「軍師」
芝蘭の仲間たちの声に、孔明は我に返った。
「軍師、やはり、おかしゅうございます。風の音に紛れておりましたが、これは大人数の人馬の足音では?」
「人馬だと? 軍隊か?」
咄嗟に、孔明の脳裏に浮かんだのは、おのれを探して、とうとうだれかが村に軍を率いてきたのではないか、ということである。
それがだれかと問われれば、最初に名前が上がるのは趙雲だ。
いや、ほかにだれの名前も浮かびはしない。
あの男ならば、こちらがどこにいようと、かならず助けにやってくる。
いつもそうだった。
「上でなにが起こっているのか、だれかに探らせて参ります。軍師はここでお待ちを」
芝蘭の仲間たちは、そう言うと、孔明とひとりの仲間を残し、村を探らせるために離れて行った。
村で戦が起こっているのか。
戦っているのは味方だろうか。
魏の軍隊、ということはあるまい。
いくらなんでも、巴蜀を、敵国の部隊は堂々と進軍できない。
とすれば、国内の軍と、村にいる魏の細作たちとが戦っている?
しかし、もしそうであれば、芝蘭たちが狼煙玉を上げそうなものなのに、合図がなにもないのは、どうしたことだろうか。
ふと、孔明の隣に伏していた山犬が、すっくと立ち上がった。
「どうしたのだね」
通じるはずもないが、このよく訓練された山犬は、孔明の言葉に答えるように、ふん、と大きく鼻を鳴らした。
静かにしていろと合図しているかのように。
とたん、孔明は、首筋に冷たい刃を押し付けられたような、悪寒をおぼえた。
それは隣にいた青年も同じようで、山犬と同じく、立ち上がると、周囲の気配をすばやく探る。
風に紛れて、闇にも似た気配がこちらに突っ込んでくる。
山犬が地を蹴り、突進していく。
だがそれは、闇のなかに飛ぶ燕のようにすばやく、それは山犬をかわし、まっすぐ孔明に向かってきた。
その目の前を、傍らにいた青年が飛び込んで、向かってきた刃をおのれの身体に受ける。
肉を断つ、無残な音が聞こえた。
逃げろ。
自分に命じるが、体は咄嗟に、目の前で崩れ落ちる青年を、後ろから抱きかかえ、支えていた。
手に、ぬるりと生暖かい感触が触れる。
幾筋も幾筋も、命の証しである血潮が落ちていく。
不快さはなく、これが途切れてしまえば、青年は死ぬのだという、焦りが脳裏をかすめた。
さいわい、青年の傷は、さほど深くなく、急所からは外れていた。
だが、出血が多い。
すぐに手当てをせねばなるまい。
とっさに、いつも懐にしのばせてある傷薬を取り出そうとするが、目の前の黒装束の男に、刃を突きつけられる。
「軍師将軍諸葛孔明どのとお見受けした」
「そうだ。昼間、魏の公子を狙った者たちか」
孔明は、緊張した面持ちで、頭巾で顔を隠した男を見上げる。
男からは、殺気は感じられなかった。
ただ、おもしろいものを見ているかのように、目を細めているのが気に食わない。
「わたしを捕らえるか」
孔明が問うと、男は言った。
「このまま殺してもよい。我らが長は、抵抗すれば、貴殿を殺してもかまわぬと言った。本来ならば、貴殿の骸は、日没とともに晒される予定だったのだからな」
孔明は、違和感をおぼえて、男の言葉に眉をひそめた。
曹丕の言によれば、劉括に帝位を継がせるという話も、日没までに自害せよという話も、ただ孔明を帰順させるための作り話、ということではなかったか。
孔明を帰順させるための策だ、ということ自体も作り話にすぎず、曹丕は捕らわれた。
ほかならぬ、曹操の後継を狙う者たちに…ではなかったのか?
