はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

風の終わる場所 29

2021年05月30日 09時40分13秒 | 風の終わる場所
「軍師」
芝蘭の仲間たちの声に、孔明は我に返った。
「軍師、やはり、おかしゅうございます。風の音に紛れておりましたが、これは大人数の人馬の足音では?」
「人馬だと? 軍隊か?」
咄嗟に、孔明の脳裏に浮かんだのは、おのれを探して、とうとうだれかが村に軍を率いてきたのではないか、ということである。
それがだれかと問われれば、最初に名前が上がるのは趙雲だ。
いや、ほかにだれの名前も浮かびはしない。
あの男ならば、こちらがどこにいようと、かならず助けにやってくる。
いつもそうだった。
「上でなにが起こっているのか、だれかに探らせて参ります。軍師はここでお待ちを」
芝蘭の仲間たちは、そう言うと、孔明とひとりの仲間を残し、村を探らせるために離れて行った。
村で戦が起こっているのか。
戦っているのは味方だろうか。
魏の軍隊、ということはあるまい。
いくらなんでも、巴蜀を、敵国の部隊は堂々と進軍できない。

とすれば、国内の軍と、村にいる魏の細作たちとが戦っている?
しかし、もしそうであれば、芝蘭たちが狼煙玉を上げそうなものなのに、合図がなにもないのは、どうしたことだろうか。

ふと、孔明の隣に伏していた山犬が、すっくと立ち上がった。
「どうしたのだね」
通じるはずもないが、このよく訓練された山犬は、孔明の言葉に答えるように、ふん、と大きく鼻を鳴らした。
静かにしていろと合図しているかのように。
とたん、孔明は、首筋に冷たい刃を押し付けられたような、悪寒をおぼえた。
それは隣にいた青年も同じようで、山犬と同じく、立ち上がると、周囲の気配をすばやく探る。
風に紛れて、闇にも似た気配がこちらに突っ込んでくる。
山犬が地を蹴り、突進していく。
だがそれは、闇のなかに飛ぶ燕のようにすばやく、それは山犬をかわし、まっすぐ孔明に向かってきた。
その目の前を、傍らにいた青年が飛び込んで、向かってきた刃をおのれの身体に受ける。
肉を断つ、無残な音が聞こえた。
逃げろ。
自分に命じるが、体は咄嗟に、目の前で崩れ落ちる青年を、後ろから抱きかかえ、支えていた。
手に、ぬるりと生暖かい感触が触れる。
幾筋も幾筋も、命の証しである血潮が落ちていく。
不快さはなく、これが途切れてしまえば、青年は死ぬのだという、焦りが脳裏をかすめた。
さいわい、青年の傷は、さほど深くなく、急所からは外れていた。
だが、出血が多い。
すぐに手当てをせねばなるまい。
とっさに、いつも懐にしのばせてある傷薬を取り出そうとするが、目の前の黒装束の男に、刃を突きつけられる。
「軍師将軍諸葛孔明どのとお見受けした」
「そうだ。昼間、魏の公子を狙った者たちか」
孔明は、緊張した面持ちで、頭巾で顔を隠した男を見上げる。
男からは、殺気は感じられなかった。
ただ、おもしろいものを見ているかのように、目を細めているのが気に食わない。
「わたしを捕らえるか」
孔明が問うと、男は言った。
「このまま殺してもよい。我らが長は、抵抗すれば、貴殿を殺してもかまわぬと言った。本来ならば、貴殿の骸は、日没とともに晒される予定だったのだからな」
孔明は、違和感をおぼえて、男の言葉に眉をひそめた。

曹丕の言によれば、劉括に帝位を継がせるという話も、日没までに自害せよという話も、ただ孔明を帰順させるための作り話、ということではなかったか。
孔明を帰順させるための策だ、ということ自体も作り話にすぎず、曹丕は捕らわれた。
ほかならぬ、曹操の後継を狙う者たちに…ではなかったのか?

「わたしを捕らえてどうする」
「それは、我らが長と、ほかの将軍方が決めること。立っていただこうか」
「そのまえに、この者の手当てをさせてくれ」
「敵国の細作なぞ、そのまま捨てておくがいい」
「そうはいかぬ。この者の手当てが済んだなら、わたしは大人しくおまえに従おう」
「細作のために、抵抗もせずに、捕らえられてくれようと言われるか」
「そうだ。不様な真似はせぬ。しばし待て。よいな?」
言葉が強くなりそうになるのを、懸命に抑えて、孔明は黒装束の男に言った。
男は、厚く顔を覆う頭巾の下で笑ったが、孔明はそれを了解と取り、すばやく、歯を食いしばって、痛みに耐える若者を地に横たえる。
背後では、山犬が、背後より黒装束の男に向かおうと身をかがめていた。
「待て! ならぬ!」
青年の胸元をはだけさせ、薬草を塗りこめつつ、孔明はするどく山犬を制止した。
山犬は、孔明の声に、ぴくりと肩を震わせ、そのまま、牙を向いて男を威嚇するにとどめた。
そして金色の瞳を闇夜にしばらく浮かばせていたが、くるりと背を向けると、山林のなかに入っていった。

「急いでいただこう。もしも、時間稼ぎをしているのであれば、無駄なことだ」
「不様な真似はせぬと言っただろう。これでしばし、血は止まる」
傷ついた青年は、ちいさく呻いて、孔明になにかを言おうとしたが、孔明は、汗のにじむ額を拭いてやり、言葉を封じた。
「よい、言うな。もとより、おまえたちの修羅を作り出した原因は、不本意であったとはいえ、わが叔父にある。わたしは、叔父の遺産はすべて譲り受けたのだ。だから、おまえたちの苦しみは、わたしが持っていく。責任を負うことはない。もしも、おまえを責めるものがいたなら、孔明がそう言っていたと伝えるがいい」
孔明が立ち上がると、黒装束の男は、鼻で笑って言った。
「世に細作を使役する者は多い。細作は、主のために命を失うことも辞さない者たちだ。だが、細作のために命を失ってもかまわぬという主は、初めて見た」
「ならば、珍重せよ。おまえたちの長とやらのところに行く」
怯えることもなく、傲然と胸を張る孔明に、男はその両腕を縄で拘束すると、罪人のように孔明を引っ張って、風の勢いにはげしく揺れる木々のあいだを、小走りに行きはじめた。





趙雲は、望楼の入り口から見えた光景に、おもわず言葉を失った。
費観のもとへ去らせたはずの、文偉が、片側の頬をぶざまに膨らませた劉封に、鞭打たれているのだ。
そして、さらに見れば、その文偉を助けようと、茂みから、鎖帷子もなにも纏わぬ軽装の偉度が、飛び出そうとしているのである。
あれこれかんがえている暇はなかった。
偉度の動きにあわせるようにして、趙雲も駆け出そうとする。
それを、背後にいる陳羣が止めた。
「待たれい! 貴殿には、公子やわたくしを、無事に村から出す役目があろう!」
趙雲は、振り返ると、力の限り陳羣や、そのほかの魏の家臣たちをにらみつけた。
「勝手に人の領土に入り込み、勝手なことをぬかすな! 出て行きたければ、好きに出て行くがいい! そこまで面倒は見ぬ!」
「この望楼の裏手に、わたくしたちが越えてきた柵がございます。柵の裏手には、斜面を降りられるように縄を吊るしてございます。仲間がご案内いたしますわ。どうぞあちらへ」
と、芝蘭が、仲間に指示するが、陳羣は不満顔である。
「我らに、敵地を徒手空拳で行けと?」
「剣や鎧はありませんけれど、そこの蔵に、ふるい弓ならありました。いまにも切れてしまいそうな弦の弓でも構わないのでしたら、どうぞ」
「もともと、そなたのものではあるまい」
それでも、手ぶらよりマシと判断したのか、曹丕や陳羣らは、芝蘭の仲間の指示にしたがって移動した。

