自邸に帰ると、習氏は、やはり、まったく変わった素振りを見せず、馬超を出迎えた。
馬超は、そのまま屋敷に入ることはせずに、安車のある車庫へと向かい、その車輪をたしかめた。
車輪には、まだ湿った土が残って、ついていた。
車庫には、安車の御者もいて、突然の馬超の登場におどろいて、隅っこでかしこまっている。
「おまえは、お下がり」
習氏の声がした。
御者は、かしこまったまま、緊迫した空気から逃げるようにして、車庫を出て行く。
そうして、二人だけとなった。
人払いでもしたのか、ひどく静かだ。
人の気配がまるでしない。
振りかえって真正面から見た習氏の顔は、怒っているのか、それとも単にこわばっているのか、よくわからない表情を浮かべていた。
習氏は黙って、馬超を真っ直ぐ見つめている。
そうだ、この女は、いつでもわたしを真っ直ぐ見つめてくる。
一度たりとも、目を逸らしたことがない。
婚儀の日からずっとそうだった。
董氏は、いつも横に並んで一緒に歩いていける、友のような女だった。
だが、この習氏は、つねに真正面から自分を見つめてくる。
なにひとつ見逃さぬように。
それは、なぜだ?
関心がない者を、そんなに見る必要はないはずだ。
管理するためだろうか。
であれば、ただ、おかしな振る舞いをしないかどうか、ただ家のなかで見張っていればよいだけの話である。
すでに、ほかに何人もの妾を持っている。
それでも、習氏は、なにひとつ不平を口にしなかった。
だが、それでもなお、玻璃細工の行方を気にしていたのは、なぜだ。
安車でもって、ひそかにおのれのあとを尾行していたのは、なんのためだ。
なにも見ていなかったのは、どちらだ。
わたしは、この女を、どれだけ知っていたのだろう。
「いくらご入用なのです。すぐに用意させましょう」
習氏は淡々と、表情ひとつ、変えずに言った。
さすがに馬超はおどろいた。
趙雲が使者を先によこしていたのか?
いいや、馬超は、ここまで、自慢の愛馬で飛ばしてきたのだ。
趙雲の馬道楽はしっているが、この馬より早く走れる馬など、成都には、いないと断言できる。
「なぜわかる」
「郎君の顔を見ればわかります。あの方をお助けしたいのでしょう? 借財を肩代わりするというのでしょう? いくら必要なのですか」
馬超は、淡々と言葉をつむぐ習氏の勢いに押されるようなかたちで、答えた。
「わかりました。すぐに用意させ、証文を破らせます。ただ」
「ただ?」
「お答えくださいまし。あの方をお助けしたあと、あなたは、あの方をどうなさるおつもりですの?」
趙雲が言った、最低野郎の話が頭に浮かんだ。
同時に、こちらをまっすぐに、射るように見つめてくる習氏の顔が目に入ってくる。
思わず、目を逸らしかけた馬超であるが、自制した。
目を逸らしてはならないのだ。
これ以上は、目を背けてはいけない。
「あの娘をどうするつもりもない。あの娘のこれからは、あの娘と、あの娘の家族が決めることだ」
「側室に迎えるおつもりではないのですか」
「それはせぬ」
あの娘は、さようならと言った。
感謝されたくて、そうするのではない。
助けられなかった女の代わりに、こちらがわがままを通して、助けようとしているだけだ。
それだけの話だ。
習氏が安堵するかと思った馬超であるが、しかし、そうではなかった。
おどろいたことに、習氏は、じっと組んだ腕を震わせて、涙を必死で堪えている。
嬉し泣きを堪えているのではない。
その目は、はっきりと、馬超を非難していた。
言葉をなくしていると、習氏の目から、涙が、ひとすじ、そしてまたひとすじとこぼれはじめた。
思わず手を伸ばすと、習氏ははじめて、馬超の手をはげしく振り払った。
「触らないでくださいまし!」
それまでに聞いたことの無いような、きつい口調、そして声であった。
感情の起伏の乏しい女だとばかり思っていた習氏のなかにある、思わぬ激情に触れて、馬超はさらに、なんといってよいかわからなくなる。
と、同時に、そこまで深く傷つけたのだと知った。
昨日の、あの心無い言葉を口にしたことを、いまこそ心の底から後悔した。
おのれの過去の悲しみにどっぷりと浸かり、まるで関係のない女を傷つけ、悲しませ、自分ばかりを憐れんでいた。
「どなたでもよいのでしょう! わたくしでなくても!」
習氏は感情を余さず吐き出すような声で言った。
「たまたま、郎君を援助できる豪族に娘がいた。だから、あなたはわたくしを娶った。ほかの娘でもよかったのです。
わたくしのことなんて、なんにも知らないくせに!」
「すまぬ」
「なにをすまないとおっしゃるの? ご自分が悲惨な運命を辿ってこられたから、特別なのだとでもおっしゃりたいの? だから、わたくしたちには黙って我慢しろとおっしゃりたいの?
