はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

風の終わる場所 24

2021年05月15日 09時49分58秒 | 風の終わる場所
趙雲は、閑散とした印象のある村を見回す。
廃墟というには真新しく、かといって、生活の痕はあるのに、人影がない。
兵卒が、要所要所に配置されている気配はある。
篝火が、夜に主張してところどころに置かれているが、村全体を照らすとまではいかない。
聞こえるのは、風のごうごうとしたうなり声と、偉度を中心に巻き起こる、拍手と、カンに触る笑い声だけである。

孔明を探すのは、わけはなかろうと、趙雲はおもっていた。
もし、自分がこの村の大将で、大物を捕らえたなら、どうするか。
普通であれば、単純な話である。
牢につなぎ、選りすぐった兵卒を幾人も集中して配置し、守らせるのだ。
つまり、人を多くつけて、守りを固めるのである。
が、趙雲は、あえて人の多いところは避けて闇を進んだ。

魏は、じつに多くの細作を蜀に潜入させている。
趙雲は、孔明の主騎という立場上、これまで、なんども曹操の差し向けた細作を捕らえ、あるいは斬ってきた。
魏が、文官の頂点である法正よりも、劉備の直属で雑用係の印象のある左将軍府事で軍師将軍、という、役職においては微妙に見える孔明のまわりに、多く細作を配しているのは、一見すれば奇妙ではあるが、妥当でもある。
孔明は、情報を扱うのに長けている。
情報は、ふしぎと仲間を呼び集める性質を持つから、情報を多く持つ人間のもとにこそ、さらに多くの情報が、そして、情報を持つ、雑多な人間が集ってくる。
おそらく、揚武将軍たる法正よりも、孔明のほうが、蜀の内情について、正しい状況を把握している。
法正の欠点は、おのれと相容れない者を厳しく拒むことである。
だから、たとえ有能であっても(容赦がない、ためらいがない、法正は非情な政治家である。だが、それがかえって、混乱した情勢のなかでは、有利に働いているのだ)人に対して狭いために、偏った情報しか集らず、その動きはどこかいびつである。
一方の、孔明は有能であるが、法正よりずっと人好きである。
態度は厳しいけれど、世を眺める目線はやさしい。
法正の原動力が、長年の不遇のなかで培われてきた恨みだとすると、孔明を動かしているのは、自分を生かしてくれた世界に対する感謝の念である。
誰かがやらねばならないという、悲愴な切迫感がないから、孔明の為すことはいつも自然に見える。
意志の中心にあるものが透明で清らかなので、ふしぎとだれをも惹きつける。
だから多くの情報を集めることが出来るのだ。
孔明が、若くして名と地位を為したのは、才能に拠るのではない、人格に拠るものなのだ。
結局、人間は、頭の良し悪しではなく、その人格によって、運命が決まるのである。
だが、政を運用するにあたり、蜀において、地盤のもたない孔明より、地元の法正のほうが、万事につけ都合がいい。
本来ならば、孔明を中心に据えたいところを、劉備が法正を頭にしているのは、老獪な判断があってこそなのである。
劉備もまた、ただの義人というわけではない。

おそらく、魏は、孔明という人間を、よく把握している。
孔明の最大の武器は、ありとあらゆる場において、もっとも効果的な言葉を選び、つむぐ、その舌である。
孔明の言葉は、人が多ければ多いほどに、その真価を発揮する。
そうして、いままでも、幾多の危機を乗り越えてきたのだ。
だから、魏は、孔明の周囲に、逆に人を配置させていないはずだ。
それにかれらは、敵地の中にいるのである。
孔明を捕らえているということがばれないように、わざとひと目につかないよう、兵を少なく配置しているのではないか。

低姿勢で、村の家から家の間を抜けるようにして、兵卒の動きを気にしながら行くと、風の音、そして虫の声に紛れて、甲高くも涼やかな、鈴の音が聞こえた。
趙雲は、兵卒の鎧の音か、あるいはその飾りが揺れているのではとおもったが、そうではない。
鈴である。
だれかが手遊びに鈴を風に揺らしているのであった。
足を止めて、慎重に周囲を見渡す。
もし兵卒のだれかが遊んでそんな音を立てているというのであれば、村に配置されている兵の士気は、相当に落ちているということだ。
もし趙雲がおのれの部隊の兵卒が任務中に遊んでいるのを見たとしたら、平手打ちどころではすませていない。

すべてが終わってしまっているのではないのか。
胸の奥から、不吉な声が何度も響くが、そのたびに趙雲は打ち消した。
そんなことはない。
そんなことが、あるはずがない。
兵卒たちが、これほどに弛みきっているのも、なにかほかに理由があるのだ。
きっとそうだ。
最悪の場合をかんがえるのは、あとにしよう。
いまは最善のことをするだけだ。
そのために、偉度も動いているのだから。

趙雲は、呼吸を整えると、ふたたび闇の中を進もうとしたが、また鈴の音が響いた。
同時に、小さな、ぱたぱたと地を駆ける足音がする。
足音が軽い。子供、あるいは女か?
女がいるのだろうか。
それとも、村の子どもか?
趙雲は慎重に物陰から、音のした方角を見た。
すると、子供が風に衣をはためかせ、篝火の下を走っている。
篝火のそばには、兵卒がいた。
眠っているのか、何度も舟を漕いでおり、子供には頓着しない。
子供は、舟の帆のように、風を受けてふくらむ袖の動きを楽しんでいる様子で、背格好のわりには、幼い笑い声をたてて走っている。
履物はなにも履いておらず、裸足であった。
それが動くたびに、腰帯につけた鈴が、ちりん、ちりんと音をたてて揺れているのだ。
子供は、しばらく風の力を楽しんだあと、足を止めて、なにかを見つけたのか、望楼をもつ大きな屋敷の門の前で足を止めた。
月明かりに浮かび上がる望楼は不気味に高く、おそらく外敵から村を守るために建てられたのであろう。
最上階の楼閣に、人影が浮かび上がっているのが見えた。

門衛はさすがに眠ってはおらず、子供が外から屋敷を覗き込もうとすると、あっちへいけ、と言いながら、手にした槍の、穂先とは反対側で、小突こうとする。
しかし、それを、反対側に立っていた仲間の門衛が制した。
「この御方には、無礼はするな」
その言葉を聞いて、趙雲は理解した。
あの子供が、劉括なのだ。
阿斗よりわずかばかり年長のはずなのに、あの幼児のような振舞いはなんだろう。
天真爛漫というのを通り抜けて、なにやら違和感をおぼえる。

子供は、門衛たちを交互に見て、それから、自らを通せんぼする槍を無邪気にくぐり、するりと中へと入ってしまう。
すると、門衛たちは、あわてて子供を追いかけて行った。
門の前はがら空きとなった。
趙雲は、すばやく屋敷の中に身を滑り込ませると、物陰に隠れて、様子を伺った。
門の外からは、塀に隠れて見えなかったが、あちこちに兵卒が隠されている。
中にいる兵卒たちは、村の広場でドンちゃん騒ぎをしている者たちとは反対に、面構えから鍛え抜かれた体の線など、すべてがちがっていた。
ここに孔明がいるのか。
そうではないにしても、ここには何者かがいるのはまちがいない。

