なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

忘れ物のDNA

2008-07-31 18:17:14 | Weblog
 おかげさまで、当地は夕べも凌ぎやすくて快眠で朝を迎えました。
 夕べの11時半頃から今朝5時半までぐっすり眠りました。
 若い頃と違って、起こされるまで寝ているというような体力は無いのですが、それでも連続6時間は満足感があります。
 それに5時半に目が覚めたからといってすぐに起床するわけではなく、1時間くらいは、グズグズしていますから実質?7時間と言ってもいいでしょう。
 もっとも目が覚めてパソコンを見ると、私と一緒にスリープだったようで、こすって起こすと画面はネット碁の終局の場面でした。
 ということは、今日も誰かにご迷惑をかけたかも知れません。
 中押しで勝負がついていますから、不本意な負け方かも知れない・・・それで、何時までも対局室がクロースされないというのは嫌なものかも。

 ところで最近は勤め先に対局相手がいないので、専ら昼食後は仮眠タイムです。
 パソコンの中に囲碁・将棋ソフトでもあれば多少は遊べるかもしれませんが、どういうわけか私に支給されたノートパソコンは愛想が無くて、僅かにトランプゲームが4つだけです。
 ソフト0ではないということは全面禁止でもなさそうですが、でももしかしたら相手を見てこのパソコンを渡された可能性も相当ありそうです。
 そんなわけで、最近は昼食後は仮眠を取るのが日課です。
 それはそれで健康的?かも知れませんが、やはり物足りない、、、それに今日みたいに充分睡眠をとった日は仮眠をどうしても必要と言うわけではない
 朝、仕事に行く前にこういうことを考えているのです・・・かなり真剣に。
 ですから、前の日に買った囲碁の本が丁度良かろうという結論・・・鞄に入れて持っていって食後に読めば、暇つぶし兼何がしかの勉強になるはず。
 しかも、そういう読み方に向いていそうな本ですから、テーブルの上に置いて朝食やら、朝の支度・・・
 ところが、肝心の昼食後鞄を開けて本を探したのに入っていない・・・
 落とすはずの無い鞄ですから、まずは家に忘れた!
  全く情け無い!、年は取りたくない!ですが・・・考えて見ればもっと若い頃からこの傾向はありました。
 いや子ども時代からあった!
  小学校の頃はクラスの忘れ物チャンピオンだった。
 当時所謂級長だったから、忘れ物を検査する立場、、、立場を利用して巧く誤魔化していただけで、実質堂々のトップだったことは自覚。
 そういうDNAは確実に娘と息子に伝わっている。
  二人とも中学時代は学校に公衆電話を使って私にSOSを入れてきたものです。
 家から学校までは100メートルも無いから届けるのは良いとして、内心「似て欲しくないところは親に似る」とがっかりしたものです。
 二人の子供の母親は”しっかりもの”だからそういうだらしの無い忘れ物はしない・・・つまり私のDNAがバトンタッチされたらしい。
 そういえば私の祖父も、明治時代に結構な品物をなくしたとか、落としたとかの伝説がある・・・してみるとこういうDNAは確実に我が家に流れているに違いない。
 生活でこれですから、囲碁で「ウッカリ」「肝心なところで忘れ物」「信じられない落し物」は我が家の伝統・血統の証明と開き直るしか無いですね。
 もっとも、ザル仲間ではそういうところが気に入ってもらって仲間付きあいをしてくれている人も居るかも知れません。
 あまりにしっかり者では友達を無くすかも?
  そういう意味では「捨てる神あれば拾う神あり」かもしれません。

 さて夕方家に帰って見ると、件の本はテーブルの上には無くてベッドサイドに置いてありました。
 これは二重に勘違いと記憶違い・・・全く情けない。
 年はとりたくないけれど、年をとらないと長生きできないわけで・・・

東の風心地よく

2008-07-30 17:47:22 | Weblog
 今日は生活習慣病の方のクリニックの検診日。
 例によって検査から開始です。
 血液採血・血圧・体重・体囲回り・尿・足のむくみの有無・・・マア基礎的なデータなんでしょう。
 この検査の結果が出てから医師と会うことになります。
 つまり結果が悪ければ、かなりきつい調子で叱られることになる・・・いや、次の4,5週の指示とか、心構えとかが・・・
 そう、結果が良かろうが悪かろうが先生が困るわけではなく、全て私の問題なんですが、こういう場面での患者の心理は逆転していまして「叱られたくない」と考えるものなんです。
 ともあれ、検査を受ける時の真理はかなり開き直っていて「どうにでもなれ」みたいな心境で受けるのです。
 そして先生と会う時は「結果発表」みたいなもの・・・診察室から声がかかって名前が呼ばれると、TV番組ではないけれどドラミングが始まるようなものです。
 先生のノートパソコンに今日の検査結果と過去のものが全て出ている。
 但し私の場所からは数値は読めない・・・「サアどうにでも」とまな板の鯉
  概ねの指標としてヘモグロビンの値と体重
   今日はヘモグロビンの方が大幅に改善されて基準値に収まっていた。
 まずは今日のところは「良」のハンコを貰った感じ、、、但しそれで普通なんでしょうが。

 ということで帰りに本屋さんによって自分にご褒美
 いつもなら「NHK囲碁講座○月号」となるのだけれど、それは既に買ってあるので、それ以外の本。
 割合大きな本屋ですが、囲碁・将棋コーナーへ直行
  いろいろ迷って(実は楽しんで)選んだのは
 「王銘琬の囲碁ミステリーツアー」 王銘琬 MYCOM囲碁ブックス 2007年1月
 今は序盤から中盤の勉強に関心があるので、同じMYCOMのポケットサイズの本とどうしようなと迷いましたが、今回は所謂勉強みたいな本ではなくて、どちらかと言えば気楽に読めそうな本にしました。
 本当はそういう区別は変ですね。
 気楽に読むとは言っても中身を考えれば、それはそれで結構ためになるような話でしょうし、何も「勉強」と鉢巻をして読むものばかりが勉強ではないはずですから・・・ともあれ気軽に読めて、いくらかでも良い影響が受けられれば幸せです。

 ところで今日は私は平日の休みの日
 女房殿は夏休みで、、、計らずも平日に老夫婦が家に居ます。
 全くまもなく訪れるであろう生活の予行演習見たいな日です。
  案の定女房殿が定石を打って来た・・・台所でなにやら炒めるにおい。
 まさに、「今日はハンバーグをお願いします」、、、言葉はお願いしますだけれど「拒否する権利は無い」のです、、、実態は「やれ」。
 何時からそうなったのか、、、アレはかなり前に焼き方に拘って作った時から、、、これからも月に何回か「指名」があるだろうな、、、
  
