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帯とけの拾遺抄
藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って読んでいる。
公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という優れた歌の定義に表れている。
公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、「清げな姿」「心におかしきところ」時には「深い心」の三つの意味が有る。
拾遺抄 巻第十 雑下 八十三首
だいしらず よみ人しらず
五百三十四 なきなのみたつたのやまのふもとには よにもあらしのかぜもふかなん
題しらず (よみ人しらず・女の歌として聞く)
(無実の評判ばかりが、立つ多の・龍田の、山の麓には、世にも有らじの・きわめて激しい嵐の、風が吹いてほしい……なき汝の身、絶つたの山ばのふもとには、極めて荒々しい山ばの心風よ、吹いて欲しい)
言の戯れと言の心
「なきなのみ…無き名のみ…無実の評判だけ…よからぬ噂ばかり…泣き汝の身…亡き汝のおとこ」「な…汝…親しいものをこう呼ぶ」「たつたのやま…龍田山…山の名…名は戯れる。断つたの山ば、絶つたの山ば」「ふもと…麓…山ばでは無くなったところ…夫許…夫本…おとこ」「よにもあらし…極めて強い嵐…世にも有らじ…この世に有りそうもない…夜にも荒らし」「かぜもふかなん…風が吹いて欲しい…心風が吹いて欲しい」「かぜ…風…龍田山の麓はもとより生駒おろしの風の強いところ…心に吹く風…ものの山ばに吹く激しい風」
歌の清げな姿は、よからぬ風評を吹き飛ばす激しい嵐よ吹いてくれ。
心におかしきところは、なみ唾こぼす夫もとに、夜にも激しい心風吹いて欲しいの。
たかをにまかりかよふ法師に、あるをんなの名たちはべりければ、少将しげもと
がききつけてまことかといひつかわしたりければ 八条大君
五百三十五 なきなのみたかをのやまといひたつる 人はあたごのみねにやあるらむ
高尾に通う法師(高い尾根に間かり通うほ伏し)のために、或る女の評判が立ったので、少将しげもと(仮名だろう)が聞きつけて、「まことか」と言って遣ったところ、 (八条大君・貴人の長女・あだ名・八情の大いなるお人)
(無実の噂のみ、高尾の山と・多かおの八間と、言いたてた人は、愛宕の峰・あだおとこの御声、ではありませんか……泣きおとこばっかり、誰のおとこの山ばも、と言い立てた人は、あだ子の身根に・あのときの君に、ではありませんか)
言の戯れと言の心
「なきなのみ…無き名のみ…無実の評判ばかり…泣き汝の身…亡き汝のおとこ」「たかをのやま…高尾の山…誰が男の山ば…誰のおとこの山ばも」「人…相手の男」「あたごのみね…愛宕の峰…あだ子の身根…無用のこのおとこ」「にやあらむ…であろうか」
歌の清げな姿は、悪い噂ばかりを、高尾の山と言い立てた人は、愛宕の峰ではありませんか。
心におかしきところは、悪い噂の発信元を特定し、泣きおとこの身となるのは、君の貴身ではありませんか。怒りを真綿に包んで投げつけたところ。
やられたら、やり返す例は、和泉式部の歌にも、清少納言の言動にもある、普通のことである。
上のような詞書や歌の言葉の戯れは、俊成のいう「浮言綺語に似た戯れ」である。このような戯れは序詞とか掛詞とか縁語という範疇にはないので、俊成の言語観を無視して歌の表面のみ解き、ただの言語遊びの歌と貶めるならば、それは、近代人の理性の奢りであり、古代人に対する冒涜である。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。