奥堂へ向かう黄蓋《こうがい》は無言であった。
魯粛も、いよいよ孫権と面会できるというので、もう軽口をたたかない。
「お連れしました」
黄蓋が礼を取るその先に、うずくまるようにして、青年将軍が上座《かみざ》にいた。
ほかにだれの姿もない。
奥堂には、さきほど百官があつまっていた大広間とおなじように、空気がこもっていた。
香炉から心がほぐれるような良い香が立ちのぼっているが、それでも、孫権のかもしだす険悪な雰囲気を払うまでには至っていない。
孫権は見るからに悩みに悩んでいると言った風で、その噂通りの赤っぽい紫の髭に囲まれた顔は、げっそりとしている。
ただ、眼光はたいへん鋭く、黄蓋の声に応じると同時に、ぎろりと孔明と趙雲、そして魯粛を目線で射すくめた。
ただ者ではないと魯粛が認めるとおり、孔明より若いのに、かなりの威圧感を他者に与える人物である。
孫権は不機嫌そうに、しかし、礼を失さない程度に、猫背を直し、体を起こして、孔明たちをあらためて見る。
孔明としては、ひさびさに、初対面なのに自分たちの外見を見て、おどろかない人物と遭遇したなと思っていた。
「劉豫洲《りゅうよしゅう》(劉備)の使者どの、はるばる柴桑《さいそう》までよくいらした。
たいしたもてなしも出来ぬが、ゆるりとくつろいでくれ」
この緊迫した空気の中で、くつろげとは、悪い冗談である。
孔明はしかし、姿勢をぴんと伸ばしたまま、丁寧に礼を取り、答えた。
「とつぜんの訪問をお許しください、将軍。わが名は諸葛亮、あざなを孔明と申します。
こちらで碌《ろく》をはむ諸葛子瑜《しょかつしゆ》の弟にございます」
「貴殿の名は耳にしておる。臥龍という号を得ていると聞いた。
臥たる龍とは、またたいそうな号であるな。いずれ天下に飛躍せんとするか」
「わが命たる劉豫洲を背に乗せて天下に飛躍せんと思うております」
孫権は孔明に返されて、つまらなさそうに、ふん、と応じた。
龍は皇帝を示す霊獣であるから、おまえが皇帝になりたいのだろう暗に言いたかったらしい。
孔明はその手には乗らなかったが、いささかひやりとした。
孫権はどうも無意識に人をからかう癖のある人物であるようだ。
「後ろに居りますは、わが主騎の趙子龍でございます。どうぞ同席をおゆるしください」
孔明が言うと、孫権はすこし首を伸ばして、趙雲を見た。
「下々の者たちが、さいきん講談のタネにしている長坂の英雄とは、貴殿のことか」
「講談のタネになっているかどうかは存じませぬが、長坂で戦ったのはそれがしです」
みるからに屈強そうな趙雲を見て、孫権は興味を惹かれたらしく、言った。
「万軍のなかを一騎で駆け抜けたと聞いておったので、そんなやつは傷だらけであろうと思うたが、貴殿は無傷だな」
「子龍は無敵でございますれば」
孔明がすまして答えると、孫権はそれを冗談と受け取ったようで、ほがらかに笑った。
「無敵か。それはよい。わしの幼平《ようへい》(周泰)と一騎打ちをさせてみたいな。
どちらが生き残るであろう。なあ、子敬、公覆」
水を向けられて魯粛と黄蓋は、それぞれ笑って、
「勝つのはわれらが周幼平でしょう」
と孫権にうれしがらせを言っている。
孫権は、そうかそうか、と機嫌がよさそうになったが、そこへ、急に趙雲が口をはさんだ。
「孫討虜将軍に申し上げる。われらは劉豫洲の使者として参った。
将軍に害意はござらぬ。この部屋に控える者たちをすべて下がらせていただきたい」
つづく
