蔡瑁が入ってくると、女は、薄衣をかぶったまま、ほうっとため息をついた。
安堵のため息か、官能ゆえのため息か。
こんな夜中に、人目のつかない場所で、男と女がふたりしてこっそりと会っている。
逢引だろうということは、容易に察することができた。
女と蔡瑁は、しばらく無言であった。
しかし、それは、逢うことができてうれしいという甘い雰囲気ではない。
女も沈黙したままならば、蔡瑁も憮然とした表情で腕を組み、相手の出方を待っている、というふうだ。
「遅かったではありませぬか」
先に口を開いたのは女のほうであった。
趙雲は、はっとした。
聞き覚えのある声だったのだ。
女は、遅かったと蔡瑁をなじるが、たいして待っていたわけではないことを、趙雲は知っている。
蔡瑁は、そんな女をじっと見据えていたが、やがて、ゆっくりと口をひらいた。
「いつまでこんなことを続けるつもりだ」
蔡瑁はうなるように言う。
ゆらめく蝋燭の明かりに浮かぶ相貌は、苦々しく歪んでいる。
「はじめたのは、あなたではありませぬか」
女は、そんな蔡瑁の様子を嘲《あざわら》うように、笑った。
笑い声が耐えられないとでもいうのか、蔡瑁はその笑い声に眉をしかめる。
女は、さらに声をたてて笑う。
「こうして逢うことをいまさら怖じているとは、おかしなこと。もう止めることなどできませぬ。いい加減に、覚悟をきめたらいかが」
「はじめたのは、たしかに儂かも知れぬ。だが、ほんとうに始めたのはお前だ」
その言葉に、女はくぐもった笑い声をあげた。
「そう。泣いて嫌がったわたくしを説得し、あの年寄りの妻にしたのは、あなた」
唄うように言いつつ、女はするりと薄衣を剥いだ。
音もなく床に落ちた薄衣の下から、簡単に髪を結い、地味な女官の服をまとった、年増女があらわれた。
衝立に隠れた格好では、その後ろ姿しか見ることができなかったが、なめらかそうでいて、すこし老けた感じの手の様子から、年増と判断した。
「あなたはわたくしにおっしゃった。我慢せい。もうすこしで、この城は我らのものとなる、と」
蔡瑁は腕を組んだまま、女をじっと見据えている。
女は、そんな蔡瑁の心の内を、すべて見抜いているようだ。
忍び笑いをしながら、ゆっくりと蔡瑁に近づいていく。
「もう少し、もう少し。そういい続けてもう十年余り。泣くことも許されず、わたくしは、ただひたすら、耐えてきた。
嫌いな年寄りを夫と呼び、立てていかねばならぬ苦しみ、ほかの女たちとの競って勝たねばならぬ苦しみ、あなたに自由に会うことのできない苦しみ。
ほんとうに、最初は苦しみばかりで、わたくしはここから逃げることばかり考えていた。
でも、あなたが恐ろしくて、とてもそんなことは出来やしなかった」
蔡瑁は、黙ったまま、女の言葉を聞いている。
女は、その白いたおやかな手を、苦い表情をうかべる蔡瑁の頬にあてた。
「わたくしが、正夫人の座についたとき、泣いたのは、ほかのだれでもない、このわたくし。もうこれで、逃げることなどできなくなってしまったのだと思ったから。
いっそ死ぬ思いで、逃げてしまおうかと本気で考えた。
泣いて、悩んで、そうして、いざ逃げようとしたとき、わたくしの足は動かなかった。
あなたと別れるのが怖かったからではない。苦労に耐えた年月を、捨ててしまうことが惜しかった。
あれほど我慢したのだもの。どうせ逃げても殺される。それならば、だれもわたくしを殺せないような女になればよい、と。
人の心とは不思議なもの。そう思いついた途端に、わたくしの中から恐怖が消えた。もうあなたも怖くない。いまは、むしろあなたがわたくしを怖がっている」
またも忍び笑いをしながら、女は、蔡瑁の頬を、まるで子供をからかうような仕草で、さすった。
「なぜ怖がっているのです? わたくしはあなたの思い通りの駒になったというのに。
落ちぶれた豪族の妾であったわたくしに目をつけた、あなたの眼力が正しかったと、誉めてやっているのですよ」
「ありがたがれ、とでもいうのか」
蔡瑁は、また呻《うめ》くように言う。
だが、女は、くぐもった笑い声をたてると、組まれている蔡瑁の腕を自らの手でほどき、そして、無防備になった胸板に、自身の顔を埋める。
ちょうど、趙雲たちの隠れているほうからは、その横顔が見える形となった。
まさか。
趙雲は絶句し、逢瀬のよろこびに陶然となっている横顔を、凝視せざるをえなかった。
以前、趙雲は劉備とともに、劉表と会見をしたことがあった。
会見といっても、ざっくばらんなものであったが、そのときに、もてなしてくれたのが、襄陽の主である劉表と、その妻であった。
劉表とはだいぶ年が離れているようで、妻と言うより、娘と言ってもよいくらいに見えた。
その美しい顔はいつもうつむき加減で、場を和ますために劉備がおどけたことを言っても、ただ唇の端を動かすだけ。
おとなしい女であった。
