ひとりのこされた孔明は、しばらく何も考えられずに、その場でぼおっとしていた。
頭がこれほど空になったのは、ひさびさである。
しびれるような脳髄を持て余していると、視界の端に、中庭に面した通路を花安英と中年の男が部屋を横切っていくのが見えた。
粗末な身なりをした小柄な男と花安英は、和気あいあいというふうでもなく、ただ黙って通路を行く。
孔明には気づいていない様子である。
そして、とある部屋の前まで来ると、それまでうしろにいた花安英が、見るからに身分が下であろうと思われる男のため、扉を開けてやっているのが見えた。
なぜだろうと不思議に思ってしばらく観察して、合点がいった。
男は片手に荷物を持っていたが、もう片方の手が、だらりと袖の下で垂れ下がっていたのだ。
おそらく、片腕が利かないのだろう。
それを知っている花安英が、男のために扉を開けてやったのだ。
孔明は素直に、あの少年にもいいところがあるのだなと感心した。
中年男は軽く花安英に会釈すると部屋に入り、つづいて、花安英も、面白くなさそうな表情を浮かべたまま、そのあとにつづいた。
中年男はおそらく、花安英の従者であろうか。
孔明とかれらとのあいだにある立木が邪魔をして、顔はよく見えなかった。
そのあとは、また静けさが戻ってきた。
やがて趙雲が水を汲んでもどってきた。
水は思いのほか冷たく、やっと生きた心地がした。
ほっと息をつくと、傍らにいて水を飲んでいない趙雲も、おなじくほっとしたようである。
相当に顔色が悪かったらしい。
考えてみれば、劉備に趙雲を主騎に付けてもらったときは、かえって気を遣って行動力が制限されてしまうと思いこんで、いやがったものだ。
その目を盗むようにして、あちこち出かけていたが、いまはむしろ、その存在が隣にいないと、安心できないくらいになっている。
こうなるとは思っていなかったら、当初はずいぶんひどい態度をとったものだ。
「すまなかったな」
孔明が言うと、趙雲は薄く笑った。
「べつに。たいした手間じゃない」
水のことではないのだが。
まあ、いい。
誤解であっても、感謝していることだけ伝われば。
孔明が落ち着いたのをみると、趙雲は、周囲に聞かれないように声を落として言った。
「ここは虎穴どころの騒ぎではないな。この城のどこか、あるいはだれかが『壷中』なのだ」
「斐仁の話で、かえってわからなくなったな。麋竺どのが見つかれば、かれに話を聞けるのだが」
「麋子仲どのは、どこへ消えてしまったのだろう」
「わからぬ。程子文の死を受けて、すぐに襄陽を出たのかもしれない。その先は不明だ」
「若い女と逃げているともいう。まったく、あの誠実を絵にかいたような御仁が、らしくないな」
孔明は、さぞ劉備たちが落胆するだろうと思い、ため息をついた。
「斐仁が『壺中』の仲間だということはわかった。そして、新野の東の蔵に『秘密』があり、その秘密をまもるため、斐仁は新野にいた。
麋竺どのを脅していたというのがよくわからぬが、どうも、ふたりで協力して秘密を守っていたようだな。
あとで陳到に手紙を書いて、東の蔵のことを調べるよう指示しよう」
「だが、斐仁と麋竺どのはバラバラに動いている。ふたりが『壺中』だとすると、ずいぶんまとまりの悪い組織だな」
「もしかしたら、麋竺どのは『壺中』を裏切ろうとしていたのかもしれないな。そう考えると筋が通る。
『壺中』を倒すため、程子文を取り込んで、劉琮どのと蔡瑁を排除しようとした」
「とすると、『壺中』というのは、やはり」
蔡瑁か、という言葉を趙雲が呑み込む。
孔明は、肯定の意味をこめて、うなずいてみせた。
「そう考えるのが自然であろう。程子文の動きを察知した蔡瑁が程子文を殺害し、その罪を、たまたま襄陽城に忍び込んでいた斐仁に押し付けた。
ほんとうなら、罪をなすりつける者は、ほかのだれでもよかったのかもしれない」
「斐仁は運が悪かったというわけか。しかし、これからどうする。いったん、新野に戻って、わが君に報告したほうがよいのではないか」
「それはだめだ。劉琦どののことを忘れてはいけないよ。われらが城を去ったら、残された劉琦どのはどうなる。新野に帰るにしても、劉琦どのをなんとかしなければなるまい」
「そうか。そうだったな。どうすればよい」
