趙雲は、閑散とした印象のある村を見回す。
廃墟というには真新しく、かといって、生活の痕はあるのに、人影がない。
兵卒が、要所要所に配置されている気配はある。
篝火が、夜に主張してところどころに置かれているが、村全体を照らすとまではいかない。
聞こえるのは、風のごうごうとしたうなり声と、偉度を中心に巻き起こる、拍手と、カンに触る笑い声だけである。
孔明を探すのは、わけはなかろうと、趙雲はおもっていた。
もし、自分がこの村の大将で、大物を捕らえたなら、どうするか。
普通であれば、単純な話である。
牢につなぎ、選りすぐった兵卒を幾人も集中して配置し、守らせるのだ。
つまり、人を多くつけて、守りを固めるのである。
が、趙雲は、あえて人の多いところは避けて闇を進んだ。
魏は、じつに多くの細作を蜀に潜入させている。
趙雲は、孔明の主騎という立場上、これまで、なんども曹操の差し向けた細作を捕らえ、あるいは斬ってきた。
魏が、文官の頂点である法正よりも、劉備の直属で雑用係の印象のある左将軍府事で軍師将軍、という、役職においては微妙に見える孔明のまわりに、多く細作を配しているのは、一見すれば奇妙ではあるが、妥当でもある。
孔明は、情報を扱うのに長けている。
情報は、ふしぎと仲間を呼び集める性質を持つから、情報を多く持つ人間のもとにこそ、さらに多くの情報が、そして、情報を持つ、雑多な人間が集ってくる。
おそらく、揚武将軍たる法正よりも、孔明のほうが、蜀の内情について、正しい状況を把握している。
法正の欠点は、おのれと相容れない者を厳しく拒むことである。
だから、たとえ有能であっても(容赦がない、ためらいがない、法正は非情な政治家である。だが、それがかえって、混乱した情勢のなかでは、有利に働いているのだ)人に対して狭いために、偏った情報しか集らず、その動きはどこかいびつである。
一方の、孔明は有能であるが、法正よりずっと人好きである。
態度は厳しいけれど、世を眺める目線はやさしい。
法正の原動力が、長年の不遇のなかで培われてきた恨みだとすると、孔明を動かしているのは、自分を生かしてくれた世界に対する感謝の念である。
誰かがやらねばならないという、悲愴な切迫感がないから、孔明の為すことはいつも自然に見える。
意志の中心にあるものが透明で清らかなので、ふしぎとだれをも惹きつける。
だから多くの情報を集めることが出来るのだ。
孔明が、若くして名と地位を為したのは、才能に拠るのではない、人格に拠るものなのだ。
結局、人間は、頭の良し悪しではなく、その人格によって、運命が決まるのである。
だが、政を運用するにあたり、蜀において、地盤のもたない孔明より、地元の法正のほうが、万事につけ都合がいい。
本来ならば、孔明を中心に据えたいところを、劉備が法正を頭にしているのは、老獪な判断があってこそなのである。
劉備もまた、ただの義人というわけではない。
おそらく、魏は、孔明という人間を、よく把握している。
孔明の最大の武器は、ありとあらゆる場において、もっとも効果的な言葉を選び、つむぐ、その舌である。
孔明の言葉は、人が多ければ多いほどに、その真価を発揮する。
そうして、いままでも、幾多の危機を乗り越えてきたのだ。
だから、魏は、孔明の周囲に、逆に人を配置させていないはずだ。
それにかれらは、敵地の中にいるのである。
孔明を捕らえているということがばれないように、わざとひと目につかないよう、兵を少なく配置しているのではないか。
低姿勢で、村の家から家の間を抜けるようにして、兵卒の動きを気にしながら行くと、風の音、そして虫の声に紛れて、甲高くも涼やかな、鈴の音が聞こえた。
趙雲は、兵卒の鎧の音か、あるいはその飾りが揺れているのではとおもったが、そうではない。
鈴である。
だれかが手遊びに鈴を風に揺らしているのであった。
足を止めて、慎重に周囲を見渡す。
もし兵卒のだれかが遊んでそんな音を立てているというのであれば、村に配置されている兵の士気は、相当に落ちているということだ。
もし趙雲がおのれの部隊の兵卒が任務中に遊んでいるのを見たとしたら、平手打ちどころではすませていない。
すべてが終わってしまっているのではないのか。
胸の奥から、不吉な声が何度も響くが、そのたびに趙雲は打ち消した。
そんなことはない。
そんなことが、あるはずがない。
兵卒たちが、これほどに弛みきっているのも、なにかほかに理由があるのだ。
きっとそうだ。
最悪の場合をかんがえるのは、あとにしよう。
いまは最善のことをするだけだ。
そのために、偉度も動いているのだから。
趙雲は、呼吸を整えると、ふたたび闇の中を進もうとしたが、また鈴の音が響いた。
同時に、小さな、ぱたぱたと地を駆ける足音がする。
足音が軽い。子供、あるいは女か?
