスターバックも良い役を演じている
  • 白鯨との闘いの場面は現代のコンピューターグラフィックになれた我々には大きな驚きはないが、この当時として相当迫力のある特撮シーンであっただろう
  • 女性が全く出てこない、こういう映画もめずらしいのではないか、原作でもそうなのかしら?
  • ハッピーエンドではないところが良い(何か観る人に考えさせるところがある、という意味で)
  • ストーリーがほぼ同じ時期に同じアメリカで発売されたヘミングウェイの「老人と海」(1852年9月発出)と似ている(一つ一つストーリーの核となる部分を比較すると違いはある)、海が舞台である、大きな獲物と格闘する、結果はむなしく終わる。「老人と海」の方が1年あとの発表だがウィキペディアによればヘミングウェイが書き始めたのは1951年1月で2月中旬には完成したと妻が証言しているとある。短編小説に近い量なので短期間でも書き上げることはできるだろ。ウィキペディア「老人と海」の中では、同じ海を舞台にした白鯨と比較されることもある、と簡単に書かれている。

ところで、この「白鯨」だが、英語のタイトルは『Moby-Dick; or The White Whale』だ。モビーディックとは白鯨の名前だが、学生の頃よく聞いたイギリスのハードロックバンド、レッド・ツェッペリンの曲の中に「モビーディック」という曲がある。この曲はドラムソロのための曲でドラム担当のジョン・ボーナムの激しいドラムが今でも思い出される。レッドツェッペリン・ライブ・イン・ニューヨークにも入っておりライブの時は必ず演奏されていた。この映画を観て、その激しいドラムはきっとエイハブ船長とモビーディックとの決死の闘いを表現したものだったんだな、と思った。

 


映画「クーリエ:最高機密の運び屋」を観る

2023年03月05日 | 映画

Netflixで「クーリエ:最高機密の運び屋」(2020年、英=米、監督ドミニク・クック)を観た。

1962年10月、ソ連のキューバへの核配備によりソ連とアメリカと衝突寸前に陥る。このキューバ危機を回避するために、CIAとMI6はスパイの経験など皆無だったイギリス人セールスマンのグレヴィル・ウィンにある諜報活動を依頼する。それは販路拡大と称してモスクワに赴きソ連軍参謀本部情報総局GRUの大佐ペンコフスキーから機密情報を西側に持ち帰るというものだった。ペンコフスキーが祖国を裏切ってまで平和追求をする姿勢に動かされ、この任務を引き受けることにして、せっせと情報を運んでいたが、ついにこれが発覚することになりソ連に拘束され・・・

出演は

  • グレヴィル・ウィン:ベネディクト・カンバーバッチ(英、46)
  • オレグ・ペンコフスキー(アレックス):メラーブ・ニニッゼ(ジョージア、57)
  • エミリー・ドノヴァン(ヘレン):レイチェル・ブロズナハン(米、32)
  • シーラ(ウィンの妻):ジェシー・バックリー(アイルランド、33)

この映画は実話だ、観た感想をいくつか

  • 主役のウィン役のカンバーパッチは知らなかったが、良い役を演じていた、この映画ではなぜか憎めないセールスマン役でイタリア人ではないかと思わせる軽いノリで役を演じていたが、ソ連に存在がバレて拘束されてからがすごかった、もともと痩せ型ではあるが、役のためにいっそう痩せ細った姿を実際に作ったのだろう、演技が真に迫っていたし、最後に写った実話での釈放後の本物のウィンの映像とそっくりだった
  • しかし、実際にこんなに大きなリスクのある仕事を一セールスマンが引き受けるものだろうか、これが実話なんだから本当にすごいことだと思う一方、ソ連側のペンコフスキーは最後に処刑されたのは残念だ
  • 米英が拘束されたウィンを最初は見捨てる方針だったが、エミリーが「ここで救出しなければ今後協力者は出てこない」と主張し、結局、救出することにしたが、そのまま救出されずに姿を消したスパイは多いのだろう、それともスパイは見捨てられるが一般人だから救出したのか
  • 映画で流されるメロディーが哀愁に充ちた良い音楽であった
  • ソ連の劇場でバレエを鑑賞するシーンが2回あった、一つはシンデレラ、もう一つは白鳥の湖であった、やはりソ連とバレエというのは切っても切れないものなんだ

なかなか面白い映画だった。


映画「ホワイト・クロウ 伝説のダンサー」を観る

2023年02月19日 | 映画

「ホワイト・クロウ、伝説のダンサー」を観た。バレエが好きな人にとっては是非観たい映画だろう。私もバレエは好きなので観たくなった。

監督:レイフ・ファインズ
脚本:デヴィッド・ヘアー
音楽:イラン・エシュケリ
バレエ・アドバイザー&振付:ヨハン・コボー
出演:

  • オレグ・イヴェンコ(ヌレエフ)
  • アデル・エグザルホプロス(クララ、ヌレエフの亡命を助ける仏人女性)
  • ラファエル・ペルソナ(ピエール)
  • レイフ・ファインズ(プーシキン、バレエの先生)
  • チュルパン・ハマートヴァ(プーシキンの妻)

この映画はバレエダンサーとして有名なソ連人、ヌレエフの亡命に至る半生を描いたもの。現在のバレエを観る自分にとってはヌレエフというのはもっぱら振付師として認識しているが、こんなにすごい運命を経験したダンサーだったのだと改めて感心した。

映画では、ヌレエフはソ連において少し遅れてバレエを始めたため、ダンサーとして成功する可能性は低いとみられていたこと、そのため人一倍努力、強い上昇志向・反抗的とも言える自己主張をする人物、バレエの先生さえ変えろと要求する人物、先生の妻との不倫関係、西側諸国での公演などでソ連からマークされる、最後はギリギリのところで西側に亡命するハラハラドキドキなどが描かれている。

映画の説明を観るとヌレエフ役のオレグ・イヴェンコは本物のダンサーだ、どおりで筋肉質の体型としなやかな踊りの演技ができると思った。本作でプロバレエダンサーとして映画初デビューとなったそうだ。彼はウクライナ出身だというのも驚いた。キエフバレエというのは有名だ。最近、日本人の寺田宜弘氏が芸術監督に就任したと言うニュースがでていた。

バレエという世界も大変な世界だ、というのも成功できるのはごく一部だろうし、ピアニストと同じように小さい頃から英才教育を受けてライバルと戦う、更にピアニストよりもきついと思うのはバレエには「故障」というものがあるからだ。この映画でもヌレエフが途中でけがをしてしばらく休まざるを得ない場面が出てくるが、当事者としては大変なストレスであろう。ダンサーの足、足首、指などは強靱かつ柔軟な筋肉によりできあがっているのであろうが、一方で、ガラス細工のようにもろいものでもあるのではないか、そして一度けがするとクセになるという恐怖もあろう、映画の中でもダンサーは恐怖との闘いに勝たなければダメだ、というようなセリフを言うシーンがあった。ダンスを失敗する恐怖、故障をする恐怖、故障が再発する恐怖、などなど大変なものだ。

この映画はバレエの世界、共産主義国家におけるバレエの世界というものを知るには良い映画だと思った。