ゆっくり行きましょう

気ままに生活してるシニアの残日録

ゴルフ帰りに「岩下の新生姜ミュージアム」に行く

2024年10月22日 | 街歩き・国内旅行

鹿沼市でゴルフをした帰りに、栃木市にある「岩下の新生姜ミュージアム」に行ってみた

岩下食品の新生姜とは、「若掘りの生姜」の意味の“新生姜”に加え、1978年に当時の社長が台湾を訪れた際、現地で食されていた生姜のおいしさに感銘をうけ、何とか日本で紹介できないかと研究を続けた結果、商品化することに成功し、それまで日本になかった「全く新しいタイプの生姜漬け」として名付けられたもの

この岩下の新生姜は全く知らなかったが、今年の東京都知事選でこの会社の岩下社長がある候補者への支持をSNSで表明したところ、左翼界隈から因縁をつけられ、不買運動を起こされるなどひどいことをされて騒ぎとなった、それを偶然知って、日ごろから左翼の言論に対する実力行使やそれを批判しないメディアを快く思っていなかったため応援したくなり、しばしばコンビニやスーパーで買い求めた

岩下食品の本社と本社工場は栃木市にあり、さらに岩下の新生姜をテーマにした展示・アトラクションが楽しめるミュージアムがあると知り、一度訪問してみたいと思っていた、この日はたまたま栃木市のすぐ近くの鹿沼市でゴルフをしたので、帰る途中で寄ってみようと思ったわけである

車を駐車場に入れて、ミュージアムの入口から中に入ると入場料無料、中に入っていくと、エントランス・イベントステージがあり、岩下の新生姜の巨大パッケージと世界で1台の新生姜色のグランドピアノがお出迎え、そこでは音楽がかかっており、「あれっ!?」と思った、ベートーヴェンの「英雄」だ、帰るときもまだかかっていた、なぜ「英雄」なのか、いつもそうなのか、このミュージアムとイメージが重ならないところが面白かった、きっと社長の趣味でしょう

そして、中を進んでいくといくつもの展示場所があり、大きな生姜のオブジェクトとか、大きなスクリーンで子供が遊べる場所とか、ここを訪れた芸能人などの色紙や新生姜を使った料理を出しているレストランとのコラボメニューの写真など、いろんな展示があり、オブジェや壁紙などは全て新生姜のピンク色になっている、そういえば、岩下社長もピンクの背広を着て会社のPRを自らやっている

子供を連れてきたらきっと喜ぶようなミュージアムだと思った、また、若い女性のお客さんお多かった、結構な人が訪れていた、繁盛しているところを見てうれしくなった

そして、ミュージアム内には岩下の新生姜や、新生姜味のお菓子などが売っているショップがあり、そこを見ていたら、何と、缶チューハイの寶酒造とコラボした「缶チューハイ新生姜割り」が売っているではないか

少し前に東京の立石に行ったときに有名な居酒屋である宇ち多゛監修の「焼酎ハイボールうめ割り風」が販売されているのを見つけたが、今回もこんな掘り出し物が見つかるなんて、うれしくなって2つ購入した、東京では買えないそうだ、それ以外にも入場券代代わりにいくつかのお菓子を買った

ミュージアム内にはフード、ドリンク、スイーツまで、すべてのメニューに「岩下の新生姜」を使用したカフェ・ニュージンジャーがあったが、寶の缶チューハイに気をとられて、そこでソフトクリームを食べるのを忘れてしまった、残念

楽しめました

帰宅してさっそく新生姜味の缶チューハイを飲んだらおいしかった

 


南摩城CCでゴルフ

2024年10月21日 | ゴルフ

栃木県鹿沼市の南摩城CCでゴルフをした、何回か来たことがある良いコースである、天気は晴れ時々曇り、日中の最高気温は26度

このコースは、1975年10月(昭和50年)開場、商品取引の岡地が母体、資本関係は開示がないので不明、当初西・中コース18ホールの鹿沼国際CCとして発足したが類称が多く、名称変更した、開場15周年記念事業として89年10月から大改造、91年7月に東コースが開場した、その後自己破産などの法的整理をせずに存続しているのは立派なものだ

設計は浅見緑蔵(西、中)・浅見勝一(東)、27ホール、10,351ヤード、2グリーンだが、一つは潰し、なんちゃってワングリーン方式となっている、結構アップダウンがあるが山岳コースというほどではない、ラウンドはリモコン式のカートでナビがついているのでカートに乗れば楽だ、浅見親子が設計しただけあって、変化のある面白いコースになっている、コースの手入れも問題なかった、グリーンスピードは9.0ftくらいに感じた

プレーの進行も問題なく、ハーフ2時間でラウンドできた、前の組に追いつくこともなくストレスフリーのラウンドだった、来ているのはシニア世代がほとんどだ、だからコースは落ち着いており、プレーの進行も良いのだろう、ただ、クラブハウスはかなり老朽化している、食事は普通、コース売店の自販機で買えるコインが2枚付いているのがうれしい、前は自販機にビールも入っていたが今はソフトドリンクだけだ、飲み過ぎないのでこれで良いでしょう

