はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

風の終わる場所 36 静かなる湖のほとり・3

2021年06月26日 05時43分42秒 | 風の終わる場所


朝になり、孔明は、昨夜はなにをしていたのかと問おうとおもったが、止めた。
趙雲は、あれからまた寝台にもどったようだが、ほとんど眠っていないことは、顔色からうかがえた。
言葉もずっと少なくなり、孔明もまた、それに応えるかのように、沈黙を守った。
こうなれば持久戦である。
せまい空間において、たがいの気配だけをそこに感じるような、奇妙な時間がつづいた。

沈黙を破ったのは趙雲のほうであった。
「今日も帰らないつもりか」
「そうだ」
「そうか」
このみじかいやり取りのあと、趙雲はなにをおもったか手早く路銀などをあつめると、
「今宵は、俺が宿をとる」
と言って、孔明を置いて出て行った。
あまりのことに、これでは意味がないと唖然としたまま、孔明は二晩目をむかえることとなった。






終風村(いまや、孔明にとっては呪われた村に等しい)での出来事を、静寂の中でおもいだしてみる。
たいがいが、ろくなものではないが、あのとき、趙雲は、なぜあんなことを唐突に口に出したのか。
『俺は、おまえを選んだのだ』
そんなことは、とっくの昔に知っていた。
いまさら、おのれの選択に気づいて動揺しているのか。
もしそうだとしたら、趙雲もまた、おおきな勘ちがいをしている。
「主公に忠節を誓うわたしを選んだということは、すなわち、主公を選んだも同等ということではないか、たわけもの。李巌ごときの言葉に惑わされて、なんとする。なにを恥じ、なにを怖じる必要があろうか」
闇に向かって悪態をつくが、これが、どこぞの宿にいる男に聞こえるはずもない。
まったく、散歩がてら遊びに来た虎に襲われたならどうしてくれる、とおもいつつ、孔明は目を閉じた。






夜半過ぎ、またも孔明は人の気配をおぼえて目を覚ました。
家にはだれもいない。
さすがに戸口の戸締りもしっかりした。
山賊にしてはしずかだ。
おかしいとおもって窓から外を眺めれば、あきれたことに、趙雲がそこに立っているのであった。
宿をとりそこね、しおしおともどってきたのか。
ならば、おおいに笑ってやるところである。
そうして、出迎えに行こうとした孔明であるが、戸口の閂を外す段になり、ふと、足が前に進まなくなった。
あたりがあまりにしずかすぎるからであろうか。
月光に照らされたしずかな闇のなかで、いま、手に取るように、趙雲の心がわかった気がした。
幻想ではなく、たしかにわかった。
もどろう。
そうおもい、一度は寝台に足を運びかけたが、孔明は、また足を止めて、いらだちとともに、ちいさく声をあげ、そのまま一気に、閂をはずした。

闇を飛ぶ羽虫の羽音すら聞こえるほどのしずけさである。
扉を開く音が聞こえなかったわけではあるまい。
しかし、趙雲は振り返らなかった。

戸口に立っていると、逃げ場をうしなった風が、家のなかに向かって入り込む。
そのつめたさに身震いすると、ようやく、湖の畔の趙雲が、背を向けたままではあるが、口をひらいた。
「風邪を引く。もどれ」
「家の主が外でぼんやりしているのに、客のわたしが、中で眠るのも落ち着かない。宿はどうした」
「空いていたさ。なんとなく気になってもどってきた。声がふるえている」
「冷えるからな」
孔明は、肩に羽織っただけの上衣を、風で飛ばないようにおさえつつ、趙雲のそばに立った。
湖を渡る風に、結わないままの黒髪が踊った。
水分をふくんでいるのか、風はつめたく、重い。
「おまえは、人の言うことを聞かない奴だよな」
と、近づいてきた孔明に、趙雲が言った。
その声色には、あきらめがふくまれている。
「よく聞くほうだとおもうが」
「現に聞いてないだろう」
「場合によって変わる。あなたがもどれば、わたしももどろう」
「どっちに」
「家と成都、両方だ」
それに対する返事はなかった。

いらだちや怒りは、もうなかった。
夜半だというのに、月明かりのせいで、どこかあかるい湖のふしぎなしずけさをながめつつ、孔明は、夢の中にいるような錯覚さえおぼえた。
だからだろうか。
心は澄みきっている。
趙雲のことをいま、恐ろしいくらいに把握しているのと同様に、趙雲も、こちらを読んでいるのだろうということが判った。

