「川合玉堂ー四季・人々・自然ー」 山種美術館 2017年10月28日を(土)~12月24日(日)
先日の野間記念館(日記)で玉堂に今さらの開眼。玉堂の全容を知りたくて、行ってきました。
数年前に奥多摩に山歩きに行ったときに玉堂美術館も訪れましたが、山が広がり、眼下の渓流がとてもきれいな場所でした。(お隣の「いもうとや」のお豆腐ランチも。)
今回の展示でも、玉堂が暮らした奥多摩の山や渓谷が思い浮かぶ作品が多く、山種美術館の地下の展示室に山の瑞々しい空気がたっぷりでした。
玉堂は〝旅する画家”。大御所なのに、腰が軽くて健脚。
そしてなにより、〝観察者”。玉堂の眼は、蟻の子一匹見逃さない。水流に隠された川底まで見る。くらいの勢い。
学ぶことの多い展覧会になりました。以下、備忘録です。
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川合玉堂(1873~1957)
入ってすぐの一枚は22歳の作品。
「鵜飼」1895年
野間記念館でも「鵜飼」は特に印象深かった。観光としての鵜飼いではなく、生業とする鵜匠たちの臨場感。岐阜育ちの玉堂は鵜飼いをよく画題にしている。
これが22歳の作とはびっくり。人の動きも生き生きと、水鳥の濡れた羽のキレと瞬時の動き。切り立つ岩山は中国古画の構成だけど、ふもとに近づくにつれ実感のある日本の自然。鳥の羽なんかチョイと一筆ではらって描き上げ、すでに老成した感じすらする。
この若さでもう完成しているのじゃないか。一作目から完結した感を抱くという、かつてない不思議さで一章へ。
一章:若き日の玉堂ー修行の時代
筆墨紙商の家に生まれ、小学校を出て望月玉泉に弟子入り。粉本の模写や写生に取り組む。1890年(明治23年)には17歳で画壇デビュー。幸野楳嶺のもとで、山元春挙、竹内栖鳳らと切磋琢磨の日々。一定の時間をかけた基礎力があるから、この時代の画家って、浅い作品にならないのだろう。
95年には早くも、上記の「鵜飼」が内国博覧会で3等に。授賞式に上京した折に見た橋本雅邦の「龍虎図」、「一六羅漢図」に感銘を受け、23歳の大転機。一から学びなおす決意で上京し、雅邦に師事する。
初期の作を抽出した章なので、玉堂の観察と写生のありようが傑出しているのがよくわかる。
15歳の玉堂の「写生画巻」1888年 観察眼のこまかさ。葡萄の葉の、枯れて葉脈だけ残っている部分までもしっかりととらえている。そして、ぴんっとハリのある線。いい加減な仕事はしないのよね・・(反省)。
翌年の写生画巻(1889~90年)では、メモ書きからも玉堂の脳内が垣間見える。特におサルでは、”目の中の黒目は大小二変ス。この写生は大ナリ。但し午前中小ナリ。午後大ナリ”、”手足の指は親指のみ人のごとき。他4つは爪長い”など、なんとこまかい。おサルを飼って写生し、子ザルを独りで寝かすのがかわいそうで抱いて寝たとか。いい人だなあ。このサル、とってもかわいい顔しているものね。
アユは雌と雄を両方描き分け、みみずくでは前姿だけでなく、後ろ姿の模様も写生。そのみみずくのセナカがかわいい。
写真並み、いや写真でない分、玉堂の目と筆がどこを見て、どこに力を入れて写生したかが感じられる。しかもどことなく愛がにじみ出ている。長い時間見つめつくしてると、情が芽生えるのか?。
玉堂の写生と観察、これだけでも来てよかったと思ったほど。
この後、上記の鵜飼を描き、橋本雅邦に弟子入りとなる。
