しかも、程子文が、いまいましいことに、孔明に遺言めいたものを残していた。
ほんとうは遺言など孔明に託したくなかったが、あの男の最期の願いを無碍《むげ》にするわけにはいかなかった。
程子文が、まだ生きているように思える、と趙雲に語ったのは、本心である。
こうして程子文の残した手紙によって、孔明が動いているのを見ると、さらにそんな錯覚をおぼえる。
だが程子文は死んだのだ。
血の海のなかでばらばらになって死んだ。
「あとで後悔するんじゃないかなあ」
花安英は、ふたたび、趙雲たちが消えていった、地平の彼方へ顔を向けてつぶやいた。
その嫌味に、背後にいる男がうめいた。
「おまえは趙子龍の真の強さを知らぬから、そのようなことを言う」
男のことばに、花安英はまた笑った。
今度は、さきほどの小馬鹿にした調子とは打って変わって、優しげな笑みであった。
「あんた、そうしていると、人間らしいね」
花安英の言葉に、男はなにかつぶやいたが、風のうなり声が邪魔をして、ひとことも花安英の耳朶に届かなかった。
「そういうふうなあんたのほうが、いままでより、ずっといいよ。
いままでのあんたって、まるで木偶人形みたいだったもの」
男は、はっきりと怒気を示したが、花安英はすこしも恐ろしく感じなかった。
そうして、また笑う。
その嘲笑は、ほんの数年前までの、この男の顔色をうかがって身をすくめ、縮こまっていた過去の自分に対しての笑いであった。
ここ数年、花安英は、身体的に、大きな成長を遂げていた。
背も伸びたし、腕力もついた。
数年前では、想像をすることすらできなかったが、いまは、この男を一瞬にして倒すことができる。
だからもう怖くない。
弁舌にも磨きがかかったし、見聞もひろがった。
見聞がひろがった。
そこが花安英の場合、そもそもの発端があった。
それまで、花安英は籠の中の鳥であった。
どこへ移動するにも、かならずだれかの監視がついて回っていた。
しかし、人生の初めからそんなふうであったので、籠の中にいるときは、それが当たり前なのだと思っていた。
当初は、従順な人形であった。
花安英も、人形として重宝されることに、むしろ誇りを抱いてさえいた。
従順であるがゆえに、籠から出された。
逃げないだろうというのが、彼らの思惑であった。
実際、花安英は逃げなかった。
逃げなかったが、世の中というものはそんなに窮屈ではない、人形であるおのれは、なんと惨めな存在であったのかと、そのことに気付いてしまったときから、なにかが狂い始めた。
花安英は、両腕をひろげて、その身いっぱいに風を受けた。
風を受けた袖が、まるで翼のように広がる。
その感覚を楽しみながら、花安英は笑った。
大声で笑った。
しかし、その哄笑は、風にまぎれて流され、襄陽城の、だれの耳にも届くことがなかった。
つづく
ほんとうは遺言など孔明に託したくなかったが、あの男の最期の願いを無碍《むげ》にするわけにはいかなかった。
程子文が、まだ生きているように思える、と趙雲に語ったのは、本心である。
こうして程子文の残した手紙によって、孔明が動いているのを見ると、さらにそんな錯覚をおぼえる。
だが程子文は死んだのだ。
血の海のなかでばらばらになって死んだ。
「あとで後悔するんじゃないかなあ」
花安英は、ふたたび、趙雲たちが消えていった、地平の彼方へ顔を向けてつぶやいた。
その嫌味に、背後にいる男がうめいた。
「おまえは趙子龍の真の強さを知らぬから、そのようなことを言う」
男のことばに、花安英はまた笑った。
今度は、さきほどの小馬鹿にした調子とは打って変わって、優しげな笑みであった。
「あんた、そうしていると、人間らしいね」
花安英の言葉に、男はなにかつぶやいたが、風のうなり声が邪魔をして、ひとことも花安英の耳朶に届かなかった。
「そういうふうなあんたのほうが、いままでより、ずっといいよ。
いままでのあんたって、まるで木偶人形みたいだったもの」
男は、はっきりと怒気を示したが、花安英はすこしも恐ろしく感じなかった。
そうして、また笑う。
その嘲笑は、ほんの数年前までの、この男の顔色をうかがって身をすくめ、縮こまっていた過去の自分に対しての笑いであった。
ここ数年、花安英は、身体的に、大きな成長を遂げていた。
背も伸びたし、腕力もついた。
数年前では、想像をすることすらできなかったが、いまは、この男を一瞬にして倒すことができる。
だからもう怖くない。
弁舌にも磨きがかかったし、見聞もひろがった。
見聞がひろがった。
そこが花安英の場合、そもそもの発端があった。
それまで、花安英は籠の中の鳥であった。
どこへ移動するにも、かならずだれかの監視がついて回っていた。
しかし、人生の初めからそんなふうであったので、籠の中にいるときは、それが当たり前なのだと思っていた。
当初は、従順な人形であった。
花安英も、人形として重宝されることに、むしろ誇りを抱いてさえいた。
従順であるがゆえに、籠から出された。
逃げないだろうというのが、彼らの思惑であった。
実際、花安英は逃げなかった。
逃げなかったが、世の中というものはそんなに窮屈ではない、人形であるおのれは、なんと惨めな存在であったのかと、そのことに気付いてしまったときから、なにかが狂い始めた。
花安英は、両腕をひろげて、その身いっぱいに風を受けた。
風を受けた袖が、まるで翼のように広がる。
その感覚を楽しみながら、花安英は笑った。
大声で笑った。
しかし、その哄笑は、風にまぎれて流され、襄陽城の、だれの耳にも届くことがなかった。
つづく