新野城《しんやじょう》は、しばらく陰鬱な空気に包まれた。
明らかになった『黒鴉』の存在、そうであったらしい宋白妙《そうはくみょう》の自害、死んでしまった色男の孫直《そんちょく》と、喪に服している兄の孫乾《そんけん》。
周慶《しゅうけい》らも調子がくるってしまっているらしく、あれほど美味であった新野城の食事も、はっきり不味《まず》くなってきた。
どうやら、飯の焚き加減などは白妙が担っていたらしい。
厨房を仕切る周慶は、がっかりしている城の者たちに、
「白妙の作る料理の水加減は絶妙でしたもの」
と怒りを含めて言った。
周慶は、白妙が曹操宛の密書を持っていてもなお、その潔白を信じているらしく、たまに孔明が姿を見かけて話しかけても、どこかつんけんした態度を見せる。
孔明自身も、徐庶にいやがらせをつづけ、自分を殺そうとした細作《さいさく》がいなくなったわけだから、もっと晴れ晴れとしてもよいはずなのに、どこかスッキリしないものを感じていた。
『徐兄を曹操の元に連れて行った『黒鴉』が、なぜわたしに対しては、すぐに殺そうとしたのだろうか』
その疑問が残っている。
仕事をしていても、気が晴れないので、趙雲のところへ行って、相談に乗ってもらおうかと思った。
そこで、仕事をひと段落させてすぐに趙雲の住まう小部屋に向かったのだが、肝心の趙雲がいない。
「行神亭《こうじんてい》へ行ったらしいぞ」
と、声をかけてきたのは、意外にも簡雍《かんよう》だった。
この丸っこい体形の男は、趙雲の部屋を自分も覗きつつ、やれやれ、というふうに首を横に振った。
「こんな殺風景な部屋に住んどるから、潤いが欲しくなるのだろうが、真面目な奴が女に入れ上げると怖いな。
孫直が死んだから、ここぞとばかりに蘇果《そか》を狙おうとしているのだろう」
むっとして、孔明はすぐ反駁する。
「子龍どのは、そういう男ではないでしょう」
思わずかばうと、簡雍はそれには応じず、ため息をつく。
「蘇果はだいぶ参っているようだぞ。いまは城を下がり、行神亭に籠っていると聞いた」
「そうだとしても、子龍どのには考えがあるはずです」
「どんな?」
どんな、と問われても、さすがの孔明もすぐに答えが出ない。
困っていると、簡雍はそれには頓着しなかったようで、つづけた。
「蘇果と孫直は似合いだったのになあ。
孫直が死んだ直後に、蘇果が言ったことが忘れられん。
『これからどうしたらよいの』と言ったのだよ。
なにかいい交わしていたのだろうに、先に逝かれてしまった。気の毒になあ」
「あの混乱の中でも、よく注意して周りをみておられたのですね」
思わず孔明が褒めると、簡雍は照れて、
「いや、ちょっとしたことが気になるたちでな」
と笑った。
「なんにせよ、『黒鴉』は死んだ。
白妙がそうだったとは意外だったが、本名が『白』妙で、細作としての名が『黒鴉』とは、悪い冗談のようだな」
「まったくです」
相槌を打ちつつ、ほんとうにそうだろうかと、孔明はこころの隅で考えていた。
その翌日になって、司馬徽《しばき》(水鏡先生)の私塾で同窓だった、馬良《ばりょう》、あざなを季常《きじょう》から手紙がやってきた。
馬良は、若いのに珍しく白い眉をした人物で、五人の兄弟がいるのだが、そのなかでももっとも優秀だと世間に名の知れた人物だ。
孔明と馬良とは、それぞれ弟を通じて親戚となっており、頻繁に手紙のやり取りをしている。
今回の手紙は、孔明の身を案じる内容だった。
『黒鴉』のことは、城外には秘密にすることで家臣たちのあいだで約束されていたが、それでも騒ぎの目撃者が多すぎて、外に漏れてしまったようだ。
馬良は才覚がありすぎる者特有の、どこか揶揄《やゆ》するような調子で、
『君が新野城でかなり苦労していることは聞いている。
どうだい、いまからでも隆中に戻ってくるというのは。
とはいえ、そんなことになれば、賭けをしている連中を喜ばすだけだから、よしたほうがいいかもしれないな。
賭けのことは知っているかい。
君が新野城でうまくやれるかどうかで、塾生が賭けをしているそうだよ。
もちろん、ぼくはそれに乗っていないから、安心してくれたまえ。
噂じゃ、ほとんどが『君が新野城から逃げて帰ってくる』に賭けてしまっているようだ。
逆に『うまくやる』に賭けているやつがいるそうだが、もしこのまま君が帰ってこなかったら、そいつが大儲け、ということだな。
その誰かさんのためにも、がんばれよ』
ということが書いてあった。
気楽なものだなと呆れつつ、孔明は、馬良に返事を出した。
『新野城はたいへん居心地がよい。
曹操の細作もいなくなったことだし、どうだい、きみも劉豫洲《りゅうよしゅう》(劉備)に仕えてみるというのは』
と、誘いの文句を連ねて。
返事はいまだに来ていない。
つづく
明らかになった『黒鴉』の存在、そうであったらしい宋白妙《そうはくみょう》の自害、死んでしまった色男の孫直《そんちょく》と、喪に服している兄の孫乾《そんけん》。
