帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第十 雑下 (五百四十二)(五百四十三)

2015-12-07 23:29:33 | 古典

          



                         帯とけの拾遺抄



 藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って読んでいる。

公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という優れた歌の定義に表れている。

公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、「清げな姿」「心におかしきところ」時には「深い心」の三つの意味が有る。



 拾遺抄 巻第十 雑下
 八十三首


           よしのぶがもとにくるまのかもをこひにつかはしたりけるに、

はべらずといひてはべりければ             仲文

五百四十二 かをさしてむまといふ人ありければ かもをもをしとおもふなりけり

能宣の許に、車の鹿毛(被い)を貸してくれと使いを遣わしたのに、無いと言ったので、(藤原仲文・大中臣能宣とはほぼ同年輩)

(鹿を指して馬という人が、昔・いたというから、鴨を鴛と思う人もいるようだなあ……君の・顔指して馬という人がいたというから、鹿毛を、惜しいと・愛しいと、思うのだなあ……君の・彼お挿して、馬・武間、という女が居たから、あの毛も、惜しい・愛しい、と思うのだなあ)


 言の戯れと言の心

「かをさして…鹿を指して…顔指して…馬づら指して…彼を挿して…あれ挿入して」「かも…鹿の毛で作った車の防風・防寒用の被せ物(敷物か・飾りものかもしれない)…鴨…鹿毛…かげ…馬の毛色」「人…昔の人…人々…女」「をし…鴛…おしどり…惜し…愛着する…もの惜しみする」「なりけり…伝聞による回想・詠嘆…断定・詠嘆」


 歌の清げな姿は、駄洒落で貸し惜しみを皮肉った。

心におかしきところは、よしのぶの顔をからかった・その下おを馬なみだからと持ち上げた。


 

 かへし

五百四十三  なしといへばをしむかもとやおもふらん しかやむまとぞいふべかりける

 返し                        (よしのぶ)

(梨と言えば、惜しむ鹿毛と、並みの人が・思うだろうか、君なら・鹿をだよ、馬と言っただろうなあ……無し・そんな物無いよ、と言えば、貸し惜しむと思うのだろうか、わが・顔をよ、馬なんてだ、言うべきだろうかあ……それ程でも・無いと言えば、挿し・惜しむかもと、女は・思うだろうなあ、肢下はよ、馬な身と言うべきだろうなあ)

 

言の戯れと言の心

「なし…無し…梨」「をし…鴛…惜し…お肢…おとこ」「しか…鹿…肢下…おとこ」「むま…馬…武間…おとこ」。

 

歌の清げな姿は、駄洒落で誤解を皮肉り、腹立ちを示した。

心におかしきところは、それ程ではないと言えば、挿し惜しむと思うだろう、女には・しかは馬なみというべきかなあ。

 

上のような歌の読解を学問とするならば、最初に立てられた表現様式の方程式が間違えているので、百年経っても一千年経っても百%解けることはない。

歌枕・序詞・掛詞・縁語などという概念とは、全く別の文脈で、貫之・公任・清少納言・俊成の把握した歌論と言語観で和歌は詠まれていたのである。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった


帯とけの拾遺抄 巻第十 雑下 (五百四十)(五百四十一)

2015-12-07 00:15:08 | 古典

          



                         帯とけの拾遺抄



 藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って読んでいる。

公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という優れた歌の定義に表れている。

公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、「清げな姿」「心におかしきところ」時には「深い心」の三つの意味が有る。



 拾遺抄 巻第十 雑下
 八十三首


          おなじゑに、あをむまひけるところにあしのはなけなるむまのかたかける

ところに                         恵慶法師

五百四十  なにはえのあしのはなげのまじれるは つのくにかひのこまにやあるらん

三条太政大臣(藤原頼忠・公任の父)の家の絵に、白馬を引き連れたところに、葦の花毛のある馬の姿を描いたところに、恵慶法師

(難波江の葦の花毛が交じっているのは、津の国飼いの駒であろうか……何は江の、あしの花毛の・薄黄色い毛の、交じれるは、津のくに貝のこ間であろうか)

 

言の戯れと言の心

「なにはえ…難波江…何は江…あのその江」「江…言の心は女」「あしのはなげ…馬の毛色の名…葦の花の色(白色・薄い褐色・薄い黄色)の毛…葦毛…悪し毛…白毛」「つのくに…津の国…難波…何は」「津…言の心は女」「かひの…飼いの…育てられた…貝の」「貝…言の心は女…おんな」「こま…駒…こ間…股間…おんな」。

 

歌の清げな姿は、白馬の節会の馬の絵を見た感想。

心におかしきところは、白馬の牝らしいこ間の毛色のありさま。

 

 

かぶりやなぎを見はべりて

五百四十一  かはやなぎいとはみどりにあるものを いづれかあけのころもなるらむ

冠柳を見て   (拾遺集は仲文・藤原仲文・公任の父頼忠とほぼ同世代の人)              

(川辺の柳、糸は・細枝は、緑であるものを、どこが、緋の衣なのだろうか・得た五位の冠だろうか……めめしい男、細枝は未熟であるものを、だれが、緋の衣になるか、どうしてだろうか)

 

言の戯れと言の心

「川…言の心は女」「やなぎ…柳…男…木の言の心は男…やなぎは、ほめ言葉では無い」「いと…糸…細枝…おとこ…ほめ言葉ではない」「みどり…緑…若い…未熟な…青…六位の衣の色」「いづれか…どこが…だれが…いつか…不定の事物・人・時を指示する」「あけのころも…緋の衣…五位の冠を得た人の衣の色」「らむ…推量の意を表す…理由などに疑問を持って推量する意を表す」。

 

歌の清げな姿は、冠柳を見て叙位の事をあれこれと思う。

心におかしきところは、あんな男が冠得て緋衣になるとはどうしてか。叙位の日、青衣のままの男のつぶやき。

 

正月の年中行事の白馬の節会(七日)の前日が叙位(五位以上の位を授かる)日である。

白馬の歌には男の好き心が、冠柳の歌には男の妬み嫉み恨み心が、「心におかしきところ」として顕れている。藤原俊成は、浮言綺語のような歌言葉の戯れに顕れる、どうしょうもなく心に煩わしいばかりに湧き立つものを、「煩悩」と言ったのである。そして「即菩提」というのは、それらを歌に詠めば、即ち一つの悟りの境地であるということだろう。

 

公任は仲文の歌を無名のまま、法師の歌の次に置いた。花山院は院の権威を持って仲文と作者名を拾遺集には載せられた。誰にもある心であるからということだろう。この一行は推定である。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。