「わたしを捕らえてどうする」
「それは、我らが長と、ほかの将軍方が決めること。立っていただこうか」
「そのまえに、この者の手当てをさせてくれ」
「敵国の細作なぞ、そのまま捨てておくがいい」
「そうはいかぬ。この者の手当てが済んだなら、わたしは大人しくおまえに従おう」
「細作のために、抵抗もせずに、捕らえられてくれようと言われるか」
「そうだ。不様な真似はせぬ。しばし待て。よいな?」
言葉が強くなりそうになるのを、懸命に抑えて、孔明は黒装束の男に言った。
男は、厚く顔を覆う頭巾の下で笑ったが、孔明はそれを了解と取り、すばやく、歯を食いしばって、痛みに耐える若者を地に横たえる。
背後では、山犬が、背後より黒装束の男に向かおうと身をかがめていた。
「待て! ならぬ!」
青年の胸元をはだけさせ、薬草を塗りこめつつ、孔明はするどく山犬を制止した。
山犬は、孔明の声に、ぴくりと肩を震わせ、そのまま、牙を向いて男を威嚇するにとどめた。
そして金色の瞳を闇夜にしばらく浮かばせていたが、くるりと背を向けると、山林のなかに入っていった。
「急いでいただこう。もしも、時間稼ぎをしているのであれば、無駄なことだ」
「不様な真似はせぬと言っただろう。これでしばし、血は止まる」
傷ついた青年は、ちいさく呻いて、孔明になにかを言おうとしたが、孔明は、汗のにじむ額を拭いてやり、言葉を封じた。
「よい、言うな。もとより、おまえたちの修羅を作り出した原因は、不本意であったとはいえ、わが叔父にある。わたしは、叔父の遺産はすべて譲り受けたのだ。だから、おまえたちの苦しみは、わたしが持っていく。責任を負うことはない。もしも、おまえを責めるものがいたなら、孔明がそう言っていたと伝えるがいい」
孔明が立ち上がると、黒装束の男は、鼻で笑って言った。
「世に細作を使役する者は多い。細作は、主のために命を失うことも辞さない者たちだ。だが、細作のために命を失ってもかまわぬという主は、初めて見た」
「ならば、珍重せよ。おまえたちの長とやらのところに行く」
怯えることもなく、傲然と胸を張る孔明に、男はその両腕を縄で拘束すると、罪人のように孔明を引っ張って、風の勢いにはげしく揺れる木々のあいだを、小走りに行きはじめた。
※
趙雲は、望楼の入り口から見えた光景に、おもわず言葉を失った。
費観のもとへ去らせたはずの、文偉が、片側の頬をぶざまに膨らませた劉封に、鞭打たれているのだ。
そして、さらに見れば、その文偉を助けようと、茂みから、鎖帷子もなにも纏わぬ軽装の偉度が、飛び出そうとしているのである。
あれこれかんがえている暇はなかった。
偉度の動きにあわせるようにして、趙雲も駆け出そうとする。
それを、背後にいる陳羣が止めた。
「待たれい! 貴殿には、公子やわたくしを、無事に村から出す役目があろう!」
趙雲は、振り返ると、力の限り陳羣や、そのほかの魏の家臣たちをにらみつけた。
「勝手に人の領土に入り込み、勝手なことをぬかすな! 出て行きたければ、好きに出て行くがいい! そこまで面倒は見ぬ!」
「この望楼の裏手に、わたくしたちが越えてきた柵がございます。柵の裏手には、斜面を降りられるように縄を吊るしてございます。仲間がご案内いたしますわ。どうぞあちらへ」
と、芝蘭が、仲間に指示するが、陳羣は不満顔である。
「我らに、敵地を徒手空拳で行けと?」
「剣や鎧はありませんけれど、そこの蔵に、ふるい弓ならありました。いまにも切れてしまいそうな弦の弓でも構わないのでしたら、どうぞ」