 さて今日は風が心地よい日です。
  私の部屋は東向きなので窓を大きく開けて、、、おかげでネット碁を観戦しながら気持ちよく昼寝をしてしまいました。
 爽やかに、2時間近く!
  また対局中の人には迷惑をかけてしまったかも知れませんが、夏なのにこんなに気持ちの良い日は珍しい。
 そうそう、タイトルの「東の風」は気分では「トンプウココチヨク」です。
 NHKのかつての大御所的アナウンサーが地方局に居た時、ドサ回り的腐れ気分で毎日麻雀ばかりしていたそうで、徹夜マージャン明けに天気予報を読むとき
思わず「本日は東(トン)の風」とやってしまったそうです。
 東風といえば菅原道真ですが、アレは春限定でして、私にとってはこちらのエピソードです。
 そんなことを考えて良い気持ちでベッドで昼寝・・・しかしそろそろ婿さんは台所に行かないとヤバイだろうな。
 
 

暑中お見舞い

2008-07-29 17:28:26 | Weblog
 今日も1日暑い日でした。
 この辺りよりもっと暑いところがあるから、そこよりは良いでしょうが、まさに五十歩百歩でしょうね。
 ところでかなり昔・・・子供の頃の夏休みの宿題でお天気記録の気温の記憶では・・・真夏でも30度でした。
 新聞やラジオで「今日の東京は33度」などと聞くと「ウッソー」と思ったものです。
 それが今では33度なら良い方で、場所によっては37度とか・・・
 9月の下旬まで続くとしたら、あと2ヶ月は続く事になる。
 地獄の夏が3ヶ月、嫌いな冬が3ヶ月、ちょうど良い春秋が6ヶ月、、、丁度半分ずつあります。
 私は寒さにも弱いけれど暑さにも弱いので、「今年の夏は無事に越せるだろうか」とビクビクしながら過ごします。
 最も循環器から見たら、寒いよりは暑いほうがいくらかましでしょうね。
 水分を補給して日陰でジッとしてれば良いわけです・・・そうも言ってられないウ事があるから困るのですが。

 ところで私の主治医のおっしゃるには・・・「ともかく体重を落としてください」である。
 悪いところはたくさんあるけれど、スリム化でいろんな症状の改善、これ以上の悪化は予防可能が出来るとの事。
 殆ど命令に近い指示です
 ところが、困ったことがありまして私は夏に体重が落ちない体質なのです。
 最近はお茶もコーラも、水にしたってノーカロリーの物しか飲んでいない。
 食事もかなり自粛気味・・・なのに体重は変わらない。
  まさに「水を飲んでも太る」体質なんです。
 水分補給・のどの渇きで0カロリーの飲み物はかなり飲みます・・・したがって、入って来る水分と汗などで出て行く水分のバランスが高いレベルで保たれているのでしょう。
 私の場合は、水分補給も致命傷になりかねないから仕方ないところもある。
  しかし、もっとも暑いシーズンが過ぎて、夏ほど水分を取らなくても良くなってくると・・・実りの秋・食欲の秋・天高く豚が肥えてしまうのです。
  ・・・ということは、夏痩せしない体質を通り越して、秋痩せも冬痩せも無いわけで、一年中ハイレベル保持。
 ともあれ、夏に人並みに痩せてみたい。

 追伸
 暑いのは苦手なんですが、それではエアコンの設定を下げれば良いかというと、そうでもないのです。
 私は汗をかかないと体調が維持できない感じがしています。
 運動でも何でも、一日に一回は汗をかかないと気持ちが悪い。
  暑いのが苦手で涼しいのが好きなんですからかなり矛盾しているかもしれませんが、、、
 チャリ通勤で片道6キロ半くらい、、、道路側には街路樹があって、反対側が緑地か建物の陰ですから概ね工程の4分の一くらいは日陰を走ります。
 寧ろ日陰を拾って走り、信号待ちも日陰のところで待つ。
  まさに「日陰者」だと自分でもおかしくなります。
 それでいて汗をかかないと、調子が出ないと感じる・・・
  毎日の挨拶が「今日も暑いですね」の毎日です。

狐が尾を濡らす?

2008-07-28 17:18:33 | Weblog
 中国の古い諺だそうです。
 意味としては”最後が肝心”とか”仕上げまでキチンとしなくてはいけない”みたいな感じで、”竜頭蛇尾”も近い感じです。
 落語的ならば”初め四角で後はグズグズ”も近いか。
 狐が水を渡る時に立派なシッポを水に濡らさないようにピンと立てて渡るのだが、尾が重いので最後は疲れて尾が下がって水に濡れる”という例えだそうです。
 マア狐が水を渡るという設定に多少の無理を感じますが、その辺の細かなことは抜きにして・・・”余りに立派なことを掲げて物事を始めたものが、その重みに耐えられなくなって最後は失敗する”と言う状況でしょうか。
 そういうことならよく分かります。
 今丁度夏休みですが、子供の頃は夏休みの前に「夏休みの計画表」とか「1日の生活表」などを提出したものです。
 計画はかなり立派なものですが・・・ご多分に漏れず私は「三日坊主の代表」ですから、計画通りには行きません。
 行かないどころか、それは毎年繰り返される年中行事みたいなもので、提出した「計画表」はあくまでも計画。
 計画表コンクールでは優秀賞ものなんですが、、、

 さて久し振りにネットで対局
 ここ3日ほどは実戦抜きの観戦のみだったので、3日ぶりは私にとっては久し振りです。
 特に大きな理由があるわけではなく、単にネット碁クラブに入場した時に同じ位の点の人が居なかったり、丁度その時に観戦したい組み合わせが対局中だったりでした。
 それと連日の暑さで多少バテ気味だったので、『マア実戦はこの次でも良いか』でした。
 もし打つとしたら、特に序盤を意識して打つ・・・「本手というものを意識して打つ」という事が課題。
 「本手」なるものが分からない場合は、急戦ではなくジックリ行って見ようという心積もりでした。
 それで、夏休みの計画ではないのですが、始める前の計画・当面の理想と現実は大違いでした。
 この日の相手は向こう2子白目半コミ出し。
 私が入場した時、既に相手からはオファーが出ていて、私が対局エントリーした時に自動的に対局設定です。
 楽な碁というものは無いのですが、2子局も難しいですね。
  それに2子局は久し振り
 一応2子局ですから、下手と打つのですが実際の棋力差を考えたら”下手”と呼べるほどは差が無いでしょう。
 しかもお互いに1手づつ打ったときに隅の占有率は3:1で、ここから2目半のコミを出せるようにしなくてはいけない。
 地の問題もそうですが、実際に3隅対1隅で、こちらが1手打った時に相手は3手打ったのと同じ・・・ここから武力対決あるいは経済政策を展開するわけです。
 ですから殆ど同じ力の人を相手に多少の無理をして手を作るのが課題
 いや、実際に”無理”をしてはいけないのですね、無理のように見えて無理ではない、普通のように見えてヤヤ無理な手・・・狐は尾を濡らしてはいけない。
 実際に多少薄い手を相手にはいかにも当然の一手と感じさせて見逃せて貰い、普通の手の時に”無理手を咎めるみたいに来てくれるとありがたい。
 実戦は相手が強い人で私の弱点を突いて来て、追いつくどころか潰されかねない勢い。
 もしかしたら相手は若い人だったか、あまりの好景気に”バブルだってはじけることもある”ということをウッカリしたのかも知れません。
 あるいは、大きな石だったので「大石死せず」的な感覚で「何とかなる」と思っていたようにも見える。
 「大石も時には危ない」であるし、仮に相手にシノギがあったとしても、周辺で代償を支払ってもらえれば良い・・・そんな腹積もり。
 私の方が古狸か古狐だったのかも知れませんが、局後の反省としては「あまり良い勝ち方では無さそう」
 相手の方が「力の無い老いぼれ狐何するものぞ」という意気込みが強すぎただけでしょうね。
 次回はこの点を見直して来られるとかなり危ないので、しっかり名前を記憶しておきます。