望楼の兵卒は、芝蘭の仲間たちによって、みな拘束されたか、あるいは討ち取られていた。
望楼の、奇妙な静けさに、李巌や劉封たちはまだ気づいていない。
芝蘭は、ひととおり指示を終えると、趙雲に向き直った。
「文偉さまをお助けしましょう」
いいざま、手を唇に添え、ぴゅう、と高らかに笛を鳴らす。
その音は、村の上空を渦巻くようにして流れる風を縫って、ひばりの声のように遠くまで響き渡った。
ほどなく、芝蘭の合図の笛に呼応するように、どこか悲しげな山犬の遠吠えが、あちらこちらから聞こえてくる。
闇夜を旅した経験がある者ならば、だれしもぎくりと身をすくませる、凶悪な森の主の声である。
人の気配とはまたちがう、しなやかな獣の独特の気配が、村のあちこちに現われた。
月光に、銀の毛並みを輝かせた大きな山犬たちは、人間を睥睨するように、櫓に占拠して、劉封たちを取り囲むようにしていた。
櫓の傍らには、そこに配置されていたであろう兵卒たちの、無残に噛み裂かれた遺体が転がっている。

「これで、上空からの攻撃は気にしなくて済みます。敵は、百くらいでしょうか」
「百か…」
数に怖じたのではない。
百の兵が、ただ真っ向からぶつかってくるだけならば、趙雲はこれを切り抜ける自信があった。
もしこれが乱戦中の死地だというのであればわかるが、これから対峙する相手は、無傷で平静を保っている、訓練された熟練の兵卒たち。
相手が戦術を繰り出し、こちらを絡めとる方法を取ると危ない。
村を出るための入り口は一箇所。
単騎ならば突破できる。
だが、幼子を抱えているのとはちがい、成人した手負いの文偉を偉度と協力して抱えて突破できるだろうか。
いや、やらねばならぬ。
李巌も劉封も、趙雲らが逃走して、事態を劉備に告げることを恐れているはずだから、殺すつもりで向かってくる。
趙雲は、息をひとつ大きく吐き出すと、眦を強くして、劉封らを見据えた。
どちらにしろ、村はでなければならないのだ。
入り口を、邪魔者が塞いでいる。
それだけのこと。
兵の配置、かれらの状況、文偉の位置、偉度の行動に対する予測。
それらを瞬時に頭におさめ、趙雲は駆け出した。

つづく……

(旧サイト「はさみの世界」(現・牧知花(はさみのなかま)のホームページ)初出 2005/10/09)

風の終わる場所 28

2021年05月29日 10時21分13秒 | 風の終わる場所
村の外より、炎があがるのを、孔明は芝蘭の仲間たちとともに待ち受けていた。
孔明の傍らには、芝蘭の使役する、銀の毛並みを持つ、おおきな山犬が、大人しく伏して、命令がとどくのを待っている。
仲間たちは、だれひとり言葉を発せず、じっと闇の中にうすぼんやりと、複数の篝火の灯りのにじむ村のほうを見つめていた。
孔明らは、ちょうど村の裏側、望楼のそばに潜んでいた。
村は、山賊の被害を防ぐため、高い柵で囲われていたが、望楼が急斜面であるために、警邏の兵は配置されておらず、望楼にのぞむ兵士たちも、入り口のほうばかりを注視し、村の裏側のあたる部分には、ほとんど目を動かさない。
そのため、芝蘭たちは、斜面に杭を打ち、それに縄を渡して、柵のそばまで登れるようにした。
孔明たちは、その斜面の真下におり、芝蘭たちを待っているのだ。

「いま、馬の嘶きが聞こえなかったか」
沈黙を続ける仲間たちに尋ねると、そのうちの一人の青年が、首だけを動かして、答えた。
「村の者たちは、何頭か、家畜を残しておりました。この風でございますから、それが鳴いているのではないでしょうか」
「風の音が強すぎて、たいがいの声を攫ってしまうな。終風村とはよくぞ言ったものだ。地を駆け巡った風のすべてが、ここにもどってくるような勢いではないか。毎晩、こんなふうなのか?」
「毎晩ではございませぬが、平原に風が吹けば、山に風がぶつかり、この村にもどります」
「風の帰り着く場所か…」
おもわずつぶやき、風の姿を闇に探す。

轟々と、木々を鳴らす風の向こうには、満天の星空がある。
孔明は、いつでも見上げればそこにある、満天の美しい星空を眺めるのが好きだ。
天文を読むことは、当時の軍師の技術として必須のものであったが、学問的なことを避けても、孔明は星空が好きなのだ。
きらきらと瞬く星たちを見上げているだけで、この天を創造した、はるか昔の何者かに感謝せずにはいられない。
大地はどのように変わっても、星空だけは変わらない。
過去の英雄たちも、同じ空を、さまざまなおもいで見上げたのだろう。
想像するだけで、孔明は気持ちを落ち着けることができた。
本来ならば、すでにこの身は、首と胴とを切り離され、村に冷たく横たわっていたかもしれない。
日没はとっくに過ぎた。
おのれの運の良さに、孔明は天に向かって感謝する。
また同じ空を眺めることができた。

そして、成都にいる劉備や、趙雲、偉度たちのことをかんがえる。
成都から攫われて、かなりの日数が経っている。
みな、大騒ぎをしていることだろう。
だが、自分がここにいることを知る者はない。
曹丕を逃がし、魏へ返す。
人質にして、蜀の有利にすることもかんがえたが、曹操のことだ。
悩むまでもなく、おのれの子の命よりも、国家の安泰を取るだろう。
それに、人質として曹丕を使ったとしても、それは義の人、劉備のやり方に反する。
ただでさえ、劉備は、同族の劉璋を追い出して蜀を得たことを、いまだに本気で気に病んでいるのだ。
曹操の子を人質にとって、そのあいだに国力を蓄えようなどという冷血な策に頷くはずがない。
最善としては、曹丕を魏へ逃がし、広漢にて、かれらが、内部霍乱のために暴れさせている賊を、鎮静させること。
山賊たちのなかに、魏の細作が紛れ込んでいるのはまちがいない。
また、山賊たちの武装の資金として、魏から金や物品が流れているのも想像に難くない。
それらを止め、広漢の担当を、李巌から、もっと別の、功名心に走らぬ人物に変える。

李厳とて、魏と手を組んだわけでもないだろう。
が、民の苦しみよりもおのれの返り咲きを優先させ、被害を放置し、結果、費家の族姑を怒らせ、呉の孫権に恥をさらす真似をしたことをおもえば、孔明は怒りを通り越し、憎悪にちかいものをおぼえる。
しかしこれもまた、おのれの監督不行き届きなのだ……蜀の全域を治めているわけではないし、左将軍府事の孔明に、そこまでの権限はなかったが…と、おのれの不徳をおもって、感情に波が立つのを治めた。

