偉度+莫迦坊ちゃんズ
にじんだ月が群雲の上にあらわれて、成都の街は、すっかり夜闇につつまれた。
商店で提灯を買い求め、その灯りを頼りに、てくてくと自邸へそれぞれ向かう五人の姿がある。
先頭は趙雲で、そのあとを不機嫌そうに孔明、対称的に、ご機嫌な偉度、最後に文偉と休昭が並んで歩いている。
趙雲が寡黙なのはいつものことだが、孔明が不快なのを隠さずにいるのは珍しいし、いつも皮肉げな笑みを浮かべて、機嫌の上下とはまったく無縁な顔をしている偉度が、鼻歌でも口ずさみそうなほど機嫌がよいのも不思議な光景である。
文偉と休昭は、前を行く三人のあいだに、どんな過去があり、今に至っているのか知らない。
だから、偉度が、孔明と趙雲が揃っていると、嬉しそうにする理由がよくわからない。
文偉などは、二人がいる、というだけで、緊張してしまうし、その緊張があらわれているのが、この距離でもある。
偉度は、二人を尊敬して慕っている、というのではない。
なにかもっと強い絆を感じるのであるが、それを知ることは、偉度が語りたがらないこと、まさにさきほど、馬謖と喧嘩した原因になったことを探ることになるような気がして、問うことができなかった。
しかしそれにしても…
「馬幼常はどうしたかな」
「金子(きんす)はたっぷりありそうだから、適当な店に入って遊んでいるのじゃないか」
と、休昭は深い意味も考えずに、さらりと答えた。
まあ、特別に想像を働かせなくても、そんなところだろうな、と文偉も思う。
「金持ちは良いな。わたしもあそこで、金を気にせず遊んでみたいが」
「あんなところに入り浸るようになったら、絶交だからな」
「判っているよ、潔癖党副総裁」
休昭の言葉は戯言でなく、本気だろう。
となると、遊びに行く時は、こいつも一緒に連れて行って、黙らせる必要があるな、うむ。
二人分の遊興費が必要になる…そこまで稼げるようになるには、あとどれくらいかかるやら。
「軍師には驚かされるな。あんなところへ、独りで毎日通って」
すこしでも遊んで行こうかな、と考えなかったのだろうか。
まわりはよりどりみどり。
金はある。いざとなればその名を出して、楽しく豪勢にすることもできるだろうに。
文偉の言葉をどう取ったか、休昭も頷いた。
「あの方は度胸があるよな。わたしだったら、怖くて、一人で店に入るなどできないよ」
こいつ、いくつになったのだっけ。
潔癖というよりは、いささか小心に過ぎるのじゃないかな、と文偉は心配になってきた。
まあ、休昭は、見るからに世間知らずな純粋培養(でも貧乏)の雰囲気を全身から醸し出している。
一人で裏町をうろうろして、あのあたりに徘徊する狼どもに狙われたら、大変なことになるだろう。
とはいえ、いつまでもお坊ちゃまでいるわけにはいかない。
ふむ、となると、世間を教える役目を担うのは、わたしか。
まあ、わたしも一人っ子でこいつも一人っ子。
もう親友と言うよりは兄弟に近い(しかも互いに、競争心がぜんぜん起こらない間柄だ。意識していないだけかもしれないが)。
そうなれば、年長たるこちらが、兄の役目を負わねばなるまい。
とはいえ、いきなりあの界隈の店に連れて行ったら、幼宰さまより大目玉どころか、雷が落ちそうだ。
あの方は怒ると、とんでもなく恐ろしいからな。
折を見て、慎重に、世の中を教えていかねば。
こういう、生真面目すぎる奴に限って、ちょっとのはずみで道に逸れてしまったとき、崩れ落ちるさまも生真面目なのだ。
つまりは、絵に描いたような見事な転落っぷりを見せる。
免疫をつけなければいかん。
これは、休昭の転落を防止するためで、わたしが遊ぶ時にうるさくいわれないための防衛策ではない。うむ。
※
休昭にとって、親切なのか大いなる迷惑なのか、よくわからないことを、文偉が考えているなか、偉度は、さきほどから沈黙がつづいている趙雲と孔明の間に入って、提灯で足元を照らしている趙雲のほうに尋ねた。
「趙将軍は、もしや、軍師が女遊びをしているのではないと、最初から気づいておられたのですか」
すると、趙雲は、偉度のほうを見ないまま、無愛想に、
「まあな」
とだけ言った。
「なぜです」
「女は買わないと、前に言っただろう」
とは、ちょうど偉度の背後にいる孔明の言葉であるが、偉度は趙雲がなぜ慌てなかったのか、その理由を知りたかった。
付き合いが長いので、動揺したのなら、隠してもすぐ見破る自信がある。