女がいるのだろうか。
それとも、村の子どもか?
趙雲は慎重に物陰から、音のした方角を見た。
すると、子供が風に衣をはためかせ、篝火の下を走っている。
篝火のそばには、兵卒がいた。
眠っているのか、何度も舟を漕いでおり、子供には頓着しない。
子供は、舟の帆のように、風を受けてふくらむ袖の動きを楽しんでいる様子で、背格好のわりには、幼い笑い声をたてて走っている。
履物はなにも履いておらず、裸足であった。
それが動くたびに、腰帯につけた鈴が、ちりん、ちりんと音をたてて揺れているのだ。
子供は、しばらく風の力を楽しんだあと、足を止めて、なにかを見つけたのか、望楼をもつ大きな屋敷の門の前で足を止めた。
月明かりに浮かび上がる望楼は不気味に高く、おそらく外敵から村を守るために建てられたのであろう。
最上階の楼閣に、人影が浮かび上がっているのが見えた。
門衛はさすがに眠ってはおらず、子供が外から屋敷を覗き込もうとすると、あっちへいけ、と言いながら、手にした槍の、穂先とは反対側で、小突こうとする。
しかし、それを、反対側に立っていた仲間の門衛が制した。
「この御方には、無礼はするな」
その言葉を聞いて、趙雲は理解した。
あの子供が、劉括なのだ。
阿斗よりわずかばかり年長のはずなのに、あの幼児のような振舞いはなんだろう。
天真爛漫というのを通り抜けて、なにやら違和感をおぼえる。
子供は、門衛たちを交互に見て、それから、自らを通せんぼする槍を無邪気にくぐり、するりと中へと入ってしまう。
すると、門衛たちは、あわてて子供を追いかけて行った。
門の前はがら空きとなった。
趙雲は、すばやく屋敷の中に身を滑り込ませると、物陰に隠れて、様子を伺った。
門の外からは、塀に隠れて見えなかったが、あちこちに兵卒が隠されている。
中にいる兵卒たちは、村の広場でドンちゃん騒ぎをしている者たちとは反対に、面構えから鍛え抜かれた体の線など、すべてがちがっていた。
ここに孔明がいるのか。
そうではないにしても、ここには何者かがいるのはまちがいない。
趙雲は、前にも増して慎重に足音を殺し、特に兵卒の配置されている望楼へと進んだ。
趙雲より先に中に入った子供は、追いかけっこをして遊んでもらっているとでもおもっているのか、はしゃいだ声を立てながら、望楼へと進んでいく。
すばしこいのか、無体ができないと遠慮しているのか、兵卒たちは、子供を捕まえられないでいる。
子供は、声を立てながら、兵卒の腕を蝶のようにすり抜ける。
業を煮やしたのか、望楼の前の士卒長らしい、恰幅のよい男が叫んだ。
「おい、遊ぶのもいい加減にしろ! おまえたち、手伝ってやれ!」
士卒長の声に、望楼を守っている兵卒たちも、子供を捕まえるために持ち場を離れた。
趙雲は、この隙を逃さず、開け放たれた望楼の中へと侵入する。
そして、目の前で、ちょうど背中を向けている形になっている士卒長を、背後より羽交い絞めにし、声も立てられぬうちに気絶をさせてしまうと、物陰に身体を引きずり込んだ。
表で子供が兵卒たちを引っ掻き回しているあいだ、趙雲は、士卒長の鎧に身を纏い、兜で顔を隠すと、今度は堂々と望楼の中を進んだ。
上か、それとも下か。
あまりうろうろしていては怪しまれる。
何気ないふりをして階段を上がっていくと、ちょうど前方より、さきほど月に影だけを浮かばせていた兵卒らが、子供に振り回されている仲間の姿を笑っている。
「おいおい、野兎より大きなものを捕まえることもできないのか。回り込め!」
そういって囃し立てる兵卒を、同じく楼閣に立っている仲間が聞きとがめる。
「あまり煽るな。子供とはいえ、主公の御子なのだぞ。やがては、この地を治めることになるかもしれない。いま、俺たちが粗相をして、あとあと恨まれたりしたら面倒ではないか」
「ふん、どう面倒だというのだ。あの子供は、一晩眠ってしまえば、なにも覚えてはおらぬ。恐らく、何故自分がここにいるのかも知らないはずだぞ。