「わたしたちは、救われないのだろうか」
かたちのくずれた月を映す湖をながめつつ、そんなことをつぶやくと、ようやく趙雲が顔を向けてきた。
「人と人の組み合わせというものがあるだろう。兄弟、夫婦、主従、なんでもよい。人が連合した時に発生する形であるが、これは、縁によって引き合わされるものだ。
それを継続させるのは、欲であったり、恩であったり、義理であったり、さまざまだ。惰性というものも、あるかもしれないな。
おもうに、主公や関羽殿、張飛殿のように、屈託のないあかるい組み合わせもあれば、李巌や、劉公子のように、うらみによって結びつく場合もある」
「そうだな」
孔明は、湖から目を逸らし、此方を見ている趙雲の視線を、真っ向から受けた。
「主公に、このままでは、おまえは破滅をすると言われたのだろう」

趙雲が、いささか驚いたように言葉をつまらせた。
孔明は、ちいさく息をつくと、肩に羽織る上衣の裾が、風をはらんで大きくふくらむのをなおしつつ、言った。

「破滅をおそれて、わたしを捨てるのか」
趙雲は答えず、ただ黙ったまま、湖のほうに目を向けた。
しかし、孔明は、目をまっすぐに向けてつづけた。
「わたしを捨てるつもりならば、いますぐ殺してしまうがいい。そして、この地のどこへなりと、逃げればよいのだ」
さすがに仰天したのか、趙雲がふたたび孔明に目をもどした。
「なにを言い出す」
「わたしを選んだのだろう? その覚悟でついてこい、といっている。わたしを取って破滅するか、あるいはわたしを殺してどこへでも行け。それ以外はゆるさぬ」
「莫迦なことを。おまえの言葉遊びに付き合っている気分ではないのだ」
「遊びで斯様なことを口にできるとおもうか、趙子龍!」
孔明がつよくいうと、趙雲はおどろいたように、目を開いた。
「わたしは、おそらくあなたの胸に抱えるものを、完全に受け止めることはできないだろう。だが、その代わりに、わたしの命を与えると言っている。捨てるならば、殺してから行け」

趙雲は、言葉をなくして、孔明をじっと見つめていた。
視線を恐ろしいとおもったのは、初めてだった。
だが、ここで引いてはならない。
もしもここで目を逸らしたなら、言葉が嘘だということになってしまうと、孔明はおのれをはげました。

「あなたは、わたしにとっては、ただの主騎、盾ではない。これよりわたしの歩まねばならぬ道は、とてもではないが、一人では歩ききれない。だから伴に行って欲しいと、言葉を変えて、わたしは何度もあなたに言ってきた。
なのに、それを無視して、勝手におもい悩み、去ってしまうのであれば、最初から、わたしを守ったりするな! 主公にのみ忠義を捧げる、つめたい人間のままであればよかったのだ!」
「滅茶苦茶だ」
「滅茶苦茶なものか。言葉を重ねれば、重ねるほどに腹の立つ! 主公の言葉は絶対か? 主公の言葉を恐れて逃げたのか? では、わたしはどうなる!」
「主公は、破滅する、などとはおっしゃらなかった」
「だが、その顔色からすれば、似たようなことを言われたのだろう? 子龍、あえて言う。主公とわたしか、どちらか選ばねばならない日は、遅かれ早かれやってきた。 われらが目指している道というのは、そういう道なのだ。
主公はつねに、家臣たちの頂点にあって、公平さを保った裁定者でなければならない。主公に従うのであれば、わたしのそばにいることはできぬぞ。主公の判断を狂わせてしまうからな」
趙雲は、どこかかなしそうに、唇をゆがめて、つぶやいた。
「いま、この場で、俺に、情を取るか、それとも情を捨てるか、どちらかを選べというのだな」
「そうだ」
「情を捨てたなら、おまえを殺さねばならぬのか」
「そうだ」
「そんなことが、できるわけなかろう」
「でも、選べ。わたしはあなたに命を与えていた。先刻、気分に任せて決めたのではない。もうずっと前からそうだった。気づかなかったのか」