趙雲は、まるで動揺していなかった。
「なぜなのです」
食い下がる偉度に、趙雲は、いささか迷惑そうに、眉をしかめたものの、それでも重たい口を開いた。
「顔を見ればわかる。これが、女に入れ込んでいる男の顔か」
言われて、ちらりと振り返れば、孔明はひたすら不機嫌そうであるが、その顔には、恋愛の嵐に巻き込まれている者特有の、熱っぽい艶めかしさはない。
頭の中には、等間隔で区切られた美しい碁盤の目と、白と黒の配置がぐるぐると回っているだけのように見える。
色っぽさもなにもあったものじゃない。
なるほど。
「よく観察しておられる」
「おまえは観察が足りぬな」
うまく切り返されたな、と思いながら、今度は、偉度は孔明の横に並んで、尋ねた。
「偉度に一言おっしゃってくだされば、だれにも洩らさず、ちゃんとお供いたしましたものを。なぜに黙っておられたのです」
すると、聡明な孔明にしては意外にも、そうだったな、などと、感心している。
とぼけているのではない。
孔明は、なにかひとつに夢中になると、ほかに頭が回らなくなる悪い癖があるが、今回は、それがまともに出た形だろう。
「正体をばらさず、あの用心棒に、実力を思うさま振るって欲しいというのが先に出て、ほかのことに気が回らなかった」
「場所が場所です。噂になることは考えなかったので?」
「噂はおまえが消すだろう」
「ご信頼ありがとうございます。しかし、中でなにをしていたかはともかく、妓楼に通っていた、という事実は事実なわけですから、軽率すぎますぞ。すでに、巷では、軍師によく似た者が、よからぬ場所に出入りしていると言う噂が、ちらほらと出ております」
「うむ、それはいかんな。おまえの言うとおりだな。悪かった、悪かった」
「『悪かった』は二度で結構」
「悪かった」
そのやり取りを聞いて、めずらしく趙雲が声をたてて笑った。
孔明は、さらにむっとして趙雲の背中に尋ねた。
「なにが可笑しい」
「いや、偉度は、俺よりおまえを叱るのがうまいな」
「そうでしょうか。軍師はわたしの言葉には、簡単に相槌を打たれますが、その後、反省はしてくださいませぬ」
「反省? しているとも。心からすまなかったと思っているさ」
孔明がとぼけて言うので、偉度は口を尖らせた。
「嘘をおっしゃい。では、わたしが話しかける前に、なにを考えていたか当てて差し上げましょうか。正体がばれてしまったようだが、どうやったらあの用心棒をうまく説得して、左将軍府に召しだし、実力を振るわせられるかを考えてらっしゃった。そうでしょう」
孔明は、む、と小さく言い、眉をしかめた。
伊達に主簿はしていないさ、と偉度は思いつつ、図星だったことに、ため息をつく。
「あの用心棒ならば、軍師に勝てば、もっと褒美を取らせるといえば、ますます張り切って、その腕を見せるでしょうよ。ちゃんとわたくしが連れてまいりますから、軍師は大人しく待ってらっしゃい」
「わかった。頼む」
「本当にわかってらっしゃるのか。だいたい、あなたは他のだれよりも、とびきり派手で目立つのです。普通にしていても人目に付きやすい。お忍びなんぞできる方ではないのですよ。まったく、それでも変装して出かけたというのならともかく、いつものとおり、堂々と出かけていたというのだから、話にもなりませぬ」
「ならば変装していけばよかったのか」
「変装しても駄目です。しばらく大人しくしてらっしゃい」
「ハイ」
そのやり取りを聞いて、やはり趙雲は肩を震わせ、笑っているようである。
こっちは本気で孔明に意見をしているのに、なにが可笑しいのか。
「将軍、わたくしの言葉に、おかしな点がございましたか」
「いいや、可笑しい点なぞなにもない。俺が笑ったのは、やっと俺と同じ苦労を理解できる者が出来たというのが愉快で、笑っておったのだ」
「ふん、これも仕事ですからね。仕事でなければ、なにを好き好んで、こんなわけのわからない人の面倒なんて見ますか」
「そういうことにしておくか。軍師、本気に取るなよ」
「わかっているとも。何年越しの付き合いだと思う」
どうもうまくあしらわれているような気分が取れない。
というよりは、やはり二人の意見がまずあって、なんだかんだと、最終的にはそれに添う形になっている。
この関係は、磐石といおうか、やはり崩れないものなのだな、と、安心しながらも、すこしばかり、自分の力不足を見せ付けられたような気がして、偉度は、道端の石をぽんと蹴飛ばして憂さを晴らした。
