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帯とけの拾遺抄
藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って聞いている。
公任は和歌の表現様式を捉えた。「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という優れた歌の定義に表れている。
公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、「深い心」「清げな姿」「心におかしきところ」の三つの意味が有る。それらは「言の心」と「言の戯れの意味」を心得れば顕れる。
藤原公任撰「拾遺抄」巻第十 雑下 八十三首
五百六十一 としふれどいかなる人かとこふりて あひおもふいもにわかれざるらん
(思慕する妻に先立たれて嘆いていた頃、詠んだ) (大江為基)
(年月経ても、如何なる人が、床古くなって、相思相愛の女に、別れ去るだろうか・別れないだろう……疾し・早き一瞬の時、経ても、如何なる男が、門こ、お雨・降りて、合い思う女に、別れ去るだろうか・分け離さないだろう)
言の戯れと言の心
「とし…歳…年月…疾し…一瞬の時…早過ぎる時…おとこの性」「ふれど…古れど…経れど…触れど…振れど…降れど」「いかなる人か…如何なる人か…いったい誰が…疑問の意を表す・反語の意を表す」「とこ…床…寝床…門こ…おんな」「ふり…古り…経り…触り…振り…降り」「て…完了を表す…引き続いていることを表す」「あひおもふ…相思う…相思相愛の…合い思う…和合する…感情の山ばの合致する」「別れ…離別…死別…分離」「さる…去る…ざる…ず…ない…否定」「らん…らむ…だろう…推量」
歌の清げな姿は、長年連れ添った愛妻の突然の死を嘆いた。
心におかしきところは、とし時経て、お雨降りても、合い思う妻と離れはしない・誰が引き離しのたか。
だいしらず よみ人しらず
五百六十二 うつくしとおもひしいもをゆめにみて おきてさぐるになきぞかなしき
題知らず (よみ人知らず・男の歌として聞く)
(愛しいと思っていた妻を夢に見て、目を覚まし手さぐりすれど、亡きぞ哀しき……かわいいな、すばらしいと思えることを夢に見て、おとこ白つゆ・おくり置いて、窺い見るに、無きぞかなしき)
言の戯れと言の心
「うつくし…愛しい…かわいい…美しい…すばらしい」「ゆめ…睡眠中に見る夢…はかない妄想」「み…見…覯…媾…まぐあい」「おきて起きて…目を覚まして…置きて…白つゆ贈り置きて」「さぐる…探る…手まさぐる…尋ね求める…様子を窺う」「なき…亡き…無き」「かなしき…哀しい…悲しい…愛しい」
歌の清げな姿は、愛妻を亡くした男の夢から目覚めたさま。
心におかしきところは、愛する妻を有頂天に送り届けることを夢に見て、努めたが至らぬ哀しみ。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。
「帯とけの古典文芸」の和歌を解くときに従った平安時代の歌論と言語観を列挙する。これらは国文学の解釈では無視されるか曲解されている。
○紀貫之の古今集仮名序の結びに「歌のさま(様)を知り、こと(言)の心を得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、古を仰ぎて今を恋ひざらめかも」とある。歌の意味を解くには「歌の様」を知り「言の心」を心得る必要があると、素直に受け取る。
○藤原公任の歌論「新撰髄脳」に「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりというべし」とある。歌には複数の意味があると知る。これが、「歌の様」(歌の表現様式)である。
○清少納言は、枕草子の第三章に、言葉について次のように述べている。「同じ言なれども聞き耳異なるもの、法師の言葉、男の言葉、女の言葉。げすの言葉にはかならず文字あまりたり」。言いかえれば、「我々の用いる言葉は、聞く耳によって意味が異なるもので、戯れて多様な意味を孕んでいる。この言語圏外の衆の言葉は(言い尽くそうとして)文字が余っている」となる。これは清少納言の言語観である。同じ言語観で、歌も枕草子も読むべきである。
○藤原俊成の古来風躰抄に「(歌の言葉は)浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕はる」とある。歌の言葉は、それぞれ複数の意味を孕んでいるので、歌にも公任の言う複数の意味を表現できる。歌言葉の孕む複数の意味を紐解けば、帯が解け、歌の複数の意味が顕れるにちがいない。