俺は知っている。故郷にも、ああいう知恵の遅れた者がいたのだ。年月が経てば治るというものではない。あれは一生そのままなのだ。だから、俺たちが多少乱暴を働いたところで、なにも判りはしないし、恨みなんかするはずもないのさ」
「だが、俺たちより高位にある御方なのにはまちがいない。問題があったら、ただでは済まぬ。俺も、煽ったおまえも、この望楼の地下牢に閉じ込められている連中のように、首を刎ねられてしまうぞ」
「それこそたいした出世ではないか。恐れ多くも、魏の公子さまと一緒に首を刎ねられるのだからな」
「そんな強がりを言うやつにかぎって、その場になれば、大騒ぎをして命乞いをするに決まっている」
趙雲は、咄嗟に頭が働かなかった。
この兵卒たちは、何者なのか?
いま、捕らわれているのが、魏の公子だと言わなかったか。
孔明ではないのか。
魏の公子とは?
趙雲は、混乱したまま、すぐに階段を降り、地下牢へつづく階段へと向かって行った。
ちょうどそのとき、望楼の最上階にて、見張りをしていた兵卒が、法螺貝を吹き、つづけて叫んだ。
「ご一行が到着されたぞ! 劉公子のご到着!」
ばかな。
おもわず趙雲はつぶやき、あわてて周囲を探った。
さいわいにも、子供の騒ぎに加えて、あらたな一行が到着、というので、望楼のなかはざわついている。
趙雲の言葉は聞きとがめられることなく、そのまま、ばたばたと兵卒たちが動き出した。
ふと見れば、開け放たれた望楼の入り口から、武装していない、あきらかに料理人とわかる者たちが、駆け足で入ってくる。
兵卒が行く手を阻むと、料理人は頭をさげて応えた。
「ご一行のためのお酒が足りませぬ。どうやら、勝手に宴を開いていた連中が、用意していた酒をくすねて飲んでしまったようでして、こちらの蔵のものを使わせてくださいませ」
趙雲は、さりげないふうを装って、料理人に近づいていくと、声も高らかに、尋ねた。
「使わせてやってもよいが、そなたたち、せっかくの客をもてなす準備は出来ているのであろうな。ご一行のお好みは判っているだろうな。言ってみろ」
「それはもちろん。ただ、劉公子は頬を打ったとかで、お粥のほか、痛みを忘れるための熱い酒を御所望しておられます。李将軍につきましては、さきほど宴を開いてきたので、自分も公子同様、粥だけでよいと。あのお方は荊州の酒しか好まれませぬゆえ、これは、わたくしどもの貯蔵していたものをお出しします。李将軍のお供の方々は、酒なら、なんでもよいと」
「わかった。持っていくがいい。おい、おまえたち、手伝ってやれ」
趙雲の指図があまりに自然であったためか、兵卒たちは、なにも不審におもわず、料理人たちと共に、蔵を開けに向かった。
つづく……
(旧サイト・はさみの世界(現サイト・はさみのなかまのホームページ)初出・2005/09/18)
本日より、土曜日と日曜日の更新に変更です。
サイト・はさみのなかまのホームページも更新しています。
合わせてどうぞよろしくお願いします♪
廃墟というには真新しく、かといって、生活の痕はあるのに、人影がない。
兵卒が、要所要所に配置されている気配はある。
篝火が、夜に主張してところどころに置かれているが、村全体を照らすとまではいかない。
聞こえるのは、風のごうごうとしたうなり声と、偉度を中心に巻き起こる、拍手と、カンに触る笑い声だけである。
孔明を探すのは、わけはなかろうと、趙雲はおもっていた。
もし、自分がこの村の大将で、大物を捕らえたなら、どうするか。
普通であれば、単純な話である。
牢につなぎ、選りすぐった兵卒を幾人も集中して配置し、守らせるのだ。
つまり、人を多くつけて、守りを固めるのである。
が、趙雲は、あえて人の多いところは避けて闇を進んだ。
魏は、じつに多くの細作を蜀に潜入させている。