周慶《しゅうけい》らも調子がくるってしまっているらしく、あれほど美味であった新野城の食事も、はっきり不味《まず》くなってきた。
どうやら、飯の焚き加減などは白妙が担っていたらしい。
厨房を仕切る周慶は、がっかりしている城の者たちに、
「白妙の作る料理の水加減は絶妙でしたもの」
と怒りを含めて言った。
周慶は、白妙が曹操宛の密書を持っていてもなお、その潔白を信じているらしく、たまに孔明が姿を見かけて話しかけても、どこかつんけんした態度を見せる。
孔明自身も、徐庶にいやがらせをつづけ、自分を殺そうとした細作《さいさく》がいなくなったわけだから、もっと晴れ晴れとしてもよいはずなのに、どこかスッキリしないものを感じていた。
『徐兄を曹操の元に連れて行った『黒鴉』が、なぜわたしに対しては、すぐに殺そうとしたのだろうか』
その疑問が残っている。
仕事をしていても、気が晴れないので、趙雲のところへ行って、相談に乗ってもらおうかと思った。
そこで、仕事をひと段落させてすぐに趙雲の住まう小部屋に向かったのだが、肝心の趙雲がいない。
「行神亭《こうじんてい》へ行ったらしいぞ」
と、声をかけてきたのは、意外にも簡雍《かんよう》だった。
この丸っこい体形の男は、趙雲の部屋を自分も覗きつつ、やれやれ、というふうに首を横に振った。
「こんな殺風景な部屋に住んどるから、潤いが欲しくなるのだろうが、真面目な奴が女に入れ上げると怖いな。
孫直が死んだから、ここぞとばかりに蘇果《そか》を狙おうとしているのだろう」
むっとして、孔明はすぐ反駁する。
「子龍どのは、そういう男ではないでしょう」
思わずかばうと、簡雍はそれには応じず、ため息をつく。
「蘇果はだいぶ参っているようだぞ。いまは城を下がり、行神亭に籠っていると聞いた」
「そうだとしても、子龍どのには考えがあるはずです」
「どんな?」
どんな、と問われても、さすがの孔明もすぐに答えが出ない。
困っていると、簡雍はそれには頓着しなかったようで、つづけた。
「蘇果と孫直は似合いだったのになあ。
孫直が死んだ直後に、蘇果が言ったことが忘れられん。
『これからどうしたらよいの』と言ったのだよ。
なにかいい交わしていたのだろうに、先に逝かれてしまった。気の毒になあ」
「あの混乱の中でも、よく注意して周りをみておられたのですね」
思わず孔明が褒めると、簡雍は照れて、
「いや、ちょっとしたことが気になるたちでな」
と笑った。
「なんにせよ、『黒鴉』は死んだ。
白妙がそうだったとは意外だったが、本名が『白』妙で、細作としての名が『黒鴉』とは、悪い冗談のようだな」
「まったくです」
相槌を打ちつつ、ほんとうにそうだろうかと、孔明はこころの隅で考えていた。
その翌日になって、司馬徽《しばき》(水鏡先生)の私塾で同窓だった、馬良《ばりょう》、あざなを季常《きじょう》から手紙がやってきた。
馬良は、若いのに珍しく白い眉をした人物で、五人の兄弟がいるのだが、そのなかでももっとも優秀だと世間に名の知れた人物だ。
孔明と馬良とは、それぞれ弟を通じて親戚となっており、頻繁に手紙のやり取りをしている。
今回の手紙は、孔明の身を案じる内容だった。
『黒鴉』のことは、城外には秘密にすることで家臣たちのあいだで約束されていたが、それでも騒ぎの目撃者が多すぎて、外に漏れてしまったようだ。
馬良は才覚がありすぎる者特有の、どこか揶揄《やゆ》するような調子で、
『君が新野城でかなり苦労していることは聞いている。
どうだい、いまからでも隆中に戻ってくるというのは。
とはいえ、そんなことになれば、賭けをしている連中を喜ばすだけだから、よしたほうがいいかもしれないな。
賭けのことは知っているかい。
君が新野城でうまくやれるかどうかで、塾生が賭けをしているそうだよ。
もちろん、ぼくはそれに乗っていないから、安心してくれたまえ。
噂じゃ、ほとんどが『君が新野城から逃げて帰ってくる』に賭けてしまっているようだ。
逆に『うまくやる』に賭けているやつがいるそうだが、もしこのまま君が帰ってこなかったら、そいつが大儲け、ということだな。
その誰かさんのためにも、がんばれよ』
ということが書いてあった。
気楽なものだなと呆れつつ、孔明は、馬良に返事を出した。
『新野城はたいへん居心地がよい。
曹操の細作もいなくなったことだし、どうだい、きみも劉豫洲《りゅうよしゅう》(劉備)に仕えてみるというのは』
と、誘いの文句を連ねて。
返事はいまだに来ていない。
つづく
※ 馬良の返事は、「臥龍的陣 夢の章」で戻ってきますv
ところで、昨日更新した「近況報告2024 12 その1」について、自分が浮かれて絶好調! みたいなこと書いてしまいましたが、新しい「赤壁編」がみなさんに「つまらない」と思われたら、目も当てられないんですよね……
大丈夫かなあ、と思いつつ、今日も「赤壁編」を書くわたくしでありました。
序章は、まだちょっとだけ続きます。
どうぞ最後までお付き合いくださいませね。