東博の常設、前回の続き。以下見たものの備忘録です。(11月初め以降)
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一階13室:陶磁ルーム
がっしり大きな壺が磁場のごとき存在感。1000年も前の壺だった。
左右対称でなく、ゆがんでいるのが嬉しい。弥生式土器のような基本のかたち。日常の生活に普段使いしていたものでしょう。これらが焼かれた窯は、その地域で受け継がれ、信楽、備前、常滑、瀬戸、越前、丹波へとつながる。
最も古いものは、平安時代、9世紀!。灰釉大壺 、愛知の「猿投窯」。
奈良時代の薬壺に原型を持ち、短い頸部に張りのある肩に奈良時代の原型を残す。
常滑:埼玉県朝霞市宮戸 宮戸経塚出土 平安時代12世紀 質感が今の常滑焼と同じ(!)。
埼玉で出土している。常滑焼の歴史をざっと読むと、平安時代には奥州平泉にまで、鎌倉時代には広島にまで、本州に広く流通していた。大量に買ったのもあるだろうし、お酒かなにか商品を入れたものを購入し、その壺を使いまわしていたとか?。
平安時代に愛知県の知多半島に広がった常滑窯は,渥美半島の渥美焼とともに壷,甕,鉢といった日常の容器に主眼を置いて生産を行った。この大壷は平安時代常滑焼の代表的な作品で,粘土紐を巻上げて轆轤挽きで鋭く仕上げた口部を接合させる。肩の張り,頸部への立ち上りともに力強く古格を感じさせる。
自然釉刻文大壺 信楽 室町時代・15世紀
信楽町一帯で中世以降栄えた。白い長石粒を含み、鮮やかに赤く焦げた土肌が見どころとなっている。
どれも率直に土と火のエネルギーを感じる壺。職人たちも、しっかり力強い腕をしていたんだろうな。
さて、一気に時代が進み、17、18世紀の焼物コーナーへ。
先ほどまでの壺が作り手の「強い腕」なら、この先は「手」を感じる。絵付けが施され、ずいぶん優美にインテリチックになってきた。生活も陶磁器の用途も、変化してきたのか。
銹絵観鴎図角皿(さびえかんおうずかくざら)尾形光琳・深省合作 18世紀
絵付けは光琳。深省は乾山の別号。宋の詩人、黄山谷がカモメを眺める。二羽のかもめも詩人も、ほんのりした優しさが漂ってくる。側面の雲のモチーフも良き良き。
そして、展示にはなかったけど東博HPを見ると、裏面に乾山が書いた銘款の達筆ときたら!
葉室麟さんの「乾山晩愁」には、乾山は深省という号で登場していた。光琳の死後から始まる物語。光琳と違って思慮深い乾山だった。
乾山は光琳の死後も26年も長く生き、作陶を続ける。光琳の絵付けも素晴らしいのだけれど、乾山自身が手掛けた絵つけもデザインも、しんしんと心に残るものばかり。
色絵椿図香合 乾山
銹絵葡萄図角皿 乾山
渋い風合いだと思ったら、海底に沈んでいたため、変色しているのだとか。明治7年にウィーン万博に出品された後、出品作を積んで帰路に就いたニール号が静岡沖で座礁。多くの犠牲者を出した。出品物192箱のうち,この角皿を含む陶磁器・漆器等68箱分は博覧会事務局によって引き揚げられたが、船体と他の出品物は現在も海底に沈んだままだそう。今からでもなんとか引き上げられないものか。
ひかれる乾山の世界。根津美術館や畠山美術館などでも見るたびに、乾山の絵付けにひかれるけれど、いまだ乾山て人がよくわからない。乾山の作陶を見ても、私などには乾山か光琳かどちらの絵付けか判別できなかったりする。
乾山の独自の世界がどんなものだろうと長らく思っていたところ、タイムリーなことに来年はいい展覧会がふたつある。
《岡田美術館》仁清と乾山ー京の焼き物と絵画ー2017年11月3日~ 2018年4月1日。
《根津美術館》光琳と乾山―芸術家兄弟・響き合う美意識―2018年 4月14日~5月13日