趙雲は、孔明の主騎という立場上、これまで、なんども曹操の差し向けた細作を捕らえ、あるいは斬ってきた。
魏が、文官の頂点である法正よりも、劉備の直属で雑用係の印象のある左将軍府事で軍師将軍、という、役職においては微妙に見える孔明のまわりに、多く細作を配しているのは、一見すれば奇妙ではあるが、妥当でもある。
孔明は、情報を扱うのに長けている。
情報は、ふしぎと仲間を呼び集める性質を持つから、情報を多く持つ人間のもとにこそ、さらに多くの情報が、そして、情報を持つ、雑多な人間が集ってくる。
おそらく、揚武将軍たる法正よりも、孔明のほうが、蜀の内情について、正しい状況を把握している。
法正の欠点は、おのれと相容れない者を厳しく拒むことである。
だから、たとえ有能であっても(容赦がない、ためらいがない、法正は非情な政治家である。だが、それがかえって、混乱した情勢のなかでは、有利に働いているのだ)人に対して狭いために、偏った情報しか集らず、その動きはどこかいびつである。
一方の、孔明は有能であるが、法正よりずっと人好きである。
態度は厳しいけれど、世を眺める目線はやさしい。
法正の原動力が、長年の不遇のなかで培われてきた恨みだとすると、孔明を動かしているのは、自分を生かしてくれた世界に対する感謝の念である。
誰かがやらねばならないという、悲愴な切迫感がないから、孔明の為すことはいつも自然に見える。
意志の中心にあるものが透明で清らかなので、ふしぎとだれをも惹きつける。
だから多くの情報を集めることが出来るのだ。
孔明が、若くして名と地位を為したのは、才能に拠るのではない、人格に拠るものなのだ。
結局、人間は、頭の良し悪しではなく、その人格によって、運命が決まるのである。
だが、政を運用するにあたり、蜀において、地盤のもたない孔明より、地元の法正のほうが、万事につけ都合がいい。
本来ならば、孔明を中心に据えたいところを、劉備が法正を頭にしているのは、老獪な判断があってこそなのである。
劉備もまた、ただの義人というわけではない。
おそらく、魏は、孔明という人間を、よく把握している。
孔明の最大の武器は、ありとあらゆる場において、もっとも効果的な言葉を選び、つむぐ、その舌である。
孔明の言葉は、人が多ければ多いほどに、その真価を発揮する。
そうして、いままでも、幾多の危機を乗り越えてきたのだ。
だから、魏は、孔明の周囲に、逆に人を配置させていないはずだ。
それにかれらは、敵地の中にいるのである。
孔明を捕らえているということがばれないように、わざとひと目につかないよう、兵を少なく配置しているのではないか。
低姿勢で、村の家から家の間を抜けるようにして、兵卒の動きを気にしながら行くと、風の音、そして虫の声に紛れて、甲高くも涼やかな、鈴の音が聞こえた。
趙雲は、兵卒の鎧の音か、あるいはその飾りが揺れているのではとおもったが、そうではない。
鈴である。
だれかが手遊びに鈴を風に揺らしているのであった。
足を止めて、慎重に周囲を見渡す。
もし兵卒のだれかが遊んでそんな音を立てているというのであれば、村に配置されている兵の士気は、相当に落ちているということだ。
もし趙雲がおのれの部隊の兵卒が任務中に遊んでいるのを見たとしたら、平手打ちどころではすませていない。
すべてが終わってしまっているのではないのか。
胸の奥から、不吉な声が何度も響くが、そのたびに趙雲は打ち消した。
そんなことはない。
そんなことが、あるはずがない。
兵卒たちが、これほどに弛みきっているのも、なにかほかに理由があるのだ。
きっとそうだ。
最悪の場合をかんがえるのは、あとにしよう。
いまは最善のことをするだけだ。
そのために、偉度も動いているのだから。
趙雲は、呼吸を整えると、ふたたび闇の中を進もうとしたが、また鈴の音が響いた。
同時に、小さな、ぱたぱたと地を駆ける足音がする。
足音が軽い。子供、あるいは女か?