蔡瑁の姉であり、孔明の妻の叔母、蔡夫人。
つづく
安堵のため息か、官能ゆえのため息か。
こんな夜中に、人目のつかない場所で、男と女がふたりしてこっそりと会っている。
逢引だろうということは、容易に察することができた。
女と蔡瑁は、しばらく無言であった。
しかし、それは、逢うことができてうれしいという甘い雰囲気ではない。
女も沈黙したままならば、蔡瑁も憮然とした表情で腕を組み、相手の出方を待っている、というふうだ。
「遅かったではありませぬか」
先に口を開いたのは女のほうであった。
趙雲は、はっとした。
聞き覚えのある声だったのだ。
女は、遅かったと蔡瑁をなじるが、たいして待っていたわけではないことを、趙雲は知っている。
蔡瑁は、そんな女をじっと見据えていたが、やがて、ゆっくりと口をひらいた。
「いつまでこんなことを続けるつもりだ」
蔡瑁はうなるように言う。
ゆらめく蝋燭の明かりに浮かぶ相貌は、苦々しく歪んでいる。
「はじめたのは、あなたではありませぬか」
女は、そんな蔡瑁の様子を嘲《あざわら》うように、笑った。
笑い声が耐えられないとでもいうのか、蔡瑁はその笑い声に眉をしかめる。
女は、さらに声をたてて笑う。
「こうして逢うことをいまさら怖じているとは、おかしなこと。もう止めることなどできませぬ。いい加減に、覚悟をきめたらいかが」
「はじめたのは、たしかに儂かも知れぬ。だが、ほんとうに始めたのはお前だ」
その言葉に、女はくぐもった笑い声をあげた。
「そう。泣いて嫌がったわたくしを説得し、あの年寄りの妻にしたのは、あなた」
唄うように言いつつ、女はするりと薄衣を剥いだ。
音もなく床に落ちた薄衣の下から、簡単に髪を結い、地味な女官の服をまとった、年増女があらわれた。
衝立に隠れた格好では、その後ろ姿しか見ることができなかったが、なめらかそうでいて、すこし老けた感じの手の様子から、年増と判断した。
「あなたはわたくしにおっしゃった。我慢せい。もうすこしで、この城は我らのものとなる、と」
蔡瑁は腕を組んだまま、女をじっと見据えている。
女は、そんな蔡瑁の心の内を、すべて見抜いているようだ。
忍び笑いをしながら、ゆっくりと蔡瑁に近づいていく。
「もう少し、もう少し。そういい続けてもう十年余り。泣くことも許されず、わたくしは、ただひたすら、耐えてきた。
嫌いな年寄りを夫と呼び、立てていかねばならぬ苦しみ、ほかの女たちとの競って勝たねばならぬ苦しみ、あなたに自由に会うことのできない苦しみ。
ほんとうに、最初は苦しみばかりで、わたくしはここから逃げることばかり考えていた。
でも、あなたが恐ろしくて、とてもそんなことは出来やしなかった」
蔡瑁は、黙ったまま、女の言葉を聞いている。
女は、その白いたおやかな手を、苦い表情をうかべる蔡瑁の頬にあてた。
「わたくしが、正夫人の座についたとき、泣いたのは、ほかのだれでもない、このわたくし。もうこれで、逃げることなどできなくなってしまったのだと思ったから。
いっそ死ぬ思いで、逃げてしまおうかと本気で考えた。
泣いて、悩んで、そうして、いざ逃げようとしたとき、わたくしの足は動かなかった。
あなたと別れるのが怖かったからではない。苦労に耐えた年月を、捨ててしまうことが惜しかった。
あれほど我慢したのだもの。どうせ逃げても殺される。それならば、だれもわたくしを殺せないような女になればよい、と。
人の心とは不思議なもの。そう思いついた途端に、わたくしの中から恐怖が消えた。もうあなたも怖くない。いまは、むしろあなたがわたくしを怖がっている」
またも忍び笑いをしながら、女は、蔡瑁の頬を、まるで子供をからかうような仕草で、さすった。
「なぜ怖がっているのです? わたくしはあなたの思い通りの駒になったというのに。
落ちぶれた豪族の妾であったわたくしに目をつけた、あなたの眼力が正しかったと、誉めてやっているのですよ」
「ありがたがれ、とでもいうのか」
蔡瑁は、また呻《うめ》くように言う。
だが、女は、くぐもった笑い声をたてると、組まれている蔡瑁の腕を自らの手でほどき、そして、無防備になった胸板に、自身の顔を埋める。
ちょうど、趙雲たちの隠れているほうからは、その横顔が見える形となった。
まさか。
趙雲は絶句し、逢瀬のよろこびに陶然となっている横顔を、凝視せざるをえなかった。
以前、趙雲は劉備とともに、劉表と会見をしたことがあった。
会見といっても、ざっくばらんなものであったが、そのときに、もてなしてくれたのが、襄陽の主である劉表と、その妻であった。
劉表とはだいぶ年が離れているようで、妻と言うより、娘と言ってもよいくらいに見えた。
その美しい顔はいつもうつむき加減で、場を和ますために劉備がおどけたことを言っても、ただ唇の端を動かすだけ。
おとなしい女であった。
蔡瑁の姉であり、孔明の妻の叔母、蔡夫人。
つづく