帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第十 雑下(五百七十一)為頼朝臣 (五百七十二)右大将道綱母

2015-12-23 23:06:00 | 古典

           



                           帯とけの拾遺抄



 藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って聞き直している。

公任は和歌の表現様式を捉えた。「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という優れた歌の定義に表れている。公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、「深い心」「清げな姿」「心におかしきところ」の三つの意味が有る。

俊成は、歌の言葉の浮言綺語に似た戯れの意味を心得れば、歌の旨(主旨及び趣旨)が顕れると言う。



 藤原公任撰「拾遺抄」巻第十 雑下
 八十三首


          むかし見はべりしひとびとおほくなくなりはべることをおもひつらねて

 為頼朝臣

五百七十一  よのなかにあらましかばとおもふ人 なきがおほくもなりにけるかな

昔、会った人々が、多く亡くなったことを、次々思い連ねて、(為頼朝臣・藤原為頼・紫式部の父為時の兄)

(世の中に在ったらいいのにと思う人、亡くなることが、多くなったことよ・我は世に蔓延っている……男女の仲で有ったらいいのにと思う女、亡き人が多くなったなあ・次々亡くなって)


 言の戯れと言の心

「むかしみはべりし人…昔見知った人…以前から知り合いの同年輩の人…武樫の頃見た女…若き頃情けを交わした女」「見…覯…媾…まぐあい」。

「よのなか…世の中…男女の仲…夜の中」「あらましかばと…在れば良いと…健在ならいいなあと」「おもふ人…思う人…思う女」「なきがおほく…亡きが多く…(良き人が次々と)亡くなる事が多く」「けるかな…気付き・詠嘆の意を表す」。


 歌の清げな姿は、疫病であろうか、同年輩の人々が多く亡くなる悲哀。

心におかしきところは、昔、武樫のころ見た良き女に先だたれ、とり残される、今は這い伏すおとこ。


 

藤原ためまさの朝臣普門寺にて経くやうしはべりける、又の日これか

れもろともにかへりはべりけるついでに、小野に立ちよりはべりける

にはなのおもしろくはべりければ、ひとびとうたよみはべりけるに、

右大将道綱母

五百七十二   たきぎこることはきのふにつきにしを いざをののえはここにくたさむ

藤原為雅(道綱母の義兄)の朝臣、普門寺にて経供養した次の日、誰彼となく一緒に帰るついでに、小野に立ち寄りたときに、花が鮮やかに美しかったので、人々歌を詠んだときに、(右大将道綱母・藤原兼家の妻・『蜻蛉日記』著者)

(薪きることは・経供養は、昨日で果てましたよ、さあ、小野の・斧の、柄は此処で、朽ちさせよう・時を忘れて楽しもう……多気木を伐採することは、昨日で果てましたね、いざ、男の身の枝は、この小野で朽ちさせましょう)


 言の戯れと言の心

「たきぎ…薪…多気木…多情な男木…木の言の心は男」「こる…樵る…伐採する…きる…断ち切る」「つきにし…尽きてしまった…(多気な煩悩は昨日普門寺で)尽き果ててしまった」「を…対象を示す…感嘆詞…お…おとこ」「をののえくたさむ…斧の柄を朽ちさせよう…時を忘れて遊ぼう…男の枝を朽ち果てさそう…(多気なものを伐採しただけでは心もとない)煩悩朽ち果てさそう」


 歌の清げな姿は、経供養は昨日で済んだ、いざ今日は、時間を忘れて遊びましょう。

心におかしきところは、多気木男を昨日伐採したから、さあ今日は、おとこを朽ちさせましょう。


 この両歌は、拾遺集巻第二十「哀傷」にある。



 『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。