女がいるのだろうか。
それとも、村の子どもか?
趙雲は慎重に物陰から、音のした方角を見た。
すると、子供が風に衣をはためかせ、篝火の下を走っている。
篝火のそばには、兵卒がいた。
眠っているのか、何度も舟を漕いでおり、子供には頓着しない。
子供は、舟の帆のように、風を受けてふくらむ袖の動きを楽しんでいる様子で、背格好のわりには、幼い笑い声をたてて走っている。
履物はなにも履いておらず、裸足であった。
それが動くたびに、腰帯につけた鈴が、ちりん、ちりんと音をたてて揺れているのだ。
子供は、しばらく風の力を楽しんだあと、足を止めて、なにかを見つけたのか、望楼をもつ大きな屋敷の門の前で足を止めた。
月明かりに浮かび上がる望楼は不気味に高く、おそらく外敵から村を守るために建てられたのであろう。
最上階の楼閣に、人影が浮かび上がっているのが見えた。
門衛はさすがに眠ってはおらず、子供が外から屋敷を覗き込もうとすると、あっちへいけ、と言いながら、手にした槍の、穂先とは反対側で、小突こうとする。
しかし、それを、反対側に立っていた仲間の門衛が制した。
「この御方には、無礼はするな」
その言葉を聞いて、趙雲は理解した。
あの子供が、劉括なのだ。
阿斗よりわずかばかり年長のはずなのに、あの幼児のような振舞いはなんだろう。
天真爛漫というのを通り抜けて、なにやら違和感をおぼえる。
子供は、門衛たちを交互に見て、それから、自らを通せんぼする槍を無邪気にくぐり、するりと中へと入ってしまう。
すると、門衛たちは、あわてて子供を追いかけて行った。
門の前はがら空きとなった。
趙雲は、すばやく屋敷の中に身を滑り込ませると、物陰に隠れて、様子を伺った。
門の外からは、塀に隠れて見えなかったが、あちこちに兵卒が隠されている。
中にいる兵卒たちは、村の広場でドンちゃん騒ぎをしている者たちとは反対に、面構えから鍛え抜かれた体の線など、すべてがちがっていた。
ここに孔明がいるのか。
そうではないにしても、ここには何者かがいるのはまちがいない。
趙雲は、前にも増して慎重に足音を殺し、特に兵卒の配置されている望楼へと進んだ。
趙雲より先に中に入った子供は、追いかけっこをして遊んでもらっているとでもおもっているのか、はしゃいだ声を立てながら、望楼へと進んでいく。
すばしこいのか、無体ができないと遠慮しているのか、兵卒たちは、子供を捕まえられないでいる。
子供は、声を立てながら、兵卒の腕を蝶のようにすり抜ける。
業を煮やしたのか、望楼の前の士卒長らしい、恰幅のよい男が叫んだ。
「おい、遊ぶのもいい加減にしろ! おまえたち、手伝ってやれ!」
士卒長の声に、望楼を守っている兵卒たちも、子供を捕まえるために持ち場を離れた。
趙雲は、この隙を逃さず、開け放たれた望楼の中へと侵入する。
そして、目の前で、ちょうど背中を向けている形になっている士卒長を、背後より羽交い絞めにし、声も立てられぬうちに気絶をさせてしまうと、物陰に身体を引きずり込んだ。
表で子供が兵卒たちを引っ掻き回しているあいだ、趙雲は、士卒長の鎧に身を纏い、兜で顔を隠すと、今度は堂々と望楼の中を進んだ。
上か、それとも下か。
あまりうろうろしていては怪しまれる。
何気ないふりをして階段を上がっていくと、ちょうど前方より、さきほど月に影だけを浮かばせていた兵卒らが、子供に振り回されている仲間の姿を笑っている。
