「わたしを蔡家の者に仕立てあげることを最初に考え付いたのは、あなた。
はじめにわたくしに近づいたのも、わたくしの内にある毒を見抜いておられたからではないのか」
蔡瑁は黙っている。
黙って、卵を抱える鵬《おおとり》のように、胸の中にいる蔡夫人をそっと抱いた。
蔡夫人はくすぐったそうに、ちいさく笑う。
「わたくしに家を捨てさせ、何でも言うことを聞くように、逆らえないように虜にした。
人形になったわたくしを一門の栄達のために利用するために。
じゅうぶんにわたくしは役に立てたでしょう? わたくしはあなたの父上の養女となった。
まるで品物のようにあの醜い年寄りに差し出されても、耐えた」
「州牧に差し出したことを謝罪せよと? おまえが好き勝手できているのは、ほかならぬ州牧の妻の座におさまったからだぞ」
「いいえ。済んだことを責めはしませぬ。ほら、またおかしな具合だこと。
昔、家に帰りたい、残してきた子供に会いたいと泣いたわたくしに、過ぎたことをいつまでも嘆くな、家を捨てたのは納得づくであったろうと叱った男とは思えませぬ」
「ならば、おまえは儂にどうしろ、というのだ」
「わかりませぬか」
女は男から身を離すと、両手でその襟元《えりもと》を掴み、勢いよく、着物を左右にはぐった。
中年とはいえ、武人らしく鍛えこまれた、厚い胸板があらわになる。
「儂はおまえのものだとおっしゃい」
なんだと、と言いかけた蔡瑁を、蔡夫人は、するどく決めつけた。
「わたくしのものだとおっしゃい!」
甲高い声が、びりびりと部屋を震わせる。
それに気圧される形となって、蔡瑁は、唸るように言った。
「儂は…」
「聞こえない! もっと大きな声でおっしゃい!」
「儂は、おまえのものだ」
「また新しい側室を迎えられたとか。追い出しなされ。明日にでも」
高飛車な要求に、蔡瑁があきらかにもうろたえている。
「待て、あの女は、儂のところを追い出されたなら、もう行くところがない」
「聞こえませんでしたか。追い出せ、と申したのです。あなたはわたくしのものなのです。わたくしの言うとおりになさい」
蔡瑁が反論しようとするのを、蔡氏は無理やり唇を奪って封じた。
「あなたがあの女を追い出さないというのであれば、わたくしが殺してやる」
「莫迦な」
「莫迦なことなぞなにもない。わたくしの手は、もう十分に汚れているのです。
小娘を一人殺したところで、もうなにも感じやしない。
あなたが、そのような女になるように、わたくしを変えたのです。そうでしょう?」
絶句する蔡瑁の表情に蔡夫人はなにを読み取ったのか、満足そうな笑い声をたてる。
そして自らも衣を乱暴に脱ぎ、蔡瑁にしなだれかかっていった。
平素のふたりを見知っていただけに、趙雲は、蛇に絡め取られた蛙のように、言うがままにされている蔡瑁に驚いた。
それに、おとなしい女だとばかり思っていた蔡夫人の、思いもかけない様子に、衝撃を受けた。
蔡瑁と蔡夫人は、まるで初めて妓楼に足を踏み入れた少年と、熟れきった玄人女《くろうとおんな》のようでもある。
棒立ちのまま、なにもしようとしない蔡瑁に、蔡夫人は焦れて、ますます挑みかかるように愛撫をくりかえしていった。
つよい嘔吐感をおぼえたが、衝立のうしろでこらえた。
見つかったらまずい。
それに、大変なことであった。
蔡瑁の姉だと思っていた女が、実はそうではなく、蔡瑁の妾であった。
しかも爛《ただ》れた関係は、いまもって終わっていないのだ。
もしそれが明るみに出たなら、孔明が策を講じるまでもなく、蔡家の一門は、襄陽を追われる身となるだろう。
あるいは、劉表を裏切り続けたかどで、処刑されることもありうる。
蔡夫人の子である劉琮は、当然、排斥されるだろう。
そうすれば、劉琦は、肩身の狭い思いをしなくてよくなるのだ。
劉琦が荊州牧を継いだなら、後盾である劉備の立場も、いまよりずっと良くなる。
いまは蔡家の人間が、がっちりと掴んでいる荊州の軍勢を、劉備が掌握できるようになるのだ。
うまくすれば、曹操が南下しても逃げるのではなく、堂々と曹操と対峙することが可能になるかもしれない。
揺れる蝋燭の火に、真っ白な背中を浮かび上がらせて、蔡夫人は横たわらせた蔡瑁にのしかかっていく。
異様な光景であった。
年増とはいえ、十分に若さと美しさをとどめている蔡夫人が、武人である蔡瑁を意のままに動かし、弄《もてあそ》んでいるのだ。
美女が武人を犯している。
蔡瑁が、これほどに、蔡夫人の言うなりになっているのにも、なにか理由があるにちがいない。
蔡夫人は、自分の手が十分に汚れている、と言った。
まさか、蔡夫人も『壷中』にかかわりがあるのか?
ふと、くぐもった声が聞こえて、隣を伺うと、趙雲の身体にしなだれかかるようにしていた花安英が、笑っているのだった。
その笑みは邪悪と表現するにぴったりのもので、昼間の華麗な美少年の面影は、|微塵《みじん》もない。
趙雲は、その笑みに背筋を凍らせると同時に、ふと、冷静になった。
おかしいではないか。
つづく
※いまさらなんですが、気味の悪いエピソードで申し訳ないです…(-_-;)
しかし、話はこれからだったりする!