魯粛も、いよいよ孫権と面会できるというので、もう軽口をたたかない。
「お連れしました」
黄蓋が礼を取るその先に、うずくまるようにして、青年将軍が上座《かみざ》にいた。
ほかにだれの姿もない。
奥堂には、さきほど百官があつまっていた大広間とおなじように、空気がこもっていた。
香炉から心がほぐれるような良い香が立ちのぼっているが、それでも、孫権のかもしだす険悪な雰囲気を払うまでには至っていない。
孫権は見るからに悩みに悩んでいると言った風で、その噂通りの赤っぽい紫の髭に囲まれた顔は、げっそりとしている。
ただ、眼光はたいへん鋭く、黄蓋の声に応じると同時に、ぎろりと孔明と趙雲、そして魯粛を目線で射すくめた。
ただ者ではないと魯粛が認めるとおり、孔明より若いのに、かなりの威圧感を他者に与える人物である。
孫権は不機嫌そうに、しかし、礼を失さない程度に、猫背を直し、体を起こして、孔明たちをあらためて見る。
孔明としては、ひさびさに、初対面なのに自分たちの外見を見て、おどろかない人物と遭遇したなと思っていた。
「劉豫洲《りゅうよしゅう》(劉備)の使者どの、はるばる柴桑《さいそう》までよくいらした。
たいしたもてなしも出来ぬが、ゆるりとくつろいでくれ」
この緊迫した空気の中で、くつろげとは、悪い冗談である。
孔明はしかし、姿勢をぴんと伸ばしたまま、丁寧に礼を取り、答えた。
「とつぜんの訪問をお許しください、将軍。わが名は諸葛亮、あざなを孔明と申します。
こちらで碌《ろく》をはむ諸葛子瑜《しょかつしゆ》の弟にございます」
「貴殿の名は耳にしておる。臥龍という号を得ていると聞いた。
臥たる龍とは、またたいそうな号であるな。いずれ天下に飛躍せんとするか」
「わが命たる劉豫洲を背に乗せて天下に飛躍せんと思うております」
孫権は孔明に返されて、つまらなさそうに、ふん、と応じた。
龍は皇帝を示す霊獣であるから、おまえが皇帝になりたいのだろう暗に言いたかったらしい。
孔明はその手には乗らなかったが、いささかひやりとした。
孫権はどうも無意識に人をからかう癖のある人物であるようだ。
「後ろに居りますは、わが主騎の趙子龍でございます。どうぞ同席をおゆるしください」
孔明が言うと、孫権はすこし首を伸ばして、趙雲を見た。
「下々の者たちが、さいきん講談のタネにしている長坂の英雄とは、貴殿のことか」
「講談のタネになっているかどうかは存じませぬが、長坂で戦ったのはそれがしです」
みるからに屈強そうな趙雲を見て、孫権は興味を惹かれたらしく、言った。
「万軍のなかを一騎で駆け抜けたと聞いておったので、そんなやつは傷だらけであろうと思うたが、貴殿は無傷だな」
「子龍は無敵でございますれば」
孔明がすまして答えると、孫権はそれを冗談と受け取ったようで、ほがらかに笑った。
「無敵か。それはよい。わしの幼平《ようへい》(周泰)と一騎打ちをさせてみたいな。
どちらが生き残るであろう。なあ、子敬、公覆」
水を向けられて魯粛と黄蓋は、それぞれ笑って、
「勝つのはわれらが周幼平でしょう」
と孫権にうれしがらせを言っている。
孫権は、そうかそうか、と機嫌がよさそうになったが、そこへ、急に趙雲が口をはさんだ。
「孫討虜将軍に申し上げる。われらは劉豫洲の使者として参った。
将軍に害意はござらぬ。この部屋に控える者たちをすべて下がらせていただきたい」
つづく
※ 趙雲の真意はどこに……?
孔明対孫権、次回もつづきます。
どうぞおたのしみにー(*^▽^*)