「鰯の頭も信心から」という言葉がありますが、子供のころはよく理解出来なかった言葉に入るかもしれません。
というのは、「鰯の頭」をどうするのかが良く分かっていなかったのです。
信仰の対象として拝むという例えが子供にはかなり飛躍していた。
それに鰯の頭には柊と一緒に門口に飾っておくと節分の鬼が逃げるという事になっているので、これも鰯の頭の効能として子供には混同されやすかったと思います。
更に我が家では母が「子供の成長期にはカルシウムが大切」という事を頑なに信じていて(イヤまあ、確かに大切なんですが)、小魚を丸ごと食べさせようとしました。
住んでいたところが海の近くの町ですし、、小アジやイワシなどの小魚の干物は庶民の食卓には普通なわけで、しかも親戚に漁師さんもいるのです。
ところが私は「丸ごと頭から」というのが出来ない。
小魚でも頭と背骨は駄目で、そこを避けて身だけ・・・(これは今でも出来ません)。
頭からいけるのは幼児並みに「シラス」「シラウオ」クラス。
カルシウムの問題でいうと、骨にあるカルシウムは体内に取り込みにくくて、身の中にもカルシウムがあって、そちらの方が摂取しやすいのだそうですから問題は少ないのですが、当時はそういう知識は無いのですから、母は私がカルシウム不足・あるいは成長期にカルシウムが足りなくなると心配した。
尤も食用になる部分を捨てているのですから無駄はしている。
薬局からカルシウムの粉末を買ってきて、私のご飯の上にふりかけみたいに何気なく一匙、そして味噌汁の中に一匙・・・無味無臭で、要するに鰯の頭を食べられないのならカルシウムの粉を食べろという事ですね。
そういう母の信念と、鰯の頭が微妙にクロスして子供には理解しにくかったのでしょう。
話が脇道に逸れますが、私のすぐ上の姉・三女は魚の食べ方のスペシャリストみたいな人で「猫泣かせ」と呼ばれたものです。
煮魚などの食べた跡が、まるで魚の骨格見本みたいなものがお皿の上に残っているだけ!
それに引き換え私の方のお皿は、ぐちゃぐちゃ・・・時には身を誰かが取ってくれなければ食べない(マアこれが末っ子の特権というか・・・)。
ともかく鰯の頭は福沢諭吉のエピソードに出てくる「お稲荷さんの石」みたいなことでしょうが、、、
話変わって、昔碁会所でよく対戦したT森さんと言う人がいました。
マア互い先というか、向こう半先くらいの手合いですから、顔を合わせて手空きなら気楽に打つ間柄です。
は新聞に出ていた総譜を再現してくれるのです。
マア熱心なファンでありますが、内心『どうだ!』と「棋譜並べ」を見せつけるようなところは有ったと思いますが、そういう若干嫌味なところはともかく、並べるのを披露する為に家で憶えて来るのだから、それなりに隠れた努力はしているわけで、それを考えると微笑ましい感じがします。
イヤ、そういう努力が彼の棋力の支えだったかもしれませんね。
尤も、新聞とか囲碁の本で奇襲戦法のようなものが出ていたり、どこかのプロが変わった手を打ったりしたような時は必ず実戦で試して来る。
「知っているかどうか」の洗礼を受ける。
そういう知識・情報が碁キチの間に行きわたる前にテストされる。
要するにプロが変わった手を実戦で打った場合、相手のプロもその場で対策をこうじるわけですが、アマの場合は適切な対策が取れずに自滅させられることが多い訳で、彼はそれを狙っているし、少なくとも「どうしたら良いか判るかな?」みたいに楽しんでいる。
自分だけ知っている事でクイズを出して楽しむように。
模範解答を知らないのに彼の目論見に嵌らないときはがっかりさせたはず。
さてそういうように彼は新型の武器には敏感でしたが、普段の対局は・・・
私と決定的に棋風が違うのは着手の信頼度というか、打った手の自信度みたいなところでしょう。
悪口では無くて、印象として彼は「自信たっぷりに打つ」。
手つきというか対局態度がそういう印象で、対する私は、少なくとも自分の心の内は「自信なさげ」に打っている。
外から見てどういう気持ちで打とうが置かれた石に変わりが無いのですが、少なくとも打つ手つきは違う。
長年付き合っていると、「自信たっぷり」={良い手を打ったいる自信の表れ」とは限らずに、多分に「自信を見せつけ」て「相手を心理的に圧倒」しようという気持ちがミエミエというのはわかるので、さほどには感じませんが、もしどこかの大会などで初顔合わせであった時などはこういうタイプの相手と対戦すると、相当に心理的効果はあるかもしれません。
一言でからかうならハッタリ屋の部類?・・・
でも、わかっていても時には当たり前の手のように見える手を自信たっぷりに打たれると『なんで、こんなに自信が溢れているのだろう?』とか『余程彼の方が優勢に見えるのだろうか?』『どこかに鋭い手が隠されているのだろうか?』などなど裏の方まで考えてしまうのですから、その意味で効果が無しでは無いのかも知れません。
そういう時は『彼の頭のどこかに彼なりの”鰯の頭”があるに違いない』と思う事にしていました。
逆にそれが私の鰯の頭だったかも知れませんが・・・