すべては、無事、成都に帰ってからだ。
それまでは、気をぬいてはならない。
いま、自分はたった一人だ。
芝蘭たちが助けてくれてはいるが、かれらは、あくまで呉の人間なのだ。
とはいえ、孔明は、かれらの前身や実情を知っているだけに、芝蘭のことも、ほかの青年たちのことも、我が子のことのように、不憫におもってしまう。
馴れ合いになってはならない。
気を許してはならないと、判ってはいるが。

ふと、思索から我に返り、孔明は、ふたたび小高い柵の向こうにある村を見上げた。
「ほら、やはり聞こえないか、馬の嘶きと、それに、だれかが怒鳴っているような」
髪を大きな巾で手巻いた青年は、今度は反駁せず、じっと風の向こうの音に耳をすます。
「たしかに、なにやら騒ぎが起こっているようでございますな」
「芝蘭たちが、見つかったのではないか?」
「もしもそうであれば、狼煙玉を打ち上げることになっております。合図がございませぬので、おそらくは別な理由ではないかと」
「狼煙玉を打ち上げられる余裕がない事態になっていることもあるぞ。気を抜くな。もしも芝蘭たちがもどらぬ場合は、我らは一時、撤退し、形勢を整えて村を包囲する」

孔明は、李巌が、今日の事態を知っている、と読んでいた。
だが、知っていただろうと詰問しても、李巌はしらばっくれるだろう。
シラを切るなら、それでよし。
側近たちが、李巌の思惑をどこまで読んで従っているのかは知らないが、将兵の下の兵卒たちは、なにも知らされていないはずである。
かれらを軍師将軍として借り上げ、村を包囲し、曹丕を救うのだ。
その場合、騒動となり、曹丕をめぐる魏のお家騒動や、自分がかつて処刑した女の産んだ、劉備の子という劉括の存在も天下に明らかになってしまうが、それでも仕方ない。
もちろん、曹丕を見殺しにし、なにも『なかった』ことにすることも可能だろう。
だが、だれであれ、おのれの治める地において、理不尽な血を流させぬ、というのが孔明のかんがえである。
上に立つものが義の心をなくせば、民もまた義を見失い、国は乱れる。
上に立つもの、すなわちおのれは、常に民の手本とならねばならぬ。
誰の味方にもならず、冷徹に世を見定め、裁定する。
上に立つならば、孤独でなければならない。
主人たる劉備にも、完全に心を預けてはいない。
真に忠誠を捧げるならば、完全に同一のものになってはいけないのだ。
主公を客観視し、冷静にその歩みがぐらつかないように、支えるのがおのれの役目である。
もっとも、その心構えは、孔明は、劉備にすら明かしていないところだ。
それがたとえ正論だったとしても、主従という枠を超え、親愛の情を示してくれる劉備に、心のうちを明かしたら、きっとがっかりするだろう。
そういう人だと、孔明はおもう。

誰かにすべてを委ねて、生きて行くことができたら、きっと楽なことだろう。
なにもかんがえず、悩まず、ただ相手を信じていけばよい。
だが、それは籠のなかの鳥の人生ではないか。
どんな鳥であろうと、いつかは自分の翼で空を飛ばねばならない時がやってくる。
人は孤独であることが本質なのだ。
本質を嫌って、だれかを得ようとしても、それは、決して自分と同じにならない別なだれかに過ぎない。
過剰によりかかれば失望し、諍いが起こる。
どちらにとっても不幸なことだ。
人が互いに出来ることは、結局、お互いを励ましあうことだけなのかもしれない。
それを確かめるよすがが、愛情であったり、友情であったりするのではないか。

ふと、孔明は、劉備は、孔明のかんがえもなにもかも、知っているのだとおもった。
知っていて、それでもなお、父のような愛情を示してくれているのだ。
見返りを求めてのことではない。
同等、あるいはそれ以上の愛情が返ってくることを期待してのものではない。
ただ、与えてくれているのである。
だからこそ、孔明もこれに感謝し、最善を尽くそうとしているのである。
家臣としての最善、というのは、冷たいのかもしれない。
だが、我らは家族に似て、家族ではない。
あくまで主従なのである。
これでよいのだ、とおのれに言い聞かせるのと平行して、心の片隅で、それでは情がないだろう、というつぶやきが聞こえる。
父のような情愛を得ているのであれば、子として尽くせと? 
それでは公私が混乱してしまう。
わたしのこの、心のせめぎ合いを知ったなら、主公もすこしは許してくださるだろうか、と孔明はおもう。
きっと許してくださるだろう。
あの方は、ひたすらにやさしい方だから。
舐めるようにやさしいのではなく、相手を最大限に尊重し、おのれは引く。
いじらしい優しさを持っているのだ。

つづく……

(旧サイト「はさみの世界」(現・牧知花のホームページ)初出・2005/10/09)

風の終わる場所 27

2021年05月23日 09時43分26秒 | 風の終わる場所


法螺貝の音が闇夜をくぐるように響き渡り、兵卒たちの怠惰な空気を払うように、どん、どんと重々しく太鼓が打ち鳴らされる。
偉度は舌打ちし、舞を止めた。
兵卒たちが、その瞬間におのれの本分に立ちもどり、それぞれ配置にもどるべく動き出したからだ。
しかし、屈強な士卒長や、腕の立ちそうな者たちは、みな、偉度が特に狙って薬を盛っていたから、酩酊状態となって、動くこともままならないでいる。

何者がやってきたのか。魏の援軍? まさか?

そうして、村の入り口に煌々と焚かれた篝火に映える旗を見て、愕然とする。
そこには、はっきりと『劉』の字があった。
もちろん、劉姓の魏の人間も多い。
だが、錦をふだんに使ったその旗には、見覚えがあった。
成都を攻略する際にも使っていた、劉備の養子、劉副軍中郎将…劉封のものである。
そこでうろたえて、動きを止める偉度ではない。
孔明に付き従い、そのやり方を覚えているために、身の処し方も早かった。
兵卒たちが、自分たちのことでバタバタしている隙を縫うようにして、闇夜を頼りに物陰に潜み、身動きの制限される女物の衣を脱ぎ落す。
そして、物陰より、物々しくやってきた一軍の様子を伺った。

村の広場には、酩酊した兵卒たちが、いまだ転がっており、わけのわからぬことを口にしながら、水母のようにふにゃふにゃと蠢いている。
それを見て、先頭の馬に乗る甲冑の男が怒鳴った。
「なんという有様ぞ! まだ事を完全に為しておらぬというに、もう気を弛ませたか! そなたたちには全員鞭打ちの刑を与える。引き立てよ!」
叫ぶ男が、兵卒らに指示を出すため、馬を降りた。
そして、背丈以上の高さに積まれた篝火の下に移動する。
そして、偉度は、男の顔をはっきりと見た。
端整な顔に、見事に手入れをされた美しい髯をもつ男。
李将軍…李巌、字は正方。
何度も主を変えて、いまは劉備のもとで落ち着いている変節漢だ。
驚きもあった。
しかし、偉度は、李巌が、華やかな名声とはうらはらに、内実のない将だということを知っていたので、どこかで、やはり、とおもうところもあった。
劉封と李巌。
ともに劉備に嫌われ、中央から遠ざけられている者たちである。
利害が一致する者同士で、ことの裏を引いていたというのか。

