帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第十 雑下 (五百五十)(五百五十一)(五百五十二)

2015-12-11 23:24:49 | 古典

           



                           帯とけの拾遺抄



 藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って読んでいる。

公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という優れた歌の定義に表れている。

公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、「清げな姿」「心におかしきところ」時には「深い心」の三つの意味が有る。



 拾遺抄 巻第十 雑下
 八十三首


                                      元輔

五百五十  はなのいろもやどもむかしのにはながら かはれる物はつゆにぞありける

小野宮太政大臣の亡き娘(村上天皇女御)の喪中に「桜の花盛りに家の花を見ていささかに思ひをのぶる」を題に詠んだ歌(清原元輔・後撰和歌集撰者)

(花の色も宿も昔の庭のままながら、変わってしまわれたものは、露の命・白玉のようなひとの命、であることよ……心におかしきところなし)


 言の戯れと言の心

「はな…花…木の花…草の花」「やど…宿…家…言の心は女」「には…庭…物事が行われる所…言の心は女」「かはれる…変われる…消えてしまう…亡くなられる」「れる…る…自然にそうなる意を表す…尊敬の意を表す」「つゆ…露…はかないもの…露の命…白露…白玉…真珠」。


 土佐日記二月四日、母親が亡き女児を白玉と詠んだあと、「玉ならずもありけんをと、人、言はんや。されども、死し子、顔良かりきといふやうもあり」とある。


 歌の清げな姿と歌の心は、庭の草花の露によせて、白玉のように美しい人のはかない命を思った。

 


                                    よしのぶ

五百五十一 さくらばなにほふものゆゑつゆけきは このめもものぞおもひしるらし

(上に同じ)           (大中臣能宣・後撰和歌集撰者)

(桜花・男花、色艶やかなので潤んでいるのは、木の芽も・我がこの目も、ものぞ・哀しい情をぞ、思い知っているに違いない……―――)


 言の戯れと言の心

「さくらばな…桜花…木の花…言の心は男」「にほふ…色鮮やかさま…艶やかなさま」「つゆけき…露けき…露がおりている…潤んでいる…涙のつゆが零れそう」「このめ…木の芽…此の目…わが目」「もの…哀しみ・悲しみなどを漠然と言い表した」「思ひしる…思い知る…経験が有る…身にしみて感じている」「らし…のように思われる…現在の状況推量する意を表す…に違いない…確かな根拠が有って情況を推定する意を表す(たぶん能宣も娘を亡くした経験が有るのだろう)」


 歌の清げな姿と歌の心は、桜花、色艶よくて露っぽい、木のめもこの悲しさ・我が此の目もこの悲哀・思い知っているに違いない。

 



           このことをききはべりて             源延光朝臣

五百五十二  きみまさばまづぞをらましさくらばな かぜのたよりにきくぞかなしき

この歌会の歌を聞いて、(源延光・枇杷大納言・延光の妹は公任の母つまり頼忠の北の方)

(もしも、君がいらっしゃれば、先ず枝折るでしょう辺りの桜花、風の便りに聞くのさえぞ、哀しき・花散る如く涙こぼるる歌なので……―――)


 言の戯れと言の心

「さくらばな…桜花…男花…男」「をらまし…(もしも君がいらっしゃればわが家の桜の枝を全て)折るでしょう…仮想推量…折るのがいいでしょう…仮想適当」「かぜのたより…風の便り…噂に聞くこと…他所から伝え聞く事」「ぞ…強調の意を表す…さえぞ(風の噂でさえぞ・直接ならばなおさら)強く指示する」「かなしき…哀しき(歌)…体言が省略されてあるが体言止め、余情・余韻が有る」


 歌の清げな姿と歌の心は、風の便りに聞くのさえぞ哀しい・男花散る如く男の涙零れる歌々よ、和し奉る。


 三首とも、拾遺和歌集巻二十『哀傷』にある。



 『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。