趙雲は、深く目をつむると、かんがえた。
しばらくかんがえたあと、静かに、ゆっくりと答えた。

「気づいていたのかな。だから、これほどまでに悩むのか」
「悩んでいたのは、あなた一人ではない。わたしは、ある時期から、主公と距離を置いていた。主公は、わたしに格別な想いがあるようだが、それに甘えて、そのまま、おたがいの想いの居心地のよさに溺れてしまっていては、余人も入り込めず、せまい関係の中だけで夢がついえてしまうとおもったからだ。それでは、たがいにたがいの可能性を潰しあってしまう。
主公はわたしを信じてくださる。だからこそ、子のように尽くすのではなく、最上の家臣として、最大の忠をしめすのだと決めたのだ。それがなによりの恩返しなのだとおもった。
だが、そうは決めても、これはなかなかに辛かった。ときには、主公を付き放すような真似もしなければならなかった。気まずさや、心苦しさに耐えかねて、もういいではないかとおのれを誤魔化し、以前のように振る舞おうかとおもったこともたびたびだ。でも、耐えられたのは、だれのお陰だとおもう。
わたしが悩んでいたことに、気づいていただろう。あなたがいるからこそ、いまのわたしがあるのだ。それを捨てるというのであれば、わたしを殺して行くがいい。どちらにしろ、一人残されたままで、生きていけるとはおもえない」
「おもいつめすぎだ」
「あいにくと、不器用でね、物事を簡単にかんがえることができないのだ。それでも、まだもどらぬと言うのか」
「俺は主公にとって害になるばかりではなく、いずれはおまえにとって、最悪の存在になるかもしれぬ。俺の所為で、おまえは破滅するかもしれない。わかっているだろう。俺をそばに置くのは危険だ」
「おもいつめているのは、あなたのほうだ。李巌のことばにまどわされて、自分の心を読みまちがえているだけなのだ。わたしは、すべて判っていると言っただろう。破滅するならばそれでよし。余計な約束も誓いもいらぬ。死ぬならば共に死のう。それでよい」
「おまえは莫迦だ」
「なんとでも言え。こればかりはゆずらぬ。ほかの誰でもない、このわたしが共に生きるのだ。破滅することなぞあるものか。子龍、わたしを選べ」

山野を駆け、湖の表面を撫でる風が吹きぬけていった。
どれくらい、時間が経っていたかはわからない。
しばらく、たがいに黙って、胸の内側の声と戦っていた。

「どんな命令だ」
趙雲がさきに口をひらいた。
それは、ここ数日の、こわばった、張りのないものではなかった。
弱弱しさすらあったものの、以前のような、親しみのこもったものであった。
「俺がいま、是と言ったなら、きっと生涯、とんでもない重荷を背負って、生きることになるのだろうな」
「当たり前だ。ほかのだれをも抱えられないくらいに重いぞ。その代わり、わたしは、あなたの全てを背負って生きて行く。ほかの誰も、心の内に入れさせない。それがあなたへの代償だ」
趙雲が、口を開きかけたのを、孔明は、手ぶりで止めさせた。
「言うな。聞かない。でも判っている。わたしはもしかしたら、あなたにひどいことをしようとしているのかもしれない。うらむのならば、うらんでもいい。好きなだけうらんでくれ」
「うらみはしない。これは、俺の勝手だからな」
「ほら、そうやって、自分を責めるなというのだ。弱点なんてなにもないとおもっていたのに、意外な弱点だな。自分を責める前に、わたしの悪口を言うことにしたらどうだ」
それを聞いて、ようやく趙雲の顔に、笑みが浮かんだ。
かたくなだった顔に、ひさしぶりにやさしげな表情が浮かんだので、孔明は、ほっとする。
同時に、おもった。
うらみもなにもかも、敢えて受けよう。
こちらこそ、うらむまい、と。
「そんな自虐的なはげましがあるか。まったく、おまえは変な奴だ」
「いまのは誉め言葉として受け止めておくよ」

やがて、地平の彼方に、ほの白い光が見えてきた。
夜明けである。
鏡面のように澄んだ湖が、幾千万の宝石を浮かばせているように、朝陽をうけて、きらきらとかがやきはじめた。
その息を呑むうつくしい光景に、二人してだまって、日の昇るのを見つめていた。

「地元の者に聞いたのだが」
と、波間に生える朝陽を見つめたまま、趙雲がいった。
「伝説によれば、この湖には、龍が住んでいるそうだ」
「そうか」
「もしも、このまま職を離れて、ここで暮らすことになったなら、湖を見るたびに、おまえのことを思い出すようになるのだなと、そうおもっていた」
「だから、夜中に湖を眺めていたのか」
そんなところだ、と趙雲はちいさく、聞こえるか聞こえないかの声で答えた。
「いまの言葉で、いままでの怒りはぜんぶ忘れられるな」
孔明は、何日かぶりに声をたてて、あかるく笑った。


静かなる湖のほとりⅡ・1につづく……


(初出 旧サイト・はさみの世界(現・牧知花のホームページ) 2005/10/14)


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