「もともと、そなたのものではあるまい」
それでも、手ぶらよりマシと判断したのか、曹丕や陳羣らは、芝蘭の仲間の指示にしたがって移動した。
望楼の兵卒は、芝蘭の仲間たちによって、みな拘束されたか、あるいは討ち取られていた。
望楼の、奇妙な静けさに、李巌や劉封たちはまだ気づいていない。
芝蘭は、ひととおり指示を終えると、趙雲に向き直った。
「文偉さまをお助けしましょう」
いいざま、手を唇に添え、ぴゅう、と高らかに笛を鳴らす。
その音は、村の上空を渦巻くようにして流れる風を縫って、ひばりの声のように遠くまで響き渡った。
ほどなく、芝蘭の合図の笛に呼応するように、どこか悲しげな山犬の遠吠えが、あちらこちらから聞こえてくる。
闇夜を旅した経験がある者ならば、だれしもぎくりと身をすくませる、凶悪な森の主の声である。
人の気配とはまたちがう、しなやかな獣の独特の気配が、村のあちこちに現われた。
月光に、銀の毛並みを輝かせた大きな山犬たちは、人間を睥睨するように、櫓に占拠して、劉封たちを取り囲むようにしていた。
櫓の傍らには、そこに配置されていたであろう兵卒たちの、無残に噛み裂かれた遺体が転がっている。
「これで、上空からの攻撃は気にしなくて済みます。敵は、百くらいでしょうか」
「百か…」
数に怖じたのではない。
百の兵が、ただ真っ向からぶつかってくるだけならば、趙雲はこれを切り抜ける自信があった。
もしこれが乱戦中の死地だというのであればわかるが、これから対峙する相手は、無傷で平静を保っている、訓練された熟練の兵卒たち。
相手が戦術を繰り出し、こちらを絡めとる方法を取ると危ない。
村を出るための入り口は一箇所。
単騎ならば突破できる。
だが、幼子を抱えているのとはちがい、成人した手負いの文偉を偉度と協力して抱えて突破できるだろうか。
いや、やらねばならぬ。
李巌も劉封も、趙雲らが逃走して、事態を劉備に告げることを恐れているはずだから、殺すつもりで向かってくる。
趙雲は、息をひとつ大きく吐き出すと、眦を強くして、劉封らを見据えた。
どちらにしろ、村はでなければならないのだ。
入り口を、邪魔者が塞いでいる。
それだけのこと。
兵の配置、かれらの状況、文偉の位置、偉度の行動に対する予測。
それらを瞬時に頭におさめ、趙雲は駆け出した。
つづく……
(旧サイト「はさみの世界」(現・牧知花(はさみのなかま)のホームページ)初出 2005/10/09)
芝蘭の仲間たちの声に、孔明は我に返った。
「軍師、やはり、おかしゅうございます。風の音に紛れておりましたが、これは大人数の人馬の足音では?」
「人馬だと? 軍隊か?」
咄嗟に、孔明の脳裏に浮かんだのは、おのれを探して、とうとうだれかが村に軍を率いてきたのではないか、ということである。
それがだれかと問われれば、最初に名前が上がるのは趙雲だ。
いや、ほかにだれの名前も浮かびはしない。
あの男ならば、こちらがどこにいようと、かならず助けにやってくる。
いつもそうだった。
「上でなにが起こっているのか、だれかに探らせて参ります。軍師はここでお待ちを」
芝蘭の仲間たちは、そう言うと、孔明とひとりの仲間を残し、村を探らせるために離れて行った。
村で戦が起こっているのか。
戦っているのは味方だろうか。
魏の軍隊、ということはあるまい。
いくらなんでも、巴蜀を、敵国の部隊は堂々と進軍できない。
とすれば、国内の軍と、村にいる魏の細作たちとが戦っている?