わたくしたちとは、新しい生活を築くことも出来ぬとおっしゃりたいのですか!」
馬超は黙った。
意識はしていなかったにしろ、そうしろと、いままで無意識のうちに、無情な要求を付きつけてきた。
この女は、それをずっと、今日まで我慢してきたのだ。
「あの崖から飛び降りたいのは、わたくしでございます」
思わぬことばに、馬超は仰天する。
「なにを馬鹿なことを!」
「いいえ! あなたは、だれとでもいいと、おっしゃったではありませんか! わたしが死んだなら、また適当にお相手を選ばれればよいのです!
そうして、また同じことを言えばよいのです! だれでもよかった、と!」
踵を返し、本邸にもどろうとする習氏を止めようと、馬超は手を伸ばすが、習氏は、はげしくそれを拒んだ。
「ご安心くださいませ。娘が成人するまでは、わたくしは死にはいたしませぬ。
ただ、それだけのためにわたくしは生きるのです。決して、あなたのためには、生きませぬ!」
そうして、習氏は、屋敷に駆け出していった。
馬超には、それを追いかけることもできなかった。
ふと思い立ち、懐のなかを見た。
見れば、絹にくるまれていた青い玻璃の子馬は、おそらく青翠を助ける弾みでそうなってしまったのだろう。
足が、無惨にも折れて、取れてしまっていた。
これではもう、走れまい。
※
味気ない日々が流れていった。
淡々とした日々だった。
あの朝以来、馬超は息子の秋の夢を見ることもなくなったが、同時に、娘が笑顔で駆け寄ってくることも、なくなった。
習氏は淡々と、馬超の身のまわりをする。
まるで何もなかったように。
必要とあればことばを交わすし、雑談にも応じる。
しかし、それ以上でもなければ、それ以下でもない。
平和で、空疎で、閉ざされた場所。
馬超はもう、この閉塞感を、習氏のせいにすることはなかった。
すべては自分のせいだったと気付いたいまとなっては、だれを恨む気にもならなかった。
あの青い玻璃の子馬と同じように、自分で自分の未来を、その手で叩き壊したのだ。
目をつぶったまま、なにも見ようとせずに。
日々はただ、過ぎていく。
馬超は、青翠がどうなったのか、その後を知らないまま過ごしていた。
習氏は、言われたとおりにする女である。
きっと、高大人からは解放されただろう。
だが、その後、どうやって生きているものか、馬超は知らなかった。
いや、あえて知らないままでいた、というほうが正しいだろう。
知れば知ったで、気になってしまったであろうし、容姿はまるで似ていないまでも、青翠と董氏を重ねてしまっているのも、また事実なのである。
きっと、また青翠になにかあったとしたら、馬超は動いてしまう。
そうなれば、さらにまた、習氏を傷つけることとなる。
こうなってみて、はじめて、馬超は、自分の生涯で、おそらく初めて得た、秩序ただしい安息の日々を、そしてそれを作ってくれた習氏や娘を、どれだけ愛していたかを知った。
董氏が最愛の女であることには変わりはなかったし、秋のことを忘れることもなかった。
けれど、徐々に、二人は過去の中に消えていった。
忘れることはない。
けれど、無理にでも忘れなければならない二人であった。
成都で淡々と職務をこなしながら、馬超もまた、静かに日々をくりかえした。
時が過ぎていく。
つづく……
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馬超は、そのまま屋敷に入ることはせずに、安車のある車庫へと向かい、その車輪をたしかめた。
車輪には、まだ湿った土が残って、ついていた。
車庫には、安車の御者もいて、突然の馬超の登場におどろいて、隅っこでかしこまっている。
「おまえは、お下がり」
習氏の声がした。
御者は、かしこまったまま、緊迫した空気から逃げるようにして、車庫を出て行く。
そうして、二人だけとなった。
人払いでもしたのか、ひどく静かだ。
人の気配がまるでしない。
振りかえって真正面から見た習氏の顔は、怒っているのか、それとも単にこわばっているのか、よくわからない表情を浮かべていた。
習氏は黙って、馬超を真っ直ぐ見つめている。
そうだ、この女は、いつでもわたしを真っ直ぐ見つめてくる。
一度たりとも、目を逸らしたことがない。
婚儀の日からずっとそうだった。
董氏は、いつも横に並んで一緒に歩いていける、友のような女だった。
だが、この習氏は、つねに真正面から自分を見つめてくる。
なにひとつ見逃さぬように。
それは、なぜだ?