渓山秋趣 1906年(明治39年) はどことなく橋本雅邦に似ているような。福井県立美術館の所蔵品で、こういうジグザグ構造でかつ奥行きがある雅邦の作を見た記憶が。
「鵜飼」に比べ、一気に広がった広がりと奥行き。画面全体のみずみずしさ。楳嶺門下で「楳嶺風に飽き足らず」、何を「煩悶」していたのか分かるような。
そして細部の観察眼もさらに極まっている。水の下で見えないはずの、岩底の地形や水深まで読み取れる(!)。岩を滑り落ちる水流、たまった静かな水、ゆるやかな流れ、それぞれの水を線と着色で描き分けている。だから川の実感の爽やかなこと。
雅邦のもとではさらに狩野派も学び、ふへきしゅんの岩に日本の植生。薪をしょって橋を渡る人物は、日本のひと。谷文晁の「日本名山図会」で探した群馬の妙義山での写生に基づいて描いたそうな。
「赤壁」1911年 屏風好きとしてはお気に入り。中国の画題だけれども、ずいぶんやわらかい印象。筆法は雅邦の影響があるそうな。
1082年に蘇軾が二度赤壁に遊んだ情景。右隻は7月にあそんだ時、左隻は10月の時。左右の隻の樹は指先で触れあうように呼応し、山並みもゆるく連続して、なんとも癒される。多くの大家がこの画題を描いてきた。玉堂も若いころから模写をするなど、関心を寄せてきたそう。玉堂が描くと、こんなに安らぐ感じになるのね。
第二章:玉堂とめぐる日本の原風景ー四季、人々、自然
大正期以降の作が並ぶ。官展で活躍、東京画壇の中心的な存在となる一方、日本ならではの風景表現を探求し続ける。
琳派ややまと絵も研究。またそれが上手い。
「紅白梅」1919(大正8年) 光琳風だけれども、樹の実感がものすごい。白梅は太い幹が目の前にどんっ、画面を超えてこちらに迫ってくる。枝は左隻にも進出して、紅梅と重なり美しい。紅梅は、少し奥に佇み、同じたらしこみでもしなやかですべらか。男女のように見えるのは抱一のよう。
「竹生鳩山」1928年(昭和3年) 竹生島では古径の古典的神秘な絵が好きなのだけれど、これは自然描写にほれぼれ。碧の湖面に懐かしさすら覚えてしまう。波は線で描き、波の影まで墨でつけている(!)。浅瀬の水、もやがかかったところの水も描き分け、リアルな描写の先に、山全体が神秘的に見えてくる。(これは実物の絵を見ないとわからないかも。画像ではわかりにくいせいで、以前の私みたいに玉堂に関心がもてない人が他にもいるのかもしれないと思った。)
この後に続く作品も、玉堂が実際に歩いて、自分で見た光景。日本の名もなき場所。出会った四季の自然。作品を見ながら歩いていくと、季節が移り変わる。
「宿雪」1922年(大正11年) 根雪の間を流れる水流。木は微かに色づき、いつかは春がくるのかもしれない。でも暖かさはなく、しんと厳しさに拒絶されたような感じ。中国か狩野派的な筆使いだけれど、そこに入り込んでしまうほどの実感。
1935年(昭和10年)の同年の二作、「湖村春晴」と「秋山帰樵」は 春と秋のうつりかわり。春けぶる、半島の村。てぬぐいを頭にまいた奥さんが橋を渡っている。ふわりと新芽と葉の緑もやわらかい。 秋には、葉も枝も固く身を縮め、山も厳しさを増す。でもまだ緑は残り、歩く人にほっこりする。
季節だけでなく、その時間の空気や湿度、光の様子まで移り変わっていく。
玉堂の描く光のようすは、なんとも和む。洋画のように「どうだ~光があたってますよ~」って感じじゃなくて、当たり前のように、そっと。「ちょっと見てはなんでもないようなとこだが、その時の陽のかげんかなにかで面白いと感じた時、心覚えにかんたんな写生を取っておく」と。