さて、この日は早く終了したので、近くの栃木市にある岩下食品の新生姜ミュージアムに寄ってみることにしたが、その模様は別投稿で

楽しめました


吉祥寺で買い物

2024年10月20日 | その他いろいろ

吉祥寺に来るといつもの行きつけ店に寄って買い物をするが、行きたいところがありすぎて困る

今日は先ず、ドイツパンの店Lindeに行って翌日の朝食のパンを買う、ここは2階に喫茶室があり、1階のパン売り場で買ったパンを食べてもよいし、コーヒーなどの飲み物を注文して飲んでもよい

今日は名曲喫茶バロックに行った後だったので、喫茶室には寄らずにドイツパンを購入した、今日選んだのはミューズリーブロートのハーフサイズとブレッツエルの2つ、合計で591円、大きなパンはハーフサイズにして売ってくれるので有難い

3時少し前に訪問したが、店内は混雑してレジに行列ができていた

翌朝、朝食で食べてみたがおいしかった

次は餃子で有名な「みんみん」、人気の中華料理店だ、昼すぎに店の前を通った時は行列ができていた、私も何回かここでランチを食べたことがあるが量が多いので若い人向けでしょう

今日はいつものように生餃子1パック(5個入り)580円を購入した、餃子の持ち帰りは行列に並ぶ必要がないのですぐに買える、帰宅した翌日、夕食で餃子を作ったが写真撮影を失念

最後は東急百貨店の地下食品売り場に、ここには京都の茶懐石仕出し料理専門店の「三友居」が入っている、東京では松屋銀座店と東急吉祥寺店のみの出店だ、三友居は今春に京都旅行に行った際に訪問した旧三井下賀茂別邸でのランチプランで食べたあの仕出し弁当だ、京都の茶人であればだれでも知っているという店

今日は夕食としてここのお弁当を買って帰ろうと計画した、お弁当は何種類もあるが、シニア夫婦はそんなに量が多いものはいらないので、比較的小さ目な弁当を2種類求めた、合計で3,780円、店の奥に厨房があり、ご飯と食材は調理済みになったものがあり、それを注文に合わせて弁当箱に盛り付けて提供してくれる

夏場の猛暑の時などは、デパートで弁当を買って家まで2時間近くかかる場合、ちょっと心配になるが、秋になったのでもう大丈夫でしょう、その日の夕食でさっそくいただいた、ご飯は季節の栗ご飯になっていた、上品でおいしい味だった

満足しました


「びわ湖ホール声楽アンサンブル 東京公演 vol.15」を聴きに行く

2024年10月19日 | クラシック音楽

東京文化会館小ホールで開催された「びわ湖ホール声楽アンサンブル 東京公演 vol.15、4人の作曲家たち ~フォーレ、ドビュッシー、ラヴェル、プーランク~」を聴きに行ってきた、14時開演、終演16時5分、8割以上の座席が埋まっていた

出演

指揮:佐藤正浩
ピアノ:下村景
合唱:びわ湖ホール声楽アンサンブル14名

公演案内によれば、クラシックの声楽家には、この3つの世界がある

  • オペラ
  • 歌曲
  • 少人数の合唱団

クラシックの声楽家には、この3つの世界に跨って活動する人もいるが、自分のジャンルを定めて修練を積む人もいる。でも、大抵の歌手ならオペラと歌曲を両方手掛けたいだろうし、コーラスに時々参加する人も少なくはない。いろんな曲やジャンルに取り組むことで表現の幅は広がるからだ

国内でこの3分野に精力的に取り組むグループが「びわ湖ホール声楽アンサンブル」。彼らは、オペラのソリストとしても、歌曲の歌い手としても、合唱団の一員としても日々研鑽を積んでいる

この「びわ湖ホール声楽アンサンブル」は、日本初の公共ホール専属のプロの声楽家集団、オーディションにより全国各地から選ばれたプロの声楽家で構成され、びわ湖ホールで行うオペラ公演はもとより、滋賀県内における芸術文化の普及を目的とした学校公演やアウトリーチなど、様々な活動を行っている、そして、過去在籍したメンバーは総勢70名を超え、活動期間を終了した後は「ソロ登録メンバー」として、数多くのコンサートやオペラに出演するなど幅広く活躍してる

この日の公演は、リヨン国立歌劇場やパリ・シャトレ座などのフランスの歌劇場で研鑽を積み、オペラや合唱の指揮者として活躍しているフランス音楽のエキスパート、佐藤正浩氏を指揮に迎えフランス近代の四大人気者の知られた名曲を選んで、コーラスとソロで歌声を披露するもの

今日の公演は2日前にびわ湖ホールで同じ内容で実施したものを、東京に移動して開催するもの

今回のピアノ伴奏者は下村景氏、クラリネット奏者として、第19回さくらぴあ新人コンクール第2位、広島プロミシングコンサート2019において広島交響楽団と協奏曲を共演。オペラにおいては、堺シティオペラ、ひろしまオペラルネッサンス等で音楽スタッフを務める。

曲目

フォーレ(1845-1924、79才没)

  • ラシーヌの雅歌、月明かり、マンドリン、夢のあと、マドリガル

ドビュッシー(1862-1918、55才没)

  • 星の夜、美しき夕暮れ、マンドリン、
  • 「3つのメロディ」より 海は大伽藍よりも美しい
  • シャルル・ドルレアンの3つの歌

ラヴェル(1875-1937、62才没)

  • 3つの歌(ニコレット、楽園の美しい三羽の鳥、ロンド)
  • ヴォカリーズ、
  • 「5つのギリシャ民謡」より 花嫁の歌
  • 「ドゥルシネアに思いを寄せるドン・キホーテ」より 空想的な歌夢

