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帯とけの拾遺抄
藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って読んでいる。
公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という優れた歌の定義に表れている。
公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、「清げな姿」「心におかしきところ」時には「深い心」の三つの意味が有る。
藤原公任撰『拾遺抄』 巻第十 雑下 八十三首
中宮かくれたまひてのとしのあき、御前の前栽につゆおきたるをかぜの
ふきなびかしたるを御覧じて 天暦御製
五百五十三 あきかぜになびくくさばのつゆよりも きえにし人をなににたとへん
中宮、お隠れになられて、翌年の秋、御前の前栽に露のおりたのを、風が吹き靡かせたのを御覧になられて、(天暦御製・村上天皇御製)
(秋風に靡く草葉の露よりも、はかなく・消えてしまった人を、何に喩えようか……)
言の戯れと言の心
「くさ…草…言の心は女…ぬえ草のめ、若草の妻などといった遠い昔から、草は女」「つゆ…露…はかなく消えるもの…ほんの少しのもの…白露…白玉…真珠」「なににたとへん…何に喩えん…(露の何に・他の何に)喩えればいいのか」
歌の清げな姿と歌の心は、白露よりもはかなく消えた、真珠のようにすばらしかった人を、追憶し追悼する。
心におかしきところは、喪中とは関わりなく、お立場上、無し。
この御歌は、拾遺集巻第二十「哀傷」にある。
冬おやのさうにあひてはべりけるほふしのもとにつかはしける 躬恒
五百五十四 もみじばやたもとなるらむかみなづき しぐるるごとにいろのまさるは
冬、親の喪中となった法師の許に遣わした (凡河内躬恒・古今和歌集撰者)
(紅葉色、喪服の・袂となっているでしょうか、神無月しぐれ降る毎に、血の涙に・色の増さるは……厭きの色、身のそでとなっているでしょうか、かみ・女、無しの月日、冷たいおとこ雨ふる毎に、色情の増さることよ・我は)
言の戯れと言の心
「もみじ…紅葉…秋の色…飽きの色…厭きの色…断ってしまった色情」「たもと…袂…手許」「かみなづき…神無月…陰暦十月…初冬…かみ無し月人壮士…妻女無しの壮士」「かみ…神…言の心は女…天照大御神は女神である」「つき…大空の月…月人壮士(万葉集の歌語)…言の心は男」「しぐるる…時雨降る…その時のおとこ雨降る」「いろ…色彩…色情…色欲」「は…詠嘆の意を表す」
歌の清げな姿は、喪服の袂は、血の涙のしぐれ降る毎に、紅葉色が増していることでしょう。
心におかしきところは、かみ無しの月日、おとこのしぐれる毎、増すは色情よ・我は。
この歌は、拾遺集巻第十七「雑秋」にある。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。