つづく……
にじんだ月が群雲の上にあらわれて、成都の街は、すっかり夜闇につつまれた。
商店で提灯を買い求め、その灯りを頼りに、てくてくと自邸へそれぞれ向かう五人の姿がある。
先頭は趙雲で、そのあとを不機嫌そうに孔明、対称的に、ご機嫌な偉度、最後に文偉と休昭が並んで歩いている。
趙雲が寡黙なのはいつものことだが、孔明が不快なのを隠さずにいるのは珍しいし、いつも皮肉げな笑みを浮かべて、機嫌の上下とはまったく無縁な顔をしている偉度が、鼻歌でも口ずさみそうなほど機嫌がよいのも不思議な光景である。
文偉と休昭は、前を行く三人のあいだに、どんな過去があり、今に至っているのか知らない。
だから、偉度が、孔明と趙雲が揃っていると、嬉しそうにする理由がよくわからない。
文偉などは、二人がいる、というだけで、緊張してしまうし、その緊張があらわれているのが、この距離でもある。
偉度は、二人を尊敬して慕っている、というのではない。
なにかもっと強い絆を感じるのであるが、それを知ることは、偉度が語りたがらないこと、まさにさきほど、馬謖と喧嘩した原因になったことを探ることになるような気がして、問うことができなかった。
しかしそれにしても…
「馬幼常はどうしたかな」
「金子(きんす)はたっぷりありそうだから、適当な店に入って遊んでいるのじゃないか」
と、休昭は深い意味も考えずに、さらりと答えた。
まあ、特別に想像を働かせなくても、そんなところだろうな、と文偉も思う。
「金持ちは良いな。わたしもあそこで、金を気にせず遊んでみたいが」
「あんなところに入り浸るようになったら、絶交だからな」
「判っているよ、潔癖党副総裁」
休昭の言葉は戯言でなく、本気だろう。
となると、遊びに行く時は、こいつも一緒に連れて行って、黙らせる必要があるな、うむ。
二人分の遊興費が必要になる…そこまで稼げるようになるには、あとどれくらいかかるやら。
「軍師には驚かされるな。あんなところへ、独りで毎日通って」
すこしでも遊んで行こうかな、と考えなかったのだろうか。
まわりはよりどりみどり。
金はある。いざとなればその名を出して、楽しく豪勢にすることもできるだろうに。
文偉の言葉をどう取ったか、休昭も頷いた。
「あの方は度胸があるよな。わたしだったら、怖くて、一人で店に入るなどできないよ」
こいつ、いくつになったのだっけ。
潔癖というよりは、いささか小心に過ぎるのじゃないかな、と文偉は心配になってきた。
まあ、休昭は、見るからに世間知らずな純粋培養(でも貧乏)の雰囲気を全身から醸し出している。
一人で裏町をうろうろして、あのあたりに徘徊する狼どもに狙われたら、大変なことになるだろう。
とはいえ、いつまでもお坊ちゃまでいるわけにはいかない。
ふむ、となると、世間を教える役目を担うのは、わたしか。
まあ、わたしも一人っ子でこいつも一人っ子。
もう親友と言うよりは兄弟に近い(しかも互いに、競争心がぜんぜん起こらない間柄だ。意識していないだけかもしれないが)。
そうなれば、年長たるこちらが、兄の役目を負わねばなるまい。
とはいえ、いきなりあの界隈の店に連れて行ったら、幼宰さまより大目玉どころか、雷が落ちそうだ。
あの方は怒ると、とんでもなく恐ろしいからな。
折を見て、慎重に、世の中を教えていかねば。
こういう、生真面目すぎる奴に限って、ちょっとのはずみで道に逸れてしまったとき、崩れ落ちるさまも生真面目なのだ。
つまりは、絵に描いたような見事な転落っぷりを見せる。
免疫をつけなければいかん。
これは、休昭の転落を防止するためで、わたしが遊ぶ時にうるさくいわれないための防衛策ではない。うむ。
※
休昭にとって、親切なのか大いなる迷惑なのか、よくわからないことを、文偉が考えているなか、偉度は、さきほどから沈黙がつづいている趙雲と孔明の間に入って、提灯で足元を照らしている趙雲のほうに尋ねた。
「趙将軍は、もしや、軍師が女遊びをしているのではないと、最初から気づいておられたのですか」
すると、趙雲は、偉度のほうを見ないまま、無愛想に、
「まあな」
とだけ言った。
「なぜです」
「女は買わないと、前に言っただろう」
とは、ちょうど偉度の背後にいる孔明の言葉であるが、偉度は趙雲がなぜ慌てなかったのか、その理由を知りたかった。
付き合いが長いので、動揺したのなら、隠してもすぐ見破る自信がある。
趙雲は、まるで動揺していなかった。