ともかくザルレベルとしては「鰯の頭」は無いより有った方が多少は有利かも知れませんね(相手もザルなら)。
というのは、「鰯の頭」をどうするのかが良く分かっていなかったのです。
信仰の対象として拝むという例えが子供にはかなり飛躍していた。
それに鰯の頭には柊と一緒に門口に飾っておくと節分の鬼が逃げるという事になっているので、これも鰯の頭の効能として子供には混同されやすかったと思います。
更に我が家では母が「子供の成長期にはカルシウムが大切」という事を頑なに信じていて(イヤまあ、確かに大切なんですが)、小魚を丸ごと食べさせようとしました。
住んでいたところが海の近くの町ですし、、小アジやイワシなどの小魚の干物は庶民の食卓には普通なわけで、しかも親戚に漁師さんもいるのです。
ところが私は「丸ごと頭から」というのが出来ない。
小魚でも頭と背骨は駄目で、そこを避けて身だけ・・・(これは今でも出来ません)。
頭からいけるのは幼児並みに「シラス」「シラウオ」クラス。
カルシウムの問題でいうと、骨にあるカルシウムは体内に取り込みにくくて、身の中にもカルシウムがあって、そちらの方が摂取しやすいのだそうですから問題は少ないのですが、当時はそういう知識は無いのですから、母は私がカルシウム不足・あるいは成長期にカルシウムが足りなくなると心配した。
尤も食用になる部分を捨てているのですから無駄はしている。
薬局からカルシウムの粉末を買ってきて、私のご飯の上にふりかけみたいに何気なく一匙、そして味噌汁の中に一匙・・・無味無臭で、要するに鰯の頭を食べられないのならカルシウムの粉を食べろという事ですね。
そういう母の信念と、鰯の頭が微妙にクロスして子供には理解しにくかったのでしょう。
話が脇道に逸れますが、私のすぐ上の姉・三女は魚の食べ方のスペシャリストみたいな人で「猫泣かせ」と呼ばれたものです。
煮魚などの食べた跡が、まるで魚の骨格見本みたいなものがお皿の上に残っているだけ!
それに引き換え私の方のお皿は、ぐちゃぐちゃ・・・時には身を誰かが取ってくれなければ食べない(マアこれが末っ子の特権というか・・・)。
ともかく鰯の頭は福沢諭吉のエピソードに出てくる「お稲荷さんの石」みたいなことでしょうが、、、
話変わって、昔碁会所でよく対戦したT森さんと言う人がいました。
マア互い先というか、向こう半先くらいの手合いですから、顔を合わせて手空きなら気楽に打つ間柄です。
は新聞に出ていた総譜を再現してくれるのです。
マア熱心なファンでありますが、内心『どうだ!』と「棋譜並べ」を見せつけるようなところは有ったと思いますが、そういう若干嫌味なところはともかく、並べるのを披露する為に家で憶えて来るのだから、それなりに隠れた努力はしているわけで、それを考えると微笑ましい感じがします。
イヤ、そういう努力が彼の棋力の支えだったかもしれませんね。
尤も、新聞とか囲碁の本で奇襲戦法のようなものが出ていたり、どこかのプロが変わった手を打ったりしたような時は必ず実戦で試して来る。
「知っているかどうか」の洗礼を受ける。
そういう知識・情報が碁キチの間に行きわたる前にテストされる。
要するにプロが変わった手を実戦で打った場合、相手のプロもその場で対策をこうじるわけですが、アマの場合は適切な対策が取れずに自滅させられることが多い訳で、彼はそれを狙っているし、少なくとも「どうしたら良いか判るかな?」みたいに楽しんでいる。
自分だけ知っている事でクイズを出して楽しむように。
模範解答を知らないのに彼の目論見に嵌らないときはがっかりさせたはず。
さてそういうように彼は新型の武器には敏感でしたが、普段の対局は・・・
私と決定的に棋風が違うのは着手の信頼度というか、打った手の自信度みたいなところでしょう。
悪口では無くて、印象として彼は「自信たっぷりに打つ」。
手つきというか対局態度がそういう印象で、対する私は、少なくとも自分の心の内は「自信なさげ」に打っている。
外から見てどういう気持ちで打とうが置かれた石に変わりが無いのですが、少なくとも打つ手つきは違う。
長年付き合っていると、「自信たっぷり」={良い手を打ったいる自信の表れ」とは限らずに、多分に「自信を見せつけ」て「相手を心理的に圧倒」しようという気持ちがミエミエというのはわかるので、さほどには感じませんが、もしどこかの大会などで初顔合わせであった時などはこういうタイプの相手と対戦すると、相当に心理的効果はあるかもしれません。
一言でからかうならハッタリ屋の部類?・・・
でも、わかっていても時には当たり前の手のように見える手を自信たっぷりに打たれると『なんで、こんなに自信が溢れているのだろう?』とか『余程彼の方が優勢に見えるのだろうか?』『どこかに鋭い手が隠されているのだろうか?』などなど裏の方まで考えてしまうのですから、その意味で効果が無しでは無いのかも知れません。
そういう時は『彼の頭のどこかに彼なりの”鰯の頭”があるに違いない』と思う事にしていました。
逆にそれが私の鰯の頭だったかも知れませんが・・・
ともかくザルレベルとしては「鰯の頭」は無いより有った方が多少は有利かも知れませんね(相手もザルなら)。