趙雲は、前にも増して慎重に足音を殺し、特に兵卒の配置されている望楼へと進んだ。
趙雲より先に中に入った子供は、追いかけっこをして遊んでもらっているとでもおもっているのか、はしゃいだ声を立てながら、望楼へと進んでいく。
すばしこいのか、無体ができないと遠慮しているのか、兵卒たちは、子供を捕まえられないでいる。
子供は、声を立てながら、兵卒の腕を蝶のようにすり抜ける。
業を煮やしたのか、望楼の前の士卒長らしい、恰幅のよい男が叫んだ。
「おい、遊ぶのもいい加減にしろ! おまえたち、手伝ってやれ!」
士卒長の声に、望楼を守っている兵卒たちも、子供を捕まえるために持ち場を離れた。
趙雲は、この隙を逃さず、開け放たれた望楼の中へと侵入する。
そして、目の前で、ちょうど背中を向けている形になっている士卒長を、背後より羽交い絞めにし、声も立てられぬうちに気絶をさせてしまうと、物陰に身体を引きずり込んだ。
表で子供が兵卒たちを引っ掻き回しているあいだ、趙雲は、士卒長の鎧に身を纏い、兜で顔を隠すと、今度は堂々と望楼の中を進んだ。
上か、それとも下か。
あまりうろうろしていては怪しまれる。
何気ないふりをして階段を上がっていくと、ちょうど前方より、さきほど月に影だけを浮かばせていた兵卒らが、子供に振り回されている仲間の姿を笑っている。
「おいおい、野兎より大きなものを捕まえることもできないのか。回り込め!」
そういって囃し立てる兵卒を、同じく楼閣に立っている仲間が聞きとがめる。
「あまり煽るな。子供とはいえ、主公の御子なのだぞ。やがては、この地を治めることになるかもしれない。いま、俺たちが粗相をして、あとあと恨まれたりしたら面倒ではないか」
「ふん、どう面倒だというのだ。あの子供は、一晩眠ってしまえば、なにも覚えてはおらぬ。恐らく、何故自分がここにいるのかも知らないはずだぞ。
俺は知っている。故郷にも、ああいう知恵の遅れた者がいたのだ。年月が経てば治るというものではない。あれは一生そのままなのだ。だから、俺たちが多少乱暴を働いたところで、なにも判りはしないし、恨みなんかするはずもないのさ」
「だが、俺たちより高位にある御方なのにはまちがいない。問題があったら、ただでは済まぬ。俺も、煽ったおまえも、この望楼の地下牢に閉じ込められている連中のように、首を刎ねられてしまうぞ」
「それこそたいした出世ではないか。恐れ多くも、魏の公子さまと一緒に首を刎ねられるのだからな」
「そんな強がりを言うやつにかぎって、その場になれば、大騒ぎをして命乞いをするに決まっている」

趙雲は、咄嗟に頭が働かなかった。
この兵卒たちは、何者なのか? 
いま、捕らわれているのが、魏の公子だと言わなかったか。
孔明ではないのか。
魏の公子とは?

趙雲は、混乱したまま、すぐに階段を降り、地下牢へつづく階段へと向かって行った。
ちょうどそのとき、望楼の最上階にて、見張りをしていた兵卒が、法螺貝を吹き、つづけて叫んだ。
「ご一行が到着されたぞ! 劉公子のご到着!」

ばかな。

おもわず趙雲はつぶやき、あわてて周囲を探った。
さいわいにも、子供の騒ぎに加えて、あらたな一行が到着、というので、望楼のなかはざわついている。
趙雲の言葉は聞きとがめられることなく、そのまま、ばたばたと兵卒たちが動き出した。
ふと見れば、開け放たれた望楼の入り口から、武装していない、あきらかに料理人とわかる者たちが、駆け足で入ってくる。
兵卒が行く手を阻むと、料理人は頭をさげて応えた。
「ご一行のためのお酒が足りませぬ。どうやら、勝手に宴を開いていた連中が、用意していた酒をくすねて飲んでしまったようでして、こちらの蔵のものを使わせてくださいませ」
趙雲は、さりげないふうを装って、料理人に近づいていくと、声も高らかに、尋ねた。
「使わせてやってもよいが、そなたたち、せっかくの客をもてなす準備は出来ているのであろうな。ご一行のお好みは判っているだろうな。言ってみろ」
「それはもちろん。ただ、劉公子は頬を打ったとかで、お粥のほか、痛みを忘れるための熱い酒を御所望しておられます。李将軍につきましては、さきほど宴を開いてきたので、自分も公子同様、粥だけでよいと。あのお方は荊州の酒しか好まれませぬゆえ、これは、わたくしどもの貯蔵していたものをお出しします。李将軍のお供の方々は、酒なら、なんでもよいと」
「わかった。持っていくがいい。おい、おまえたち、手伝ってやれ」
趙雲の指図があまりに自然であったためか、兵卒たちは、なにも不審におもわず、料理人たちと共に、蔵を開けに向かった。

つづく……

(旧サイト・はさみの世界(現サイト・はさみのなかまのホームページ)初出・2005/09/18)
本日より、土曜日と日曜日の更新に変更です。
サイト・はさみのなかまのホームページも更新しています。
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風の終わる場所 23

2021年05月09日 09時48分51秒 | 風の終わる場所


日が落ちた村では、あちこちに焚き火がたかれている。
どこかで宴を開いているのか、鼓の音さえ聞こえてきた。
孔明を逃がしたものの、本命である曹丕を捕らえたということで、気が緩んでいるらしい。
風がびゅうと吹き、孔明の後れ毛をなぶった。
それを手で押さえながら、息を殺して、村の出入り口を見つめる呉の細作たちに並ぶ。
おそらく、こちらを探しているだろう村の者たちを避けるようにして、孔明と芝蘭たちは、陽が落ちてから、様子を伺いに、表にあらわれた。

西の空に完全に隠れた太陽を見て、曹丕のおも惑どおりであったなら、首を打たれていたか、あるいは投降を願い出ていたかもしれない。
孔明は、無意識に、おのれの首筋をなぞった。
運命とは、皮肉なものである。
あの若い公子も囚われの身のなかで、同じようにかんがえているだろうか。

孔明の隣には、それを守ろうとしているのか、芝蘭の姿があり、さらに銀の毛並みを月光に輝かせる山犬たちが控えていた。
芝蘭は、孔明に安全な場所で待っていてほしいと言ったが、そこで大人しくしている孔明ではない。
相手がだれであれ、よそ者が、ほかならぬ蜀で暴れているのである。
これを傍観することは、責任感のつよい孔明には、できない相談であった。
それに、孔明としては、目の前にいる子供たちが、だれも欠けることなく呉へ帰国してくれることを望んでいた。
いまさら、かれらを救うにしては遅すぎる。
かれらは、呉でかれらなりの暮らしと目的を持って動いているのであり、もはや、子供たちなどと呼んで、感傷の対象にする必要もない、ひとり立ちした存在なのだ。
それでも、孔明はかれらの先行きが明るくなることを願った。

「風が出てまいりましたわね」
と、芝蘭がつぶやいたが、別段、孔明と会話をもちたいわけではなく、なんとなく、そう口にしただけのようであった。
やさしげな美しい顔立ちをしているのに、顔の半分の、みにくく焼け爛れた肌が痛々しい。
孔明の目線に気づいたか、芝蘭は言った。
「ご同情は無用でございます。わたくしは、これでもこの顔を気に入っているのです。醜い顔だと忌み嫌う者もおりましょうが、それがなんだというのでしょう。おかげで、わたしは『女』として扱われることなく、今日まで純粋に細作としてだけ、生きてこられたのですから」
「聞いてよいだろうか。その傷は、どこで負ったのだ?」
「お答えしなくてはなりませぬか」
芝蘭の言葉は穏やかであったけれど、はっきりと孔明のそれ以上の追及を拒む色があったので、孔明は沈黙した。
不必要に相手の領域に踏み込む愚かさは、これまでにさまざまに学んでいる。
沈黙した孔明に、芝蘭は、どこか悲しそうな笑みを浮かべた。
「おやさしいのですね。あなたは甘いと、だれかが評しておりました。あなたと共に劉玄徳に仕えている者たちは、とても細作とはおもえないほどに厚遇されている、諸葛孔明は、筋はきっちりと通すので、一見するときびしいが、身内にはとことん甘いと。
うらやむ者もおりましたが、わたくしは、かえってそれでは、細作が細作ではなくなってしまう、むしろ哀れなのではないかとおもっておりました」
「哀れか。もともと、細作という存在からして、哀れではないか」
「でも、わたくしたちがいなければ、世は動かない。天下に名を轟かせることに満足をおぼえる方もいれば、わたくしのように、細作として生を全うすることに喜びをおぼえる者もいるのです。あなたは、優しさでもって、その喜びを摘んでしまわれる方かと」