関心がない者を、そんなに見る必要はないはずだ。
管理するためだろうか。
であれば、ただ、おかしな振る舞いをしないかどうか、ただ家のなかで見張っていればよいだけの話である。
すでに、ほかに何人もの妾を持っている。
それでも、習氏は、なにひとつ不平を口にしなかった。
だが、それでもなお、玻璃細工の行方を気にしていたのは、なぜだ。
安車でもって、ひそかにおのれのあとを尾行していたのは、なんのためだ。
なにも見ていなかったのは、どちらだ。
わたしは、この女を、どれだけ知っていたのだろう。
「いくらご入用なのです。すぐに用意させましょう」
習氏は淡々と、表情ひとつ、変えずに言った。
さすがに馬超はおどろいた。
趙雲が使者を先によこしていたのか?
いいや、馬超は、ここまで、自慢の愛馬で飛ばしてきたのだ。
趙雲の馬道楽はしっているが、この馬より早く走れる馬など、成都には、いないと断言できる。
「なぜわかる」
「郎君の顔を見ればわかります。あの方をお助けしたいのでしょう? 借財を肩代わりするというのでしょう? いくら必要なのですか」
馬超は、淡々と言葉をつむぐ習氏の勢いに押されるようなかたちで、答えた。
「わかりました。すぐに用意させ、証文を破らせます。ただ」
「ただ?」
「お答えくださいまし。あの方をお助けしたあと、あなたは、あの方をどうなさるおつもりですの?」
趙雲が言った、最低野郎の話が頭に浮かんだ。
同時に、こちらをまっすぐに、射るように見つめてくる習氏の顔が目に入ってくる。
思わず、目を逸らしかけた馬超であるが、自制した。
目を逸らしてはならないのだ。
これ以上は、目を背けてはいけない。
「あの娘をどうするつもりもない。あの娘のこれからは、あの娘と、あの娘の家族が決めることだ」
「側室に迎えるおつもりではないのですか」
「それはせぬ」
あの娘は、さようならと言った。
感謝されたくて、そうするのではない。
助けられなかった女の代わりに、こちらがわがままを通して、助けようとしているだけだ。
それだけの話だ。
習氏が安堵するかと思った馬超であるが、しかし、そうではなかった。
おどろいたことに、習氏は、じっと組んだ腕を震わせて、涙を必死で堪えている。
嬉し泣きを堪えているのではない。
その目は、はっきりと、馬超を非難していた。
言葉をなくしていると、習氏の目から、涙が、ひとすじ、そしてまたひとすじとこぼれはじめた。
思わず手を伸ばすと、習氏ははじめて、馬超の手をはげしく振り払った。
「触らないでくださいまし!」
それまでに聞いたことの無いような、きつい口調、そして声であった。
感情の起伏の乏しい女だとばかり思っていた習氏のなかにある、思わぬ激情に触れて、馬超はさらに、なんといってよいかわからなくなる。
と、同時に、そこまで深く傷つけたのだと知った。
昨日の、あの心無い言葉を口にしたことを、いまこそ心の底から後悔した。
おのれの過去の悲しみにどっぷりと浸かり、まるで関係のない女を傷つけ、悲しませ、自分ばかりを憐れんでいた。
「どなたでもよいのでしょう! わたくしでなくても!」
習氏は感情を余さず吐き出すような声で言った。
「たまたま、郎君を援助できる豪族に娘がいた。だから、あなたはわたくしを娶った。ほかの娘でもよかったのです。
わたくしのことなんて、なんにも知らないくせに!」
「すまぬ」
「なにをすまないとおっしゃるの? ご自分が悲惨な運命を辿ってこられたから、特別なのだとでもおっしゃりたいの? だから、わたくしたちには黙って我慢しろとおっしゃりたいの?