我慢の子

2008-07-27 15:54:03 | Weblog
土曜日は年に数回ある災難の日だった。
 ご近所の保育園の「お泊り保育の日」:この日はハイテンションの子供の叫び声が続き、「夏祭り」:”あられちゃん音頭”がエンドレスで流れ、「運動会」:世話をする保母さんのマイクの声が鳴り響く日。
 そしてこの日は隣の団地の「夏祭り」で、メインイベント?のビンゴ大会のうるさいこと。
 何でスピーカーであんなに大きな音で流すのか・・・細かな注意やら、同じことを繰り返す・・・しかもビンゴが人気があるらしく前後2回も。
 更に間に太鼓の演奏会です。
 マアそれでも今年はカラオケ大会が無いだけ救われているかも。
  いずれにせよ、この暑さを振り切るようなエネルギーが凄い。
 コチトラは暑さとそのエネルギーに当てられてぐったりするしかない・・・ぐったりすることで災難をやり過ごす一手です。

 例年ですと「うるさいなァ」と愚痴をこぼす相手がいたのですが、今年は女房殿は旅行中・・・全くついています。
 マイクの女の人が同じことを繰り返したり、どうでも良さそうなことを大声で放送するたびに、家の中で「うるさい」と言い続けている。
 誰も聞いてくれなくても、マイクの相手に届かなくても良い、、、ともかく「うるさい」とささやかな鬱憤晴らし。
 いずれにせよ、囲碁の対局も観戦にも身が入らない。

 というわけで図書館に緊急避難
 ここなら涼しくて、静かなはずですから・・・
 これが、大はずれ!!
  入館して驚きました、館内がモアッと暑い・・・『なんだ、これは』です。
 公的機関の電気・CO2削減キャンペインなんでしょうが、さて本当に良いことなんだろうか?
 本を選んでいる時に「ただいまからエアコンの運転を始めますので窓が開いていたら閉めてください」の放送。
 そして5分くらい経ってやっと少し利いて来たような気がする

 さて今日借りた囲碁の本は李チャンホの
 「布石の考え方」イ・チャンホ 毎日コミニケーションズ 2006年
 サブタイトルが良いですね・「布石の真髄は”本手”である」
  私の最も苦手の布石、言葉としては分かっていても結局何が”本手”なのか分かっていない分けで・・・この辺りがザルとしては永遠のテーマです。
 しかも本を読んでいて、決して楽しい勉強ではないし・・・この暑さにも、表から容赦なく侵入してくる騒音にも耐えなくてはいけない。
 あーあ大五郎ジッと我慢の子。
 

お盆に・・・

2008-07-26 21:57:04 | Weblog
 金曜日の夕方勤めから帰る道筋で大きな団地の側の公園の横を通ったら、題名は知らないけれどいかにも盆踊り風と言うか、輪になって踊るための歌と言うか・・・そういうレコードが流れていました。
局の感じで分かってしまうのですから、分かりやすくてご近所を宣伝カーが回る必要が無いですね。
 樹木の隙間から、公園の中央に櫓が組まれているのが見えて、テント張りの出店からは既に煙が流れている。
 子供たちは夜が待ちきれないのだろう,その辺りを駆け回っている。
 そういえば娘も小さな頃は盆踊りが好きでした。
 ろくに踊れもしないのに、櫓の上で踊りたがる子でした。
 息子もお祭り好きで、いつの間にか家を抜け出していくつもの町内の盆踊りをハシゴするような子供でした。

 でも、考えたらこれは盆踊りではなかったですね。
 形は盆踊り形式で実態は夏祭り。
 楽しみたい人も世話人も都合の付きやすい時期に催すのですね。
 地域のイベントとしてやっているのであって、盆踊りは本当のお盆の時期にそれぞれの故郷に帰ったり・・・
 そういえば、今住んでいる辺りではお盆の迎え火も送り火も見たことが無い。
 表で火を使うのが嫌がられるのだろうか、それとも近所に遠慮するのだろうか、あるいはお盆の行事と言うヤヤ陰気な気分がこの辺りにはマッチしないのか・・・
 そういえば、私の田舎では灯篭流しの風習がありましたが、今でも続いているだろうか?
 ここにも水路とか小さな川はありますが、新しく始める事は考えにくい、環境・ゴミ問題が優先でしょう。
 田舎の町の中央を流れる川は、高低差が少ないのでゆっくりと流れます
 ですからきらめく灯篭が川幅一杯に広がってゆっくりと流れていく
 子供の頃両親と見物に来ていて、「自分もやりたい」と言ったけれど相手にされなかった・・・
 そう,オヤジは次男だし家には新仏がいなかったし、仏様のいる家が流していたらしい。
 家には仏壇も無かったので参加は無理だと諦めたものです・・・それに仏教徒・檀家ではないし。

 表現は悪いのだけれど、親父さんとかオフクロが死んだ時は灯篭流しのチャンスだった、、、お葬式も墓地を借りる関係で便宜的?だけれどお寺でやったし。
 実は、私は故郷を離れて長いので、原風景としての灯篭流しと、住んでいる土地のお盆の習慣がごちゃ混ぜになっていたのです。
 つまり、灯篭流しはお盆の最後の日に「送り出す」夜に流すのだと思い込んでいた・・・それに違いないのだろうが、だからそれは8月半ばだと思い込んでいた。
 ところが当地のお盆の行事が「旧盆」なのに、私の故郷の行事は、田舎なのに「新盆」で行われていた。
 この時間のずれは全く記憶に無かった。
 そうだとすると、七夕の行事の後、1週間ほどで灯篭流しを見物していたのだろうか・・・子供時代の記憶のミステリーです。
  
 そんなことで灯篭流しに限らないのですが親の新盆に不義理をした親不孝息子をやってしまいました。
 マア、いつものこととは言え最後まで出来の悪い息子の役です。
 5人も子供がいれば一人くらいは出来損ないもいるものだと思ってもらうしかないですね。
 開き直りとしては、お盆に限らず田舎に帰った時は墓参りするということで行くしかないです・・・それも当たり前なことですが。
 心の中では「心の中で手を合せているから・・・」とひらき直っているのですが、兄姉たちから末っ子は何時まで経ってもしょうがないと思われている。
 そう思われている方が楽だから決して無理して頑張ったりしません。
 勝手なことを言う割には役に立たない・・・そういうキャラと認められている方が楽ですね。
 無視もされないけれど当てにもされていない・・・少し得な役回りかな?
 