プーランク(1899-1963、64才没)

  • 「7つの歌」より、 美とそれに似たもの、マリー
  • 「フランスの歌」より、王様の小さなお姫様
  • 「偽りの結婚」より、 ヴァイオリン
  • 「月並み」より、パリへの旅、ホテル
  • 愛の小径
  • 平和への祈り

一般的なイメージとしては、フォーレには清冽さ、ドビュッシーだと幻想性、ラヴェルでは洒脱さ、プーランクなら親近感を覚える人が多いようだ

では今日の公演を聴いた感想などを書いてみたい

  • 「びわ湖ホール声楽アンサンブル」は今年テレビで観た阪哲朗指揮の「ばらの騎士」を観て知った(その時のブログはこちら)、なかなかユニークな存在だと思った
  • 指揮者の佐藤正浩氏が冒頭と、曲の合間にマイクをとり、あいさつと共に曲の解説などをしてくれてよかった、例えば、この日の演目は全部仏語の歌詞だが、アンサンブルのメンバーは仏語で歌う人がいないので苦労したなどのエピソードを紹介してくれた
  • 曲目は多いが、それぞれの曲は短い、それを利用して合唱のみならず、ソロ歌手としてほとんどの歌手がピアノ伴奏の独唱で歌ってくれたのは良かった、それぞれの歌手の印象が強く残った
  • プログラムノートには日仏対比の歌詞対訳があり、有難いと思った
  • 演目の最期はプーランクの「平和への祈り」であった、これについて、指揮者の佐藤は「つい最近、日本の反核組織がノーベル平和賞を受賞して驚いた、世界はまだ捨てたものではないと思った、この曲は1938年の第二次大戦中にプーランクが地下で作曲したものだ、戦争がなくなるように、平和を祈る意味で公演の最期の曲として選曲した」と述べ、短いこの歌の詩を朗読した後、演奏に入った、とても印象的であった
  • この日の演目は知らないものばかりであった、じっくりと聴いて、難しい曲が多いと思ったが、唯一、プーランクの「愛の小径」がシャンソンっぽくて聴きやすかった
  • ピアノ伴奏はまだ若そうな下村景氏で、将来性のあるピアニストであり指揮者の勉強もしていると佐藤が褒めていた、その中で4人の各作曲家の中から一曲ずつ、下村ではなく、佐藤が自らピアノ伴奏をしていた、「手だけ振って仕事をしていないと思われると困るので、そうした」と話していたが、なかなかうまかった

びわ湖ホール声楽アンサンブルの素晴らしい声にすっかり魅了された日になった

さて、この日は開演前の時間に東京文化会館の入口の反対側に行って、文化会館の建物の外壁を見た、コンクリートにげんこつくらいの大きさの大理石がいっぱい埋め込まれている、先日、テレビで紹介されていたのを見て確認してみたくなった

東京文化会館は、コルビュジエの弟子である前川國男(1905-1986)の代表作。1961年、師のコルビュジエが設計した国立西洋美術館から2年遅れて竣工した。外壁への石の埋め込みの理由をテレビでは説明していたが、忘れてしまった、ネットで検索しても出てこないのでChatGPTに質問したら「建物全体に独特な質感を与えており、光の当たり方によって異なる表情を見せるよう工夫されている」と出た

よく行っているところなのに知らないことが多いものだ、勉強になりました


名曲喫茶バロックに行く(2024年3回目)

2024年10月18日 | カフェ・喫茶店

吉祥寺に行く用事があったので、午前中に用事を済ませ、昼食と取ってからバロックに行ってみた、12時開店で、開店直後に店に入った、驚いたことに先客が4、5名既にいた

窓を背にした席に腰かけてコーヒー800円を注文して、ゆっくり待つ、女性店主のワンオペなので直ぐには出てこない、コーヒー豆を挽き、サイフォンで抽出するやり方なので時間がかかる、その間にレコードを選定して、曲目などを白板に書いてオーディオ室の「次の曲」のところに掲示し、アルバムに針を落とし、レコードが終われば取り換えてアルバムに収納するなど忙しい

この日にかかっていた曲をShazamで調べると、

バッハ、BWV56
バッハ、カンタータBWV140
F.クープラン、『王のコンセール』 Concerts Royaux
グリーグ、ピアノ協奏曲

まさにバロックという店名にふさわしいバロック音楽中心の選曲だ

この日は土曜日、お客さんが結構入ってきた、10人くらいにはなったろうか、8割がた男性で、シニア層が多い、この日は1時間半くらいいて、もう帰ろうかというときにグリーグのピアノ協奏曲(ピアノはリパッティ)がかかったので、これを聴き終わるまでいた、2時間半近く滞在した結果となった

他のお客さんも結構長く滞在している人が多い、名曲喫茶やジャズ喫茶の中には1時間以上滞在する場合は追加で飲み物などを注文してください、としているところが少なくないが、ここは全くそういうところがない、1時間くらいで切り上げなければいけない時、もう帰るんですか、と言われたことがあったからうれしくなる、クラシック音楽に対する情熱と腰痛のない体でないとウカウカ来れない