偉度はふたたび舌打ちをした。
事、ここに至るまで、李巌の動きに気を止めず、『兄弟』を多く付けていなかった自分の判断の甘さに腹が立ったのだ。
李巌が、表面ではへりくだりながらも、じつは孔明をよくおもっていないことは、知っていた。
だというのに、中央に返り咲く日は遠かろうと読み、存在を重く見ていなかった。
甘かった。
李巌を口ばかりの小心者だと小さくみていた。
これほど大胆に動くことができる男だったのか。
養父・劉備から不興を買っているとはいえ、仮にも公子である劉封と組む。
荊州人士のなかで、もともと龐統派だった者たちが、李巌の動きに呼応したら厄介である。
いや、それどころではない。
すでに厄介は目の前で起こっているではないか。
李巌が裏で手を引いて、魏と結び、孔明を誘拐させたのか。
劉禅ではなく、劉括という、劉備の実子とおもわれる少年を跡継ぎにし、魏の築くあたらしい王朝の中心に食い込もうとしているのか。

偉度は、物陰に隠れたまま、趙雲の気配を探った。
軍師を助け出すことはできたのか。
全神経をかたむけて、ざわざわと山間をわたる風のなかに趙雲らの動きを探ろうとするも、なにもわからない。
李巌たちが到着したことで、兵卒たちに、緊張感がもどりつつある。
あたりの空気が張りつめていくのと同時に、偉度には、おのれの身の上に、見えない蓋が押し付けられたような錯覚をおぼえる。
村から出るのが困難になるとまずい。
そろそろ、女がいないと、兵卒たちが騒ぎ出す頃である。
仕方なかったとはいえ、趙雲と別行動をとったのは間違いだった。
単身で村を出るか? 
李巌は、孔明が邪魔なのだ。
となれば、劉備と孔明に近すぎる趙雲も、目障りであるはずだ。
村を出て、助けを呼ぶ? 
だれに?
広漢を抜けるまでは、助けなど誰にも期待できない。
成都にまで取って返しているうちに、取り返しの付かない事態になることもありえる。

これまで、多くの敵を前にしても、偉度は、仕える主人とその主騎が、死んでしまうかもしれないなどと、かんがえたことはなかった。
たとえ自分が死んだとしても、あの二人は生き残るであろうし、そのためにおのれの命を危険に晒すことも、厭わなかった。
相手が曹操というのであればわかる。
孫権であるというのならわかる。
いささか落ちるが、法正であっても理解できよう。
だが、李巌。
あの男が中心となって動いている、このいままで低く見なしていた者たちによって、孔明が死ぬようなことがあるのか。
信じられない。
有り得ない。
だが、信じられない、とおもうからこそ、偉度の恐怖は増していった。
落ち着かねば。
落ち着くのだ。
無駄死にだけは、してはならない。
まずは、村を出て、従兄のもとへ向かった文偉と落ち合わねば。
いま、この陰謀の全体を知るのは、李巌たち以外では、自分だけなのだ。
自分はここに留まるとして、文偉を成都にもどし、援軍を待つ。
それしかあるまい。

そうして、動こうと膝を立てたとたん、偉度の目に、有り得ないものが飛び込んできた。
見たことのない顔の男たちが、李巌たちに駆け寄ってきた。
粗末で地味な身なりをしているが、ただの商人とはおもえない。
みな逞しい体つきをしており、どれも眼光が鋭い。
屈強な男たちが近づいてくると、泥酔している兵卒たちを叱り続けていた李巌の顔が、また更に歪んだ。
「御辺ら、いままでどこで、何をしていた! 出迎えが遅かろう!」
「申し訳ございませぬ。ネズミを捕まえましたゆえ、尋問をしていたところでございます」
と、いちばん眼光の鋭い男が言うと、男の部下たちが、なにやら肩にかついでやってくる。
篝火のもとで見れば、それは痛めつけられ、あちこち傷だらけになった、文偉の姿であった。
「この者は? はて、どこかで見たことがある」
「わたしも見た。そいつは、費家の嫡男だ。董幼宰が面倒を見ている男で、左将軍府によく出入りをしている」
「左将軍府か」
と、李巌は眉根をしかめ、ズタ袋のように、地面に乱暴に落とされた文偉を見る。
文偉は、後ろ手で縛られたまま、怪我の痛みのためか、わずかに身じろぎをしている。

文偉がなぜ、ここにいるのか。
費観のもとへ行ったのではなかったか。
追及をしている場合ではないが、偉度ははげしい苛立ちをおぼえて、文偉と、その周囲の男たちを睥睨した。
あれだけ危険から遠ざけさせようとしたのに、結局捕らわれてしまった文偉の愚かさに腹が立ったし、あきらかに細作などではなく、武芸もろくにたしなまない文官の文偉を、容赦なく痛めつけたかれらの行いにも、腹が立った。
孔明がどこに捕らわれているかわからない。
趙雲がどこに行ったかもわからない。
しかも助けなければならない人間がひとり増えた。

文偉の愚か者め。
成都に帰ったなら、酒を奢らせる程度では許さぬぞ。

そうして、かれらのただ中へ飛び込む覚悟で、茂みから、偉度が起き上がろうとしたそのとき、地面に芋虫のように転がされていた文偉が、ごうごうと鳴る風にも負けぬ大声で、叫んだ。
「この忘恩の徒め! いまに天罰が下ろうぞ!」
「元気があるようだな。歯にひびく。馬光年、黙らせてくれ。あばら骨でも折れば静かになろう」
と、劉封が、腫れあがった頬をさすりつつ命じると、眼光鋭い男、馬光年は、わめく文偉に近づいていく。
しかし、文偉は怯えて口を閉ざすことはせず、さらに叫んだ。
「義心を知らぬ男よ! 主公のご信頼を一身にあつめる軍師を、魚でも釣るかのように餌にするとは、許されぬ行いぞ。軍師に刃向かうは、主公に刃向かうのと同じ! たとえおまえたちの悪事が成就しようと、義のない行いは、いずれは天下のそしりを受けようぞ!」
「くだらぬ」
劉封は、文偉のことばを五月蠅そうに聞き流すと、早くしろというふうに、馬光年に指示をだす。
「くだらぬものか! 公子と世人に尊ばれながら、この所業、高祖の血を受け継いだ者の行いとはとてもおもわれぬ! 本来であれば共に手を携えるべき相手を、死に追いやろうとかんがえるなど、正気ではない!」
「ええい、五月蠅い奴だ!」
馬光年が文偉を起き上がらせようとするのを止めて、劉封は近づくと、手にしていた馬の鞭で、びしりと文偉を打ち据えた。
肉を断たんばかりのはげしい音は、すこし離れた場所にいる偉度のもとにも、はっきり聞こえた。
文偉は、鞭の痛みに悲鳴をあげたが、やがて気丈にも、ふたたび顔を上げて、劉封をきびしく睨みつける。
もう止めろ。
そう念じつつ、偉度は懐剣を構え、文偉を救うべく、立ち上がった。
が、文偉は口を閉ざさず、口元に冷たい笑みさえ浮かべ、言った。
「貴方様の捕らえた魏の公子も、このような目に遭っておられるのか? 曹操への人質として、大切な盾になろうにな!」

なんだと?
文偉の言葉に、飛び出そうとした偉度の足は止まった。
李巌は、魏と結んだのではないのか。
魏の公子を、孔明を餌に蜀におびき寄せ、捕らえて人質にすることが、この策のほんとうの姿だったのか?