囲碁年鑑に希望したいこと

2008-07-25 21:57:31 | Weblog
 NHK囲碁講座8月号を買いまして・・・実はこの雑誌を買うときにいつも迷うのです。
 隣においてあるのが囲碁ワールドと月刊誌の「囲碁」
 囲碁講座は手軽に読めて、後に同じ内容の放送を見ることが出来るので、まずはこの雑誌は買いますが、手軽なので一寸物足りない面もあるわけです。
 ですから、もう1冊買おうかなと迷う
  まあ、「囲碁」を買おうかどうか迷うのです。
 こういうものは、連続TVドラマみたいなところがあって、見たりみなかったり=買ったり買わなかったりではダメなわけで、「買うなら毎月」と言う選択となります。
 そういうことで、毎月書店の陳列棚の前で迷うのです・・・結論は同じなのに毎月同じことを考えて迷うところに性格が出ているようです。

 ところで今囲碁講座は「レドモンドの 基本は格言にあり」が続いていますが。この聞き手の青葉かおりさんの「格言とかけて名古屋ととく」=英語での格言の名古屋弁訳が良いですね。
 私の生まれ育った地方は東京と名古屋の中間地点なのに、名古屋弁は殆ど伝わってきていません。
 昔南利明というコメディアンがいた頃に、お笑い系の言葉としては聞いたことがあるのですが・・・
 友達・後輩に愛知県出身者も多いのですが、彼らはオフザケ以外では方言を喋らないし・・・
 今回の青葉さんの名古屋弁のエッセイは良いですね、単に言葉を愛知バージョンに置き替えたのではなく、生活・暮らしかたのレベルで表しているところが良い。
 若い人が堂々と方言を使うのも面白い
 所謂標準語・東京方言出なければ、堂々と喋るのは関西弁だけみたいなところがありますから。
 もっとも、その地方では年令に限らずその地方の言葉で喋っているはずなのに・・・

 そういえば、私も昔苦労したことがあります。
 営業の仕事で私の担当は隣の県・・・ここは関東ではかなり訛りのきついところで、加えてかなり早口で喋る。
 これはかなり年配の人も若い娘さんも当時はそうだった。
 私は隣の県から物を売りに行っているわけで、彼らはこちらに合せる義理もないし全く遠慮なく彼らのペースで話すわけです。
 こちらも聞き取れなくても、そう何度も聞き返せないし・・・無理なく聞き取れるようになるには3年はかかった。
 マア慣れてしまえば、それはそれで味があるものです。
 単に言葉が違うだけでなく、その地方独特の言い回しなどがあって面白い
 考えて見ると、言葉がスムースに通じるようになってその地方での商売も肩から力が抜けたみたいに自然にやれるようになりましたね。

 ところで今月号んぽCMページに「囲碁年鑑2008」が出ていました。
 1年間並べて楽しむ309局”というサブタイトルがついています。
  確かに1日1局並べて10ヶ月はかかるから、、、概ね1年
  実はこの本も今回買おうかどうしようか迷った本。
 結局やめたのですが・・・396ページで309局。
 値段が3360円、それと2008年版ということは2007年の碁・・・
  結局買わなかったのは私がケチなんですが、309局と言う数字が多いようで少ないような気がするのと、3000円を越す値段は一応手が出しにくいという点ですね。
 朝三暮四の類ですが、毎月1000円なら好いけれど、いっぺんに3,4000千円は嫌なんですね・・・
 それと、本のサイズがやや小さいと思える。
  私・あるいは私クラスの希望では1冊1000円程度・・・年度版でなくて例えば四季報的な編集。
 サイズは出来たらA4あるいはB5くらいの大きさです
 
 価格は私にとっては重要です。
 1000円札1枚で買えるというのが理想で、そのためには何も年鑑でなくても季節版でも隔月版でも良い。
 それとタイトルマッチとか有名な棋戦の予選でなくても、面白い碁・楽しい碁・新しい碁・世界の碁・新進気鋭の碁・お師匠さん推薦の弟子の碁などなどの棋譜も載っていると良いですね。
 無理・無茶な希望かも知れませんが、素人の囲碁ファンの希望も大事なんだと思うのですがね。
 嫌味っぽく言うと、お高く正統派みたいなプライドも大事ですが、本筋は大事にしながら出来るだけザルを巻き込むような・・・
 囲碁ファンが自分の囲碁のために財布からお金を出す。
 まずこういう習慣も大事なような気がします。

打つ前に一呼吸

2008-07-24 17:56:14 | Weblog
 格言にもいろいろあって、技術的なものと心構えに関するものがあります。
 技術的なものは割合裏があったり、逆から読めたりして全面的に正しいとも言えないものもありますが、心構えの方は他のゲームや処世訓、仕事にも応用できることが多く、正しいことを言っているかどうかというようなことを問題にするものは無いように思えます。
 「打つ前に一呼吸」
 コレは初級者中級者にはよく見かけますが、石置きゲームみたいにノータイムの応酬での進行・・・
 ですから、今打った手がどういう意味なのかなどは余り問題にされずドンドン進行していきます。
 流石に一方の石が死んでしまったり、死に掛かったりすると手が止まったりしますが、まあ大体この時には手遅れが多いですね。
 マア横で見ている先輩格としては、「打つ前によく考えて」としか言いようが無いのですが。
 ノータイムで着手の応酬にならないために「打つ前に一呼吸」はある。
 当然のことながら、一呼吸したとしても何も考えないのでは”一呼吸”の意味が無いわけです。
 碁会所。コミュニティーなどでよく見かける片手に5,6個の石を持って打つ人
 まさに機関銃タイプです。
 コレは一呼吸どころかノータイムで応酬する構えですから・・・
 その人だってプロがよく「考えがまとまってから碁笥から石をつまみなさい」と言うのを知らないはずは無いと思う。
 知ってはいてもやらない・出来ないのですね。
 それも昔から言われている事で、最も単純な部類で、難しくもなんでもない。
  でも出来ない。

