はなな

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●東博の常設:啓孫・応挙の波濤図・抱一・乾山など

2017-12-06 | Art

東博の常設、前回の続き。以下見たものの備忘録です。(11月初め以降)

一階13室:陶磁ルーム

がっしり大きな壺が磁場のごとき存在感。1000年も前の壺だった。

左右対称でなく、ゆがんでいるのが嬉しい。弥生式土器のような基本のかたち。日常の生活に普段使いしていたものでしょう。これらが焼かれた窯は、その地域で受け継がれ、信楽、備前、常滑、瀬戸、越前、丹波へとつながる。

最も古いものは、平安時代、9世紀!。灰釉大壺 、愛知の「猿投窯」

奈良時代の薬壺に原型を持ち、短い頸部に張りのある肩に奈良時代の原型を残す。

 

常滑:埼玉県朝霞市宮戸 宮戸経塚出土 平安時代12世紀 質感が今の常滑焼と同じ(!)。

埼玉で出土している。常滑焼の歴史をざっと読むと、平安時代には奥州平泉にまで、鎌倉時代には広島にまで、本州に広く流通していた。大量に買ったのもあるだろうし、お酒かなにか商品を入れたものを購入し、その壺を使いまわしていたとか?。

平安時代に愛知県の知多半島に広がった常滑窯は,渥美半島の渥美焼とともに壷,甕,鉢といった日常の容器に主眼を置いて生産を行った。この大壷は平安時代常滑焼の代表的な作品で,粘土紐を巻上げて轆轤挽きで鋭く仕上げた口部を接合させる。肩の張り,頸部への立ち上りともに力強く古格を感じさせる。

 

自然釉刻文大壺 信楽 室町時代・15世紀

信楽町一帯で中世以降栄えた。白い長石粒を含み、鮮やかに赤く焦げた土肌が見どころとなっている。

 

どれも率直に土と火のエネルギーを感じる壺。職人たちも、しっかり力強い腕をしていたんだろうな。 

 

て、一気に時代が進み、17、18世紀の焼物コーナーへ。

先ほどまでの壺が作り手の「強い腕」なら、この先は「手」を感じる。絵付けが施され、ずいぶん優美にインテリチックになってきた。生活も陶磁器の用途も、変化してきたのか。

銹絵観鴎図角皿(さびえかんおうずかくざら)尾形光琳・深省合作 18世紀

絵付けは光琳。深省は乾山の別号。宋の詩人、黄山谷がカモメを眺める。二羽のかもめも詩人も、ほんのりした優しさが漂ってくる。側面の雲のモチーフも良き良き。

そして、展示にはなかったけど東博HPを見ると、裏面に乾山が書いた銘款の達筆ときたら!

葉室麟さんの「乾山晩愁」には、乾山は深省という号で登場していた。光琳の死後から始まる物語。光琳と違って思慮深い乾山だった。

乾山は光琳の死後も26年も長く生き、作陶を続ける。光琳の絵付けも素晴らしいのだけれど、乾山自身が手掛けた絵つけもデザインも、しんしんと心に残るものばかり。

色絵椿図香合  乾山

 

銹絵葡萄図角皿 乾山 

渋い風合いだと思ったら、海底に沈んでいたため、変色しているのだとか。明治7年にウィーン万博に出品された後、出品作を積んで帰路に就いたニール号が静岡沖で座礁。多くの犠牲者を出した。出品物192箱のうち,この角皿を含む陶磁器・漆器等68箱分は博覧会事務局によって引き揚げられたが、船体と他の出品物は現在も海底に沈んだままだそう。今からでもなんとか引き上げられないものか。

ひかれる乾山の世界。根津美術館や畠山美術館などでも見るたびに、乾山の絵付けにひかれるけれど、いまだ乾山て人がよくわからない。乾山の作陶を見ても、私などには乾山か光琳かどちらの絵付けか判別できなかったりする

乾山の独自の世界がどんなものだろうと長らく思っていたところ、タイムリーなことに来年はいい展覧会がふたつある。

《岡田美術館》仁清と乾山ー京の焼き物と絵画ー2017年11月3日~ 2018年4月1日。

《根津美術館》光琳と乾山―芸術家兄弟・響き合う美意識―2018年 4月14日~5月13日

さて二階:

