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孔雀の羽根 神秘宗教なんてカケラも無く

2010年01月24日 | JDカー
「孔雀の羽根」 カーター・ディクスン

30年ぶりに読み返したんですがね、これはまた真っ向勝負のミステリですね。
オカルト、ドタバタ、活劇もなし、
ひたすら「WHO」と「HOW」を読者に挑んでいる、といった感じです。

それだけにカーとしては珍しく、オーソドックスなミステリフォーマットで書かれています。
視点はポラード巡査部長に固定されているので、殺人の起きた後の関係者への尋問が続き、
やや退屈なのは、カーであってもやむを得ぬところではあります。

犯人とそのトリックについてはわりと有名なので書きませんが、
複雑なプロットのうえに偶然がいくつも重なって出来上がっているので、
普通の読者はあきれて次はカーの本を読まないようにしようと思うかもしれません。
わたしがそうならなかったのは、30年前にきちんと読んでいなかったからでしょう(*^-^)

「こんなことはありえない!」とたいていの人は非難するでしょうが、
しょせん小説なのですから、小説の中ではなんでも可能です。
カーは、「孔雀の羽根」の中でおきたことについて
「作者は嘘を書いていない。てがかりはすべて面前にある」という、
カー流の「フェアプレイ」を実践してみせた、というところでしょう。

フェル博士ものが、おおよそミステリとしてフォーマルなスタイルで書かれているのに対して、
HM卿ものは実験的あるいはひねったスタイルを選択している、という前提のうえで、
「孔雀の羽根」はなぜオーソドックスなミステリフォーマットで書かれたのでしょうか。

「一角獣殺人事件」はフランス喜劇をミステリに仕立てた
「パンチとジュディ」はミステリのフォーマットを逆に展開させた
「孔雀の羽根」
「ユダの窓」は法廷論争だけでミステリを成立させた

というように、HM卿もので「孔雀の羽根」前後の作品はどれもひとくせあるようなものばかりです。
その中で端正なミステリフォーマットで書かれた「孔雀の羽根」の意味はなにか。

それは、「(カー流の)フェアプレイなミステリの見本」として示したかったのではないか、と思います。
「孔雀の羽根」では、最後の章でHM卿が「32の手がかり」を示して、
謎の解明を行っていますが、それはそのままミステリの書き方指南ということになります。
同じような「手がかり作法」で書かれた「盲目の理髪師」と対をなして、
(「盲目の理髪師」はドタバタとクローズドサークルを採用)
ミステリの書き方指南実践書として示したかったのではないでしょうか。
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