 いや私もそうは偉そうなことも言えないのです。
 程度の差は有っても、五十歩百歩と言うか大差の無いミスはする・・・年中繰り返している。
 一番最近で記憶から消えないチョンボは・・・ある対局で
 私の石の死活に関して、一通り読み込み済み。
 1箇所、軽率に受けると相手からはコウにする手段が生じる。
 情勢はかなり優勢であると認識しているのですが、こういうときほど危ない空白時間が生まれる事がよくある。
 それは私の心も腕も未熟な故ではありますが・・・こういう時に限って「相手は何故投げないのだろう」とか「よう打つなー」とかチラッとでも考えると所謂”油断”が生じます。
 そういうときに、件の場所で相手からコウに仕掛けることが出来るような受け方をしてしまった。
 こういうの「わかっていたのに」と言えるのか「間違ったのだから、分かっていたとは言えない」と言うべきか、ともかく読み込み済みの場所で”読み通り”のチョンボコース。
 状況は一転して、相手にコウ立てという慰謝料を支払う展開になったしまいました。
 「打つ前に一呼吸」・・・読んでいたところですから一呼吸すれば防げたような気はしますが、逆に難しくないところだけに・・・
 尤もザルクラスですからチョンボの収支バランスはつりあっていたり?・

 

「なんだ、取り碁か」

2008-07-23 15:21:00 | Weblog
 最近の成績は一進一退を続けていますから、それなりに緊張感があるとも言えますし、見方を替えれば進歩の無い状態とも言えます。
 進歩どころか、もしかしたら退歩ではなかろうかとも・・・
 第一に負け方が悪いのです。
 負けたのが悪いのではない(逆に勝てば良しでもないので)、あくまでも負け碁の内容が不甲斐ないのです。
 どうも出だしの部分で考えがまとまらないと言うか、考えすぎというか
 序盤で相当無理をしすぎる気がする。
  いや打つ前に「この手は無理かな」などと思いつつ、そこまでやらないと勝負に遅れを取るような気がして打ってしまう。
 そして結果更に状況を悪化させている。
 形勢が良く見えない時の、辛抱の手が打てないのです。
  勝負どころが後に来ることを信じて待つことが出来ない。
   結局は自分が信じられないのでしょう。
  マア。相手のあることですから、待っていてもチャンスが来ない事だってある・・・「その時はそれはそれで仕方が無い」という心構えが出来ていない。

 勝った時も決して良い勝ち方とは思えない。
  概ね派手な戦で相手の大石を取ったりして勝たせていただいたが・・・こういう闘いが必然だったかどうか。
 つまり、戦わなくても良いところ・もっと安全有利に局面を展開できたかも知れないのに、単純・直線的に戦いの道を選んで・・・結果として運良く勝ったに過ぎないのかも・・・
 これは結果オーライであって運の作用に過ぎないのかも知れない。
  多少は、戦いに入る前に若干優位な形で戦いに入っていたかもしれないけれど、戦えば多少は闇試合的要素あるわけで、やはり戦わずに勝てるのが一番良いでしょう。

 昔碁会所でK畑師匠に2子くらいで教わっていた頃、オール互い先リーグと言う企画がありました。
 その時はどういうわけか序盤から中盤と善戦して、形勢有利を意識した。
 周りのギャラリーも集まってきて10人くらいに囲まれて打つような形です。
  マア師匠としては、弟子に勝って当たり前ですから多少は打ちにくいでしょうしが、こちらとしても初めてセンターコートで試合をするような緊張感があります。
 私は大会の緒戦の序盤の数手は多少石を持つ手が震えますから、この時も緊張感で手が震える感じです。
 優勢を意識してどっしりと落ち着いた手で行くか、あるいは形勢優位を追い風に仕掛け気味に圧迫していくか、、、丁度分かれ道。
 持ち時間45分・切れ負けですからそれほどは時間をつぎ込めませんが、こういう局面が最も難しいのではないでしょうか。
 数学は得意で計算は問題ないのですが、絵を描くとなると計算は役に立たない・・・そんな感じです。
 ともかく、何か打たなくてはいけないわけで
  結局師匠の石の弱そうに見える部分を直接攻める手を選択した。
 その瞬間背中で「なんだ、取り碁か」との呟き
 一瞬背中が凍りました。
 私の選択は考えとか自身に基づいたものではなく「どうせ分からないなら、自分らしく打とう」と思って打った手です。
 私自身も直接的な攻めではない方が良いだろうとは思いつつも、他の手が思いつかないので打った手ではあった。
 碁盤の向こうの師匠に切られたのではなく、背中のギャラリーに一刀の元に切り捨てられた感じが今でも記憶に残っています。
 
 今から20年以上昔のことが忘れられないのですから、私も相当しつこいですが、ともあれ最近の一進一退、、、どうも20年前から殆ど進歩していないように思える。
 いや、性格が変わらないからかな、、、年令だけなら”熟”なんですが、碁の方は一向に熟しません。

15分

2008-07-22 18:13:25 | Weblog
 先日、挑戦手合いの番碁の中継がありまして、まず「両対局者の入室風景」のビデオです。
 大体3分前から5分前くらいでしょうか、先に入室した棋士が碁盤をきれいに拭いて暫時瞑想。
 若い棋士ですから悟りをひらいた老僧とは違いますが、サマのなっていました。
 設営担当者が準備したのですから碁盤が汚れているはずは無いのですが、この一連の動きは戦いを前にした儀式みたいなものでしょうね。
  ふと感じたは、この日先に入室したのはタイトルホルダーの方、だからチャンピオンが碁盤の拭き掃除をしたことになる・・・どっちでもいいのでしょうね、一寸素人が考えると挑戦者の仕事のような気がしていたので、『エッ!良いのですか』という感じで見ていました。
 ま、いずれにせよ概ね数分前の入室。
 このくらいが、丁度味がいいのでしょうね
 長すぎると手持ち無沙汰ですし・・・私なら瞑想が本物の睡眠になります。
 逆にギリギリ入室で着席と同時に対局開始と言うのもせわしないし

 この辺りは素人でもそうです。
 碁会所などに顔を出した途端「ヨッ、来たね」と声がかかったとしても「ハイハイ、まずはお茶を1杯」となるでしょうから。
 この一呼吸が大事ですね、この間に頭を囲碁モードに切り替えるわけです
  但し、プロ棋士の場合は控え室にいる時から、気持ちは対戦モードに切り替えつつあったはずですから、入室3分前であっても臨戦準備が3分ではない。
 ところがザルクラスでは、車で碁会所に駆けつけた途端に碁敵と戦闘開始というのも珍しくない。
 尤も、頭の中は仕事中であっても囲碁のことで溢れている人もいるから、「切り替え必要無し」かも知れませんが。

 こういう事が囲碁ではなくスポーツであった場合
 例えばサッカーの後退選手のアップは普通15分と言われている。
 途中のハーフタイムが15分ですから後半から出場の選手は前半終了と同時に始めると丁度良い。
 しかし、後半のどこかでお呼びがかかるかも知れない選手は大変です。
 準備が巧く行かないとジャストタイムで新戦力を投入できないわけで・・・
  何で準備が大切かと言うと、準備不足で投入され、いきなり全力を出すと急激なスタミナロスを生じて動けなくなる。
 準備不足の場合は投入されてからピッチ上で準備不足の解消をせざるを得ない・・・これでは新戦力の価値が半減
 ともあれ準備運動は15分くらい・・・
  ですから私の自転車通勤の場合、初めの10から15分は急がずに走る・・・そして途中からスピードアップする。
 準備運動をしない代わりに、ペースチェンジです。

 さて、帰宅してまずパソコンの電源を入れて置いて着替えやら顔を洗うやらして・・・やはりすぐには打ちません。
 経験的にですが、私の場合帰宅直後の対局は成績が悪いのです。
  棋力不足は一応棚に上げておいて・・・
 スポーツの準備運動ではないけれど、まずは人様の対局の観戦から入って徐々に頭を囲碁モードに変えていきます。
 そうするうちに、呼吸とか心拍数とかが平静モードに戻るはず。
  その時間が恐らく帰宅後15分内外ではないかと考えています。
 マア勝敗は相手のあることですから何ともいえませんが、少なくとも不本意な負け方を多少は避けるのに役立ってはいるはずです。
 但しこの「平静」が曲者で、ジイサマは平静すぎると寝てしまう
 眠らないまでも、タダでさえ脳が沈静化しているので沈静化しすぎも大いにある。

シノギの術?