「おいおい、野兎より大きなものを捕まえることもできないのか。回り込め!」
そういって囃し立てる兵卒を、同じく楼閣に立っている仲間が聞きとがめる。
「あまり煽るな。子供とはいえ、主公の御子なのだぞ。やがては、この地を治めることになるかもしれない。いま、俺たちが粗相をして、あとあと恨まれたりしたら面倒ではないか」
「ふん、どう面倒だというのだ。あの子供は、一晩眠ってしまえば、なにも覚えてはおらぬ。恐らく、何故自分がここにいるのかも知らないはずだぞ。
俺は知っている。故郷にも、ああいう知恵の遅れた者がいたのだ。年月が経てば治るというものではない。あれは一生そのままなのだ。だから、俺たちが多少乱暴を働いたところで、なにも判りはしないし、恨みなんかするはずもないのさ」
「だが、俺たちより高位にある御方なのにはまちがいない。問題があったら、ただでは済まぬ。俺も、煽ったおまえも、この望楼の地下牢に閉じ込められている連中のように、首を刎ねられてしまうぞ」
「それこそたいした出世ではないか。恐れ多くも、魏の公子さまと一緒に首を刎ねられるのだからな」
「そんな強がりを言うやつにかぎって、その場になれば、大騒ぎをして命乞いをするに決まっている」
趙雲は、咄嗟に頭が働かなかった。
この兵卒たちは、何者なのか?
いま、捕らわれているのが、魏の公子だと言わなかったか。
孔明ではないのか。
魏の公子とは?
趙雲は、混乱したまま、すぐに階段を降り、地下牢へつづく階段へと向かって行った。
ちょうどそのとき、望楼の最上階にて、見張りをしていた兵卒が、法螺貝を吹き、つづけて叫んだ。
「ご一行が到着されたぞ! 劉公子のご到着!」
ばかな。
おもわず趙雲はつぶやき、あわてて周囲を探った。
さいわいにも、子供の騒ぎに加えて、あらたな一行が到着、というので、望楼のなかはざわついている。
趙雲の言葉は聞きとがめられることなく、そのまま、ばたばたと兵卒たちが動き出した。
ふと見れば、開け放たれた望楼の入り口から、武装していない、あきらかに料理人とわかる者たちが、駆け足で入ってくる。
兵卒が行く手を阻むと、料理人は頭をさげて応えた。
「ご一行のためのお酒が足りませぬ。どうやら、勝手に宴を開いていた連中が、用意していた酒をくすねて飲んでしまったようでして、こちらの蔵のものを使わせてくださいませ」
趙雲は、さりげないふうを装って、料理人に近づいていくと、声も高らかに、尋ねた。
「使わせてやってもよいが、そなたたち、せっかくの客をもてなす準備は出来ているのであろうな。ご一行のお好みは判っているだろうな。言ってみろ」
「それはもちろん。ただ、劉公子は頬を打ったとかで、お粥のほか、痛みを忘れるための熱い酒を御所望しておられます。李将軍につきましては、さきほど宴を開いてきたので、自分も公子同様、粥だけでよいと。あのお方は荊州の酒しか好まれませぬゆえ、これは、わたくしどもの貯蔵していたものをお出しします。李将軍のお供の方々は、酒なら、なんでもよいと」
「わかった。持っていくがいい。おい、おまえたち、手伝ってやれ」
趙雲の指図があまりに自然であったためか、兵卒たちは、なにも不審におもわず、料理人たちと共に、蔵を開けに向かった。
つづく……
(旧サイト・はさみの世界(現サイト・はさみのなかまのホームページ)初出・2005/09/18)
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