孔明の脳裏には、自然と偉度の姿があった。
主簿として手元に置きながら、一方で細作の束ねをつとめさせ、また一方では、息子のように接している。
決意してそう扱ってきたわけではなく、ごく自然にいまの形ができあがった。
偉度も、いまの関係を喜んでいるものだとおもい、いままで疑問にすらしなかった。

「そなたは、細作として、一生を日陰の身として過ごしてもよいというのかね」
「あなたは男ですから、女であるわたくしの苦しみは理解できますまい。如何な能力があろうと、女は男の道具に過ぎませぬ。表舞台に上がれる女は、その美貌でもって、男に仕えた者たちばかり。やんごとなき方々でさえ、生き方がままならないのです。身分の卑しいわたくしなど、なおのこと。
陽の当たる場所で、窮屈に縛られて生きるよりも、わたくしは、たとえ日陰の身でも、自由に生きていたい。だれかの従属物として過ごしたくないのです。きっとご理解いただけないとはおもいますけれど」
「いや、判る」
孔明が、ためらうことなくきっぱり言うと、芝蘭は、今度は明るく笑った。
「わたくしなぞに、気遣い無用ですわ」
「気遣っているわけではない。どういうわけか、わたしの周囲には、そなたのようなかんがえの女人が多くてね。ほかの男たちよりは、ずっと理解のあるほうだとおもうが」
「この顔だから、負け惜しみを言っているのだ、とはおもいませんの?」
「ひがみで発したかんがえには取れないな。しかし、心配ではある」
「なにがです」
芝蘭が怪訝そうに首をかしげると、傍らの山犬も、主の様子に、大きな首を持ち上げた。
「そなたのことを理解できる人間が、呉に存在するかどうかだ。辛いおもいをしているのではないだろうね」
芝蘭は、呆れたように孔明をまじまじと見た。
「貴方様は、だれにでもそのように仰いますの? 魯粛さまが、むかし貴方様を、とんでもない人たらしだと仰っておりましたけれど、ほんとうですのね」
「人たらしか。それは誉め言葉だな。それはともかく、もしも辛いおもいをしているのであれば、いつでも蜀に来るがいい。偉度も喜ぶであろうし」
「わたくしたちは、決して呉にのみ忠誠を尽くす、というわけではありません。仕え甲斐のある主のもとにならば、喜んで参りますわ。でも、いまは、わたくしは呉の女としてここにいるのです。細作に、裏切りをほのめかすような言葉をかけるのは、よくないことです。裏切りは、すなわち死を意味しますもの。貴方様でなければ、首を刎ねておりますよ」

芝蘭の言葉は、脅しではなく、ほんとうに孔明のことを案じてのことのようだった。
細作としての生き甲斐を語ってはいるが、この少女の本質と、細作というものの本質は、あまりかみ合っていないようだ。

「戯れはそろそろよしましょう。わたしたちには、やらなくてはならない仕事があるのですもの。おかしなことですわね。蜀の貴方様と、呉に雇われているわたくしたちとが組んで、捕らわれの魏の公子を助けようとする」
「蜀には、いま魏とまともにぶつかって、耐えうるだけの戦力は無い。それは呉と連合しても同じことだろう。赤壁の成功は、周瑜という立役者がいたから為しえたことであって、わたしは残念ながら、かのお方の代わりにはなれない。
魏の動きを牽制することが必要だ。一年でも、半年でもいい。時間を稼ぐ。そのためには、次の曹操の後継者である公子に、たっぷりと恩を売っておくのが上策なのだよ」
それは孔明にとっては、得がたい貯金になあるであろうし、芝蘭たちにも、大きな益をもたらすだろう。
「貴方様は、おやさしいのか、冷酷なのか、よくわかりませんわね」
「優しくはないだろうね。わたしという人間は、とことんまで暗愚で臆病だから、万全な体制を敷いてからでないと、身動きが取れないのさ。芝蘭、村に潜入できそうな者の選抜は済んでいるかい」
「村には、わたくしと、身の軽い者たちとで参ります。わたくしたちが火をかけたら、貴方様は、残りの仲間たちを指揮して、村を襲ってください。賊が襲撃に気を取られているあいだに、わたくしたちが公子を助け出します」
「村の賊は手薄。助け出した公子とその手勢と合流し、村の賊を殲滅するのだ。いい塩梅に、賊たちは、ことを成し遂げたとおもっているのか、ずいぶん気が緩んでいるようだな。天恵かもしれぬ」
「呆れたことです。もうこんなに気を弛ませて、宴でも開いているのかしら?」





芝蘭のつぶやきは風に紛れて村に届くはずもない。
当の、その村では、異様な事態が起こっていた。
夕闇を避けるようにして、宿をもとめてきた、たった一人の芸妓のために、名うての精鋭であったはずの細作たちが、すっかり酩酊し、その舞に手を打って喝采を送っているのであった。
芸妓の舞は、村の中にいた、腕におぼえのある者たちの拍手と、芸妓と一緒にやってきた男の鼓でもって進行する。
律儀に、一定期間をおいて、ぽんと打たれる鼓と、自由奔放に舞い踊る芸妓の動きは、まるでかみ合っていない。
それでいて、宴に集ってきた者たちは、なにがおもしろいのやら、妖艶な舞を見ては、大声で笑ったり、きわどい冗談を飛ばしたりと、正気でも失ったかのような様子である。

いや、事実、正気を失いつつあったのだ。

趙雲は、夜闇に助けられているとはいえ、偉度が男とばれない、という事実にも呆れたが、偉度が、兵卒たちが喜びそうな淫らな舞を見事にこなしていることにも驚いた。
その前身をおもえば、その成功ぶりには心が痛んだし、なるべくならば、こんな見世物まがいの真似をさせたくなかったが、偉度もまた、孔明を助けるために、必死なのであった。
そして、偉度は単に男たちの気を惹きつけていたのではない。
巧みに男たちに近づいては、そうと悟られぬように、素早く杯に、袖に隠した薬を盛っていた。
万が一のために用意していたものなのであろう。
どのような類いのものかはわからない。
だが、見るからに、ただの兵卒とはちがい、見事に鍛え抜かれた体つきをしたかれらが、無残に骨抜きにされているところからして、一種の阿片のようなものであるらしい。

それにしても、芸妓をあっさりと村に招きいれた様子や、何の疑いもなく、その舞に見とれている様子からして、かれらが気を弛ませている、つまりは、ことが成就したことを暗に示唆しているような気がして、趙雲は気が気ではない。
村の中に通されたとき、神経を研ぎ澄ませて、どこぞに孔明の無残な姿が掲げられていないだろうかと探ったが、村のどこにも血なまぐさい気配はなかった。

村は、山間の盆地を利用して作られており、小さな山を頭頂部だけすっぱりと切り取ったような地形のうえに、集落がある、というふうだ。
そのため、村に入るためには、かならず、村の望楼から見えるところにある入り口を通らねばならない。
山賊も、この村を襲いきれなかったことが、村の整然とした様子から伺える。
このような天然の要塞に守られているような村でさえ、山賊の脅威におびえ、その村人たちは、慣れ親しんだ土地を、一時的にとはいえ離れなければならなかった。
となれば、ほかの広漢の村の恐怖や被害は、もっとひどいにちがいない。

李巌め、あれは目先の功に捕らわれて、将たるもの、士大夫たるものの存在意義を忘れているとしかおもえぬ。

苦い気持ちで鼓を打っていた趙雲は席を立った。
薬の所為か、もはや呂律の回らなくなりつつある兵卒たちは、趙雲が席を外しても、それに気づかない様子であった。
篝火の焚かれた広場に、車座となって集っている兵卒たちのうち、偉度が薬を盛ったのは、手前の兵卒たちのみ。
見張りで集ってきていない者たちを省いたとして、人数は百にも満たない。
集団心理で、薬を盛られて正体を失っている兵卒たちに引きずられ、ほかの薬を盛られていない兵卒たちも、空気に釣られて悪酔いをしている様子だ。
そのあたりのさじ加減が、偉度は巧みであり、今日にまで至る、その苦労が忍ばれて、やはり胸が塞ぐ。