「だまれ、下郎!」
いきりたつ劉封に、文偉はなおも言った。
「人質たる魏の公子を解放する条件は…主公のご落胤である劉括という少年に、帝の位を継がせること。そして、貴方様は、帝の兄となって、天下を握ろうとかんがえていらっしゃる!」
「黙れというに!」

文偉の言葉に、偉度は愕然とした。
愚かしい。
あまりに愚かしい。
たとえ実の子を人質に取られたところで、曹操という冷厳な男が、いままで築いていたものを、あっさり手放すはずがない。
李巌は、まるで現実を見ていない。
そもそもの目的に無理がある。
曹操を完全に読み違えている。

呆れると同時に、偉度は、李巌たちを気の毒にすらおもった。
あまりに世の動きに疎い、田舎じみた発想である。
大胆であるがゆえに、策はほぼ為ってしまったが、通用したのは、ここまでが限度だろう。
曹操と交渉する以前に、劉備がそのようなことを許すまい。
劉備のことすらも、かれらは読みちがえているのだ。

「哀れなことでございますな! せっかく懸命にかんがえられた策でございましょうに、お父上は貴方様をお許しにはならぬ! 天下の人々すべてが、貴方様を見限ることでしょう。わたしをここで亡き者になさるおつもりならば、それもまた僥倖というもの。世にも哀れな三文芝居の結末を、この目で見ないで済むのですから!」
「黙れというのだ!」
劉封は、いきり立って、文偉をふたたび鞭で打ち据えた。
びしり、びしりと肉を強く打つ音が響く。
両手を拘束されているために、身を庇うことすらできない文偉は、鞭で打たれるたびに悲愴な声をあげた。
それでもなお、泣き喚いたり、哀願したりすることはなかった。
文偉は、地に伏したまま、気を失うことなく、言った。
「たとえ、わたしがここで死んだとしても、このことを聞いた者たちが、仇をきっと討つでしょう。やはり、貴方様は滅びるのです」
「まだ言うか!」
劉封は、すべての力を籠めて、ふたたび大きく文偉を鞭打った。

『このことを聞いた者たちが』。
文偉の莫迦。
あいつ、この闇のなかに、わたしや趙将軍が潜んでいることに賭けて、あのように大声で喚いているのか。
弱い癖に、変なところで強いところを見せるな!
胸の内でおもい切り罵ると、偉度は、今度こそ文偉を助けるべく、茂みから飛び出して行った。
多勢に無勢。
二人して、こんな田舎で骸をさらすことになるかもしれないが、それはそれで…文偉の言葉ではないが、僥倖かもしれない。
風を切りながら、おもわず偉度は笑った。
この自分が、おのれのためでもなく、忠を尽くすためでもなく、友のために死のうとしている。
あの人が見たら、きっとひっくり返るだろう。
その様を見られないのが残念だ。

つづく……

(旧サイト・はさみの世界(現・はさみのなかまのホームページ)初出・2005/10/08)

風の終わる場所 26

2021年05月22日 09時45分55秒 | 風の終わる場所
敵を信じる、というのもおかしな言葉ではあるが、この場合、そうしなければ、話が進まない。
趙雲は、蜀の内情をよく知っていた。
蜀は、ようやく国家としての基盤を整える準備が出来た段階であって、いま攻められたなら、ひとたまりもない。
魏が、曹丕が、父の位を継いでいるあいだは、大人しくしているというのであれば、それだけ蜀は力を蓄える期間が増えるということだ。
願ったり叶ったりではないか。
だが、相手は、妖怪じみた処世術を見せる中原の名家の主・陳長文、そして曹操の息子。
かわした約定を、なんやかやと反故にする可能性とてある。
いや、どちらにしろ、かれらを逃がさないことで、蜀に有利になることは、なにひとつないのだ。
曹操への大切な人質ではあるが、果たして、ほんとうに、曹操にとって、命取りになるほどの重要な人質かどうか。
曹操はどうかんがえるか。
あの苛烈な男の発想からして、あまたいる息子たちのなかの一人が、おのれの築いてきた事業を崩す真似をするのであれば、世間の非難もおそれず、容赦なく切り捨てるだろう。
その理由とて、息子より、国の大事を取ったのだといえば、儒の心に背くこともなく、たいがいの世人を納得させることができる。
本人にとっては酷な話だが、曹丕は、人質として、さほど有用ではない。
むしろ、曹操は、人質を取る、などという卑怯な手段をとる蜀を非難し、攻め入る理由を得て、堂々と進軍してくるだろう。
理由が理由だけに、民心もこれに素直に従うにちがいない。
曹操が大軍を率いてきた場合、人質の意味がないのであれば、蜀にとっては、まさに災禍としかいいようがない事態となる。
陳羣が指摘してきたとおり、蜀は、いま攻められたなら、籠城するのが精一杯の国力しかない。
つまり、かれらを無事に魏にもどすしか、蜀にとってよい方法がないのである。

だから、陳羣の申し出は、たとえ当てにならぬとはいえ、なにもしないよりは、マシなものであった。

趙雲は、目の前の必死の色を浮かべる陳羣や、曹丕の側近たちを見て、歯がゆくおもう。
もしも、自分に、孔明のような才能があれば、捕らわれの曹丕をつかって、蜀に有利な状況をつくることができるかもしれない。
だが、趙雲には、事態の分析はできても、ではどうするかといった、打開策が浮かばないのだ。
ひとたび戦場に出れば、ふしぎと心が澄んで、体が自然と動き、兵卒たちに的確な指示をくだすことができたが、このように、人と人とのせめぎ合いには、弱い。
いや、弱いとおもい、ずっと人に対する問題は、孔明に頼ってきた。
そのツケを、いま払っているのではないか。
それほどに、常に近くにあった。
互いの境界線が曖昧になるほどに。

ふと、陳羣が、はっと息を呑み、怯えの色を浮かべた。
趙雲もまた、背後の異変に気づく。
遅れた。
振り返り、様子を確かめている暇はない。
すばやく士卒長より奪った剣を抜き、突然の雨のように降り注ぐ刃の群を弾き返す。
その一つが防ぎきれず、片側の頬を破った。
頬に冷たい感触がある。
おそらく血が流れているのだろう。
肌が熱を持っているために、血を冷たくおぼえるのだ。
狭い地下牢の廊下において、趙雲の繰り出す重く鋭い切っ先を、襲撃者はよく凌いだ。
体が柔らかい。
これで仕留めたとおもっても、刃はむなしく宙を裂く。
このような手合いには、いらざる策は不用。
風のように流れるように、ただひたすら、相手を倒すことだけに専念する。小手先の技を使うことはしない。
若く勢いのある者は、誤魔化しの技なども、たやすく見破ってしまう。
かつての自分がそうだった。
熟練した腕を持っていない代わりに、勢いと力でもって、達人と呼ばれる者たちを討ち取ってきた。
いまは、以前の、火の玉のような勢いや、青年の頃の腕力や瞬発力を失った変わりに、爪の先までも自在に動く、完璧に仕上げられたおのれの肉体と、数々の戦いによって研ぎ澄まされた五感と経験が武器である。
無駄な動きは一切なく、吸い込まれるように、相手の動きの先を読み、攻撃を繰り出すことができる。
負けるかもしれないという恐怖を抱くこともない。
はげしい動きの中にあり、趙雲の心は、鏡面のように静かであった。