すみません、しばらくお付き合いくださいませね。
はじめにわたくしに近づいたのも、わたくしの内にある毒を見抜いておられたからではないのか」
蔡瑁は黙っている。
黙って、卵を抱える鵬《おおとり》のように、胸の中にいる蔡夫人をそっと抱いた。
蔡夫人はくすぐったそうに、ちいさく笑う。
「わたくしに家を捨てさせ、何でも言うことを聞くように、逆らえないように虜にした。
人形になったわたくしを一門の栄達のために利用するために。
じゅうぶんにわたくしは役に立てたでしょう? わたくしはあなたの父上の養女となった。
まるで品物のようにあの醜い年寄りに差し出されても、耐えた」
「州牧に差し出したことを謝罪せよと? おまえが好き勝手できているのは、ほかならぬ州牧の妻の座におさまったからだぞ」
「いいえ。済んだことを責めはしませぬ。ほら、またおかしな具合だこと。
昔、家に帰りたい、残してきた子供に会いたいと泣いたわたくしに、過ぎたことをいつまでも嘆くな、家を捨てたのは納得づくであったろうと叱った男とは思えませぬ」
「ならば、おまえは儂にどうしろ、というのだ」
「わかりませぬか」
女は男から身を離すと、両手でその襟元《えりもと》を掴み、勢いよく、着物を左右にはぐった。
中年とはいえ、武人らしく鍛えこまれた、厚い胸板があらわになる。
「儂はおまえのものだとおっしゃい」
なんだと、と言いかけた蔡瑁を、蔡夫人は、するどく決めつけた。
「わたくしのものだとおっしゃい!」
甲高い声が、びりびりと部屋を震わせる。
それに気圧される形となって、蔡瑁は、唸るように言った。
「儂は…」
「聞こえない! もっと大きな声でおっしゃい!」
「儂は、おまえのものだ」
「また新しい側室を迎えられたとか。追い出しなされ。明日にでも」
高飛車な要求に、蔡瑁があきらかにもうろたえている。
「待て、あの女は、儂のところを追い出されたなら、もう行くところがない」
「聞こえませんでしたか。追い出せ、と申したのです。あなたはわたくしのものなのです。わたくしの言うとおりになさい」
蔡瑁が反論しようとするのを、蔡氏は無理やり唇を奪って封じた。
「あなたがあの女を追い出さないというのであれば、わたくしが殺してやる」
「莫迦な」
「莫迦なことなぞなにもない。わたくしの手は、もう十分に汚れているのです。
小娘を一人殺したところで、もうなにも感じやしない。
あなたが、そのような女になるように、わたくしを変えたのです。そうでしょう?」
絶句する蔡瑁の表情に蔡夫人はなにを読み取ったのか、満足そうな笑い声をたてる。
そして自らも衣を乱暴に脱ぎ、蔡瑁にしなだれかかっていった。
平素のふたりを見知っていただけに、趙雲は、蛇に絡め取られた蛙のように、言うがままにされている蔡瑁に驚いた。
それに、おとなしい女だとばかり思っていた蔡夫人の、思いもかけない様子に、衝撃を受けた。
蔡瑁と蔡夫人は、まるで初めて妓楼に足を踏み入れた少年と、熟れきった玄人女《くろうとおんな》のようでもある。
棒立ちのまま、なにもしようとしない蔡瑁に、蔡夫人は焦れて、ますます挑みかかるように愛撫をくりかえしていった。
つよい嘔吐感をおぼえたが、衝立のうしろでこらえた。
見つかったらまずい。
それに、大変なことであった。
蔡瑁の姉だと思っていた女が、実はそうではなく、蔡瑁の妾であった。
しかも爛《ただ》れた関係は、いまもって終わっていないのだ。
もしそれが明るみに出たなら、孔明が策を講じるまでもなく、蔡家の一門は、襄陽を追われる身となるだろう。
あるいは、劉表を裏切り続けたかどで、処刑されることもありうる。
蔡夫人の子である劉琮は、当然、排斥されるだろう。
そうすれば、劉琦は、肩身の狭い思いをしなくてよくなるのだ。
劉琦が荊州牧を継いだなら、後盾である劉備の立場も、いまよりずっと良くなる。
いまは蔡家の人間が、がっちりと掴んでいる荊州の軍勢を、劉備が掌握できるようになるのだ。
うまくすれば、曹操が南下しても逃げるのではなく、堂々と曹操と対峙することが可能になるかもしれない。
揺れる蝋燭の火に、真っ白な背中を浮かび上がらせて、蔡夫人は横たわらせた蔡瑁にのしかかっていく。
異様な光景であった。
年増とはいえ、十分に若さと美しさをとどめている蔡夫人が、武人である蔡瑁を意のままに動かし、弄《もてあそ》んでいるのだ。
美女が武人を犯している。
蔡瑁が、これほどに、蔡夫人の言うなりになっているのにも、なにか理由があるにちがいない。
蔡夫人は、自分の手が十分に汚れている、と言った。
まさか、蔡夫人も『壷中』にかかわりがあるのか?
ふと、くぐもった声が聞こえて、隣を伺うと、趙雲の身体にしなだれかかるようにしていた花安英が、笑っているのだった。
その笑みは邪悪と表現するにぴったりのもので、昼間の華麗な美少年の面影は、|微塵《みじん》もない。
趙雲は、その笑みに背筋を凍らせると同時に、ふと、冷静になった。
おかしいではないか。
つづく
※いまさらなんですが、気味の悪いエピソードで申し訳ないです…(-_-;)
しかし、話はこれからだったりする!
すみません、しばらくお付き合いくださいませね。