本当にここはクラシック音楽ファンにとって天国だ、いつまでも続けてほしい、そのためにも通い続けたい

ご馳走様でした、また来ます


錦秋十月大歌舞伎(昼の部)を観劇

2024年10月17日 | 歌舞伎

今月も歌舞伎座で観劇した、いつものとおり昼の部、3階A席、この日の観客の入りはイマイチであり、3階席は空席が目立ったし、自席から見える1階最前列の方は若干の空席があった、この日の公演はテレビ収録があるとの貼り出しがあった

一、平家女護島 俊寛
近松門左衛門歿後三百年、近松門左衛門 作

俊寛僧都/菊之助
丹波少将成経/萬太郎
海女千鳥/吉太朗
平判官康頼/吉之丞
瀬尾太郎兼康/又五郎
丹左衛門尉基康/歌六

平家打倒の密議が露見し、丹波少将成経、平判官康頼とともに流罪となり絶海の孤島、鬼界ヶ島に流された俊寛、3年が経ったある日、水平線の彼方から船影が。そろって都へ帰れると喜びあうのも束の間、赦免者のなかに俊寛の名前だけがなかった・・・

俊寛という演目は歌舞伎で知ったというより、以前、菊池寛の短編小説集「藤十郎の恋・恩讐の彼方に」(新潮文庫)に含まれていた同名の小説を読んで知った経緯がある、観劇のあとでその本を引っ張り出してざっと目を通してみると、俊寛の最期が歌舞伎のあらすじとは違っている

今日の近松門左衛門作の俊寛では、赦免船に乗れるのは3人までで、京にいる妻が自害して死んだことを知った俊寛が自分は島に残り、鬼界ヶ島の海女千鳥とねんごろになった成経を思い、自分の代わりに千鳥を船に乗せてくれと言い、最後に俊寛だけが島に残り、船が去っているのを見て慟哭するところで終わっている

ところが菊池寛の小説では、俊寛が島に残るところは同じだが、千鳥が出てこない代わりに、島に残った後、島の少女と俊寛とがねんごろになり、結婚して子供も3人できて幸せに暮らした、となっている

近松の俊寛は「平家物語」巻の三「足摺り」を題材にしているが、内容的には大幅な創作が加えられているとのこと、菊池寛の小説も同様でしょう。調べてみると俊寛は小説や戯曲でいろんなバージョンがある、菊池寛以外にも芥川龍之介、吉川英治などいろんな人が書いており、それぞれ独自の物語にしているようだ

さて、俊寛だが、今回は初役で菊之助が務めた、自分は俊寛を見るのは2度目になるが、1度目は亡くなった中村吉右衛門の俊寛だった、吉右衛門の得意とする演目だったようで、それを観ることができたのは幸いであった、今回の菊之助は義父の吉右衛門の得意芸の初役ということでさぞかし力が入っていただろう、いい演技をしていた

島の娘千鳥だが、南国の島であるにもかかわらず、可愛らしい着物を着ているのがおかしいというか場面設定に全然合っていない、これは近松門左衛門のジョークでしょう、南国の島の娘であれば、ゴーギャンの絵に出てくるタヒチの娘を想像するのが普通であろう

二、音菊曽我彩 稚児姿出世始話
松岡 亮 脚本

曽我一万/尾上右近
曽我箱王/眞秀
小林朝比奈/巳之助
秦野四郎/橋之助
化粧坂少将/左近
鬼王新左衛門/芝翫
大磯の虎/魁春
工藤左衛門祐経/菊五郎

歌舞伎の様式美あふれる祝祭劇、紅葉に彩られた箱根山、菊売りの姿に身をやつした曽我一万と箱王がやって来る、参詣に訪れていた工藤祐経(すけつね)と対面した二人は、父の敵である工藤に対し、箱王は血気にはやり、一万や朝比奈が止めようとするが・・・

鎌倉時代に実際に起きた曽我兄弟の仇討ちの物語は、江戸歌舞伎において祝祭劇として多くの作品が生み出され、曽我十郎と五郎の兄弟が、幼名である「一万」と「箱王」として登場する本作は、新たな着想のもと、所作事から対面となる古式ゆかしい曽我狂言

祐経を82才になる菊五郎が、曽我兄弟を尾上右近と眞秀が務めた、その他、芝翫、魁春、巳之助など豪華メンバーで華やかな舞台が観れて良かった

なお、舞台音楽には長唄連中が勢ぞろいし、前列中心には八代目杵屋巳太郎が立て三味線を弾いていたのがわかりうれしくなった、巳太郎の人柄をテレビや舞台で知りファンになった、長唄ではもう一人杵屋勝四郎も親しみのある人柄で好きであるが、今日は出演していなかった

江戸の口碑(こうひ)に残る大岡政談、岡本綺堂 作
三、権三と助十 神田橋本町裏長屋

権三(ごんざ)/獅童
権三女房おかん/時蔵
助十/松緑
助八/坂東亀蔵
家主六郎兵衛/歌六
小間物屋彦三郎/左近
小間物屋彦兵衛/東蔵
願人坊主雲哲/橘太郎
願坊主願哲/國矢
左官屋勘太郎/吉之丞
猿廻し与助/松江
石子伴作/権十郎

大岡政談から生まれた新歌舞伎の人気作、駕籠舁(かごかき)の権三と助十が暮らす裏長屋では、夏恒例の井戸替えが行われている。ところが、権三が参加していないことに助十が腹を立て、言い争いが始まる。そんな騒がしい長屋へ、小間物屋の彦三郎が家主の六郎兵衛を訪ねて来る。強盗殺人の罪で入れられた牢で死んだという父の汚名を晴らすため、大坂から駆けつけてきた彦三郎の話を聞いた権三と助十の二人は、事件の夜に真犯人とおぼしき男を目撃していたという・・・