ふと、趙雲の刃を避けようと、くるりと栗鼠のように跳ね上がった敵が、目測をあやまったのか、わずかに着地点でぶれた。
その隙を逃さず、趙雲は、一撃を脳天めがけて打ち下ろす。
ほんの一瞬のことであったが、均衡を崩した敵が、ちいさく悲鳴をあげた。
女の声であった。
趙雲の切っ先に、迷いが生じた。
仕留めてはいけない。
咄嗟に、心の中で制止をする声が挙がる。
勢いの弱くなった剣は、敵の額の紙一重のところで、ぴたりと止まった。
敵は、反撃してこなかった。
荒い呼吸だけが、狭い地下牢に響く。
魏の者たちは、だれも声をあげず、成り行きを見守っていた。
刃を寸前で食い止めた趙雲のこめかみのあたりから、汗が幾筋も流れた。
趙雲であるからこそ止められた一太刀であった。
並みの武人であれば、敵の女の、脳天を割られた遺体が、床に散らばっていたことだろう。
趙雲は、尻餅をつくような形で床に座り、おのれの額に突きつけられた刃越しに、まっすぐ真摯な目を向けてくる娘を見下ろした。
美しい娘であった。
顔立ちが、というだけではない。
目に媚びもなければ、気負った猛々しさもない。
整えられた絹糸のような髪の下の顔の半分は、無残な火傷を負っていたが、それでもなお、娘の気品は損なわれていなかった。

「お強いのですね。噂どおりの御方でした」
と、肩ではげしく息をしながら、娘は笑みさえ浮かべて言った。
趙雲は、刃を額から離し、咽喉元に突きたてるようにして、尋ねた。
「何者だ? なぜ俺を試す?」
「試すかたちになってしまった無礼をお許しください。でも、どうしても、この身で、長坂の英雄の刃というものを受けてみたかったのです」
その言葉に、趙雲は眉をひそめた。
「命を粗末にするものだ。俺は、おまえが女でなければ、命を取っていた」
「おやさしい将軍さま、それでは貴方様は、いつか女人で身を滅ぼしてしまわれますよ。貴方様は、わたしが女だから刃を止めたのではない。わたしの殺気のなさを感じ取ったので、刃を止めたのでしょう。
貴方様の優しさは、むやみやたらに振りまかれる類いのものではない。もしも、わたしが本気で貴方様を狙っていたなら、わたしは死んでいた。わたしが女であろうと、子供であったとしても、容赦なさらなかったでしょう」
「なぜそうおもう」
「わたしは、これでも細作の長をつとめておりますもの。人を見る目には自信がございます。貴方様は、とても優しくて、とても残酷な、おもったとおりの方だった」
「なぜ俺を知る。偉度から聞いたのか」
つい、そんな言葉が出た。

荊州の『村』にいた子供たちに共通するのは、千里眼もかくやとおもわせる観察眼である。
人の心の襞の、奥の奥まで看過するような、冷たく容赦ない眼差しを持っている。
過酷な生活のなかで、生き残るために身につけた眼力でもって語られるおのれの姿は、趙雲がもっとも耳にしたくないもののひとつであった。

趙雲が顔を曇らせたのを、娘は瞬時に悟ったか、それ以上の言葉を述べず、言った。
「わたしたちは、劉表が死したあと、各地にばらばらになってしまいましたが、それでも互いに兄弟であることに変わりはないのです。貴方様や、軍師将軍のことは、貴方様がたが大切にしてくださっている『兄弟』たちから、それとなく耳にはしておりました。ぜひ、一度、お手合わせをお願いしたいとおもっていたので、無礼をはたらきましたこと、どうかお許し下さいませ。このままの姿勢で失礼させていただきますわ。わたしの名は芝蘭と」
「文偉を助けた、呉の細作だな」
呉、と聞いて、牢内の、陳羣をはじめとする曹丕の側近たちがどよめいた。
しかし、趙雲はそれにはかまわず、誰一人として剣戟の音に駆けつけてこない状況に、眉をひそめた。
「文偉のことは文偉のこと。同盟を組んでいるはずの呉の者が、なにゆえ無断で蜀の地に入り込んでいるのだ。そして、なにをした?」
芝蘭は、勘の良いところを見せ、にっ、と不敵に笑うと、無駄な口上は述べず、率直に答えた。
「李将軍の兵は蔵に閉じ込めてございます。抵抗した者は死んでしまったかもしれないけれど。わたしは貴方様のお味方です」
「李将軍は、われらとおなじ蜀の将」
「知っております。しかし、かれの御仁は、華々しい手柄を狙うあまり、勝手に行動し、蜀を混乱に陥れようとしております。貴方様が長坂でお助けになった若君を退け、劉公子を旗頭にし、あのかわいそうな子供を傀儡にして、天下を狙おうとしているのですわ」
「李将軍は、たしかに功名を立てることに焦る男だ。だが、斯様な大掛かりな策は、あの男の頭からひねり出されたものとはおもえぬ。呉の策謀ではなかろうな」
「呉は、今回に限っては、淑女のように大人しくしておりますのよ。ですから、わたくしたち影の者だけが動いているのです。わたしが立つことをお許しくださいませんか。ここは冷えるので」
堂々と言ってのける度胸のよさに感服し、趙雲は、切っ先を、急所に狙いを定めたまま、芝蘭を立ち上がらせた。
芝蘭は、目の前に刃などないかのように、服の裾の汚れを、悠然とはたいてみせる。
そして、趙雲の目をふたたび真っ直ぐに見据えると、言った。
「軍師将軍はご無事です」
「会ったのか!」
「わたしたちがお助けし、いま、ともに行動されております。軍師は、貴方様がここにいることをご存知ではありませんが、知ればお喜びになるでしょう。
いま、村の外で、わたしたちが村に火を掛けるのを、わたしの仲間とともに待ってらっしゃいます。そこにいらっしゃる、魏の公子をお助けするためでございます」
「なんと?」
「先ほどのお話、わたしも耳にいたしました。陳長史さま、呉の細作のわたくしが証人となりましょう。公子がお父上の位を継がれたあとは、魏は蜀には攻め入らぬとお約束くださいませ」

ちらりと目を向ければ、芝蘭の申し出に、陳羣は顔をしかめて返事をしない。
細作という身分の低い者、しかも娘に、命令をされるような形になったのが気に食わないのか。
それとも、別の理由からか。
もしも孔明がこの場にいたなら、
「命が助かるのだ。しかも敵国たる蜀と呉が、手を組んで助けてくれるのだぞ。もっと喜ぶといい」
とかなんとか言ったことであろう。
無事だ、ということに、趙雲は心から安堵した。
そして、無性にその姿を見たくなった。
孔明が攫われてから今に至るまで、眠る間もなく、ずっと安否を気遣ってきたのだ。
たしかに無事だというあかしを見たい。

