心身問題、心、意識などに対する哲学者の議論が絶えません。
哲学的議論は、当然のことながら言葉によるものです。
ところで、言葉という概念には本質的に客観性がありません。
何故なら、言葉の使用者によってその意味が異なることが多いからです。
文字で表された言葉自体には客観性があると言えますが、その言葉の意味は
人それぞれで異なります。
言葉の意味は、使用者の誕生以降のもろもろの学習や経験により決まるからです。
辞書にある言葉の意味は編集者の主観によるものであり、あくまでも多数決の
ようなもので定められています。
客観性がない言葉を用いた哲学者の議論は哲学者の主観によるものであり、
その主張には客観性がありません。
ここで、次の命題を考えます:
「私には意識がある。」
この命題は、デカルルトの「われ思う。故に我あり。」と同じ内容です。
意識に関する哲学者の議論はこの命題から出発します。
しかし、よく考えてみるとこの命題は客観的には証明も反証もできません。
つまり、話し手の感想を述べているに過ぎないのです。
そのような主観的性格を持つ「感想」に対して意識があるとかないとか
議論するのは無意味です。
そもそも「意識」という概念は、心理的なものであり本質的に客観性はありません。
「意識がある」「意識がない」というときの”ある””ない”という言葉は主観的なものであり、
それらには客観性は全くないのです。
従って、他人やロボットに対して意識の有無を議論することはナンセンス以外の何物でもありません。
哲学においては真理あるいは真実という概念は成立し得ないのです。
心や意識に対する哲学者の議論は限りなく非生産的で空しいものです。
論理学に通じている筈の哲学者がこのような議論を繰り返すのは不思議です。
皮肉な言い方をすると、哲学者の議論はペダンティック(衒学的)でさえあります。
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