「考えがある。まずは劉琦どのと会おう。すべてはそれからだ」
つづく
頭がこれほど空になったのは、ひさびさである。
しびれるような脳髄を持て余していると、視界の端に、中庭に面した通路を花安英と中年の男が部屋を横切っていくのが見えた。
粗末な身なりをした小柄な男と花安英は、和気あいあいというふうでもなく、ただ黙って通路を行く。
孔明には気づいていない様子である。
そして、とある部屋の前まで来ると、それまでうしろにいた花安英が、見るからに身分が下であろうと思われる男のため、扉を開けてやっているのが見えた。
なぜだろうと不思議に思ってしばらく観察して、合点がいった。
男は片手に荷物を持っていたが、もう片方の手が、だらりと袖の下で垂れ下がっていたのだ。
おそらく、片腕が利かないのだろう。
それを知っている花安英が、男のために扉を開けてやったのだ。
孔明は素直に、あの少年にもいいところがあるのだなと感心した。
中年男は軽く花安英に会釈すると部屋に入り、つづいて、花安英も、面白くなさそうな表情を浮かべたまま、そのあとにつづいた。
中年男はおそらく、花安英の従者であろうか。
孔明とかれらとのあいだにある立木が邪魔をして、顔はよく見えなかった。
そのあとは、また静けさが戻ってきた。
やがて趙雲が水を汲んでもどってきた。
水は思いのほか冷たく、やっと生きた心地がした。
ほっと息をつくと、傍らにいて水を飲んでいない趙雲も、おなじくほっとしたようである。
相当に顔色が悪かったらしい。
考えてみれば、劉備に趙雲を主騎に付けてもらったときは、かえって気を遣って行動力が制限されてしまうと思いこんで、いやがったものだ。
その目を盗むようにして、あちこち出かけていたが、いまはむしろ、その存在が隣にいないと、安心できないくらいになっている。
こうなるとは思っていなかったら、当初はずいぶんひどい態度をとったものだ。
「すまなかったな」
孔明が言うと、趙雲は薄く笑った。
「べつに。たいした手間じゃない」
水のことではないのだが。
まあ、いい。
誤解であっても、感謝していることだけ伝われば。
孔明が落ち着いたのをみると、趙雲は、周囲に聞かれないように声を落として言った。
「ここは虎穴どころの騒ぎではないな。この城のどこか、あるいはだれかが『壷中』なのだ」
「斐仁の話で、かえってわからなくなったな。麋竺どのが見つかれば、かれに話を聞けるのだが」
「麋子仲どのは、どこへ消えてしまったのだろう」
「わからぬ。程子文の死を受けて、すぐに襄陽を出たのかもしれない。その先は不明だ」
「若い女と逃げているともいう。まったく、あの誠実を絵にかいたような御仁が、らしくないな」
孔明は、さぞ劉備たちが落胆するだろうと思い、ため息をついた。
「斐仁が『壺中』の仲間だということはわかった。そして、新野の東の蔵に『秘密』があり、その秘密をまもるため、斐仁は新野にいた。
麋竺どのを脅していたというのがよくわからぬが、どうも、ふたりで協力して秘密を守っていたようだな。
あとで陳到に手紙を書いて、東の蔵のことを調べるよう指示しよう」
「だが、斐仁と麋竺どのはバラバラに動いている。ふたりが『壺中』だとすると、ずいぶんまとまりの悪い組織だな」
「もしかしたら、麋竺どのは『壺中』を裏切ろうとしていたのかもしれないな。そう考えると筋が通る。
『壺中』を倒すため、程子文を取り込んで、劉琮どのと蔡瑁を排除しようとした」
「とすると、『壺中』というのは、やはり」
蔡瑁か、という言葉を趙雲が呑み込む。
孔明は、肯定の意味をこめて、うなずいてみせた。
「そう考えるのが自然であろう。程子文の動きを察知した蔡瑁が程子文を殺害し、その罪を、たまたま襄陽城に忍び込んでいた斐仁に押し付けた。
ほんとうなら、罪をなすりつける者は、ほかのだれでもよかったのかもしれない」
「斐仁は運が悪かったというわけか。しかし、これからどうする。いったん、新野に戻って、わが君に報告したほうがよいのではないか」
「それはだめだ。劉琦どののことを忘れてはいけないよ。われらが城を去ったら、残された劉琦どのはどうなる。新野に帰るにしても、劉琦どのをなんとかしなければなるまい」
「そうか。そうだったな。どうすればよい」
「考えがある。まずは劉琦どのと会おう。すべてはそれからだ」
つづく