「公子らを助け、李将軍や劉副軍中郎将はどうすると?」
「そこが困っておりますの。じつは、わたしたちは、この村に占拠しているのは、そちらにいらっしゃる公子を亡き者にせんと雇われた、馬光年こそが真の敵だとおもっていたのですもの。
さらに裏に、李将軍や劉副軍中郎将がいるとなると、話はちがって参りますわ。軍師のご指示は、公子をお助けせよと、それだけでしたので」
「馬光年は、もとより我らの雇った者ではない」
と、それまで長らく沈黙を守っていた曹丕が、牢の入り口に身を寄せて、口を挟んできた。
「馬光年こそが、この策をわれらに献上してきた男なのだ」
「そして、美味い話に引っかかったと? 馬光年が何者か見極めもせず、のこのこと、こんな山奥までやってきたというのか」
趙雲の言葉に、曹丕はきつく睨みつけてきた。
しかし牢の格子越しなので、恐ろしさはまったくない。
曹丕の立場が、それほどまで切迫したものだと知れて、さすがに趙雲も同情をおぼえた。
「馬光年の正体を論じている場合ではない。証人も出来たのだ。われらは嘘をつかぬ。早くここから出してくれ」
と、言葉をすすめたのが陳羣である。
正論だとおもった趙雲が、鍵を壊そうと錠前に近づくと、芝蘭が、前に進み出て、懐から鍵束を取り出した。
「なかなかに使える小娘ではないか。醜い顔をしておるが、気に入ったぞ」
曹丕の遠慮のない言葉に、芝蘭は笑顔を浮かべて、言った。
「ありがたいお言葉ですわ。普通は、そう言うものでしょうにね」
「どういう意味だ?」
「いいえ。蜀の人間は、妙に優しすぎると」
謎めいた言葉を口にする芝蘭に、曹丕は怪訝そうに首をかしげた。

つづく……

(旧サイト・はさみの世界(現・はさみのなかまのホームページ) 初出 2005/10/08)

風の終わる場所 25

2021年05月16日 09時50分33秒 | 風の終わる場所
趙雲は小さく息をつき、兜の隙間から流れてくる汗を、さりげないふうを装って、ぬぐった。
汗を掻いているのは、緊張しているためばかりではない。
混乱していたのだ。
村に捕らえられているのが魏の公子だという。
そして、ここにいる兵卒たちは、蜀の兵。
現われたのは劉封と李巌。
そして劉備の子だという劉括。
どうなっている? 
孔明はどこへ?
そもそも、孔明の拉致は魏の仕業ではない? 
劉封と李巌の仕業であったのか? 
魏の公子を捕らえたというのであれば、これは蜀にとって大功。

李巌はいま、劉備にきらわれ、地方へ飛ばされている形となっている。
荊州時代には、華やかな評価に飾られていた男だ。
このままではないであろうとはおもっていたが、自ら浮かび上がるために、魏の公子を罠にかけ、こんな山奥にまで呼びつけ、捕らえたというのか。
大胆きわまりないが、もしそれが成功したとして、では孔明はなんのために利用されたのか。
決まっている。
魏の公子とやらを誘い込むための最上の餌として利用されたのだ。

憤りをおぼえながら、趙雲は、地下牢への階段を探し、降りていった。
地下牢は長いあいだ使われていなかったのか、饐えたにおいと黴のにおいが混ざり合っていた。
趙雲がいままで見てきた兵卒たちとは、あきらかに質のちがう屈強な男たちが、すぐさま寄ってくる。
「劉公子のご一行がご到着された。みなはおもてなしのために外へ出ている。おまえたち、代わりに表を見張ってくれ。牢の見張りは、俺が行う」
判り申した、と拱手をし、兵卒たちは規則正しく足音をたてて上がっていく。

趙雲は、かれらが行ってしまうと、牢の中にいる者の顔を確かめた。
もともと、村の人口はすくなく、牢の用途もほとんどなかったはずである。
だから、望楼の地下につくられた牢は、ひどく狭かった。
その狭い中に、魏の公子とその家臣たちは、芋詰めにされており、立ったままの者もいる。
しかし、さすがとでも言おうか、かれらは騒いだり、嘆き哀しんだりする様子も見せず、静粛したまま、牢の中にいた。
趙雲は、あまたいる男たちのなかで、守られるように牢の中心にいる、背の低い若者を認めた。
身に纏っているものは粗末ではあるが、腕を組み、胡坐をくんで、じっと瞑目しているさまは、はるか以前に見た曹操の顔、そっくりであった。
「魏の公子とお見受けする」
趙雲が声をかけると、若者の周囲にいた者たちが腰を浮かせて、趙雲のもとまでやって来た。
「下郎! わが君を愚弄しに参ったか! 下がれ!」
「愚弄するつもりはない。我が名は趙子龍。翊軍将軍を拝領しておる」
「趙子龍? 諸葛亮の主騎か」
と、はじめて魏の公子が口を開いた。
「左様。御尊名をお聞かせねがいたい」
「我は曹孟徳が長子、曹子桓なる」

曹操の跡継ぎ。
またずいぶんと大物がかかったものだ。
そして、なんと迂闊、なんと軽はずみなことだろう。
おもわず、曹丕を守るようにして周囲にいる者たちを見回す。
かれらもまた、趙雲に憎悪のこもった視線を投げていた。

曹丕が腕を組んだまま、まっすぐ趙雲を見て言う。
「そなたの名は聞き及んでおる。劉備の股肱の臣にして、諸葛亮の主騎、父上が、かねてよりわが人材に加えたいとおっしゃっていた男だ。
それがどうした。斯様なところで顔を合わせるということは、そなたまで、本来の主を見捨て、くだらぬ策謀に乗ったのか」
「誤解があるようだが、それがしがここに来たのは、成都より拉致された軍師将軍、諸葛孔明を助けるため。貴殿らはその行方を知っているはず。どこへ行ったのか」
「知らぬ。趙子龍、そなたがどこまでこの策謀をつかんでいるかは知らぬが、蜀の者は、ずいぶんとくだらぬ真似をするではないか。仲間を敵に売るフリをして、われらをうまうまと陣地に引き寄せ、そして絡めとる。まさか、これは諸葛亮の知恵ではなかろうな」
「天下のそしりを受けるような陰謀は、われらが軍師の得意とするところではない。我が問いに答えよ」
「そなたの評判は、我が耳にも届いておる。翊軍将軍とは、またずいぶん下位に留まっているではないか。蜀にいては、貴殿、芽は出ぬぞ。ここからわたしを出してくれるというのならば、魏において、最高位の将軍職を約束しようぞ。どうだ」
「取引をする相手を選ぶことだな。評判が届いているというのならば、俺がそのような誘いには乗らぬと、知っているだろう」

曹操の若い頃というのは知らないが、もしかしたら、こんなふうであったのかもしれない。
このように湿った狭い牢の中にあっても、おのれを失わず、堂々と敵を口説いてみせる。
大胆不敵な自信家であればこそ、荒唐無稽ともいえる罠に引っかかってしまったのか。
つまり、敵は、曹丕の性格すら見抜いて罠を張った、ということか?