これは、もっと陽の当たる場所で、堂々と手柄を立ててよい男だ。
その気になれば、一軍の将として、立派に勤め上げられるものを。

そんな感慨にとらわれた趙雲に、偉度が、目で合図を送ってくる。
趙雲がいなくなっても、だれも気づかない、と判断したのだ。
趙雲自身は目立つ男であるが、その気になれば、空気のように振舞い、敵地のど真ん中でも自然に振る舞うことができる術を心得ていた。
鼓をそっと地に置き、いつでも動けるように体勢を作った状態で、だれもこちらに気づかないか、慎重に目を配る。
すると、よほど偉度の盛り上げ方が巧みなのか、趙雲が鼓を置いたのを見つけた物が、まるでひったくるようにして鼓を取り、やれ歌え、やれ踊れと、調子外れに鼓を打ち始めた。
男が仲間の注目を集めてくれたおかげで、趙雲はだれに気づかれることもなく、そっと輪からはずれ、孔明が監禁されている場所を探しはじめた。

つづく……

(旧サイト「はさみの世界」(現サイト・はさみのなかまのホームページ) 初出 2005/09/18)
アクセスしてくださったみなさま、ランキングに協力してくださっているみなさま、いいねをしてくださったみなさま、
ありがとうございました! これからもがんばります!

風の終わる場所 22

2021年05月08日 10時03分13秒 | 風の終わる場所
すでに陽は落ち、昼なお暗い山間の道は、ますます闇を濃くしはじめる。
文偉は、前方にいる馬光年たちを見失わないように、必死であった。
あちらこちらに聞こえる百舌の鳴き声は、今日ばかりは気味悪く聞こえる。
馬光年たちには慣れている道かもしれないが、文偉にとっては、まだ二度目の、なれぬ道である。
芝蘭に示唆されて、村から逃げ出したときは、どうやって広漢を出たかすら覚えていない。
二度と行くものか、とおもっていた道であったが、孔明のこと、偉度のこと、趙雲のこと、そして命を救ってくれた少女・芝蘭のことをおもえば、恐怖など微塵もなかった。

文偉は、たしかに呑気なお坊ちゃまかもしれない。
だが、こうと決めたら、頑として譲らぬ芯の強さと、肝の太さを持っていた。
偉度や趙雲に、孔明のことを教えなくてはいけないという友情の心と、芝蘭に会って事実を伝えねばという、義務感と思慕の入り混じった心が複雑に溶け合って、文偉の恐怖を、内側から駆逐している。
孔明は森の中に逃げ、芝蘭に助けられたという。
そのことが、文偉に勇気を与えてもいた。
つまり呉は、敵ではない。

李巌たちの話していた、偉度の前身についての話、あれはほんとうだろうか。
でも、ほんとうだとして、だからなんだという? 
屋敷にまで押しかけてきた、魏の細作を追い返してくれたのは偉度であるし、もしかして、先刻、義兄弟になろう、という話をあっさり蹴ってきたのも、義兄弟だからという理由で、村についてきて欲しくなかったからではないのか。 
ほんとうは情に厚いくせして、ひねくれ者の偉度ならば、十分にかんがえうる。
趙雲と偉度は、全体をほぼ把握していたのだ。
だから、劉備の子のことも、劉備の子がいまの帝の後を継ぐ、という美味すぎる話も知っていた。
劉備の子の母親を、孔明が処刑させていたことも知っていた。
だから、あれほど、二人して我武者羅に、ほとんど休むこともなしに馬を走らせてきたのだ。
孔明は生きている。
そのことを伝えなければ、あの怖いもの知らずの二人のことである。
かえって、それが仇となり、村に潜入し、孔明を探し回るだろう。
つまりは、それだけ命の危険が増す、というわけだ。
いま、村は、李巌と劉封らの手の内にあるのだ。
孔明すら消そうとしていた者たちが、趙雲と偉度の両名を消すことに、ためらいを見せるはずがない。

懸命に馬を走らせていた文偉であるが、ふと背中に、伝わり落ちる汗とも違う、奇妙な痒さをおぼえた。
それは同時に、胸の奥底からぶるりと怖気をふるわせるような、こらえ難い嫌悪感も、一緒につれてきた。
もぞもぞ、もぞもぞと、背中をなにか動きまわっているものがある。
鳥ではなかろう。
羽音がしない。
同じ理由で、羽虫でもない。

自分は、さっきどこにいた?

なにかが背中をちくりと刺した。おそらく、たくさんある足のひとつが、着物を突き通して、皮膚にかぎ爪を引っ掛けたのだろう。
それを想像しただけで、もう文偉はダメであった。
吐き気さえおぼえるほどの悪寒に、身を震わせる。
手で振り払うことができなかったので、馬の鞭をぶん、と背中の上で振り上げてみる。
すると、うまい具合に、背中にくっついていた、手のひらほどもある大きな蜘蛛は、これ幸いとばかりに馬の鞭に糸を引っ掛けて、ふわりと優雅に宙を舞った。
文偉は、なるべく実物を見ないように気をつけながら、馬の鞭をぶんぶんと振って蜘蛛の糸を風に千切らせた。
馬の鞭から、蜘蛛が離れていくと、文偉は、大きく息をついた。
なにやら、ここで、一つ、大仕事をしてしまったような気分である。

ああ、怖かった。

ひと息つき、仕切りなおしと顔を前方に向けると、ついさっきまで、たしかにいた、馬光年たちの姿が見当たらない。
見失ったかとひやりとしたが、文偉は落ち着いてかんがえ直した。
村への道は、一本道だ。
やつらは、村へ向かったのだ。
暗くなってきたのだし、見えないだけにちがいない。
きっとそうだ。

そして、馬の足を進めると、揶揄するような声が聞こえてきた。

「費家の若旦那は、どうも我らがお好きのようだ」

はっとして顔を上げると、巨大な蜘蛛の巣のようなものが、月に照らされた林の間から降ってきた。
馬がたたらを踏む。
文偉は落ち着かせようと、咄嗟に手綱を引締めるが、かえって身動きができなくなった。
そして降ってきた網によって、馬ごと絡め取られてしまった。
これに驚いた馬が、さらに暴れたために、文偉は、身動きもままならないまま、地面にもんどり打つ。
なんとか首の骨を折るような惨事はまぬがれたものの、左肩をしたたかに打ってしまった。
痛みに呻いていると、地面を通して、振動と共に複数の足音が近づいてくるのがわかった。
文偉は舌打ちをした。
尾行がばれていたのだ。
かんがえてみれば、一本道である。
都合よく出来上がった物語では、主人公は、あきれるほど間抜けな行動を取って、物語を読むもの、あるいは聞くものをはらはらさせたりあきれさせたりするものだが、文偉は、今後、そのなかの誰をも笑わないと誓った。

「一度は逃げられたものを、わざわざ殺されにもどってくるとは」
文偉が、網から逃げようともがきながら見上げれば、そこには、終風村にて村長と名乗っていた、馬光年の姿があった。
いまはその本性をあらわし、抜き身の刃を素肌に突き立てたような冷たい笑みを顔に浮かばせている。

殺されるだろうか。

冷たい汗をかき、文偉は馬光年を見上げる。
馬光年には、死線を何度もかいくぐってきた者特有の、人を人ともおもわぬ冷酷さが見える。
この男は、地位もない、没落寸前の豪族の子弟を殺すのに、なんのためらいも見せないだろう。