大正15(1926)年に歌舞伎座で初演された演目、名奉行・大岡越前守が難事を解決するおなじみの「大岡政談」を題材に、江戸の市井に生きる庶民を活写した作品、喜劇味と推理劇の味わいがあるが大岡越前は出てこない

新歌舞伎とは、明治時代中期から太平洋戦争の最中までに書かれた歌舞伎の一種で、文学者や小説家の作品を歌舞伎で上演したもの

明治維新後の文明開化によって西洋から様々な文化が入ってきたことを受けて、歌舞伎を近代社会に合った内容にしていこうとする「演劇改良運動」が提唱され、この運動の中で、歌舞伎の脚本を歌舞伎を専門に書く狂言作者ではなく、文学者や小説家が手掛けるようになった、代表的な作品には、坪内逍遥の「桐一葉」、岡本綺堂の「修禅寺物語」、真山青果の「元禄忠臣蔵」など、今日の演目はこの岡本綺堂によるもの

初めて観る作品だが、歌舞伎というよりは演劇という感じがした、先月鑑賞した夢枕獏原作の新作歌舞伎「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」と同じような感想を持った

さて、今日の幕間の昼食だが、食事は歌舞伎座ビル地下にある売店で人形町志乃多寿司の弁当にした、いつもは三越の地下で買うのだが、今日は歌舞伎座ビルで使える金券2,000円を持っていたので、それを使うために歌舞伎座で買った

また、甘味は歌舞伎座近くの「木挽町よしや」のどら焼きを前日に電話で予約し、幕間に取りに行って食べた、初めて買う店だが小ぶりのどら焼きがしっとりとしておいしかった

楽しめました


「決定版 日中戦争」を読む(2/2)

2024年10月16日 | 読書

(承前)

第二部 戦争の広がり

第5章 第2次上海事変と国際メディア

  • 盧溝橋事件、第2次上海事変勃発直後は、国際メディアは比較的冷静で客観的であったが、その後早い時期から変化が見られ、日本に対する批判、中国に対する同情が集まり、日本の孤立を招いていった、中国は国際世論を味方につけるために、積極的に宣伝を活用した、一方日本の宣伝に対する姿勢は中国とは対照的に消極的であり、これが日本の失敗の一因でもあった、当時も、多くの識者によって、宣伝における日本の問題点を指摘されていた
    コメント
    当時のアメリカなどのメディアの日中戦争に関する報道をよく調べて紹介していることは評価できる、特にライフ誌に載った「上海駅頭の赤ん坊」で、その写真は後日、やらせではないかとの疑問が出ていることを紹介しているのも評価できる
  • 日本は満州事変以降、中国の宣伝を黙殺する傾向が強まっていったが、反論がなければ事実承認と見做されるのが国際社会の常識であった
    コメント
    その通りである、これがわかっていないのが当時、および現在の外務省である
  • 蒋介石は、国際社会の支援を得ることにより勝利することを期待して上海での戦いを積極的に推進した、期待に反して対日経済制裁や参戦など具体的な支援をえることはできず敗北したが、長期的には国際社会における中国支持と日本批判という世論の醸成に成功、第二次世界大戦という事変の「国際化」を通して日本は「プロパガンダ戦争」に敗れ、国際的孤立の道を歩むことになる
    コメント
    その通りである、このことを理解しようとしないのが現在の外務省である

第6章 「傀儡」政権とは何か、汪精衛政権を中心に

  • 第1次大戦後、世界は反戦と反植民地が国際思想の一つの主流となった、日本はこの潮流に反して武力を行使して国際問題を解決しようとし、また自らの勢力圏を拡大しようとしたために、その主流から大きく逸脱してしまった、だからと言ってに日本がそういった潮流をまったく無視したわけではなかった
    コメント
    反植民地というが、白人国家が有していた植民地をそのままにする彼らにだけ都合の良い世界秩序である、そして、白人国家で起こった世界恐慌により彼らはブロック経済圏を築き、自ら国際協調路線を放棄した、これこそが国際秩序に対する最初の挑戦ではないか
  • 満州や汪精衛政権には、中国の人々も少なからず加わっていた。彼らがいかなる経緯で政権に加わったのかということはきわめて難しい論点である、待ち望んで協力したわけではないだろう
    コメント
    対日協力者の中国における状況をよく説明しているところは評価できるが、その状況は既に識者により多く指摘されているところなので、なぜ難しい論点なのか分からない
  • 日満関係において満州国は日本の指導下にあり、到底独立国とは言いがたい状態になった
    コメント
    満州国は五属協和を掲げて建国したが、まともな国家運営の能力があるのは近代化した日本だけであったので、建国当初は日本の指導下で国家運営をするのは自然だと思う