「秋晴」1935年(昭和10年ごろ)は、お気に入り。湖面が光っている。湖面の横のほうは少し青く、澄んだ水に青空が映っているんでしょう。葉もまぶしくて、黄色って暖かい色だなあと思う。いい午後だ。
「朝もや」1938年(昭和13年) これもお気に入り。明け方のうす闇がなんともいえず静かな色。山の端にもうすぐの日の出の光は、ほんのり朱色。
離れた場所から遠目にこの絵が目に入った時からすでに、ぐっと入る奥行き感。下のほうに置いた地面には少し雪が残り、ハクモクレンが白い花をつけていた。
基本的に、玉堂は自然の情景が好きなんでしょう。「私は雅邦先生のように理想派にはなりえないが、自然がすきなんですね」と。旅に出ては、山や川を歩き、ついには疎開後そのまま奥多摩に移り住んだ。自然や四季をずっと見ている姿が想像される。
「渓山四時図」1939年(昭和14年)は、旅人としての結晶のような大きな屏風だった。山水屏風のようだけれども、定型である真ん中の余白はなく、そればかりか真ん中に迫力をもって山を描きこんでいている。つまり眺めるための山水画ではなく、歩いてめぐる山水なのだ。
右隻から見てゆくと、遠くの山を望みながら、梅が咲く春の山村。馬を引く農夫は、やがて深い樹々の道に入る。切り立つ岩山の峠には人が行きかい、トンネルの前でひと休み。
トンネルを抜けると、急流がどうどうと流れ、夏には爽快ですらある。橋を渡り進むと、ようやく宿場町に着く。先ほどの村の藁ぶきの農家と違い、こちらは板と石の屋根。店もある。気が付けば葉が色づき、秋。宿場町をさらに進むと、次の村に着いた頃には、すっかりと雪景色。渓流の水は氷のように冷たそう。
右から左へと山道を旅しながら、日本の四季と自然、私も山間の暮らしをめぐっていたのだった。
玉堂の絵には、人物が歩いたり農作業をしたり、牛をひいたりしていて、暮らしが垣間見える。そこが和むところでもあるのでしょう。
だいたいは小さく描かれているけれども、「早乙女」1945年(昭和20年)は、ひとの表情がよく見える。
たまには腰を伸ばして手拭いを巻きなおさないとね。人は朴訥な描き方だった。たらしこみのあぜ道がいい。
これが1945年に書かれたものとは。田植えなので、終戦より少し前なのでしょう。
玉堂の作には戦争の影を感じる作はほとんどなく、一貫して日本のおだやかな情景とくらしを描いていた。
ただ次の第三章には一作だけ、戦中の日常を描いた画があった。
第3章:素顔の玉堂
「祝捷日」1942年(昭和17年)は、こんなのどかな山里にも、日の丸に国民服。日本画家報国会軍用機献納作品展に出品されたもの。
「虎」1943~45年(昭和18~20年)、出征する者に、武運と無事帰還を祈り、描き贈ったそう。面識のない者でも誰にでも頼まれれば数多く描いたそう。
戦中の玉堂の言葉が展示されていた。(要約)あちこち焼き払われ、再びこのような月を仰ぐことができるだろうか。もしできたとしても、木の葉が枯れて夜風が身にしむという有様ではないのだろうか。日本国民のかつて遭遇したことのない惨めな最悪の変化が目の前に横たわっているのではあるまいか
この9年の戦争はむろんそれ以前にさかのぼって、日本国民は一大反省せねばならぬところに直面しているのではないか。否、一大天けんをこうむりつつある。肝に銘じ、立ち直り、築きなおさねば。
日常の暮らしや自然、人々の命が奪われることに対する、玉堂の不安と悲しみが伝わるよう。
「荒海」1944年は、文部省戦時特別美術展の出品作。出品には、国体、国風を讃するもの、戦争を主題とする戦意発揚するもの、などの条件がついていた。その条件の中で、玉堂が描いたのがこの激しい波と黒々としたいわだったことに、胸がつまる感がする。