なにか、なにかを言わなくては。
この男の気を逸らすことができるようなことを。

「これで勝ったとおもうなよ!」
まるで、餓鬼の喧嘩の捨て台詞ではないか。
我ながら、幼稚な言葉の選択に、がっかりしつつ、文偉が叫ぶと、意外にも、馬光年の眉がぴくりと動いた。
それに力を得て、文偉はつづける。
「わたしは捕らわれたが、軍師がきっと助けてくださる!」
すると、馬光年は、愁眉を開いて、文偉を鼻で笑った。
「あきれたことよ。諸葛亮は、この森に迷い込み、いまごろ狼の餌ぞ」
「わたしを騙すつもりか? 軍師は、呉の細作たちに救われ、いま行動を共にしておられる。軍師は、きっとかならず、おまえたちを倒しにやってくると」
文偉は、ここで、ごくりとつばを飲み込み、声が震えないように気をつけながら、はっきりと言った。
「おまえたちをかならず倒すと、おっしゃっていた!」
「なんだと?」
馬光年の表情が、ふたたび曇る。
かたわらの男たちも同様で、何事かひそひそとやっている者もいる。
一か八かの賭けであったが、どうやら勝利したらしい。
「貴様、諸葛亮と会ったのか?」
「そうだとも。軍師はお怪我をされることもなく、このような目に遭わせた者たちを、決して許さぬと、息を巻いておられたぞ!」
が、馬光年は、文偉の言葉に、あたりの林を震わせるほど、大きな声で笑った。
「許さぬ、とな? では、どのように許さぬというのか、やってみるがいい! 脆弱な文官ごときに、なにができるという!」
「呉の細作たちも一緒だぞ!」
「一緒だから、なんだというのだ? どうやら知らぬようだから教えてやろう。おまえがまるで切り札のように言う、呉の細作とやらは、孫権に仕える主力の細作集団ではない。いわば、主力から雇われた、末端組織なのだ。
どこの馬の骨とも知れぬ得体の知れない輩だぞ。孫権より報酬を得られねば、干上がってしまう卑しき身の者たちが、孔明と組んで、なんの益があると? 助けたとはいえ、それも一時のこと。やがて身を翻し、その首を持って、孫権のもとにもどっていくだけに決まっておるわ」
文偉は、さすがに顔色を変えたが、すぐさま、馬光年の言葉に流されそうになる自分を叱った。

芝蘭は、下っ端の刀筆吏たる、自分でさえ助けてくれた。
たとえ、それぞれにおも惑があったとしても、あの娘がいるかぎり、軍師もきっと無事だ。
屋敷を襲ってきた連中でさえも撃退してくれたのだし、なにより、偉度と含むところがあるようだった。
偉度は軍師に絶対的な忠誠を捧げている。
芝蘭たちが偉度を裏切るだろうか。
反覆常なき世とはいえ、かれ女たちには、細作とはいえ、なにか違う空気を感じる。

それに文偉は、馬光年が芝蘭を貶めたのが許せなかった。
大胆に、馬光年を鼻で笑ってみせる。
「その卑しき身に、おまえたちは、わたしの屋敷にて、ことごとく打ち倒されたではないか!」
言うと、とたんに馬光年は顔をこわばらせ、文偉の腹めがけて、蹴りを打ち込んできた。
一瞬、息が詰まる。
まるで芋虫のように地面に転がされ、文偉は咳き込み、呻いた。
「口の減らぬ若造よ。さっさと口を塞いでくれよう。その達者な舌は、鬼卒相手に使うがいい!」
しゃり、と鞘から剣を抜く音が聞こえて、文偉は痛みに呻きながらも、なんとか息を整えた。
こうなれば、もはや体裁など構っておられない。
「軍師ばかりではない! わたしには、趙将軍がついておられる! 軍師と趙将軍は、今頃おまえの村に行き、おまえたちの薄汚い計画を潰しにかかっているところだ!」
「趙将軍…趙子龍か?」
さすがにその名が出ると、馬光年の顔が曇り、文偉に突き立てられるはずの刃も、方向を迷い始める。
「諸葛亮と趙子龍が合流したと…しかし、行軍の報告など受けておらぬ!」
馬光年はするどくほかの男たちをにらみつけるが、男たちは、そんな話は知らない、というふうに首を振ってみせる。
馬光年は、忌々しそうに舌を打ち、文偉に刃を向けた。
「若造、俺を愚弄する気か」
「おまえなぞ、馬鹿馬鹿しくて愚弄する気にもなれぬ! 曹操百万の軍のなかを、単騎で駆けた当代随一の武勇の士が、たかが貴様ら相手に、軍を率いてくるわけがなかろう!」
「趙雲は一人か。なれば、死ね」

しまった、一言多かった。

後悔しつつ、振り下ろされる刃を怖じて、ぎゅっと目をつぶると、馬光年を制するように、控えていた男たちのうちの一人が、口を挟んできた。
「お待ちくださいませ。趙子龍が相手というのであれば、油断はなりませぬ」
ぴたりと、馬光年の刃が、文偉の鼻先ぎりぎりで止まる。
「趙雲という男、将としての才も持っておりますが、ほかの武人と違い、隠密行動に長けております。この小僧の言うとおり、百万のなかを単騎で駆けることができたのも、ひとえに、知恵がまわる大胆不敵な男であればこそ。軍を率いては、かえって目立ち、動きが取れなくなると踏んでの、単騎行かもしれませぬ」
「すると、この若造が、命惜しさにでたらめを喚いているわけではないと」
「趙雲は諸葛亮の信も厚く、その主騎として、これまで表には出ぬ働きを何度もしているとか。ゆえに、位は低いものの、劉備も諸葛亮も、趙雲は特別に扱っており、周囲もそれを認めておるのです。
もうすでに日が暮れ、あたりは闇。もし趙雲が、夜陰に乗じて村に潜入しておれば、たしかに面倒なことになりますぞ」
「うむ…」
馬光年も、配下のことばにうなずくことがあったらしく、剣をとりあえず引くと、網にからまった鮎のようになっている文偉を見下ろした。
「口だけの若造なんぞ、いつでも殺せるか。それよりも、有事の際の趙雲への人質にしたほうが、よほど役に立つ」
そう言って、馬光年は、剣を鞘に収める。
文偉としては、喜ぶべきか、それとも哀しむべきかわからない。
とりあえず、命だけは助かった。
馬光年の部下たちが近づいてきて、網に絡まっている文偉は、網ごと乱暴に引きずられる。
馬光年たちは、地面にこすれて痛みを訴える文偉を笑いながら、馬に乗せると、落ちないように鐙に括りつけ、ふたたび村へ走り出した。
馬から落ちる恐怖に耐えながら、文偉は、とりあえず思惑通りに、村に向かうことに成功した。

つづく……

(旧サイト「はさみの世界」(現・はさみのなかまのホームページ) 初出 2005/09/18)

風の終わる場所 21

2021年05月02日 10時00分46秒 | 風の終わる場所


李巌は、劉封が来るのをあらかじめ知っていたようである。
文偉は、宴の支度に忙しい兵卒たちや賄い役にまぎれるようにして、あるときは堂々と、あるときはこっそりと陣の奥深くに入り込んだ。
李巌が宴を用意したのは、高床式になっている長細い物置のような木の館であったが、それでも劉封一行と李巌、費観双方の部将たちを、すべて招きいれるに、十分な広さがあった。
文偉は、次第にあたりが暗くなってきたのをよいことに、どやどやと館に入っていく将兵の足音を聞きながら、そっと軒下に入り込んだ。
ところどころの床板と床板のあいだから、光が差し込んでいる。
まるで大地に厚い雲から、陽が差し込んでいるのにも似ていた。
暗くなってきて幸いであったと、あちこち土で汚れながら、文偉は身をかがめておもった。
たまにくもの巣にひっかかり、顔がくすぐったくなる。
文偉は蜘蛛が苦手であった。
もしこれで陽光が高く昇っている頃であったら、嫌いであるがゆえに、いちいち蜘蛛の姿をみつけては、悲鳴をおさえるのに苦労していたことだろう。

