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帯とけの拾遺抄
藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って聞き直している。
公任は和歌の表現様式を捉えた。「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という優れた歌の定義に表れている。公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、「深い心」「清げな姿」「心におかしきところ」の三つの意味が有る。
俊成は、歌の言葉は浮言綺語の戯れに似ているが、そこに歌の深い主旨・趣旨が顕れるという。
藤原公任撰「拾遺抄」巻第十 雑下 八十三首
こふたりはべりける人のひとりははるみまかりいまひとりは秋なくなり
侍りければ、
五百六十七 はるははなあきはもみぢとちりぬれば たちかくるべきこのもともなし
子、二人いた人が、一人は春に亡くなり、いま一人は秋に亡くなったので、(よみ人知らず・男の歌として聞く)
(春は花、秋は紅葉となって、散ってしまったので、わが家には・たち隠れるべき木の許も梨……張るはお花、飽きは厭き色となって散ってしまったので、立ち、掛けるべき、この元もなし)
言の戯れと言の心
「はるははな…春は花…青春は華…張るはおとこ花」「花…木の花…男花…おとこ花」「あきはもみぢ…秋は紅葉…飽きは厭き色」「ちりぬれば…散ってしまえば…果ててしまえば…亡くなってしまえば」「たちかくる…立ち隠る…たち隠れる…絶ちかくれる…立ち射かける」「このもと…木の許…子の本…おとこの元…子種」「こ…子…おとこ」
歌の清げな姿は、桜花散り、葉は紅葉となって散ってしまった、隠れるべき木陰も梨。
心におかしきところは、張るはお花、飽きはも見じして、散ってしまえば、立ち射かくるべき子種も涸れてなし。
この歌は,拾遺集 巻第二十「哀傷」にある。
こぞのあき、むすめにまかりおくれてはべりけるに、むまごこれのりが
のちのはる兵衛佐にまかりなりて侍りけるよろこびを人つかはしたりけ
るに、 皇太后宮権大夫国春
五百六十八 かくしこそはるのはじめはうれしけれ つらきはあきのおはりなりけれ
去年の秋、娘に先だたれたが、孫の、これのり(不詳)の、翌年の春、兵衛佐(兵衛府次官)になったお祝いの言葉を遣ったところ、(皇太后宮権大夫国春・拾遺集では国章、これのりの名はない)
(このように、春の初めは嬉しいことよ、辛いのは、去年の・秋の終わりの頃だなあ……孫はわが・隠し子ぞ、初春は愛でたくも嬉しいことよ、つらいのは、秋の終わり・飽き満ち足りのお張りの終わり、であるなあ)
言の戯れと言の心
「かくしこそ…斯くしこそ…このようにしてぞ…隠し子ぞ…孫は我が他の女に産ませた隠し子ぞ(子のできそうにない娘夫婦の養子にしたのだろう)、公任が作者名の、国あきを国はるにして、曖昧にした理由だろう」「こそ…強調の意を表す…子ぞ」「はるのはじめ…季節の春の初め(叙位などがある)…張るの初め…わが青春」「あきのおはり…季節の秋の終わり…もみじ葉の散り落ちる頃…ものの果て」「おはり…(命の)終わり…(お張りの)終り…(寄る年波によるものの)果て」
歌の清げな姿は、春と秋に出遭った喜びと悲しみの心情を素直に言葉にした。
心におかしきところは、孫は我が胤である、数十年前の青春と胤の昇進を歓喜する、つらいのは、お張りの終り。
この歌は拾遺集 巻第九「雑下」にある。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。