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帯とけの拾遺抄
藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って聞き直している。
公任は和歌の表現様式を捉えた。「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という優れた歌の定義に表れている。公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、「深い心」「清げな姿」「心におかしきところ」の三つの意味が有る。
俊成は、歌言葉の浮言綺語に似た戯れの意味に歌の旨(主旨及び趣旨)が顕れると言う。
藤原公任撰「拾遺抄」巻第十 雑下 八十三首
よみ人しらず
五百七十七 やまでらのいりあひのかねのこゑごとに けふもくれぬときくぞかなしき
(題知らず) (よみ人知らず・男の歌として聞く)
(山寺の入相の鐘の音がする毎に、今日も暮れてしまうと聞くのこそ、哀しい・ものだなあ……山ばのてらいの、入り合いの、鐘の・煩悩の、声ごとに、京も・有頂天も、果ててしまうと聞くぞ、哀しくも・愛しいなあ)
言の戯れと言の心
「やまでら…山寺…(戯れて)山ばのてら(い)…山ばを誇らか告げる」「てらふ…衒う…みせびらかす…誇らかに表わす」「いりあひ…入相…日没…日暮れ…入り合い…和合に入る」「かねのこゑ…鐘の音…諸行無常の響き…鐘の声…煩悩の声…和合の京に達した時の女の声」「けふ…今日…無常なる今日という日…京…山ばの絶頂…和合の極み…俗世最高の喜び・有頂天」「くれぬ…暮れてしまう…果ててしまう…尽きてしまう」「ぬ…完了の意を表す」「かなしき…哀しい(時・もの)…愛しい(時・もの・ひと)…かわいい(時・もの・女)…体言が省略されてあるが体言止め。鐘の音のように余韻がある」
歌の清げな姿は、諸行無常の鐘の音とともに、今日も暮れてしまう情景。
心におかしきところは、山ばの京を告げる女の煩悩の声とともに、京も果ててしまう情況。
この歌は、拾遺集巻第二十「哀傷」にある。
おこなひしはべりけるひとのくるしくおぼえはべりければえおき
はべらざりける、後夜にをかしげなるのつきおどろかすと
てよみはべりける、 ちうれ
五百七十八 としをへてはらふちりだにあるものを いまいくよとてたゆむなるらむ
仏道・修行していた人が、苦しくおもえたので、起きることができなかった夜も更けた頃に、かわいらしいが、つつき起こすということで、詠んだ (ちうれ・不詳・小坊主の名か)
(年を経て掃う散りだってあるものを、今、幾夜経ったということで、お疲れになっているのだろうか……疾しを・一瞬の時を、経て払い清める心の塵だってあることはあるが、井間に逝くよとばかり、どうして・気抜けしているのだろうか)
言の戯れと言の心
「としをへて…長年を経て…疾しを経て…一瞬のときを経て…夢中に掃い出して」「ちり…塵…心の塵…おとこの散り花…男の身の塵芥」「いまいくよ…今幾夜…井間逝くよ」「たゆむ…疲れる…心が緩む…ものがたるむ」「らむ…推量する意を表す…原因理由を推量する意を表す」
歌の清げな姿は、修行中に眠ってしまう法師を起こす決め台詞。
心におかしきところは、夢の中で・井間逝くよとて、払い出して、身も心もゆるんでいるのか。
この歌は、拾遺集にはない。載せ難い歌のようである。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。