緊張している文偉でさえ食欲がそそられる、よい香りがながれてくる。
特に隙間の大きな床板の境目からそっと覗くと、ちょうど、李巌に案内される形で、劉封がはいってきたところであった。
陣には山中にしては、なかなか豪勢な宴の用意ができており、腫れた頬をかばっている劉封には、それが皮肉に映ったらしく、あからさまに顔をゆがめてみせる。

劉封という青年の人となりを、文偉はよく知らない。
文偉は宮城に仕える書士の身であったが、孔明に目をかけてもらっている、というのもあり、よく左将軍府に顔を出す。
宮城はもとより、左将軍府でも、劉封のことを話題にするのは、なんとなく控えているような空気があった。
であるから、劉封が左将軍府に顔出すことはなかったし、孔明や趙雲たちをはじめとする、左将軍府を中心としたひとびとが、劉封と付き合うこともなかった。
はじめて間近でみる劉封は、文偉よりいくらか年上であった。
孔明や董和、そして趙雲の颯爽とした姿に見慣れてしまっている目には、見るからに器の小さい、偏屈な青年に見える。
李巌は、劉封のふくれた顔(頬だけではなく)に、苦笑いを浮かべつつも、あまたの女たちを熱狂させる、さわやかな笑みを見せる。
李厳は、容姿の点からしても、柔和な孔明とは対照的であった。
「こうしている場合ではないぞ。いまごろ、趙子龍と、あの細作くずれめ、村にたどり着いておるやもしれぬ。我らはここにいてよいのか」
と、劉封はちらりと西に熔けていく日輪を見て、声をひそませる。
「そろそろ、軍師の処刑が行われている頃合であろう」
床板の下にひそむ文偉には、劉封の語ることばのひとつひとつが、大きな石のように、自分にぶつかってくるように感じられた。

細作くずれ? 偉度のことか? 
そして、軍師の処刑とは?

混乱する文偉をよそに、なにも口にすることが出来ないでいる劉封のとなりで、美酒をかたむけつつ、李巌は誇らしく笑った。
劉封は、不機嫌に顔をしかめる。
「なにを笑っている」
「軍師の処刑は、取りやめとなったのだ」
「なんだと?」
それを聞いたとたん、劉封は立ち上がりかけたが、李巌はとなりで、ぐっとその腕を掴み、無理に座らせる。
「おもいもかけないことになったのは、こちらも同様でな、軍師には、ご立派な最期を遂げていただく予定だったのだよ、この、美しい日輪の見える場所で」
妙に詩人きどりで、李巌は目をほそめて、館から見える、黒い影ばかりとなった木立のあいだに消えていく太陽と、うつくしい暮れの空を愛でた。
「風もここで旅を終えるほど山間の村、だから終風村という。村の名を最初に唱えた男も、なかなか雅やかな心を持っていたとはおもわぬか」
「ええい、それがなんだと?」
「まあまあ、とはいえ、事態はまだ、われらのおもうように動いておるのだ。軍師の処刑がならなかったのは、逃げてしまわれたからなのだよ、かの御仁は」
「逃げた? 李将軍、先刻より、俺を愚弄しているのか?」
「愚弄など、とんでもない。やはり、天下のために自害しろなどと言われて、すんなりわかりました、などという男ではなかったよ、諸葛亮は。それに、運も尽きておらぬ。
よいかね、公子、運が尽きていない人間には、なにを仕掛けようと、かならずこちらが負ける。そのように、ふしぎと世の中は成り立っておるのだ。軍師の運が費えぬかぎり、それを無理にどうこうしようと、意味のないことだ。
そういうわけで、軍師には生き残っていただく。おそらく、今頃は、この森をひとりで彷徨っているのではないかな…どうだ馬光年」
その名に、文偉はびくりと身をすくませた。
終風村の村長と名乗っていた…魏の細作であったという男ではないか。
魏と、李巌と、劉封と、この三者が、繋がっている?

文偉は、次第に早くなる鼓動をおぼえつつ、従兄の姿を探した。
駄目だ、こんなところにいては、叛逆者の仲間とみなされる。
従兄殿を軍師はけっして許すまい。
偉度が細作くずれだと言った、劉封の言葉も気になったが…しかし、そうだとすると、芝蘭と偉度が文偉の館で交わした会話の意味、そして芝蘭が偉度を『兄上』と呼んだことの意味が、なんとなくわかってくる…いまは、ともかく馬光年が、なぜここにいるのか、ということだ。

「おっしゃるとおりで。途中に狼に食われてしまわねばよいのですが」
馬光年は畏まりつつ、劉封の前にあらわれる。
劉封は、顎でしゃくるような仕草で、馬光年に尋ねた。
「で、首尾はどうなのだ」
「上々…とまでは行きませぬが、それなりかと」
「ふん、しばし軍師のことは置くとして、魏王の息子はどうだ」
「首尾よく捕らえましてございます。陳長文も問題なく」
「殺したのではないのか」
あからさまな問いに、馬光年は首を振りつつ、苦笑いを浮かべて答えた。
「いいえ、生かしてございます。魏王の嫡子と、陳長文の処遇は、われらの決めることではありませぬゆえ、村に捕らえてございます。あとで、どうぞご見聞くださいませ」
見聞、と聞いて、そうなったときの想像をしたのか、劉封は、愉快そうに身体を揺らした。
「諸葛孔明に逃げられたのは、曹操の嫡子が、欲をかいたからでございます。かれらは、諸葛孔明に『魏王が劉括さまを次期帝位につけてよいとおっしゃっている、そのためには、劉括の母の仇である、おまえの存在がじゃまになる。夕刻までに自害するか、あるいは処刑されるのを待つか、どちらかにせよ』と迫っておきながら、孔明を精神的に追いつめ、ぎりぎりで助けてやり、恩を着せ、軍門に降らせるつもりであったのです。
そも、曹操が、嫡子が蜀に少数で乗り込むことに賛成したのは、かならず諸葛孔明を降す、ということであったそうですから」
「魏王が軍師を? それもよいかもしれぬな。あの驕慢な男が、魏王の気に入るはずがない。おそらくその手に渡したほうが、早くに死に近づけさせられたかもしれぬな」
劉封が、つまらなさそうに言うのを、馬光年はついで言う。
「曹操の嫡子が、御自ら身分を隠し、軍師の説得にかかったのですが、孔明はしぶとく、逃げる算段ばかりしていた。そこで嫡子は、ともに逃げ、捕らえられて処刑されそうになる段になって、救ってやる、というふうに策を変えたのでございます。
そこでわれらとしても計算が狂ってしまいまして、仕方なく、嫡子は捕らえたのでございますが、軍師には逃げられてしまいました。なにせ、このあたりの森は深い…」

もしも、文偉が覗き見、という形ではなく、ちゃんと真正面から馬光年を見据えていたなら、その目がどこか落ち着きがないのに、すぐに気づいたであろう。
嘘をついている、と。

「軍師のことは捨て置かれよ。どちらにしろ、これでかえってよかったのかもしれぬぞ。忌々しきことであるが、軍師が、変わらず主公の寵愛を得ていることは事実。
もしも軍師がすでに死んでいた、などとなれば、いくら実子の劉括を見たとしても、主公がお怒りを解かれたかどうか、やはりあやしい。魏の嫡子と陳長文を人質に、魏に降伏を迫るわれらの計画は、主公の賛成がなくては、やはり成り立たぬからな」

文偉は、全身の血が冷えていくのをおぼえていた。
とんでもない話を聞いてしまった。
あまりに途方もない。
叛逆、陰謀、そんな言葉があたまをぐるぐる駆け巡る。
この近所に来ると、ろくなことにならない。
以前は生き埋めにされそうになった挙句に、成都まで追い回され、今度は李巌と劉封のとんでもない企てを耳にしてしまった。
だいたい、劉括とは、何者だ?
そんな名前、聞いたこともない。
噂にだって、なっていないはずだ…流行と噂に耳ざとい文偉は、自信をもって、しらない、と言い切ることが出来た。

趙雲と偉度のことがふと、頭に浮かぶ。
あの二人は、どこまで把握しているのだろう。
軍師が、『魏』に捕らわれた、と信じているにちがいない。
そうではない。
軍師はとっくに自力で逃げて、村には、劉封と李巌らの息のかかった者たちがいるばかりだ。
軍師さえ殺そうとした連中のなかに、二人がのこのこ顔を出したら、どうなる?

