※
左将軍府は、思ったよりもずっとせまい場所であった。
そこで働く者は総じて若く、みな、忙しそうに、あちこちをうろうろしている。
どの部屋をのぞいても、廊下を移動する法正には注意を払わない。
途中、許靖が庭の鯉にエサをやっているところや、董和がぶつぶつとこれからの仕事の段取りを復唱しているのに行きあったが、マスクをかぶっているおかげで、自分が法正だということは、ばれずに済んだ。
さて、肝心の軍師将軍はどこにいるだろうか。
廊下を適当に歩いていると、前方から、きんきんとした声が聞こえてきた。
見れば、軍師将軍の小生意気な主簿・胡偉度が、顔を朱に染めて、一室から出てくるところである。
「なーにが、『それならば仕方ない』ですか! 許長史だけのたくらみというのならばともかく、劉曹掾が絡んでいるのですから、油断大敵だというのに! 知りませんよ、わたしは!」
尻尾を踏まれた子犬のようにきゃんきゃんと喚く胡偉度にたいし、なにやら低い声がそれに応じた。
声の主は部屋の中にいるらしく、廊下で身をひそめる法正には、言葉が明瞭に聞きとれない。
しかし、声には確実に聞き覚えがあった。夢に出るほど憎らしい、軍師将軍その人のものである。
胡偉度が、足音も荒く遠ざかっていくのを見計らってから、法正は、足音をしのばせて、軍師将軍の部屋にちかづいた。
わたしはもしかして、間者としての才能も持っているのかもしれぬ。
軍師将軍の部屋の扉は、偉度が出て行ったままの状態で開けはなたれており、中をそっとのぞけば、孔明が、立ったまま、文机のうえの竹簡や、手紙などを整理していた。
「偉度か。戻ってきたのか? それはよい。莫迦なことをしたら、あとでおまえが後悔することになるのだからな」
孔明が、手をてきぱきと動きながら言うので、法正は、もしや、偉度が戻ってきたのかと思い、ぎくりとしたが、周囲を見回せば、だれもいない。
足音を忍ばせてきたつもりであったのに、孔明には、法正の足音が聞こえたようであった。
法正が返事をしないまま、どう対応しようかと考えているあいだに、孔明が顔をあげて、扉のほうを見た。
すぐに目が合い、法正はぎくりとする。
孔明も、その眉をぎゅっとしかめた。
「そなたは何者だ?」
いかん。何も見ないうちから見つかってしまった。
なんという間抜けさ加減。
このままつまみ出されるのはあまりに勿体ない。
なんとかよい言い訳を、と法正はすばやく知恵をひねり、答えた。
「あたらしく左将軍府に配置をされました者でございます。左将軍府事にごあいさつをと思いまして」
法正が、いつもの声を誤魔化して、ひくく唸るように言って拱手すると、孔明は、しかめた顔を元に戻し、左様か、ご苦労だな、と応じた。
しかし、机の上を整理する手はとめない。
孔明は、手を動かしながら、ふと思いついた顔をして、法正のほうを向いた。
「そうだ、そなた、左将軍府での初仕事を頼まれてみぬか」
思いもかけない誘いに、法正は戸惑いつつ、たずねる。
「かまいませぬが、なにをすればよろしいでしょうか」
「うむ、手紙を探してほしい。私的なものなのだが、あれがないと、返事をするのに困るものなのだ。手が空いていればでよいのだが」
法正は、どうやって孔明に近づくべきかを考えていたのだが、いまの時点で、良い策はなにも浮かんでいなかった。
それが、孔明のほうから、仕事を頼むと言ってきたのである。
まさにチャンス。これに乗らない手はない。
「それはもちろん。是非」
言いつつ、法正は孔明の執務室に入る。
そして、孔明の指示にしたがい、部屋のあちこちに所せましと並べられた竹簡や書物を片っ端から見てまわった。
探し物をするフリをして、竹簡や書物の内容を調べて見たのであるが、どれも公的なものばかりである。
それが、まるで兵卒がぴたりと整列しているように、うつくしく並んでいる。
法正も自分が神経質だと思っていたが、孔明の神経質の程度がここまでとは思っていなかったので、なんとなく敗北感をおぼえた。
「探してらっしゃる手紙というのは、どのようなものなのですか」
声色に気をつけながら法正が問うと、孔明は答えた。
「兄からの手紙だ」
きらり、とタケノウチマスクの下の法正の眼が光る。
軍師将軍は従兄が魏、兄が呉に仕えており、それゆえに、親族との連絡を慎重すぎるくらい慎重に最低限におさえている。
もちろん、他者の邪推や疑念を払うためであろう。
法正も、そのあたりのことを調べさせたことがあったが、じつは、疑いをかけられることを恐れて連絡をすくなくしているのではなく、どうやら単に仲が悪いから連絡がすくないらしいということを突き止めていた。
だが、それすらも偽装だったらどうなる。
この男のことだ。
そういう工作くらい、やってのけるであろう。
わたしがこやつだったら、そうする。
よいネタが得られるかもしれぬ。
孔明の探し物の仕方は、手際がよいのかなんなのか、散らばっていた書簡や竹簡をぜんぶまとめなおし、つぎからつぎへときれいな山にして、次に移っている。
だから孔明が移動したあとは、まわりのものはすべて、丁寧に整理整頓されているのであった。
「整理整頓だけは得意なのだ。やりすぎて、みなに嫌がられるが」
独り言のように孔明はいう。
そうであろうと法正は思う。
あまりに孔明がきちんと整理しすぎるので、一緒に探しものをしていても、こちらが散らかす一方のような気がして、居心地がわるいのだ。
孔明がこれでもない、それでもない、と探しているのを横目に、法正は、ほかになにかこやつの弱味になるようなものはないかと探ってみる。
『なんだこれは』
法正はひとつの書簡に行き当たったが、そこには、
『領収書 上様
○×○△△△×○
教育費として』
ハテ、暗号かと首をひねる法正であるが、孔明は、それを一緒に横から見ると、意外にも安堵したように言った。
「ああ、それだ。よかった、そこにあったのか。これで兄に二重請求だと証明できる」
「二重請求?」
「喬を引き取ったときに、兄より、いままでの教育費を寄越せといわれたので、一括して全部支払ったのであるが、最近になって、また同じ内容の請求書が届いたのだ」
孔明は、その書簡を見ると、なにやら後ずさりたくなるような、不気味な笑みを口はしに浮かべる。
「これで先方も、ぐうの音も出まい」
法正がそのとき思ったのは、『冷え切っとる』ということであった。
「ありがとう、これで助かった」
と、孔明はあらためて法正を向き直るのであるが、目と目が合うと、怪訝そうに首をひねる。
「おや、君と前に会ったことがあっただろうか」
「いいや!」
法正は、即座に、全力で否定した。
しかし、声が地声になってしまい、あせるものの、孔明は、それを緊張のあまり、声が引っくり返ったのだと受けとめたらしい。
ちょうどそのとき、左将軍府の門のすぐそばに、臨時設置された試験会場のほうより、試験終了をつげるベルが響きわたった。
旅立ち編につづく……
(サイト・はさみの世界 初出2006/03)