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帯とけの拾遺抄
藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って読んでいる。
公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という優れた歌の定義に表れている。
公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、「清げな姿」「心におかしきところ」時には「深い心」の三つの意味が有る。
拾遺抄 巻第十 雑下 八十三首
よしのぶがもとにくるまのかもをこひにつかはしたりけるに、
はべらずといひてはべりければ 仲文
五百四十二 かをさしてむまといふ人ありければ かもをもをしとおもふなりけり
能宣の許に、車の鹿毛(被い)を貸してくれと使いを遣わしたのに、無いと言ったので、(藤原仲文・大中臣能宣とはほぼ同年輩)
(鹿を指して馬という人が、昔・いたというから、鴨を鴛と思う人もいるようだなあ……君の・顔指して馬という人がいたというから、鹿毛を、惜しいと・愛しいと、思うのだなあ……君の・彼お挿して、馬・武間、という女が居たから、あの毛も、惜しい・愛しい、と思うのだなあ)
言の戯れと言の心
「かをさして…鹿を指して…顔指して…馬づら指して…彼を挿して…あれ挿入して」「かも…鹿の毛で作った車の防風・防寒用の被せ物(敷物か・飾りものかもしれない)…鴨…鹿毛…かげ…馬の毛色」「人…昔の人…人々…女」「をし…鴛…おしどり…惜し…愛着する…もの惜しみする」「なりけり…伝聞による回想・詠嘆…断定・詠嘆」
歌の清げな姿は、駄洒落で貸し惜しみを皮肉った。
心におかしきところは、よしのぶの顔をからかった・その下おを馬なみだからと持ち上げた。
かへし
五百四十三 なしといへばをしむかもとやおもふらん しかやむまとぞいふべかりける
返し (よしのぶ)
(梨と言えば、惜しむ鹿毛と、並みの人が・思うだろうか、君なら・鹿をだよ、馬と言っただろうなあ……無し・そんな物無いよ、と言えば、貸し惜しむと思うのだろうか、わが・顔をよ、馬なんてだ、言うべきだろうかあ……それ程でも・無いと言えば、挿し・惜しむかもと、女は・思うだろうなあ、肢下はよ、馬な身と言うべきだろうなあ)
言の戯れと言の心
「なし…無し…梨」「をし…鴛…惜し…お肢…おとこ」「しか…鹿…肢下…おとこ」「むま…馬…武間…おとこ」。
歌の清げな姿は、駄洒落で誤解を皮肉り、腹立ちを示した。
心におかしきところは、それ程ではないと言えば、挿し惜しむと思うだろう、女には・しかは馬なみというべきかなあ。
上のような歌の読解を学問とするならば、最初に立てられた表現様式の方程式が間違えているので、百年経っても一千年経っても百%解けることはない。
歌枕・序詞・掛詞・縁語などという概念とは、全く別の文脈で、貫之・公任・清少納言・俊成の把握した歌論と言語観で和歌は詠まれていたのである。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。