2008-07-21 16:36:16 | Weblog
 「シノギの術」と言うと「忍びの術」みたいで語呂が似ていますが、マア敵陣に乱破を放つと言う意味では似ています。
 尤も一部の業界用語では「稼ぐ・生活する・やっていく」みたいな意味らしいので、寧ろこちらの方に近いかもしれません。
 相手が安心している縄張りに殴りこむと言う見方をすればそっちの方ですね。
 稼ぐだけ稼いでおいて、相手に大きな地が出来そうなところをドカンとやって、後は相手の猛攻を凌いでオシマイというイメージは坂田栄男か趙治勳でしょう。
 マアあのくらいの実力者になれば、見通しがあってのこと・・・仮に「勝負どころで行くしかない」というものであっても、ある程度の成否のイメージはあるに違いない。
 相手にしたって天下の坂田・趙がやってきたのだから、かなりの脅威であろう。
 いやそれどころか、普通に考えればとても無茶な作戦であっても、コロンブスの卵ではないけれど、実はそれしかない作戦なのかも知れないし、もしかしたら下手な反発は逆に潰れてしまうような危険な仕掛けもあるかも知れません。
 但し、それはプロ、しかも限られた棋士の世界で、コチトラはザルですからミーハーみたいにカッコウは真似しますが、中身は保証の限りではありません。
 脅威というより驚異の部類でして、早く言えば”笑っちゃう”。
 やってみなくてはわからない、落語で言えば「素人うなぎ」」ですから、「どういう結末になるかは相手に聞いてください」となる。

 若い頃にK畑師匠に1番手直りの置き碁で教わっている頃によく言われたのは「そこまでやっていかなくても良さそうなもの」とか「そうせざるを得ないのは、そこまでが悪すぎる」の類のお叱り。
 但し叱るのはK畑師匠ではなくて、横で観戦していた先輩の方々。
 先輩がたは師匠に常先くらいで、私から見たら兄弟子格。
  兄弟子方は筋も良いし・・・もしかしたら師匠よりも・・・
 私の碁は確かに喧嘩碁と言うか力任せ的なところがあるから自分でも余り格好好くは無いとは思っているのですが、、、師匠本人はその事には触れないのです。
 師匠本人が多少力戦タイプなところはありますが、、、だからといってそういう碁を奨励していたわけではなさそうです。
 今から考えると、いくつか置いて打って戴いていたのですから、私に対し「戦って勝て」と言うことで打ってくれていたのでしょうね。
 当時私は碁会所では若い方でしたが、囲碁の憶え方と言うか経歴みたいな影響?で、実戦よりは本などから得たような知識が多かったはずです。
 当時の碁会所の常連達に較べたらそうでした。
 当時も今も一部の碁会所のイメージには「筋は悪いけれど力は強い」があります。
 だから、一見筋が良さそうでも考えられないところから崩れていったりしますから・・・多分師匠から見ると見るからに力不足だったのでしょう。
 
 4子の置き碁から2子辺りまで戦いに明け暮れたと言って良いでしょう。
 師匠の手が相手さえ居れば”ぶつかり稽古”で、誰かと対局をしている時は、少し離れたところから観戦しながら順番を待ったものです。
 平日の夜はせいぜい1局ですが、土日ともなれば何局も付き合って貰いました。
 「打ち込んでシノグ」「打ち込まれた石を取りに行くか、あるいは追い上げるか」、教えてもらっているのに、そういう緊張感がたまらなく好きでした。
 特に「打ち込んでシノグ」これがたまらない。
 自分でかなり自惚れ気味に感じていますが、同じ位のザル仲間ではシノギの術ではやや自信がある(勿論上手には通用しないでしょうが)。
 そういうものが育ったのは師匠に鍛えられていた時期なんでしょう。
 
  こういうものを今でも引きずっている
 但し打ち込んでいくとき考えはしますが最後は「何とかなるだろう」か「ダメだったら潔く投げれば良いさ」で棋士のように「深い読みに基づいた作戦」ではなところが情けないですが・・・
 「見通しの立たないことで楽しむとは相手に失礼ではないか」と言う感じもありますが、このスリルと成功した時の達成感は替え難いものがあります。
 
 

先が思い遣られる

2008-07-20 15:32:21 | Weblog
 土曜日にはついに恐れていたことが起きました(前からの予定通りですが)。
 女房殿と娘が連れ立って約1週間の旅行に行ってしまいまして、娘の婿さんと私は1週間は”自力で”生きてゆかなくてはいけない。
 少々オーバーな表現ですが・・・出発の前日女房殿から突然「トイレの掃除の仕方分かる?」と聞かれてびっくり、「私が毎日やっているのだけれど1週間お願いね、こういうものは手入れが大事ですから」と、、、マア消毒薬と芳香剤が沁み込んだような使い捨てウェットティッシュで拭くだけなので安心しましたが、、、娘が「わァお父さん何かの罰で1週間トイレ当番みたい」と大喜び。
 更に洗濯機の使い方の講義、何かの集金が来た場合のお金のありか、いざと言う時の銀行カードのしまってある場所、、、殆どが右の耳から左の耳へ。
 ”いざ”と言う時は「責任者が不在なので1週間後に来てください」で済まそうと思っているので、顔は向けているが心は真剣に聞いていません。
 恐らくいつものことなので見抜かれているでしょう、「ともかく今日は敷布団だけでも干しておいて下さい」・・・全く、この際だから何かやらせなくては損だと思っているらしい。
 考えて見ると結婚以来30数年、「言われたことを言われたとおりにやらない亭主に、諦めることなく何かの用事を言いつける辛抱強い(しつこい)女房」の構図をを繰り返してきていることになる。
 娘も流石に「お父さん1週間大丈夫?」と言うのですが、女房殿は知らん振り
 私も「1週間ぐらいなら、水だけ飲んでいても死にはしないでしょう」と当てこし理気味に開き直るしかない。
 マア掃除・洗濯や家の中のこまごまとしたことは殆どダメですが、ともかくゴキブリ亭主ですから死ぬことは無いでしょう。
 掃除・洗濯は実際にやった回数は30数年で、数えれば片手で足りるくらいだから実績は0に近い・・・炊事だけは何とかなりそう(但し食器洗いは面倒ですが)。
 