「なぜなのです」
食い下がる偉度に、趙雲は、いささか迷惑そうに、眉をしかめたものの、それでも重たい口を開いた。
「顔を見ればわかる。これが、女に入れ込んでいる男の顔か」
言われて、ちらりと振り返れば、孔明はひたすら不機嫌そうであるが、その顔には、恋愛の嵐に巻き込まれている者特有の、熱っぽい艶めかしさはない。
頭の中には、等間隔で区切られた美しい碁盤の目と、白と黒の配置がぐるぐると回っているだけのように見える。
色っぽさもなにもあったものじゃない。
なるほど。
「よく観察しておられる」
「おまえは観察が足りぬな」
うまく切り返されたな、と思いながら、今度は、偉度は孔明の横に並んで、尋ねた。
「偉度に一言おっしゃってくだされば、だれにも洩らさず、ちゃんとお供いたしましたものを。なぜに黙っておられたのです」
すると、聡明な孔明にしては意外にも、そうだったな、などと、感心している。
とぼけているのではない。
孔明は、なにかひとつに夢中になると、ほかに頭が回らなくなる悪い癖があるが、今回は、それがまともに出た形だろう。
「正体をばらさず、あの用心棒に、実力を思うさま振るって欲しいというのが先に出て、ほかのことに気が回らなかった」
「場所が場所です。噂になることは考えなかったので?」
「噂はおまえが消すだろう」
「ご信頼ありがとうございます。しかし、中でなにをしていたかはともかく、妓楼に通っていた、という事実は事実なわけですから、軽率すぎますぞ。すでに、巷では、軍師によく似た者が、よからぬ場所に出入りしていると言う噂が、ちらほらと出ております」
「うむ、それはいかんな。おまえの言うとおりだな。悪かった、悪かった」
「『悪かった』は二度で結構」
「悪かった」
そのやり取りを聞いて、めずらしく趙雲が声をたてて笑った。
孔明は、さらにむっとして趙雲の背中に尋ねた。
「なにが可笑しい」
「いや、偉度は、俺よりおまえを叱るのがうまいな」
「そうでしょうか。軍師はわたしの言葉には、簡単に相槌を打たれますが、その後、反省はしてくださいませぬ」
「反省? しているとも。心からすまなかったと思っているさ」
孔明がとぼけて言うので、偉度は口を尖らせた。
「嘘をおっしゃい。では、わたしが話しかける前に、なにを考えていたか当てて差し上げましょうか。正体がばれてしまったようだが、どうやったらあの用心棒をうまく説得して、左将軍府に召しだし、実力を振るわせられるかを考えてらっしゃった。そうでしょう」
孔明は、む、と小さく言い、眉をしかめた。
伊達に主簿はしていないさ、と偉度は思いつつ、図星だったことに、ため息をつく。
「あの用心棒ならば、軍師に勝てば、もっと褒美を取らせるといえば、ますます張り切って、その腕を見せるでしょうよ。ちゃんとわたくしが連れてまいりますから、軍師は大人しく待ってらっしゃい」
「わかった。頼む」
「本当にわかってらっしゃるのか。だいたい、あなたは他のだれよりも、とびきり派手で目立つのです。普通にしていても人目に付きやすい。お忍びなんぞできる方ではないのですよ。まったく、それでも変装して出かけたというのならともかく、いつものとおり、堂々と出かけていたというのだから、話にもなりませぬ」
「ならば変装していけばよかったのか」
「変装しても駄目です。しばらく大人しくしてらっしゃい」
「ハイ」
そのやり取りを聞いて、やはり趙雲は肩を震わせ、笑っているようである。
こっちは本気で孔明に意見をしているのに、なにが可笑しいのか。
「将軍、わたくしの言葉に、おかしな点がございましたか」
「いいや、可笑しい点なぞなにもない。俺が笑ったのは、やっと俺と同じ苦労を理解できる者が出来たというのが愉快で、笑っておったのだ」
「ふん、これも仕事ですからね。仕事でなければ、なにを好き好んで、こんなわけのわからない人の面倒なんて見ますか」
「そういうことにしておくか。軍師、本気に取るなよ」
「わかっているとも。何年越しの付き合いだと思う」
どうもうまくあしらわれているような気分が取れない。
というよりは、やはり二人の意見がまずあって、なんだかんだと、最終的にはそれに添う形になっている。
この関係は、磐石といおうか、やはり崩れないものなのだな、と、安心しながらも、すこしばかり、自分の力不足を見せ付けられたような気がして、偉度は、道端の石をぽんと蹴飛ばして憂さを晴らした。
つづく……