しかし、もしそうであれば、芝蘭たちが狼煙玉を上げそうなものなのに、合図がなにもないのは、どうしたことだろうか。
ふと、孔明の隣に伏していた山犬が、すっくと立ち上がった。
「どうしたのだね」
通じるはずもないが、このよく訓練された山犬は、孔明の言葉に答えるように、ふん、と大きく鼻を鳴らした。
静かにしていろと合図しているかのように。
とたん、孔明は、首筋に冷たい刃を押し付けられたような、悪寒をおぼえた。
それは隣にいた青年も同じようで、山犬と同じく、立ち上がると、周囲の気配をすばやく探る。
風に紛れて、闇にも似た気配がこちらに突っ込んでくる。
山犬が地を蹴り、突進していく。
だがそれは、闇のなかに飛ぶ燕のようにすばやく、それは山犬をかわし、まっすぐ孔明に向かってきた。
その目の前を、傍らにいた青年が飛び込んで、向かってきた刃をおのれの身体に受ける。
肉を断つ、無残な音が聞こえた。
逃げろ。
自分に命じるが、体は咄嗟に、目の前で崩れ落ちる青年を、後ろから抱きかかえ、支えていた。
手に、ぬるりと生暖かい感触が触れる。
幾筋も幾筋も、命の証しである血潮が落ちていく。
不快さはなく、これが途切れてしまえば、青年は死ぬのだという、焦りが脳裏をかすめた。
さいわい、青年の傷は、さほど深くなく、急所からは外れていた。
だが、出血が多い。
すぐに手当てをせねばなるまい。
とっさに、いつも懐にしのばせてある傷薬を取り出そうとするが、目の前の黒装束の男に、刃を突きつけられる。
「軍師将軍諸葛孔明どのとお見受けした」
「そうだ。昼間、魏の公子を狙った者たちか」
孔明は、緊張した面持ちで、頭巾で顔を隠した男を見上げる。
男からは、殺気は感じられなかった。
ただ、おもしろいものを見ているかのように、目を細めているのが気に食わない。
「わたしを捕らえるか」
孔明が問うと、男は言った。
「このまま殺してもよい。我らが長は、抵抗すれば、貴殿を殺してもかまわぬと言った。本来ならば、貴殿の骸は、日没とともに晒される予定だったのだからな」
孔明は、違和感をおぼえて、男の言葉に眉をひそめた。
曹丕の言によれば、劉括に帝位を継がせるという話も、日没までに自害せよという話も、ただ孔明を帰順させるための作り話、ということではなかったか。
孔明を帰順させるための策だ、ということ自体も作り話にすぎず、曹丕は捕らわれた。
ほかならぬ、曹操の後継を狙う者たちに…ではなかったのか?
「わたしを捕らえてどうする」
「それは、我らが長と、ほかの将軍方が決めること。立っていただこうか」
「そのまえに、この者の手当てをさせてくれ」
「敵国の細作なぞ、そのまま捨てておくがいい」
「そうはいかぬ。この者の手当てが済んだなら、わたしは大人しくおまえに従おう」
「細作のために、抵抗もせずに、捕らえられてくれようと言われるか」
「そうだ。不様な真似はせぬ。しばし待て。よいな?」
言葉が強くなりそうになるのを、懸命に抑えて、孔明は黒装束の男に言った。
男は、厚く顔を覆う頭巾の下で笑ったが、孔明はそれを了解と取り、すばやく、歯を食いしばって、痛みに耐える若者を地に横たえる。
背後では、山犬が、背後より黒装束の男に向かおうと身をかがめていた。
「待て! ならぬ!」
青年の胸元をはだけさせ、薬草を塗りこめつつ、孔明はするどく山犬を制止した。
山犬は、孔明の声に、ぴくりと肩を震わせ、そのまま、牙を向いて男を威嚇するにとどめた。
そして金色の瞳を闇夜にしばらく浮かばせていたが、くるりと背を向けると、山林のなかに入っていった。
「急いでいただこう。もしも、時間稼ぎをしているのであれば、無駄なことだ」
「不様な真似はせぬと言っただろう。これでしばし、血は止まる」
傷ついた青年は、ちいさく呻いて、孔明になにかを言おうとしたが、孔明は、汗のにじむ額を拭いてやり、言葉を封じた。
「よい、言うな。もとより、おまえたちの修羅を作り出した原因は、不本意であったとはいえ、わが叔父にある。わたしは、叔父の遺産はすべて譲り受けたのだ。だから、おまえたちの苦しみは、わたしが持っていく。責任を負うことはない。もしも、おまえを責めるものがいたなら、孔明がそう言っていたと伝えるがいい」
