はなナ

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●春日局の里しいたけ

2017-12-17 | 日記

珍しく食材の話になるのですが、シイタケを買いましたら、兵庫県産「春日局の里」とありまして。


春日の局って兵庫生まれ?。
丹波市春日町で生誕したそうな。それで春日局と。
ドラマ「大奥」の松下由樹さんの顔が浮かんできますが。


道の駅のHPから
お福の父・斉藤利三は明智光秀の重臣で、光秀が丹波攻めで黒井城を落とした後、その下館を陣屋に改めました。これが現在の興禅寺で、お福はここで生まれ、三歳までを過ごしています。下館とは戦国時代の城主が合戦がない平時に住んだ場所のこと。興禅寺は水をたたえた七軒堀や高い石垣・白壁など、当時の下館の様子をよく残すものとして、国の史跡に指定されています。
境内には「お福の腰かけ石」や「お福の産湯の井戸」などがあり、江戸幕府を裏から支えた春日局の幼少期に思いを馳せることができます。
所在地
〒669-4141 兵庫県丹波市春日町黒井2263


肉厚でおいしいシイタケでした。


●「カンディンスキー、ルオーと色の冒険者たち」パナソニック汐留ミュージアム

2017-12-17 | Art

パナソニック 汐留ミュージアム「表現への情熱 カンディンスキー、ルオーと色の冒険者たち展」
2017年10月17日(火)~12月20日(水)

 

カンディンスキー(1866-1944)とルオー(1871-1958)、クレー(1879ー1940)、そして表現主義の画家たち。

特に心に残ったのが、以下の二点。

ガブリエレ・ミュンター(1877~1962)「抽象的コンポジション」1917 

ミュンターはカンディンスキーの生徒であり、妻帯者のカンディンスキーと1902年から1916年まで長い恋愛関係にあった女性。

以前から絵を学んでいたミュンターは、芸術とは技術ではなく内なるものの表現である、とカンディンスキーから学ぶ。この抽象絵画もカンディンスキーの影響を受けている。

 

この絵は、第二章の表現主義の画家たちとともに展示されていた。彼らはアフリカやオセアニアの「非西欧」「未開」に出会い、プリミティブな色彩や造形にあこがれ、ベルリンなどの民族博物館に通う。仮面や宗教儀式の用品に着想を求める。

でも彼女自身の感性は、少し違って感じられた。ほんのりと灯るような、童画のような素直さ。黒いぶた、蜘蛛、田園、空。

ミュンターはカンディンスキーのように全くの抽象化に進むことはなく、抽象絵画を描く足は、自然の中に置き続けた。この章に居並ぶブリュッケの画家やカンディンスキーが非西欧から学んだプリミティブではなく、彼女自身の内に持ち合わせたプリミティブなのだ。

内的なものの素直な表現。その結果としてのこのやさしい明るい色彩。

この作品、好きだなあと思う。ミュンターは、自然や季節の変化に共感や愛や幸せを感じることができる女性なのではないかと思う。

 

そもそもプリミティブって学ぶものでもないような気がするけど、表現主義の画家たちは、それぞれのとりこみ方をした。

カンディンスキーは、ミュンターの師であるけれども、二人が恋人関係にあった時期、カンディンスキーの作品は明らかにミュンターの影響を受けているらしい。二人の画業を通してみたことがないので印象でしかないけれども、画像で見ると彼女の色彩や味わいは、確かにこの時期のカンディンスキーも似た絵を描いている。カンディンスキーが持ち合わせないものをミュンターが気負うことなく表現する時に、カンディンスキーの感情は複雑な作用と曲折をたどって、ミュンターから離れたくなったのかもしれない、とも思う。短絡的な見方かもしれないし、カンディンスキーは影響を否定しているらしいけれど。

この後、カンディンスキーの作は大きく変容し、より抽象性を深める。一時ミュンターと響きあった画風は、全く見られなくなった。

カンディンスキーは1916年にロシアに帰国し、帰りを待つミュンターとの接触を拒み、1917年に別の女性と結婚する。その後ミュンターのもとに残してきた作品の引き渡しをめぐり、法廷闘争に発展する。ミュンターは自分の所有となった多くの作品を、経済的な困窮にもかかわらず保ち続け、ナチス政権下でも地下貯蔵庫に秘匿して守り通した。カンディンスキーとの別れの後,ミュンターは一時精神的に不安定になったけれども、1927年に生涯の伴侶となる男性に出会い、画業を続ける。

 

この絵はちょうどその別れの1917年。カンディンスキーの帰りを待ち続けているころか、または別の女性との結婚を知ったあとか?。

おそらく知る前ではないかな。川に阻まれた黒いブタが切なく見えてしまう。ミュンターとカンディンスキーが暮らしたムルナウの家(↓ウイキペディアから)のあたりに似ているような。

 