趙雲がきっぱりと誘いを跳ね除けると、曹丕は声を立てて笑った。
「左様か。しかし趙子龍よ、あいにくと、諸葛孔明の行方は、わたしも知らぬ。この陰謀をくわだてたヤツは、なかなかに天晴れであるぞ。天下の智者を向こうに回し、すっかり騙して見せたのだからな。
諸葛孔明というのは、おもったよりずっと妬まれているらしい。これは、わたしを捕らえて人質にする策であると同時に、諸葛孔明を、この混乱によって、亡きものにする策謀であったのだ」
「劉括という、主公の御子を名乗る少年を見た。貴殿らは、魏王が今上帝の後継として、同じ劉姓の劉括に譲ってもよいと言っている。そうすれば、争わずして魏と蜀は、ふたたび漢の名の元にひとつとなる。
そのかわり、子供の母の仇である諸葛孔明は処刑するのが条件だと申し入れた。ちがうか」
「ふん、間違っておらぬ。だが、諸葛孔明の才は殺すに惜しい。われらは、もとより殺すつもりなどなかった。劉括の後見人とかいう馬光年は、是非に殺さねば気が済まぬと言い張ったが、とるにたらぬ、汚れ仕事を生業にした男の言うことなど、どうでもよいわ」
「それこそ、くだらぬ」
趙雲は、腹の底からそう言った。
「おおかた、軍師に処刑をちらつかせて脅し、命乞いをはじめたところで、恩着せがましく救ってみせて、魏に連れて行くつもりであったのだろう。貴殿らの細作は、諸葛孔明が、呆れるほどにねばり強く、抵抗を続ける男だということを報告していなかったのか」
「あいにくと、われらが放った細作は、どこぞの翊軍将軍にすべて斬られてしまったからな」
「それはすまなかったな。軍師はどこへ行ったのか、しらぬか」
「さて、知らぬ。わたしが襲われているのを無視して、一人で山に逃げた薄情者など、知るわけがない」
「ならばよい」

山に一人で逃げた。
ならば、村に向かう途中の山道のどこか向こう側に、孔明がいたのかもしれない。
趙雲の耳には、あらたに、四方から聞こえてきた、山犬の吼え声が聞こえていた。
それなりに護身術を身につけているとはいえ、武器も取り上げられていたであろう状況で、獰猛な山犬に遭遇したら、ただではすまない。
冬も近く、山野に食べ物を探して、うろついている獣は多いはずだ。
それだけではない。
山が冷えてきた。
無事に夜を越すことなどできるのか。
凍死の危険もないわけではない。
急がねば。
危険を冒して兵卒たちの気を引いている偉度に、このことを教えてやらねばならぬ。

趙雲が去ろうとすると、座っていた者のうちの一人が、すばやく立って、近づいてきた。
「待たれよ。決して悪いようにはせぬ。我らを救ってはくれぬか」
「貴殿は?」
「おお、ご無礼を許されよ。我が名は陳長文」
「御史中丞、陳長文殿か。お初にお目にかかる」
牢越しに、互いに拱手しつつ、趙雲は、自分よりわずかに年上の陳長文…陳羣を見た。
肌艶がよく、若々しく見える。
やつれてはいるものの、度は失っていない。

以前かれは劉備に仕えていた。
だが、義にこだわるあまり、陳羣にとってはまだるっこしい手段しかとれぬ主君に業を煮やし、主を曹操に鞍替えした男だ。
もともと、劉備の人物に惚れて従ったのではない。
状況に応じて、そうせざるを得なかった。
曹操のもとでは、名族の長という背景も手伝って、順当に出世を重ねている。
自分とは違う道を歩いている男。
同じ文官である孔明とも、またちがう価値観を持って人生を歩いている男だ。
反発がないといったら嘘になるが、牢の向こうで縋る様子は、哀れに見えた。

「くりかえしとなるが、頼む、我らを救って欲しい。悪いようにはせぬ」
「いずれにせよ見返りなど求めぬが、しかし貴殿らは、わが敵という事実には変わらぬ。ここで朽ち果てるか、あるいはどこぞへ引き回されることとなろうと、それは、このような旨すぎる話に乗った、貴殿らの落ち度であろう。俺には関係のないことだ」
「そこを曲げてお願いいたす。我らがもどらねば、魏は、ふたたび魏王の跡を狙った争いが起こる。なんとしても、公子にはお帰りいただかねばならぬのだ」
「その混乱こそ、わが国にとっては好機。やはり、俺が助けねばならぬ理由はないな」
「混乱は、貴国には好機やもしれぬ。だが、この国とて、荊州との連携をとるのが精一杯で、とてもわが国を攻める余裕もないはず。諸葛亮は、天下を三つに分け、蜀と荊州を足がかりに天下をうかがおうとしている。
だが、その事業は、劉左将軍の代にて成し遂げられるものだとは、おもっておらぬはずだぞ」
「たしかにそうだ」
趙雲が足を止め、ふたたび完全に向き直ったのに意を強くしたのか、陳羣はつづけた。
「蜀はいま、国力を蓄えている状態で、とても他国へ侵攻できる兵力は持っておらぬ。そこで、魏の混乱につけ入り、呉が攻めて来た場合、どうなるとおもう。漁夫の利を狙うつもりか? 
いや、それこそ蜀の滅亡を早めるだけであろう。万が一、呉に魏が倒された場合、呉は勢いに乗じて、一気に攻めてくるだろう。荊州と、涼州の両方から攻められてしまえば、虎の子の軍も防戦一方となり、いかに諸葛孔明の知恵をもってしても、持久戦となれば、これはもたぬ。
目先のことだけでかんがえれば、われらの混乱は貴殿らにとっては益になるやもしれぬが、長い目で見れば、同じく命取りになろうぞ!」
「話はわかる。しかし、これは、俺が独断で決めてよい話ではない」
「だからこそ、悪いようにはせぬ、といっておるのだ。もしわれらが無事に魏にもどることが出来たなら、我らは蜀を攻めぬと約束しよう」
「長文、勝手な真似を!」
声を荒げる曹丕を、陳羣はするどく制した。
「いいえ、公子! われらの命運ばかりではなく、魏の命運すらかかっているのです! ここは単純に褒美などで済ますことができませぬ。公子からも、お約束くだされ。魏にもどり、無事に跡目を継げたなら、蜀は攻めぬ、と」

曹丕は、渋い顔をして、じっとかんがえ込んでいる。

曹操の強大な力によって、押しも押されぬ大国に伸し上がった魏である。
陳羣ともあろう者が、あっさりと蜀への侵攻はしないと約束するということは、曹丕の地位というものが、よほど危ういものなのではないか。
だからこそ、現に、その地位を磐石にしたい一念で、曹丕はわずかな家臣らとともに、敵地にわざわざ乗り込んできたのだ。
つまり、曹丕の御世になれば、内乱が起こる可能性が在ると、見据えてのことなのである。

唐突に、蜀の命運が、自分の手に握られてしまった。

趙雲は、陳羣の必死の願いに、言葉をどう返せばよいのか戸惑い、そのために、背後に人の気配が近づいていたのに、気づかないでいた。

つづく……

(旧サイト・はさみの世界(現サイト・はさみのなかまのホームページ)初出 2005/09/18)

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