 女房殿が出かけたとたんに「包丁研ぎ」のおじさんが来たりしたけれど、その他は不動産セールスの電話が1本ごんだけで、何とか1日は無事過ぎました。
 しかし話かけてくる人がいないというのは何か妙な感じです。
 普段も特によく話をするわけでもないのですが、今日はTVの音声を一方的に聞くだけの生活。
 3連休の初日ですから少なくともあと2日はそれが続くでしょう。
 仕事で出勤すれば流石に話をしなくては仕事になりませんが、夕方に帰宅すれば翌朝まで無言の行が続く・・・1週間。
 それに、洗濯と掃除を1週間で1回もしないというわけにもいかないだろうから・・・さて頭が痛い。
 一般論で、仮に女房に先立たれたら大変だと言いますが、まさにそう。
 家の場合は、健康状況から言って私の方が先立つことになりそうですから,幸か不幸かその心配は無さそうですが。
 もっとも、女房殿に三行半を突きつけられたら・・・その心配は大いにあるが、マアそうなるものならとっくにそうなっていただろうということで楽天的に考えることにする。 
 そう、女房がもしボケてしまったらという心配も無いではないけれど、これは私が普段から心配をかけさせているからまずは大丈夫かも。
 ともあれ、この暑さが続く日々に1週間凌がなければいけないのに
 まだたった1日しか経っていない・・・。
 

普通な手

2008-07-19 16:21:06 | Weblog
 若い頃に所謂住民運動に関わったことがあります。
 正義感に燃えていたとも言えますし、少なくともその時点で学問より運動に関わる事のほうが大切だと感じたのです(学問に燃えれば良いのに)。
 住民にとっては自分の住んでいるところで起こることですから生活がかかっているから真剣です。
 私の場合もそこに住んでは居るけれど、学生と言う根っこが薄弱な感じで、そこに一寸違いが有りました。
 住民にとっては直面している問題が大事ですから、そのことに取り組んでいくうちに問題の本質が見えてくる・・・抽象化といいましょうか・・・そういう事が起きます。
 学生の場合は、問題の本質らしきものを頭でイメージして、現実の問題に敷衍していくようなところがあります・・・まあそういう事が分かっただけでも勉強ではあります。
 いずれにしても問題の中心になったのは「安全性」の問題。
 実は何気なく「安全性」と言ってしまいますが、これがトリックみたいなものなんです。
 何かを進めようとする人は「やる・何かを作る」事が大命題ですから問題を安全性にすり替えます。
 一方住民にとっては安全は確率ではなくて、安全でなければ危険なもの
 したがって答えはイエスかノーしかなくて、安全は0か100しかないのです。
 ですから「安全性」と言う表現になった瞬間、問題は条件になります・・・どういう条件なら我慢できるかです。
 こういう構図は、私が経験してからだけでも40年は経っているのに全く変わらないですね。
 それに日本人は「公共性」という切り札に弱いし。

 さて囲碁で安全性をイメージしてしまう格言があります。
 格言の中でも恐らくベストテンに入ると思われる「1間飛びに悪手無し」
 碁を憶えたての頃、高川先生の棋譜を例に、1間飛びがいかに良い手か説明されたものです。
 軽い、簡明、筋が良い、スマート・・・そして切れない
 しかし、どんな格言にも100%正しいと言うものは無いですよね。
 確かに良い点は多いものの、過度の宣伝になっている可能性も・・・
 手を考える時の優先順位は高いでしょうが絶対ではないでしょう?
 問題は「悪手無し」という事が仮に正しくても、悪手でなければ「好手」とは言えないはず・・・つまり「悪手無し」=あたかも好手みたいなイメージが無いだろうか?。
 あるいは数歩譲っても「普通の手」のこともある。
 「普通」も微妙な表現ですね・・・今時の若い子が「フツー」といえば「可も無く不可も無し」よりはもう少し低い評価でしょう。
 普通=陳腐、つまらない、飽き気味
 昔の白黒映画の時代の普通=かけがえの無い大事なものと言う感覚では無さそう
 
 例によって何か話しながら喋るクセのあるY氏
 「ほう、つけて来ましたね、ではツケにはハネよ」
 「オッ 先生もハネには伸びよときましたね、先生も格言どおりですね」・・・こんな調子が延々続く。
 しかも1オクターブ高い声ですから、周りからも「うるさいジイサマ」と言われながらも、本人は全く気にする様子が無いのだから案外強い性格か打たれ強い。
 私にとってもこの1オクターブと言うのは大変な音波武器です。
 さてYさんは中央に向かって1間飛びを打つような時は「1間飛びに悪手無し」と言いながら打つのです。
 私にしてみればここまでに『うるさい』と感じていますから、すかさず『1間飛びも時による』とまぜっかえす。
 するとYさん「エーッ?先生がそんなことを言って良いの?家の本にもはっきり書いてありますよ」
 本に書いてあるのは誰でも知っているわけで、ここで負けるわけにはいかない
 「そう、安い本にはきっと書いてあります、しかし高い本には”時による”と書いてある」
 盤上の戦いそっちのけで舌の戦いです。
 もしかしたら番外の舌戦に神経が引きずられているかも知れないから、それも相手の狙いに嵌っているのかもしれない。

 こんなところに変に負けず嫌いな性格が出てしまうのですが・・・「1間飛び」には打つ人に安心感を与えてしまうところがあるらしいから、仮にコウ含みで1間の弱点を狙うとか、あるいは安心感から不安感に暗転させる急所の一手は無いものか・・・要するに臍曲がり根性悪作戦です。
 ともかくそこが私の碁の本質?
 ともかく100%ではないぞと言いたくて躍起になってまるで落語の主人公
 ザルだからこそ楽しいと言う世界でもあります。
 となるとこういうことを楽しみながら強くなりたいと言うのは大きな矛盾ですから、結論としては「強くなってはいけない」と言うことになる。
 「なりたくてもなれない」のだから絶好の言い訳です。

まぐさ場

2008-07-18 17:51:14 | Weblog
 囲碁の格言では「まぐさ場」を地にしようとしてはいけないことになっています。
 若い頃はこれが分からなかった。
 地にしにくい所に労力をかけるのは、苦労する割りに報酬が釣り合わないということは分かるものの、そこに未開拓みたいな大地があるとどうしても黙っていられない。
 利用価値の高い場所なのか、どこぞの土地みたいに1平米単価が目の玉が飛び出るくらいの土地なのかの見極めが出来なかったのでしょう。
 うまく説明してもらえば理解できたでしょうが・・・マア言葉としてはですが
 若い頃は「まぐさば」が分からなかったのです。
 イエ「まぐさば」=牛馬のえさとする牧草地だろうということは分かっていたのですが、それでは「まぐさば」がそんなに悪く言われるほど利用価値の低い土地なのかが分からなかったのです。
 国語の問題と社会常識的なことと囲碁の格言的言い回しがごちゃごちゃになっていたわけです。
 「まぐさば」=入会地ということで誰でも利用できる、あるいは私有財産には出来ないという意味なんでしょう。
 それならば「まぐさば」ではなくて「入会地」と言うか、あるいは「みんなの広場」みたいな表現にしてくれれば分かり易かったのに。
 そうそう別の表現で「草刈場」というのもありますね、私にとってはこの方が分かりやすいです。