もう一点は、ルオー「自画像」1920~1921

通りすぎることのできない、見開いた目。「ぎく、お、俺の犯行だと気づかれたか」的な。

ルオーは「自己を見せる場合、常に裸で震えるような気持ちになる」と語っている。

人に対する、ルオーの辛辣でシニカルな目線がこの展覧会では何度も感じられた。その目は、自分にも向けられ、妥協を許さず、深層までえぐる。自分の矛盾や本性。「自己顕示」を恥じると解説にはあった。見透かされているのではという不安。自信のなさ。謙虚で誠実でもあるのに。

ルオーがあのようなキリスト画を描く前提が、人の奥底を見てしまうゆえだったのでしょう。

 

特に権力を持つ人間に辛辣な目を向ける。「法廷」1909 

裁判官たちの俗悪な顔。被告人に対しては一方的に犯罪者とのみ捉えることはない。傍聴人、弁護士、官吏、それぞれの顔。その役回りも単純に処理できない。

 

1918年から長く構想した「悪の華」のシリーズには、骸骨、悪魔、死、女性の外見の美に対する(あさましき)執着などを描きだしていた。中でも「鏡を持つ裸婦」1939頃は、自画像にすら自己顕示を恥じるルオーが向ける冷ややかな視線に、女性として立つ瀬もございません…。

 

その反面、弱い人やその存在や人格に目を向けられることのない人に対する、丁寧な目線。その人のもつ真の姿を描きだしたら、曲芸師の悲哀になり、聖女のような笑顔になり。

「マドレーヌ」1956

 

ルオーの荒く素早い線も印象的だった。ルオーは厚盛りモリモリの印象だったので意外。激しい太い線で対象をとらえている。

「後ろ向きの娼婦」1905

 

アフリカの風景(ユビュの施策)」1917 このあたりは表現主義の影響がみられるかな。解放感にあふれ、自由に動きを取る裸体の人々。

 

そんなようなことが心に残ったのでした。

 

あとからになってしまったけれど、全体としては、表現主義に共鳴しつつ、ルオー、カンディンスキー、クレーがどのようにかかわりを持ち、その後展開していったかが、見通せる展示だった。展覧会サイトは一年ちょっとで削除されることもあるらしいので、以下に章立てを抜粋。

1章:カンディンスキーとルオーの交差点

ミュンヘンを拠点に、色彩の響きに満ちた新しい絵画の制作に邁進していたカンディンスキーは、1904年、パリのサロン・ドートンヌに初めて出品し、以降1910年まで出展を続けます。1906年にはパリ郊外に長期滞在し、当時ルオーが館長を務めていたモロー美術館も訪ねています。一方、ルオーはサロン・ドートンヌを本拠として色彩とフォルムによる独自の表現を探求していましたが、1910年には、カンディンスキーが会長のミュンヘン新芸術家協会の展覧会で絵画を出品しています。色彩と向き合うことで旧来の芸術を乗り越えようとした二人の足跡が交錯します。

ここでは、当時のヨーロッパについて言及されていた。産業革命後の社会変化、植民地主義による非西洋との出会い、社会不安。旧来の価値観が揺らぐ時代。「フォービズム」は上記の1905年のサロンドートンヌでその名が誕生する。対象の再現ではなく、画家の感情の表現を重視するという主張は、カンディンスキーの表現主義へとつながる。

この章では、ルオー「街はずれ」(1909年)が心に残る。家に帰る母子なのかな。暗い色彩の中に、この姿自体がとても尊く感じる。ルオーの育った低所得者層のアパートだろうかと解説にあった。後の「街はずれのキリスト」(1929~1939)にもこの母子のような姿が見られた。

モローに師事していたころのルオーの「ヨブ」(1892年)も展示されていた。ヨブと、人生の三段階を示す三人。一人は疲れたヨブに寄り添う気持ちを見せ、若者は他人事のよう、年老いた一人は力なくたっている。画風は静かで落ち着いた色味ながら、ルオーはこんなに初期から人の真実を追っていたのね。1898年のモローの死後、ルオーは画風を大きく変え、底辺の人々を荒く激しい線で描くようになる。「縁日」(1902~09)はまるで文人画のように黒い線が勢いのままに進み、上記のニーハイの「後ろ向きの娼婦」は、一気に色がはじけていた。

 

カンディンスキー「商人たちの到着」1905  自撮りコーナーにもパネル展示があった。

故郷ロシア風な建物。色がたくさん遊んでいる。形よりも、色とりどりの点と短い線。ミュンターとともにいたころの作だ。

いい顔してる。カンディンスキーの作に感情が通っているころ。アラビアのロレンスみたいな人もいるし、その下側にいるおじさんがラブリーだ。(遊んですみません)

 