第7章 経済財政面から見た日中戦争

  • 日中戦争が本格化した頃のわが国経済は全体として好調で、「持たざる国」などではなかったから、後発の「持たざる国」日本が戦争に至るのはやむを得なかったという指摘もあるが、その説明は少なからず無理がある
    コメント
    景気が良かったから「持たざる国」ではなかったという説明の方が無理があるでしょう、「持たざる国」かどうかは景気の良し悪しとは関係ない
  • 満州事変当時の日本は不況の真っただ中にあった、原因は1930年の金解禁強行による円高不況である
    コメント
    不況の原因は金解禁を決定した1929年11月直前に起こった米国の株価暴落による世界恐慌とそれに応じた欧米各国のブロック経済圏導入による面が大きいと思う
  • 1938年に国家総動員法が制定され、その状況を「持てる国と持たざる国」という構図で理解することによって、国民生活の窮乏化をもっぱら英米の対日敵対政策のせいだと思い込んだ国民は、英米への反感を強め、実はその最大の原因を作っている軍部をより一層支持するようになっていった
    コメント
    納得できない歴史観である、持てる国と持たざる国という構図をどうしても否定したいようだが、その見方に同意できないのは上に述べた通りである

第三部 戦争の収拾

第8章 日中戦争と日米交渉、事変の解決とは

  • 1937年、中国の提訴によって九か国条約会議がブリュッセルで開催されることになった、日本政府は、日本の軍事行動は「中国側の挑発に対する自衛手段」と主張し、あくまで二国間の問題として収拾しようとしていた
    コメント
    この日本の主張はほぼその通りだと思う、満州事変以前、日本軍は合法的に現地に駐留していたところ、赤化中国によりる反日政策で日本軍や日本人居留民に対する殺害・迫害を受け、現地居留民を不安に陥れた、今の彼の国による日本人駐在員やその家族に対する殺害、不当拘束などを見れば想像できるだろう、当時は今よりもっとひどい迫害を受けて大きな被害がでていた
  • 中国は日中戦争に勝利するための戦略として、国際的解決(紛争の国際化)を目指し、英米陣営との連携に解決を求めた、日本は逆に二国間による局地的解決を歩もうとし、結局、中国のアプローチが成功した、宣戦布告なき戦争の終結をめぐるこの二つの立場は、その先に何を見通していたのだろうか、どのような日中関係を想定していたのか、戦後の日中関係を考えるうえで、見過ごせない問題に思われる
    コメント
    著者らの述べる二つのアプローチの違いは参考になった、ただ、著者が指摘する当時の日本が考えていた将来の日中関係が、どういう意味で戦後の日中関係を考えるうえで見過ごせない問題なのかをもっと説明してほしかった

第9章 カイロ宣言と戦後構想

  • 1943年11月の米英中(ローズベルト、チャーチル、蒋介石)による「カイロ宣言」は重要であるが、宣言の文書自体はあくまでコミュニケとしてプレスにリリースされたものであって、首脳の署名もない、また外交文書が十分に保存されていない、日本にとっては尖閣列島の帰属問題が1951年のサンフランシスコ講和条約とカイロ宣言で不整合になっている
    コメント
    カイロ宣言、サンフランシスコ講和条約をめぐるいろんな問題について参考になる記載が多くあり有用であった

第10章 終戦と日中戦争の収拾

  • 勝者であるはずの中国(国民政府)は、連合国の中で最も甚大な被害を受けた国であったにもかかわらず、戦犯問題や賠償問題について強硬な姿勢を示すこともなく、連合国における存在感は大きくない、これは戦後も続く共産党との内戦の中で著しくその国際的地位を低下させ、戦犯や賠償問題で責任追及の先鋒にに立ち得なかったためである、日本にとっては日中戦争の責任という問題を正面から受け止める機会が失われ、中国との戦争の記憶が国民から遠ざかることを意味した
    コメント
    日本にとっての日中戦争の責任を正面から受け止める機会が失われたというが、それでは具体的にどういうことをすべきなのか述べてもらいたいし、日本の責任についてどうお考えなのか示してもらいたかった

大変勉強になる良い本だと思った(完)


吉祥寺「カヤシマ」で昼食

2024年10月15日 | グルメ

吉祥寺でランチをとることになり、どこが良いかと探したら、洋食屋の「カヤシマ」という店を見つけた、街の洋食屋さんという気楽に食べれる日本式洋食屋だ、吉祥寺の北口、駅から10分弱歩いて到着、初訪問

11時20分くらいだったか、中に入ると直ぐに空席に座れた、結構お客さんが入っている、観ると若い人が多い、私の隣の女性2人組は韓国人だ、店内にはハングル語の文字もあった、韓国人旅行客にも知られているのかと驚く

この店はテレビの「孤独のグルメ」に出たことがあるそうだ、また、店内の壁にはジャズやなんだか私にはわからないポスターがいっぱい貼ってある

メニューを見て、ナポリタンをたのんだ、Googleのレビューにこれがうまかったと出ていた、孤独のグルメでも井之頭五郎氏はナポリタンを食べていた

周りを見ていると結構ナポリタンを食べている人がいた、あとはオムレツとかハンバーグとか洋食弁当などを食べていた

しばらく待って、ナポリタンが出てきた、結構ボリュームがあり、焼いたベーコンがいっぱい入っていた、フォークとスプーンで着ている服にトマトケチャップがはねないように注意しながら食べた、人気があるだけにおいしい、キャベツの千切りのサラダと味噌汁がつく、ランチには一律この二つがセットになって付くのであろう、ナポリタンと味噌汁というめずらしい組み合わせになった

そして飲み物もセットに含まれていたのでアイスティーをたのんだ、これで1,000円だからいまどき安い方でしょう、食べている間に若い人たちがひっきりなしに入ってきたがみんな直ぐに座れているようだ、混んでいるように見えたが収容能力が大きいのでしょう、奥の方が見えなかったけど、座席が結構ありそうだ