文偉が、村へ向かうべく、軒下を這いながら外に出ようとするのと、馬光年が、劉封と李巌の前から、村へもどります、といって辞去するのは、ほぼ同時であった。
馬光年は、階段を下りると、外に待機していた男たち…そのなかには、文偉が最初に村で見た、『村人』の顔もあった…に、館のほうを気にしながら、言った。
「なんとか誤魔化しきったぞ。嫡子がわれらの手の内にあるのは事実であるが、軍師はみつかったか」
「それが、森中を探しておりますが、陽が落ちてきましたゆえ、うまくいきませぬ。あの銀の山犬どもから見て、芝蘭の手勢が、孔明を助けたのでございましょう」

芝蘭。
その名を聞いて、文偉の心拍数は、はげしく上がった。
馬光年は嘘をついており、軍師は山中に迷ってはおらず、なんと芝蘭が、軍師を助けた、という。
ますます、文偉は芝蘭にほれ込んだ。
なんという女丈夫だろう。
力強く、賢明で、なおかつ、しなやかで美しい。
完璧に理想ではないか。
つくづく、呉の細作であるのが惜しい。

うん? なぜ呉の人間が軍師を助けるのだろう……馬光年、つまりは李巌らの野望を挫かんがため? 
いや、芝蘭は、わたしの屋敷で魏の賊を討ち果たして、すぐに呉に帰ると言っていた。
あれは嘘ではなかったとおもう。
とすれば、魏の嫡子(まぬけなやつだ、と文偉は素直におもった)のように、そして令名高い陳長文(噂に反して、ずいぶんなウッカリ者だ、と文偉は感慨深くおもった)のように、馬光年に騙されているのではないか?
魏が主体となって、この陰謀が動いているとおもい、さきほどの話を総合すれば、劉括とかいう劉備の子(?)が帝位についたら、東呉は降伏を迫られる。
魏と蜀が連合するようなものだからだ。
そのため、もどってきて、軍師を助け、魏の野望を挫こうとしているのだ。
芝蘭にこのことを…いやいや、軍師にこのことを知らさねば。
しかし、かれらはどこへ?

馬光年は、宴が始まった館のほうを、忌々しそうに振り返る。
「盛り上がってきたようだな。よいか、我らはこれより村にもどる。李将軍と劉公子は、おそらくあとから村にやってくるであろう。その前に、なんとか呉の人間を始末するのだ。森を徹底的に洗え」
しかし馬光年の手下たちは、あまり気乗りしない様子で、返事がかんばしくない。
それはそうだろう。人間と、山犬とでは、夜闇のなかにおいては、その有利さが段違いである。

待てよ、連中についていけば、うまく芝蘭に会うことができるかもしれない。

文偉は騎乗するかれらの姿を見て、すぐさま軒下から這い出すと、厩にどうどうと入り込み、
「費観の従弟、費文偉が馬を借りるぞ!」
と、堂々と言い放って、ぽかんとする厩番を尻目に、かわらず、堂々と陣を出て、馬光年のあとを追った。
恋する男の迫力勝ち、というわけでもなかろうが、文偉があまりに堂々と立派であったから、陣を守っていた兵卒たちは、だれひとり、文偉を疑わず、追おうとかんがえる者すらいなかった。

つづく……

(旧サイト「はさみの世界」(現サイト・はさみのなかまのホームページ) 初出2005/07/22)

風の終わる場所 20

2021年04月25日 09時39分22秒 | 風の終わる場所
費文偉という青年は、とことん、ほがらかに出来上がっている。
これは父や母の性格から受け継いだものとか、伯父の育て方が良かったというよりも、おそらくは天性のものであっただろう。
人を疑うことを知らず、どんな者にも明るく愛想を振りまき、そして人の話をよく聞く。
苦労知らずのお坊ちゃま、というわけではない。
栄華の絶頂をきわめた生活から、一気にどん底のびんぼう生活に落とされた経験を持っている。
しかも曹操の南下を恐れて成都に逃げる途中、さまざまな苦難に会ったし、おそろしい光景を目の当たりにしたのも一度や二度ではない。
それでも、費文偉のえらいところは、決して人を信じることをやめない、というところであった。
もちろん、まったくの疑いを持たないのは、愚か者である。
しかし、かれはどんな悪人・罪人のなかにも、なにがしかの良心があると信じ、自分に向けられたことばに、ウソがないであろうと『信じる』。
その信頼があまりに真っ直ぐで純粋なため、ほんとうにウソをついている者もひるんでしまい、結局、信じることをやめなかった費文偉に、よい結果をもたらすのである。
それを文偉は幸運だといい、自分ではなく、まわりがみんな偉いと、本気で信じている。
そこが、かれの強運を、さらに補強しているのである。

そんな文偉が、胡偉度や趙雲と別れて、従兄の費観の陣を目指している。
三人でいるときは、芝蘭恋しさのあまり、危険・恐怖もなんのその、であったのに、ひとりになったとたん、過去に広漢で出くわしたおそろしい事件が頭をめぐり、だんだん心細くなってきた。
孔明は無事であろうか、二人だけを終風村に残す形になってしまったが、薄情ではなかったか。
それに芝蘭。
かれ女は呉に帰ってしまったであろうか。
屋敷であったときは邪魔者がいろいろ(魏の細作やら、犬やら、偉度やら、休昭やら、蒋琬やら、伯父やら)がいたので、きちんとお礼を言えなかった。
もしふたたびめぐり合うことが可能であれば、彼女にちゃんと命を助けてもらったことを言い、それから…
文偉には実は野望があるのであるが、それはここでは秘めておく。
さて、このあいだの災禍に遭った際には、芝蘭の言いつけどおり、だれにも会うことなく広漢から逃げ出したわけであるが…

そういえば、なぜ芝蘭は、従兄にさえあってはならぬと言ったのだろう。
彼女は、なにかわたしの知らぬことを知っていたのかもしれぬ。

だが、たしかめようがない。
そうして、費観の陣に近づいてきた文偉であるが、ふとおもい立ち、馬を止めた。
このまま、馬鹿正直に正面から言って、従兄にすべてを打ち明けてよいものだろうか。
いま、文偉の脳裏にあるのは、人の良い愛妻家の従兄への疑いではない。
かれの周囲にいる、いらざるお節介の存在。
つまり、費観に忠誠を誓うあまり、費観が「不利になる」ことを恐れ、側近たちが、文偉たちに都合の悪い相手に、知らせに行ってしまう可能性である。
この場合、都合の悪い相手、というのは、もちろん、李巌のことである。

李巌の名は、荊州では知らぬ者がないほどであった。
その名は、つねに煌びやかな印象と共に語られる。
特に大きな功績があったというわけではないが、その、いかにも将軍然とした立派な風貌と、重々しい言葉の運び方、華のある采配ぶり、そして文武両道にして、部下おもいなところが一般にうけるのだ。
しかも女人にかなりもてるため、その面でも、さまざまな伝説を作っている、孔明とはちがうかたちでの有名人なのである。
孔明と李巌の性格をかんがえると、仲たがいする、ということはなさそうであるのに、なぜか二人は馬が合わない、という。