玉堂の波ここに極まれりといわんばかりの素晴らしい絵でもある。ぶつかり飛び散る波しぶきのひとつひとつの立体まで観察し、線で描く。岩に打ち付けては滑り落ちる水の描写は圧倒された。遠くの海の青、手前のしぶきと臨場感ある色。横浜の金沢区の別荘で観察していたそう。
この章では、玉堂の家族や孫の絵など、玉堂の家族との暖かい暮らしも垣間見えた。サル、クマ、うさぎ、飼っていた猫の絵もかわいい。
大観や川端龍子、竹内栖鳳との合作も見もの。川端龍子と大観は一時疎遠になったりもしたそうだけど、温厚な玉堂が取り持って合作という運びになったそうな。
玉堂が少年時代からたしなんだ、句を書した画賛形式の小品は、とてもよかった。展示する、売る、見せるといったことでない、さりげなくて自然な筆。
斎藤茂吉との合作もあった。茂吉も折に触れ、奥多摩の玉堂邸を訪れたそう。
お互いに「絵の師」「歌の師」と尊敬しあったという歌人の清水比庵との合作はとても好きな作。
「先生と私」昭和23~28年頃
後ろ姿がかわいくて。二人の本当に楽しい時間なのだろう。玉堂は「今良寛」と称された無邪気な感性の比庵が月に一度訪れるのを楽しみにしており、その日はほかの来客も断っていたそう。自画像を描かなかった玉堂が思わず描いてしまった比庵への親しみ。
じわじわと玉堂に親しみが湧き上がってくる展示でした。
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さて、野間記念館の展示では、サイドストーリー的に、玉堂と画家たちの《雨》の画が集まっていた(日記)のだけど(勝手に思っている)、この展覧会でも、玉堂はいろいろな雨を描いていた。
以下、雨の表現ばかり集めてみました。
「夏雨五位鷺図」1899年(明治32年)
野間記念館で目を見張った、玉堂の雨の表現。これは筆でさあっと引いている。鳥のふわりとした羽も、くちばしの固さもしっかりと伝わってくる。綿毛は、ミクロのごとき細い線。この絵だけで、線のお手本帳のよう。斜めに吹き付ける風雨に、まっすぐ下へ突き刺さる鷺の視線。シダが風雨にしなる中で、岩よりもがつっと凝視する。
雨江帰漁図 1912年(大正1年) 野間記念館で感嘆した表現と同じ
樹があるところは、雨を描かずに、樹のシルエットの描き分けで雨を可視化している。一方、樹のない余白のところは、微細な薄墨の線で雨を描いている。雨の日には人間の目は、こんなふうに雨と風景を一緒に認識しているのかと、改めて気が付いた。
「雨後」1935年(昭和10年) 雨が上がったときのみずみずしさ。、山中の木の葉や花、鳥などが再び色を取り戻した、美しい時間。
「彩雨」1940年(昭和15年) 玉堂といえば、水車。二人の女性に臨場感。
「烟雨」1941年(昭和16年ごろ) 烟雨とは「煙雨」と同じでけぶるような霧雨。
「山雨一過」1943年(昭和18年ごろ ) 明るい色彩、降り損ねて残った雨雲がかわいらしい。風が残り、草や葉がなびき、人も馬も被っているものが飛ばされそう。
「雨後山月」1948年(昭和23年) もはや形容すら必要ない…
「渓雨紅樹」1946年(昭和21年)
「水声雨声」1951年(昭和26年)
次の雨の日には、耳を澄ませてみたくなっています。
思いついて雨を集めてみたけれど、自分でもこんなに瑞々しい潤いを得るとは。美しい日本の風景は、雨の日にはまた違った美しさをまとっているのですね。