1室 仏教の隆盛ー飛鳥・奈良

日光菩薩踏下像(にっこうぼさつふみさげぞう) 木心乾漆造,漆箔 京都・高山寺旧蔵 8世紀・奈良時代

こちらの菩薩さまは、なんとなんと8月に芸「大」コレクション展で入ってすぐに展示されていた「月光菩薩像」とセットなのだそう。二人とも高山寺の薬師如来像に随侍していた。こちらは月光菩薩像よりも少しは損傷が少ない。薬師如来像様は京都だけれど、日光・月光の両菩薩様は、同じ上野にいらっしゃる。お互いに少し内側に傾くような肢体で、3躯を一緒にしてあげたいような。いつか実現する展覧会があるかもしれない。

 

3室:仏教の美術:平安・室町

仏涅槃図は、15世紀・室町時代のもの。

室町以降は、動物の数が増える傾向にあり、ここには50種以上が描かれているそう。動物、霊獣のほか、ヤモリ?や毛虫、魚、カニ、トンボに至るまで、釈迦の入滅を嘆き悲しんでいた。衆生畜生、生きとし生けるものすべて。

ネコ入り涅槃図かどうか探してしまったが、おそらくネコはいなさそう。かわりに、長谷川派の涅槃図ではいつもネコがいるあたり(左より)に、妙な生物を発見。なんだろうと思っていたら、愛読させていただいている方のブログで、「犀」なる幻獣であると知る。鹿のような体で、背中に亀の甲羅を乗せ、水辺にすむらしい。愛らしいぞ

 

不動三尊像  16世紀・室町時代 なんでしょう、この情けない不動明王は。

制多迦童子のこのやる気のなさ。

困り果てた不動明王。矜羯羅童子も、いやお手上げですよみたいに手でさえぎる。

パロディ系の仏画もありなのね。仏さまが身近だってことかしら。同じ16世紀でもキリスト教の宗教画ではこんなの許されなさそう。

 

珍しい手のひらサイズの経文も展示されていた。「経石」16世紀は小石に経を書き、地中に埋める。「柿(こけら)経 」13世紀は、定規くらいの木片に経を記す。「泥塔経」12世紀は、梵字が書かれた素焼きの小さな供養塔。泥塔を集めて塚として供養する泥塔供養が平安以降に流行した。

3室:禅と水墨画 お気に入りがたくさん。

伝如拙「書画図屏風」6曲1隻 15世紀・室町時代(撮影不可)は、もとは6曲一双の片隻らしい。人物の様子も樹々の動きも面白い~。

高士が山水図に賛を書き入れようとしている。考えすぎているのか?眉間にしわがよっている。その手元に、周りを囲む二人や童子たちの視線が集中する。背景の木々の幹はしなり、細い枝は触手をゆらゆらと四方八方に伸ばす。描き方も印象的。

 

啓孫「竹林七賢図屏風 」6曲1隻 16世紀・室町時代 前述の伝如拙のゆらゆら揺らぐ印象と打って変わって、直線的。独特で、書き手の個性を押してくる。このひと面白い。

右端には、天狗のウチワみたいなのを持った賢人の世俗離れした様子がいい。笹越しの月、妙な山の稜線、川のライン、どこもなんだかおもしろい。

左に進むにつれ、どんどん面白さが増してゆく。竹が画面の上を越えて伸び、まっすぐに画面を分断している。そこへ竹のアーチ。啓孫て大胆な人のようだ。

7人の賢人だけ少し着色しており、頬の肉付もリアル。皆マイペース。

ヒトデみたいな葉の描き方も面白い。各々二重になっているのはなんだろう。二本もって書いたのか、割れていたのかな。狩野派以前にはいろいろな表現があるものだ。岩の擦筆も力強い。