ご馳走様でした、おいしかった


「決定版 日中戦争」を読む(1/2)

2024年10月14日 | 読書

「決定版日中戦争」(新潮文庫)をKindleで読んでみた、著者は波多野澄雄、戸部良一、松本崇、庄司潤一郎、川島真の各氏、発行は2018年

読後の全体的な感想をまず述べると

  • ボリュームは新書であるため多くはないが、内容的には大変勉強になる良い本であった、それは、とかくこの時期の歴史は戦勝国側の歴史観をもとにした説明が多い中、本書では日本や中国、アメリカのそれぞれの立場からの記述が類書より多いと感じたからである、その意味で歴史を多角的な視野から研究する観点で書いてあると思えた

それでは、本書を読んで勉強になった点や、強く同意できる点、また、自分の見方とは違うなと思った点などの各論を、本書の記述を引用し、そのあとのコメントとして書いてみたい

はじめに(日中歴史共同研究から10年)

  • 著者3名(波多野澄雄、戸部良一、庄司潤一郎)は2006年の安倍首相と胡錦涛国家主席との合意に基づく「日中歴史共同研究」に日本側の研究者として「軍事衝突した日中の不幸な歴史」部分の日本側執筆者だった、また、この共同研究の目的は「相互理解の増進」を目指すものされた
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    そもそも相互理解など不可能であると首相に進言すべきであった
  • 総じて日本による侵略的意図の一貫性・計画性・責任問題に帰着する叙述方法は、多様な局面、多様な選択肢・可能性を重視する日本の叙述方法と基本的に「非対称」である、日本による「侵略」と中国人民の「抵抗」という基本的な枠組みは変わっていない、ということである
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    この枠組みに反論できず中国側に押し切られた、本来、合意できないものを合意しようとするから日本側が妥協して中国の歴史観を認める結果になった、学者はそんな妥協はすべきではないでしょう
  • こういった反省も一つのきっかけとなって、著者らは中国史の川島真氏と財政史の松元崇氏も加わり、研究をまとめた、本書はその一部である
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    著者自らそういった点を反省しているのは立派な姿勢である

第一部 戦争の発起と展開

第1章 日中戦争への道程

  • 昭和前期の日本の進路を誤らせた最初の重大事件は満州事変である
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    そういう見方もあるだろうが、私はその前に起こった張作霖爆殺事件も大きいと思う、これにより反日を強めた張学良は後に西安事件を起こし、反共産党政策を推し進めていた蒋介石を反日政策に切り替えさせた
  • 満州事変前には、陸軍少壮将校の間や陸軍中堅将校らは、排日が増大すれば軍事行動を発動させることもやむを得ないと考えた、また関東軍の石原莞爾は満州問題を解決する唯一の方法はこれを日本の領土とすることで、謀略によりその機会をつくり出し、行動を起こそうとした
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    一部の軍人が軍事行動を起こそうとした動機の記載が不十分である、中国人の反日的行動によりどれだけ現地日本人に被害が出ていたか、また、満州民族がどれだけ軍閥に搾取されており、独立したいと思っていたのかも書くべきである
  • 柳条湖事件が起きて、若槻内閣は事態不拡大方針を決めたが、朝鮮軍が独断で越境したことについて、追認した
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    若槻内閣があっさりと追認し、有耶無耶に済ませたと書いているが、若槻首相の決断さえあれば厳しく処罰できたはずであり、その点の批判が甘いと思う
  • リットン調査団の現地派遣は、公平な現地調査に基づいて連盟の最終的な判断を下そうとする試みであったが、日本はこの連盟の苦肉の試みを無視した
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    その通りであり、日本外交の稚拙さである
  • 実は、なぜ日本が連盟を脱退したのか、いまだによくわからないところがある、たとえ、連盟がリットン勧告案を可決しても、法的には日本は脱退する必要がなかったのである
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    その通りである、こういう応用問題に適切な答えが出せないのが当時の日本人の限界である、真面目ゆえ思い詰め、現実的な知恵が働かない
  • 塘沽停戦協定後、日中関係の改善が動き出したが、それに逆行する事態が華北に生まれた、それを生んだのはまたしても陸軍の突出行動であった、として梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定に至る経緯が記載されてる
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    関係改善に逆行する動きが現地日本軍から起こされたとしているが、その根拠が書いていない、塘沽停戦協定破りの殺害事件や武力挑発を繰り返したのは中国側である、なぜ正反対の説明になるのか

第2章 日中戦争の発端

  • 盧溝橋事件が発生し、停戦協定が成立した後も、現地で武力衝突が連続して発生し、事態がエスカレーションする、その過程で日本は中国を威圧するために様々な手段を用いた
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    事件発生後、現地の武力衝突はすべて中国側の停戦協定違反による攻撃から始まっている点を強調すべき、エスカレーションが日本側に多くの原因があるような書き方は疑問である
  • 第2次上海事変が起きて、陸軍の2個師団の派兵が決定された、一方、少なくとも中国は日本に抵抗するために全面戦争を戦う態勢をとった
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    中国は戦争をやる気だった、ということも書いていることは評価できる