孔明が立ち上がると、黒装束の男は、鼻で笑って言った。
「世に細作を使役する者は多い。細作は、主のために命を失うことも辞さない者たちだ。だが、細作のために命を失ってもかまわぬという主は、初めて見た」
「ならば、珍重せよ。おまえたちの長とやらのところに行く」
怯えることもなく、傲然と胸を張る孔明に、男はその両腕を縄で拘束すると、罪人のように孔明を引っ張って、風の勢いにはげしく揺れる木々のあいだを、小走りに行きはじめた。
※
趙雲は、望楼の入り口から見えた光景に、おもわず言葉を失った。
費観のもとへ去らせたはずの、文偉が、片側の頬をぶざまに膨らませた劉封に、鞭打たれているのだ。
そして、さらに見れば、その文偉を助けようと、茂みから、鎖帷子もなにも纏わぬ軽装の偉度が、飛び出そうとしているのである。
あれこれかんがえている暇はなかった。
偉度の動きにあわせるようにして、趙雲も駆け出そうとする。
それを、背後にいる陳羣が止めた。
「待たれい! 貴殿には、公子やわたくしを、無事に村から出す役目があろう!」
趙雲は、振り返ると、力の限り陳羣や、そのほかの魏の家臣たちをにらみつけた。
「勝手に人の領土に入り込み、勝手なことをぬかすな! 出て行きたければ、好きに出て行くがいい! そこまで面倒は見ぬ!」
「この望楼の裏手に、わたくしたちが越えてきた柵がございます。柵の裏手には、斜面を降りられるように縄を吊るしてございます。仲間がご案内いたしますわ。どうぞあちらへ」
と、芝蘭が、仲間に指示するが、陳羣は不満顔である。
「我らに、敵地を徒手空拳で行けと?」
「剣や鎧はありませんけれど、そこの蔵に、ふるい弓ならありました。いまにも切れてしまいそうな弦の弓でも構わないのでしたら、どうぞ」
「もともと、そなたのものではあるまい」
それでも、手ぶらよりマシと判断したのか、曹丕や陳羣らは、芝蘭の仲間の指示にしたがって移動した。
望楼の兵卒は、芝蘭の仲間たちによって、みな拘束されたか、あるいは討ち取られていた。
望楼の、奇妙な静けさに、李巌や劉封たちはまだ気づいていない。
芝蘭は、ひととおり指示を終えると、趙雲に向き直った。
「文偉さまをお助けしましょう」
いいざま、手を唇に添え、ぴゅう、と高らかに笛を鳴らす。
その音は、村の上空を渦巻くようにして流れる風を縫って、ひばりの声のように遠くまで響き渡った。
ほどなく、芝蘭の合図の笛に呼応するように、どこか悲しげな山犬の遠吠えが、あちらこちらから聞こえてくる。
闇夜を旅した経験がある者ならば、だれしもぎくりと身をすくませる、凶悪な森の主の声である。
人の気配とはまたちがう、しなやかな獣の独特の気配が、村のあちこちに現われた。
月光に、銀の毛並みを輝かせた大きな山犬たちは、人間を睥睨するように、櫓に占拠して、劉封たちを取り囲むようにしていた。
櫓の傍らには、そこに配置されていたであろう兵卒たちの、無残に噛み裂かれた遺体が転がっている。
「これで、上空からの攻撃は気にしなくて済みます。敵は、百くらいでしょうか」
「百か…」
数に怖じたのではない。
百の兵が、ただ真っ向からぶつかってくるだけならば、趙雲はこれを切り抜ける自信があった。
もしこれが乱戦中の死地だというのであればわかるが、これから対峙する相手は、無傷で平静を保っている、訓練された熟練の兵卒たち。
相手が戦術を繰り出し、こちらを絡めとる方法を取ると危ない。
村を出るための入り口は一箇所。
単騎ならば突破できる。
だが、幼子を抱えているのとはちがい、成人した手負いの文偉を偉度と協力して抱えて突破できるだろうか。
いや、やらねばならぬ。
李巌も劉封も、趙雲らが逃走して、事態を劉備に告げることを恐れているはずだから、殺すつもりで向かってくる。
趙雲は、息をひとつ大きく吐き出すと、眦を強くして、劉封らを見据えた。
どちらにしろ、村はでなければならないのだ。
入り口を、邪魔者が塞いでいる。
それだけのこと。
兵の配置、かれらの状況、文偉の位置、偉度の行動に対する予測。
それらを瞬時に頭におさめ、趙雲は駆け出した。
つづく……
(旧サイト「はさみの世界」(現・牧知花(はさみのなかま)のホームページ)初出 2005/10/09)