根も幹も枝も、どんどん触手を進める。

啓孫は、生没年不詳ながら、作域は広く、作品も比較的多くのこされているそう。またどこかで出会えたら面白い。

解説では:啓孫は祥啓の画風を継承し、関東で活躍した画家。この屏風には、世俗を避けて竹林の下に集い、酒を飲んで交遊したといわれる「竹林七賢」、中国の魏晋(ぎしん)交代期(3世紀)に生きた阮籍(げんせき)・嵆康(けいこう)・山濤(さんとう)・向秀(しょうしゅう)・劉伶(りゅうれい)・王戎(おうじゅう)・阮咸(げんかん)の7人の名士が描かれている。
 
7室:屏風と襖絵  応挙の二点に囲まれる幸せ
 
 
 
「波涛図」1788 金剛寺 の迫力にのまれる。目の前に立つとどきどきする。波が目の前にどんどん迫ってくる。引きずりこまれる。
 
 
 
 うねりたち、巻き込み、すくいあげ、どんと落ちる。すさまじいダイナミズム、エネルギー。そして破壊力。
これが人の手で描かれた人造のものというのが信じられないほど。これを描いたのは応挙なのだ。応挙は、波の動きを追って、息もつかず、波の動きのままに筆を走らせる。波の線。陰影の濃淡の筆。間近に見る筆の迫力。
気遅れたら終わり。波に負けたら描けない。自分の描くその波に負けられない。なのに同時に、自然のエネルギーに描き手が勝ってしまったら、その波はただの描写になってしまう。一体となるしかないのだろう。 しかも、応挙はこの波の内側には入っていない。あくまでも波を見る者の視点。
 
この波濤図は、もとは金剛寺の3室、32襖にわたる。東博に寄託されており、今回はそのうちの5面の展示。他の幅には、波の合間に鶴と岩も登場する(こちらに画像)。32襖は順番を入れ替えてもつながるように、計算して描かれているのだそうな。
 
応挙が農家の生まれというのは聞いていたけれど、この金剛寺のある亀岡の農家だったのね。応挙は8歳から15歳頃を金剛寺で小僧生活をおくる。和尚さんに勧められ、京都に出て絵を生業にする。56歳の時に、両親の供養と幼少時代の感謝を込め、「山水図」「波濤図」「群仙図」を描いて寄進した。「山水図」「波濤図」は、東博に寄託。「群仙図」は金剛寺に保管されている。
 
今回は、高い位置に展示されていたので、波濤図を少し見上げる恰好だったけれど、もとが襖ならば、そこに立ったら波を見下ろす視線であるはず。見る者が座れば、波の目の前(!)だ。想像するだに、船酔いしそう。金剛寺のHPによると、本堂に安置された、ご本尊の「釈迦牟尼佛」(応挙の子孫が寄進)の視点が、本堂の「山水図」「波濤図」「群仙図」の視点にもなっている、とある。要予約で、当時のままに復元(復元図)されているそうなので、いつか行かねば。
 
 
応挙のもう一点は、「秋冬山水図屏風」18世紀 うってかわって、なんとも静かな情景。
 
右隻
山水図」というよりけれども、中国由来の山水画というよりは、むしろ風景画。西洋画のような奥行き感。これが応挙が体得した透視遠近法のたまものなんだろうか?。でもむしろ、木立のたたずまいがちょっとコローのようなヒーリング感。そこに月が照らして、浮かぶ水辺に(多用はしたくはないけど語彙が貧相で)やっぱり癒される。
 
 
 
左隻 しんしんと、冬が来た。雪の情景が柔らかな光を反射している。
 
 
ストっと枝から雪が落ちるのが描かれている。馬に乗った高士や漁師は中国由来の定型だけれど、山や田畑は日本の寒村の情景。つくられた風景画が多いこの時代の絵とは思えない、自然な情感。応挙は、肩に力を入れずに、柔らかに感性のままに筆を走らせたような筆致。誰の為でもない、好きなものを好きに描いた、そんな感じの屏風。
だからか、とても心地よい時間を過ごさせてもらった。
 