第3章 上海戦と南京事件

  • 蒋介石は満州事変後、近い将来日本と決戦を行うことを決心し、準備を進めた、日中戦争の直前の1937年3月に制定された「1937年度国防計画」では、第2次上海事変は36年に始まるだろうから、それまでに抗戦準備を完了する旨指示がなされ、第2次上海事件で実行に移された、そしてこれを支援したのがドイツの軍事顧問団である
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    中国側のこのような好戦的な姿勢を書いていることは評価できる、また、日独防共協定を締結していたドイツの背信行為があったのに、のちにこの国と三国同盟を締結するなど日本の外交音痴、国際情勢音痴ぶりが悲しい
  • 海軍軍令部は不拡大方針が放棄されていない時期にもかかわらず、全面戦争の具体的な作戦計画を策定していた、8月9日の閣議で米内海相は、出雲の中国空軍の攻撃を受けこれまでの慎重な姿勢を一変させ、事変の不拡大主義の放棄を主張、さらに全面戦争になった以上南京を攻略するのが当然であると強硬論に転じた
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    城山三郎の小説により米内光政は実際よりずいぶん良く書かれていることがわかる、陸軍悪玉・海軍善玉というような一般的なイメージも実際には違うという指摘は一つの見方であろう、半藤一利氏も「昭和史」で同様な指摘をしていた
  • 8月13日、日中間で発砲事件や衝突があり、14日午前3時、張発奎の部隊は正式に先制攻撃を開始、以降中国軍の全面的な抗戦が展開される、14日午後、上海の海軍特別陸戦隊司令部および黄埔江に停泊していた日本海軍出雲に対して爆撃を行った、まさに、上海での作戦を担当していた張が戦後、上海では中国が先に仕掛けたと回想しているように、上海における開戦は中国側の入念な準備のもとになされたものであった
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    13日の発砲も中国側からなされたものであり、中国は日本と戦争をやる気で先に手を出してきた点をきちんと書いていることは評価できる、満州事変にせよ盧溝橋事件にせよ、上海事変にせよ、挑発して仕掛けてきて、日本側に多くの犠牲者を出し、戦争に引きずり込んだのは中国である、最近の彼の国のわが国に対する数々の挑発行為、敵対行為を見れば、今も昔もこの国のやり方は変わっていないことが理解されよう
  • 南京の事件について、日中共歴史共同研究(北岡伸一・歩兵2014)では、日本軍による捕虜、敗残兵、便衣兵、および一部の市民に対して集団的、個別的な虐殺事件が発生し、強姦、略奪や放火も発生した、と記述されている
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    事件があったとする証拠や目撃証言は今まで何一つ出てきていない、そして反日ムードが蔓延していた当時、虐殺などがあれば、たちまちその話は広まり、海外にも日本の悪行として喧伝するのが彼の国のやり方であるが、それが無かったのが不自然である

(続く)


産経「話の肖像画(藤崎一郎)」を読む(2/2)

2024年10月13日 | その他いろいろ

承前

藤崎氏

日本は必要なことは着々とやっているので、できることは全部やって、本当に行き詰まったら憲法改正をやればいい(第6回)

コメント

こういう危機感で良いのだろうか、日本を取り巻く安全保障環境の激変を考えるとそんなに時間は残されていないのではないか、最近韓国では周辺環境の悪化を感じ核保有の議論をしているという、日本に比べて格段の危機感であり、明治時代と正反対だ

藤崎氏

(日本は海外への情報発信が下手だとよく言われているが、との質問に対して)とにかく早く海外に出かけろ、行ったら自分の話ばかりせず相手や相手国に関心を示せ (第7回)

コメント

回答になっていない、記者指摘の通りだから回答できないのでしょう、この欠点は戦前からだ、隣国はここが大事と心得ていて非常に強力な情報発信をし、国際世論を味方につける、日本はそれに翻弄されるだけだ

藤崎氏

(日本は戦時中の慰安婦や朝鮮半島労働者などの歴史問題について積極的に発信してこなかったとの質問に対して)いつどのように反論を打ち出していくかは、我が国にとって何が得策ということで判断すべきだ(第7回)

コメント

何も回答できていない、他国の間違った日本批判に対しては根拠を示して否定するのが外交である、それができていないから既成事実のように広められ、反論しようと思ったときはもう遅い、竹島領有権問題や慰安婦問題などはその典型だ、こうした批判には謙虚であってほしい

さて、批判ばかり書いてきたが、藤崎氏の来し方を読んで、感心することも多かった、その中から少し紹介したい

  • 人の言うことや書いてあることをオウム返しに複唱するのではなく、自分の頭で考えなおすことだ、例として、山本五十六海軍元帥の戦争反対論や城山三郎氏の描く広田弘毅首相像に疑問を呈した(第28回)
    コメント
    城山三郎の描く広田弘毅像には賛成できない点があるのは同意したい、広田は軍部の横暴に首相として抵抗することがなかった、そして私は幣原喜重郎に対する高評価についても大いに疑問を感じているが、その点は藤崎氏とは意見が異なるようだ
  • 大阪万博、横浜国際園芸博を成功させた後はいろいろなイベントのホストを自ら手を挙げるのではやめて、他の国の立候補を助けるのはどうか、日本がグローバルサウスの味方を標榜するなら、先駆けて途上国開催を支援する国に回ったらどうだろうか(第29回)
    コメント
    卓見である、全面的に同意したい

いろいろ勉強になった、ますますのご活躍を願っています(完)