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さて二階:
1室 仏教の隆盛ー飛鳥・奈良
日光菩薩踏下像(にっこうぼさつふみさげぞう) 木心乾漆造,漆箔 京都・高山寺旧蔵 8世紀・奈良時代
こちらの菩薩さまは、なんとなんと8月に芸「大」コレクション展で入ってすぐに展示されていた「月光菩薩像」とセットなのだそう。二人とも高山寺の薬師如来像に随侍していた。こちらは月光菩薩像よりも少しは損傷が少ない。薬師如来像様は京都だけれど、日光・月光の両菩薩様は、同じ上野にいらっしゃる。お互いに少し内側に傾くような肢体で、3躯を一緒にしてあげたいような。いつか実現する展覧会があるかもしれない。
3室:仏教の美術:平安・室町
仏涅槃図は、15世紀・室町時代のもの。
室町以降は、動物の数が増える傾向にあり、ここには50種以上が描かれているそう。動物、霊獣のほか、ヤモリ?や毛虫、魚、カニ、トンボに至るまで、釈迦の入滅を嘆き悲しんでいた。衆生畜生、生きとし生けるものすべて。
ネコ入り涅槃図かどうか探してしまったが、おそらくネコはいなさそう。かわりに、長谷川派の涅槃図ではいつもネコがいるあたり(左より)に、妙な生物を発見。なんだろうと思っていたら、愛読させていただいている方のブログで、「犀」なる幻獣であると知る。鹿のような体で、背中に亀の甲羅を乗せ、水辺にすむらしい。愛らしいぞ
不動三尊像 16世紀・室町時代 なんでしょう、この情けない不動明王は。
制多迦童子のこのやる気のなさ。
困り果てた不動明王。矜羯羅童子も、いやお手上げですよみたいに手でさえぎる。
パロディ系の仏画もありなのね。仏さまが身近だってことかしら。同じ16世紀でもキリスト教の宗教画ではこんなの許されなさそう。
珍しい手のひらサイズの経文も展示されていた。「経石」16世紀は小石に経を書き、地中に埋める。「柿(こけら)経 」13世紀は、定規くらいの木片に経を記す。「泥塔経」12世紀は、梵字が書かれた素焼きの小さな供養塔。泥塔を集めて塚として供養する泥塔供養が平安以降に流行した。
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3室:禅と水墨画 お気に入りがたくさん。
伝如拙「書画図屏風」6曲1隻 15世紀・室町時代(撮影不可)は、もとは6曲一双の片隻らしい。人物の様子も樹々の動きも面白い~。
高士が山水図に賛を書き入れようとしている。考えすぎているのか?眉間にしわがよっている。その手元に、周りを囲む二人や童子たちの視線が集中する。背景の木々の幹はしなり、細い枝は触手をゆらゆらと四方八方に伸ばす。描き方も印象的。
啓孫「竹林七賢図屏風 」6曲1隻 16世紀・室町時代 前述の伝如拙のゆらゆら揺らぐ印象と打って変わって、直線的。独特で、書き手の個性を押してくる。このひと面白い。
右端には、天狗のウチワみたいなのを持った賢人の世俗離れした様子がいい。笹越しの月、妙な山の稜線、川のライン、どこもなんだかおもしろい。
左に進むにつれ、どんどん面白さが増してゆく。竹が画面の上を越えて伸び、まっすぐに画面を分断している。そこへ竹のアーチ。啓孫て大胆な人のようだ。
7人の賢人だけ少し着色しており、頬の肉付もリアル。皆マイペース。
ヒトデみたいな葉の描き方も面白い。各々二重になっているのはなんだろう。二本もって書いたのか、割れていたのかな。狩野派以前にはいろいろな表現があるものだ。岩の擦筆も力強い。
根も幹も枝も、どんどん触手を進める。
啓孫は、生没年不詳ながら、作域は広く、作品も比較的多くのこされているそう。またどこかで出会えたら面白い。