 
・岩佐又兵衛「布袋図」17世紀 
大きな耳たぶがいいなあ。歯を見せてにこっとうれしそう。月を見上げているのかな?。でも自分の身体が弧を描いてお月さまみたいよ。
 
又兵衛のこういった薄墨でささっと描いた墨の人物は、とってもいいなあ。MOA美術館で見た、柿本人麻呂、又兵衛の自画像等と同じく、どこかユーモラスでありながらしみじみと染みてくる。時に、もの哀しく。鮮やかな彩色の絵では見えない、又兵衛の素顔が感じられるようで。
 
 
その柿本人麻呂を、又兵衛の息子が描いた掛け軸が展示されていた。
岩佐勝重「人麿図」17世紀
 
 
・酒井抱一「四季花鳥図巻」巻下 1818 
萩、葉の変色し始めた朝顔、鶏頭と、秋から始まり、雪の中の水仙まで。季節の移り変わる長い絵巻。5mくらいあったかな。
端から端まで何往復もして、穴が開くほど見つめてきましたよ。枝ものの流れるようなリズム。花ひとつ描いても、葉っぱ一枚描いても、情感が漂う。彩色の丁寧なこと!。蔓の先端、紅葉の葉の、先端のそのまた先の微かなニュアンスまでが情感を作り上げている。虫の触角までも同じく。この絵巻では、虫も見ものだった。
 
 
鶏頭は好きな部分のひとつ。風が吹いている。
 
 
↑のカマキリがかわいい顔してるので拡大(^-^)。細部まで緻密に観察して描いた抱一。虫メガネとか持っていたんだろうか?。陰影まで丁寧につけている、
 
蝉の抜け殻のカサついた触感も。
 
 
すてきなスキマに、紅葉やイチョウが散る。青、緑も実も同じく点在。こっそり蟻もいます
 
赤系統の丁寧な彩色!
 
 
長い絵巻のどこを切り取っても、ひとつの完成されたシーンが展開していた。
 
そのほかで、個人的〝本日の見もの″。
 
・山口雪渓「十六羅漢図」の第十三尊者から十六尊者までが並ぶ。(写真不可)
 十六尊者の葉っぱの衣。草の上の巻物に鳥が遊ぶなど、自由な描きぶり
 
永楽和全(11代目)、永楽了全(10代目)の京焼が、1階、2階に展示。色彩感覚豊かな絵付け。
 
・書では、三井親和「詩書屏風」1780 六曲一双(大小交互に大胆な)と、南化玄興「孟子 梁恵王篇中一章 」安土桃山時代・16世紀(右肩上がりの幾何学的な)が目を引く。なにかと名前は登場する近衞 家熈の「新撰朗詠集」は、しっかりとした(普通な)字だった。
 
 ・岸連山「猪図」、突進している。固そうな毛。おりいも、左京区で猪があちこちに出没、高校の校内にまで入り込んだっていう報道があった。猪って本当に猛進。ぶつかりそうだから止まろう、とか曲がろう、とか思わないのね。
 
源琦「潘妃図 」、中国風の、なで肩のたおやかな女性。師匠の応挙の作に似ている。
 
松村景文「四季草花図屏風」19世紀 大倉集古館蔵ゆえ撮影不可。金地に余白をたっぷりとって配置された草花。真っ青な水辺。
 
狩野探幽「探幽縮図」 約10センチ四方の紙片がつながる。
 
まだ閉館まで時間はあったけれども、もう飽和状態、頭のなかが白くなってきたので退散。こうしていつも最後の浮世絵コーナーを見ることができない。今度は逆周りにしようか。
 
一階の保存と修復の部屋では、宴会や料理に焦点をあてた展示。年末年始に合わせたのかな。江戸のレシピ本は、今に通じるものがあり面白い。和菓子の発達過程も興味深い。年末年始休みに日記が書けたらと思う。思ってはいる。
 
・土佐派の企画展示が二つの小部屋で開催されていた。浜松図屏風、星光寺縁起絵巻(巻上・巻下)など、たいへん見もの。土佐派というと、宮廷文化、高雅で上品、というイメージだったけれど、大きく覆された。強く、破格の土佐派。とくに浜松図屏風は、構成も大胆、描かれるものは荒波、漁師。驚いた。
でもへとへとで解説の字も認識できなくなってきたので、あとは残る力をふりしぼり写真だけ撮った。そのうち改めて読もう。