2章:色の冒険者たちの共鳴

不安や焦りなど個人の精神のありようを色彩や形態に置き換えて表現しようとしたドイツ表現主義の運動は、ドレスデンのグループ「ブリュッケ」を端緒として、ミュンヘンのカンディンスキーが新しく始めた「青騎士」の活動へと緩やかにまとまりながら展開します。彼らは、自然回帰的でプリミティブ(原始文明)な表現や、「今ここ」からは失われた中世や古代などの理想化された光景を表現に取り入れました。
彼らと、人間や事物の外見を超えて本質に迫ろうとしたルオーには、背景となる文化を超えた同時代的な親和性が感じられます。

表現主義の画家たちの絵は、色彩がさく裂し、混乱している内面を激しく吐露している。近代ヨーロッパの物質文明の強まりの中たまってゆく違和感や不安。これに芸術家が反応し、個人の感情を表現した、とある。

デトロイト美術館展のブリュッケのコーナーでは、悩み苦しみ、心神耗弱に陥った絵が並んでいて、見るこちらもヨレヨレになってしまった。今回はそこまで悩んだ作はなく、むしろ彼らが取り込もうとしたプリミティブな色彩や形状、タッチなどが追える。

 

特にペヒシュタイン(1881~1955)は、版画集「われらの父」1921の12点の他、油彩が3点。宮城や高知、姫路の美術館から来ている。彼はブリュッケの中では、彼は珍しく正規の美術教育を受けた画家でもあるそして珍しく、強い。「帆船」1912はごたごたあってブリュッケを脱退した頃の作。海と空と船は、黄色と青と、その混色である緑で描かれている。舟を操る二人だけが赤い。白波が立っている。全ては色の対比の中に。「パイプ煙草を吸う漁師」1915は、活気の中に悠然とした漁師。陽を受けた顔は赤く、強さがある。

彼は1914年に南洋パラオへ旅に出て、残念ながら4カ月で日本軍の捕虜となり、帰国を余儀なくされる。しかしパラオで得たインスピレーションを多くの作に残している。その後兵役に就く。「森で」1919は、除隊後の描く喜びに満ちた作。泣く子をあやす母。健康的な裸体。木々も生命力に満ちている。文明が進んでも、このシンプルなことから乖離してしまうと、人間て頭で悩みがちになっちゃうんだなとか思う。

 

ヘッケル「木彫りのある静物」1913は、非西洋の仮面から受け取った強い印象を爆発させるよう。まだ健全な頃なのかな。

 

 

青騎士のグループでは、カンペンドンク(1889~1957) が二点。「少女と白鳥」1919は神秘的。裸体の少女は原始的な生命力をたたえ、白鳥、ヤギ、鮮やかな魚たち。ピンクや青の不思議な樹々。水中も陸も空も、境界なく混じりあっている。そこにふつうの民家が描かれているのがいいなあ。この神秘的な世界を、古代や神話の世界じゃなく、今現在に折り合わせている。満ち足りた感じ。少女は光を受け、輝いていた。

 

初期のクレーの作も見もの。1911年にカンディンスキーと出会いマルクと交流する前のクレー。クレーの初期のエッチングはこういう作もあるのかと。「老いたる不死鳥」1905年は、毛が抜けたあわれな姿。骨格すら力ない。不死鳥どころか、アジアの屋台で売られている、やせた唐揚げを思い出し(合掌)。「樹上の処女」1903年は、葉のない木と人間が同化したような。怒りを含む顔。樹の枝ぶりなどどこか東洋的な感じもしたり。

 

3章:カンディンスキー、クレー、ルオー -それぞれの飛翔

やがてカンディンスキーは、現実の事物の外観を飾る役割から解放された色彩が形態と共に響き渡る抽象絵画へと歩を進めます。また、1911年以来カンディンスキーと交流を深めていたパウル・クレーも彼独特の抽象世界を展開しました。一方ルオーは、キリスト教の信仰に根差した独自の絵画を追求し、その晩年の作品からは輝きに満ちた色彩があふれるようです。
彼らはそれぞれに色の冒険に挑み、表現の大きな地平を切り拓きました。

クレー「橋の傍らの三軒の家」1922

クレーの浮遊する色彩。そしてシニカルでファンタジックな作へ続く。

 

カンディンスキー「活気ある安定」1937

カンディンスキー:「安定のためのアクセントがあり(略)、斜めの緊張が生じるが、それは同時に水平垂直の緊張をゆるめる。加えて、浮かぶ自由な形がさらに緩める効力を発揮し、画面に豊かな変化を加え、結果、静止していた画面が活気を帯びる」・・・そのように見るのね。

 

この後はルオールームも含め、ルオーの晩年の作品へ。宗教色を強めて、厚く塗り重ねた作。1930年以降には、「夕暮れの空に浮かぶ月+家+遠くの水平線と塔+人物」という構成で多く制作された作品。41才から15年にわたり手掛けた銅版画「ミセレーレ」の4点。「避難する人たち(エクソドゥス)」1948は、モーセとイスラエル人の脱出行が、まるで現代の人のように見えた。

見応えのある展覧会でした。こちらは水曜定休ですが、12月は水曜も開館しておりました。