 囲碁の表現・用語でいつの間にか一般的な表現として使われているものがありますよね。
 例えば「白黒をつける」なんていうのもそうではないでしょうか(多分)。
 日本の碁では強い方が白を持つことになっていたのですから、白黒を決めると言うことは序列をはっきりさせることでしょう。
 ダメというのもそうでしょうね、ダメを押すとか言うように使われたり。
 囲碁とは無縁みたいな若い女の子の会話に「ダメ出し」なんていう表現が普通に使われていたりしますから、なんとなく不思議な感じがします。
 一つの狭い社会の中の言葉がいつの間にか広まっていくことはよくある。
 例えば「埒があかない」は競馬から来ているのではないだろうかと宛ずっぽうに考えたりしています。
 競馬場のコースを仕切る柵のことを「内ラチ」とか「外ラチ」とか呼びますが、「ラチ」=柵が開かないという意味なのではないのだろうかなどと勝手に解釈したりしています。
 一つの世界で使われている表現が、一般的に分かりやすい言い方ならば、元の世界を離れて日本語としての一般的な意味を持つとしたならば、「まぐさば」はやはりやや分かりにくい面があるのでしょう。
 例えばある地域の人材が他の地区に流出していく時、「草刈場」とは言いますが「まぐさば」とは言わない。

 どっちでも好い様な事を、対局中に考えたりしているのですから、、、だから弱いのか、弱いからそうなるのかニワトリと卵みたいなところもあります。
 でもまあ、それも私の楽しみ方であるから・・・シカタナイ。
 

のぞきにつぐ馬鹿、つがぬ馬鹿!?

2008-07-17 18:00:47 | Weblog
 また、榊山潤さんの「囲碁名言集」をめくっています。
 この本は社会思想社から発行されていますが、昔、若い頃に本郷近辺に毎週1度は通うような用事があって、この会社が入っているビルのすぐ近くで仕事をしていました。
 この辺りは他にも出版社が多かったのですが、何故か社会思想社が印象に残っていて、本屋さんで本を選ぶ時など、もし出版社での優先順位をつけるとかなり上位に来そうです・・・確たる理由はありませんが。
 さて著者は戦後、毎日新聞の本因坊戦の観戦記を書いていたのだそうです。
 囲碁関連で「囲碁談義」「武将と囲碁」「日中囲碁盛衰史」などを書いているのだそうですが、まだ読んだことも見たこともありませんから探してみることにします。

 さて名言集、「ノゾキにつがぬ馬鹿はなし」は余りにも”有名”・・・ですが、状況によってはかなりのバリエーションがありそうです。
 どこかの本で読んだ・・・記憶ですが・・・明治時代の棋士が弟子を相手に打っていて”覗き”を打った時に、弟子が考え込んでしまってなかなか打とうとしない・・・彼の先生イライラして「師匠が覗いたのだぞ!、黙ってすぐに継げ!」と怒鳴ったとか・・・何かの本に書いてあったような記憶がある。
 ”恐れ多くも師匠の覗きである”という感じです。
 でも、これがアマクラスになると、例えば置き碁の白の立場で言うと、覗きに無条件でついでくれる人とは(善悪を別に)打ちやすい感じがします。
 ”ご無理ごもっとも”のイエスマンのイメージです。
 こういう人には「たくさん置けば、変に抵抗しなくても受けていて地では負けない」と考えるような傾向がありそう。
 マア現実に黒の目論見どおりになる事もありますが、そうはならないこともかなりあって、「筋の悪い上手にはかなわない」とぼやくことになりそう。
 まあ勝ち負けで言うと黒が勝つこともあるかもしれませんが、、、
 でも、たくさん置いた碁で勝ち負けを問題にするのもおかしな話ではありそうで
 さて「つがなければならない所も、つがなくても良いところも何でもつなぐ」か逆に「つがなくても良いところはともかく、本来つがなければいけないノゾキに手を抜き破綻する」・・・さて失敗に上下はあるか?
 私は”ある”ような気がします。
 前者の消極策での失敗は、失敗が失敗と認識されないことが多そうですから、繰り返しそう。
 後者の場合は失敗ははっきり結果に出るでしょう、それに失敗ではあるけれど1手の差もありそう・・・
 ともあれ、失敗から学習するとしたら、後者の方な気がします。

 私は若い頃K畑師匠に鍛えられ(イジメラレ)ていて、例えば1間に飛んだ瞬間にノゾキ(利かし)が来た場合、まず「接がないとどうなるか」から考えることにしていました。
 少なくともノータイムでは接ぎません。
 マア、変にへそ曲がり的意地っ張りではありましたが。
 利かしに手を抜くことで、部分的には損をするでしょうが、それで得た1手の効果を考える・・・まさに秤にかけていく。
 そんな時によく師匠から「のぞきにつがぬ馬鹿はなし」とからかわれたものですが、「のぞきにツグ馬鹿、つがぬ馬鹿」などと口答えしたものです。
 すると隣の席から時代劇調で「ナニッ!のぞきにつがぬ馬鹿が居る?」と声がかかります。
 見れば病院の院長先生・外科医で柔道が得意な先生で迫力充分。
 すかさず、その向かいの席から「のぞきにつがない人もいると来たもんだ」と可茶々が入る。
 こうなるとあっちこっちから
 「のぞきにツグのも時による」などと合いの手が入ります。
 Mのオッちゃんからは江戸弁で「のぞけばババでも下隠す」のど・・・
 今度は夫人グループからクレーム
 「セクハラでイエローカード」となる。
 全く落語か漫才の世界ですが・・・これが碁会所の存在理由の半分は占めそうです。
 古きよき時代なのかも

 さてさて、今でも覗かれた時にまず”接がない”事から考えるクセはあります。
 勿論ノゾキ・ツギと替わることで味悪が解消されるような場合はありがたくツギますが・・・そうでない場合・・・接ぐも一局,つがぬも一局のような場合はまず”つぎたくは無い”。
 素直につぐのは、相手の意図の中を行くようで好きではない・・・だから潰されることが多いのかも知れません。
 
 勝手な解釈かも知れませんが「のぞきにつがぬ馬鹿はなし」は、少々上手に都合よく出来ているような気がします。
 上手ののぞきには利かされ、下手ののぞきは手を抜かれ・・・。