孔明は凝った肩を上下させつつ、花園を見た。
赤や白、黄色の花々が咲き乱れる美しい場所。
今日でこの花園も見納めだ。
と、視線を上げると、花園の向こうに、緊張した面持ちの花安英《かあんえい》がいた。
いつもは見るたびに罵声に近い憎まれ口をたたいてくる美少年であるが、今日は思い詰めた顔をして、じっとこちらを見つめている。
なにか用事があるらしいのはわかったが、孔明は、花安英が大切そうに胸元に竹簡を持っているのが気になった。
「花安英、おまえは公子についていかなくて良いのか」
孔明が声をかけると、花安英は目に力を入れたまま、黙って近づいてくる。
趙雲のことが気になっているのかと思ったが、そうではない。
花安英は、ただ孔明のほうだけを気にしている様子であった。
「あなたのことは好きじゃない。でも、今回はあなたにお礼を言わなくちゃいけないみたいですね」
「なんのことだろう」
「公子のことですよ。劉州牧は寝込んでいるし、徳珪《とくけい》どのはあなたがたを襄陽から追っ払うことしか考えていない。
この隙に襄陽を出られれば、公子は生きながらえる」
「そうだな」
「程子文《ていしぶん》が、あなたのことを褒めていた理由が、すこしわかった気がします。
約束したことは果たす。そういう律儀なところが、程子文にはうれしかったんだ。
あのひと、ずいぶん裏切られてきたから」
ふと、孔明は、この美少年も『壺中』のことを知っているのではと思った。
趙雲が、花安英は鍛えているようだといった。
つまり、刺客としての訓練を受けている少年だとしたら、どうだろう。
だが、そこまで考えて、やめた。
どちらにしろ、花安英は、死んだ程子文について、悲しんでいる。
だいたい、体を鍛えているというだけで、花安英を疑うのは気の毒な気がした。
花安英は、だまって孔明に竹簡を差し出した。
「これは?」
「程子文が、あなたに渡すようにと言っていました」
言いつつ、花安英は、胸にしまっていた程子文の手紙らしきものも取り出し、これまた孔明に差し出した。
「程子文は、自分の死を予感していました。
そして、わたしに、あなたがまちがいなく信頼できる人だと見極めたなら渡すようにと言い残していきました」
ふいっと顔をそむけ、花安英はまわりを取り囲む花々をみやる。
「おかしなひとでした。ふざけたことばかりやっているのに、公子のことになると真剣で。
自分の力では公子を守り切れないとわかると、きっと新野の諸葛亮がなんとかしてくれると言って。
でもあなただって、万能の天才というわけじゃないでしょうにね」
ことばの最後が、わずかに上ずっている。
見れば、懸命に涙をこらえているのがわかった。
強気で生意気な少年だが、劉琦の安全が見えてきたので、気が緩んだのだろう。
これまでは劉琦を守らねばという、その一心で、義兄弟のために涙さえ流せなかったのではなかったか。
孔明がいたわりのことばをかけようとすると、それを察したか、花安英はぱっと身をひるがえし、
「たしかに渡しましたから」
とだけ言って走り去ってしまった。
あとに残された孔明と趙雲は顔を見合わせた。
「あの小僧、ちょっとだけ可愛いところがあるようだな」
「あの子にも子供らしいところがあると知れてほっとしているよ。
かつて程子文は、あの子が親から見捨てられた子だと言っていたので、すこし心配していたのだ。
無理に大人になっているのではないのか、とな」
「手紙の内容はなんだ? 子仲どののことが書いてあるのではないか」
「だといいが」
言いつつ、孔明は手紙を開いた。
まず、その手紙は癖のある文字で、程子文の愚痴が書かれていた。
つづく
赤や白、黄色の花々が咲き乱れる美しい場所。
今日でこの花園も見納めだ。
と、視線を上げると、花園の向こうに、緊張した面持ちの花安英《かあんえい》がいた。
いつもは見るたびに罵声に近い憎まれ口をたたいてくる美少年であるが、今日は思い詰めた顔をして、じっとこちらを見つめている。
なにか用事があるらしいのはわかったが、孔明は、花安英が大切そうに胸元に竹簡を持っているのが気になった。
「花安英、おまえは公子についていかなくて良いのか」
孔明が声をかけると、花安英は目に力を入れたまま、黙って近づいてくる。
趙雲のことが気になっているのかと思ったが、そうではない。
花安英は、ただ孔明のほうだけを気にしている様子であった。
「あなたのことは好きじゃない。でも、今回はあなたにお礼を言わなくちゃいけないみたいですね」
「なんのことだろう」
「公子のことですよ。劉州牧は寝込んでいるし、徳珪《とくけい》どのはあなたがたを襄陽から追っ払うことしか考えていない。
この隙に襄陽を出られれば、公子は生きながらえる」
「そうだな」
「程子文《ていしぶん》が、あなたのことを褒めていた理由が、すこしわかった気がします。
約束したことは果たす。そういう律儀なところが、程子文にはうれしかったんだ。
あのひと、ずいぶん裏切られてきたから」
ふと、孔明は、この美少年も『壺中』のことを知っているのではと思った。
趙雲が、花安英は鍛えているようだといった。
つまり、刺客としての訓練を受けている少年だとしたら、どうだろう。
だが、そこまで考えて、やめた。
どちらにしろ、花安英は、死んだ程子文について、悲しんでいる。
だいたい、体を鍛えているというだけで、花安英を疑うのは気の毒な気がした。
花安英は、だまって孔明に竹簡を差し出した。
「これは?」
「程子文が、あなたに渡すようにと言っていました」
言いつつ、花安英は、胸にしまっていた程子文の手紙らしきものも取り出し、これまた孔明に差し出した。
「程子文は、自分の死を予感していました。
そして、わたしに、あなたがまちがいなく信頼できる人だと見極めたなら渡すようにと言い残していきました」
ふいっと顔をそむけ、花安英はまわりを取り囲む花々をみやる。
「おかしなひとでした。ふざけたことばかりやっているのに、公子のことになると真剣で。
自分の力では公子を守り切れないとわかると、きっと新野の諸葛亮がなんとかしてくれると言って。
でもあなただって、万能の天才というわけじゃないでしょうにね」
ことばの最後が、わずかに上ずっている。
見れば、懸命に涙をこらえているのがわかった。
強気で生意気な少年だが、劉琦の安全が見えてきたので、気が緩んだのだろう。
これまでは劉琦を守らねばという、その一心で、義兄弟のために涙さえ流せなかったのではなかったか。
孔明がいたわりのことばをかけようとすると、それを察したか、花安英はぱっと身をひるがえし、
「たしかに渡しましたから」
とだけ言って走り去ってしまった。
あとに残された孔明と趙雲は顔を見合わせた。
「あの小僧、ちょっとだけ可愛いところがあるようだな」
「あの子にも子供らしいところがあると知れてほっとしているよ。
かつて程子文は、あの子が親から見捨てられた子だと言っていたので、すこし心配していたのだ。
無理に大人になっているのではないのか、とな」
「手紙の内容はなんだ? 子仲どののことが書いてあるのではないか」
「だといいが」
言いつつ、孔明は手紙を開いた。
まず、その手紙は癖のある文字で、程子文の愚痴が書かれていた。
つづく