孔明は、おそらく李巌を『物の知らない男』と見ている。
李巌は、蜀は肥沃な土地だと言い切り、この豊かささえあれば、漢の高祖にならって、天下に打って出ることは可能だと、呑気に構えている。
しかし現状はそんなに単純なものではない。
蜀の肥沃さは、すくない人口を十分に養える程度に肥沃なのであって、決して中原にくらべて、傑出して豊穣だというわけではない。
むしろ、取れ高はいまひとつなのだ。
農作物の取れ高を補っているのが、交易であり、それが蜀という国の、他国にない『豊かさ』を生み出しているのである。
そしてやはり、良質の錦を産出できる、という点も見過ごせないであろう。
要するに、蜀は物質面においてのみ、肥沃なのであり、人材はというと、とても魏や呉におよばない。
そもそも人口からしてちがいすぎるのだ。
李巌の感覚は、いまだ荊州の感覚のままであり、人を無駄に使えないという、孔明がつねづね気にしている切迫感が、不足しているのである。

龐統の死、というのは、孔明と劉備の行動をかなり狂わせている。
本来ならば、荊州に留守居として残り、関羽と共に曹操と対峙しなければならない立場の孔明が、劉備のそばで、成都にいなければならなくなっている。
たしかに李巌は、主公を短期間にころころ変えたけれど、能力からすれば、孔明と代わらせてもよいのでは、という声があるほどの男だ。
が、実現には至っていない。
それは、劉備が、李巌の能力は評価しているが、人柄は警戒しているからである。
李巌を仮に成都の要として置いたとして、劉巴や法正といった、ひとくせもふたくせもある文官たちと連合して、劉備を補佐できるかとなると、疑問だとかんがえているのだ。
劉備は…これは恐れ多いことではあるが…下手をすれば、李巌はまたも自分を裏切り、法正や劉巴たち(やはり以前に主を変えている者)と連合し、自分にたてつく可能性すらあるのではと、かんがえているのだろう。
かといって、逆に成都に孔明、荊州に李巌とすると、誇り高い関羽が、どこか驕慢である李巌と、うまくいくはずがなかった。
李巌には、自分には、劉表時代からずっと、孔明よりも声望があったのだ、という自信がありすぎるのである。

それらの点を踏まえ、費文偉は、偉度たちに相談したのとは、いささかちがう行動をとることにした。
文偉は、馬を近くの農家に金をやって預かってもらうと、単身、こっそり費観の陣に入ることを決めた。
だれにもみつからず、単身で従兄に会い、事情を話して、ほんとうに信頼できるものだけを貸してもらおうとおもったのである。
それに、もし実直な従兄が、意に添わぬ陰謀に巻き込まれているのであれば、これは同族としては、放ってはおけない話ではないか。
説得し、軍師を共に助けるようにしなければならない。
いったいいかなる陰謀が張り巡らされているのか、偉度も趙雲も気を遣ったのか、文偉にすべてを語ってはくれなかったが、二人の張り詰めた様子からして、かなり厳しい状況であるのはちがいない。
劉備は温厚ではあるが、決めるべきときは、残酷なほどに割り切って、すべてをばっさり切り捨てることができる人物である。
まして劉備は、孔明をだれより寵愛している。
孔明に何事か凶事が降りかかれば、劉備は怒り狂うであろう。
何が起こっているのかはしらないが、とばっちりを費観が食わないともかぎらない。
いちばんよいのは、費観が、終風村に捕らわれている孔明を助けるための軍兵を出すことだ。
すべてが裏へ、影へ、というこの一連の動き、やはり費文偉としては、賛同しかねるのである。

そうして、従兄への説得の言葉をけんめいに探しつつ、文偉は、費観の陣に近づくと、脇からこっそり、などというのではなく、実に堂々と真正面から入って行った。
というのも、文偉は以前に、この陣に入って、泊まりさえしているからである。
門衛はちょうどよい具合に、こちらを覚えていた(文偉と費観、血のつながりはあまり濃くなかったけれど、やはり同族らしく、面差しがすこし似ていたのである)。
しかもあまりに文偉が堂々としているので、まさか忍びこんできているとはおもってもいない。
「やあやあ、ごくろうさん」
などと朗らかに愛想を振りまいてはいるものの、本人の心臓は、口から飛び出して「申し訳ない、わたしは侵入者だ!」と叫びそうなほどなのであるが。
それはともかくとして、文偉は陣に入るや否や、費観のいる場所へと、慎重に進んだ。
しかし、文偉は途中で気がついた。
趙雲と偉度の必死な様子が、気の毒になってくるほどに、陣の中の空気はだらけきっていた。
広漢では盗賊が変わらず各所を荒らしまわっている、というのに、費観…いや、李巌は兵を動かそうとしないのである。
これでは、族姑が怒って当然である。
というより、文偉も怒っていた。
これでは、兵卒がなんのために常駐しているのか、わからないではないか。

以前にここに来たときは、ものめずらしさが先行して、兵卒の質にまで気が回らなかった。
しかし、孔明や芝蘭のことで感覚がするどくなっている今ならば、兵卒たちが、それこそ隅から隅まで、まったくやる気をなくしているのがわかる。
これは陰謀云々という以前に、費観の、将としての質も疑われてしまう。
というよりは、費観は言わなかったけれど、じつは、李巌の下で、苦労を強いられ、本人もやる気を失くしてしまっているのではないのか。

そうして費観のいる場所へ向かう文偉であったが、突然、見張り塔の者が、大きくほら貝を吹いて、陣に急を告げた。
とたん、それまで弛みきっていた兵卒が、ぱっと本来の顔を取りもどし、あわただしく動き出した。
文偉もあわてて物陰にかくれ、何事かと様子を探った。
しばらくして、陣の門が開かれて、ぞろぞろと兵団が入場してきた。
どうやら、視察していた李巌の帰還、というわけではない。
物陰からこっそりのぞいて見れば、なぜだか片側の頬をぷっくり腫らせた劉封を先頭に、その取り巻きと将兵が、ぞろぞろと陣に入ってきたのである。
それを、李巌と、文偉が探していた費観が出迎えている。
劉封と李巌が繋がっているのだ、と文偉は愕然とした。
と、同時に、にぎやかに久しぶりの再会をよろこぶ二人の将の背後で、決まり悪そうにしている、従兄の様子が気の毒でならなかった。

手ぬぐいをほっかむりのようにして、頬をかばっている劉封の情けない姿に、李巌は笑いながらたずねている。
「どうされた、そのひどいお姿は。さては、虫歯か」
「冗談ではない。趙子龍めに歯を叩き折られたのだ」
「なんと」
と、李巌は顔を曇らせる。
物陰で聞いていた文偉も、そういえば、趙雲が、劉封の歯の治療をしてやった、とぼそりとつぶやいていたが、そういうことであったか、と納得していた。
あのひとには、今後、決して怪我の治療はお願いしないようにしよう。
「わたしがここへ来たのは、ほかでもない、例の件でだ。問題が起こったぞ」
劉封と李巌の仲はかなりよいらしく、李巌は、年若い劉封の肩を抱きながら、陣の奥へと招き入れる。
それを、苦虫を噛み潰したような顔をした費観が付いていく、という格好だ。
「趙子龍めに、劉括のことを知られた。成都で軍師を拉致したやつらが、口を割ったらしい」
「なんだと? では、主公もそれをご存知なのか?」
李巌の問いに、劉封は鼻を鳴らした。
劉封は、、文偉とさほど年が変わらないというのに、妙に年老いた顔をしてみえる。
「趙子龍が成都に帰るまでは、このことは成都には知らせぬ、と。あやつめ、わたしに慈悲をかけたつもりであろう」
「まずいな。では、やつは今頃、終風村に向かっているのか?」
「おそらくは。そちらこそ、首尾はどうなのだ?」
「それは、あとから、あいつに聞け。それにしても、ひどく痛むのか。ならば、酒宴は無理であろうな」
と、李巌は冗談めかして、頬を布で庇う劉封の頬を、軽く触れるフリをして笑った。
「まったく、腹が減ってしかたがない。昨日から粥ばかりすすっておる。趙子龍めが、我らが天下を握った暁には、まっ先に、平民に落としてくれようぞ」
と、劉封は悪態をついている。
そうして、とある建物に入っていくのを、文偉もこっそりあとをつけていった。

つづく……

(旧サイト「はさみの世界」(現・はさみのなかまのホームページ)初掲載 2005/07/22)

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