わたくしたちとは、新しい生活を築くことも出来ぬとおっしゃりたいのですか!」
馬超は黙った。
意識はしていなかったにしろ、そうしろと、いままで無意識のうちに、無情な要求を付きつけてきた。
この女は、それをずっと、今日まで我慢してきたのだ。
「あの崖から飛び降りたいのは、わたくしでございます」
思わぬことばに、馬超は仰天する。
「なにを馬鹿なことを!」
「いいえ! あなたは、だれとでもいいと、おっしゃったではありませんか! わたしが死んだなら、また適当にお相手を選ばれればよいのです!
そうして、また同じことを言えばよいのです! だれでもよかった、と!」
踵を返し、本邸にもどろうとする習氏を止めようと、馬超は手を伸ばすが、習氏は、はげしくそれを拒んだ。
「ご安心くださいませ。娘が成人するまでは、わたくしは死にはいたしませぬ。
ただ、それだけのためにわたくしは生きるのです。決して、あなたのためには、生きませぬ!」
そうして、習氏は、屋敷に駆け出していった。
馬超には、それを追いかけることもできなかった。
ふと思い立ち、懐のなかを見た。
見れば、絹にくるまれていた青い玻璃の子馬は、おそらく青翠を助ける弾みでそうなってしまったのだろう。
足が、無惨にも折れて、取れてしまっていた。
これではもう、走れまい。
※
味気ない日々が流れていった。
淡々とした日々だった。
あの朝以来、馬超は息子の秋の夢を見ることもなくなったが、同時に、娘が笑顔で駆け寄ってくることも、なくなった。
習氏は淡々と、馬超の身のまわりをする。
まるで何もなかったように。
必要とあればことばを交わすし、雑談にも応じる。
しかし、それ以上でもなければ、それ以下でもない。
平和で、空疎で、閉ざされた場所。
馬超はもう、この閉塞感を、習氏のせいにすることはなかった。
すべては自分のせいだったと気付いたいまとなっては、だれを恨む気にもならなかった。
あの青い玻璃の子馬と同じように、自分で自分の未来を、その手で叩き壊したのだ。
目をつぶったまま、なにも見ようとせずに。
日々はただ、過ぎていく。
馬超は、青翠がどうなったのか、その後を知らないまま過ごしていた。
習氏は、言われたとおりにする女である。
きっと、高大人からは解放されただろう。
だが、その後、どうやって生きているものか、馬超は知らなかった。
いや、あえて知らないままでいた、というほうが正しいだろう。
知れば知ったで、気になってしまったであろうし、容姿はまるで似ていないまでも、青翠と董氏を重ねてしまっているのも、また事実なのである。
きっと、また青翠になにかあったとしたら、馬超は動いてしまう。
そうなれば、さらにまた、習氏を傷つけることとなる。
こうなってみて、はじめて、馬超は、自分の生涯で、おそらく初めて得た、秩序ただしい安息の日々を、そしてそれを作ってくれた習氏や娘を、どれだけ愛していたかを知った。
董氏が最愛の女であることには変わりはなかったし、秋のことを忘れることもなかった。
けれど、徐々に、二人は過去の中に消えていった。
忘れることはない。
けれど、無理にでも忘れなければならない二人であった。
成都で淡々と職務をこなしながら、馬超もまた、静かに日々をくりかえした。
時が過ぎていく。
つづく……
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