なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

秋の大三角形

2007-11-30 19:00:13 | Weblog
 盤上を星空に例えればそう命名してもいいでしょうね。
  マア名前をつけることには意味はありませんが、なにやら本当にありそうな星座名前みたいでしょう。
 たいして変わった手でも無いとは思いますが、いつもの昼休碁でFさんが始めて打った形です。
 <Fさんの3子局>
 白1:空き隅星
 黒2:天元
さてここで、白が自分の隅の星の側から黒の開き隅にかかるとすると・・・もし小ケイマなら黒はボーシが注文でしょうね
 確認の意味でもそう打ってみる手はあったかも知れませんね。
  置き碁ですから、黒の注文に嵌ってみるのも一つのやり方かも知れませんね
  それとも小ケイマかかりはいかにも白も芸が無いから、1間高かかりとか2間とかもあっただろうか?
 ともかく、黒が2手目に天元に打った時に「これ、良いでしょう?白は打ちにくいでしょう?」と呟かれた・・・これにファイトに火がついてしまった。
 いやカッカと燃えるようなファイトではなく・・・静かに青く燃えるような  
  『そちらがそうなら、私は私で』という感じです。
 相手が勢力重視の作戦なのですから、白に気前よく地はくれるはずですから、稼ぐだけ稼いでしまって、黒が気がついたときには『しまった!気前が良すぎた』という感じにする作戦に(密かに)決定
 口では「黒さんは勢いが良くて、困った!困った!」と嘆き節ですがね

 ところで序盤で先日の趙治勲先生の本を思い出しました。
  序盤で上手が黒の手にクレームをつける話
 「それは定石ではない!」・・・なんと傲慢な!
  私は相手が多少変わった手でも、私なりに対応を考えるだけだし、その手が良かったかどうかは本人が考えるだろうと思っている。
 確かに一手一手を考えたら、それぞれ評価はあるでしょうが、それにもまして「何を考え、どう打ったか・・・1連の流れの中で手を見る」事では無いでしょうか?
  だからFさんの天元はハッキリした意志表示ですから、それ以降はその流れに沿って進めるわけです。
  これには良い悪いは無いでしょう
 車の運転に例えれば、やたらとハンドルを切って車線変更をしたり、アクセルとブレーキを頻繁に使ったり・・・こういうのが悪いでしょう
  
 さて、昼休み碁のことですから終局にはいたりませんでした
  大寄せに入る直前くらいでタイムアップ
 形勢はどうやら白に傾いていたようです・・・白は黒の大模様の中で黒石をとって凌いでしまった。
  地で大きな差は無いにしても黒が白を追い抜くのは難しそうな感じ
 Fさんの局後の反省
 「どうも途中で方針が変わってしまうのが良くない、、、途中で白を取りに行ってしまうのですよ」
  その通りでしょう、方針がかわるのは(いつでも悪いとは言えないにしても)、それだけでも難しい選択ですよね。
  それに気がついて来たから、それも進歩ではあるでしょう。
 但し、但し、、、黒が方針を変え無かったらどうなっていたか?
   黒が白を取りにこなかったら、黒に破綻が生じることなく、黒めでたく地が残ったか???そうはなりそうも無いから方針を変えたのでは無いでしょうか?
 マアこの辺りに気がつくのは次ぎのステップのような気がします。
  白を取らなくても、「白に生きを選択させることで、黒は安全にリードを保つ」・・・そんなことまで進歩したら考え方はほぼ互い先ですね。
 

囲碁を教えるための本・講座

2007-11-29 19:05:00 | Weblog
本屋さんの囲碁コーナーの前では、「酷い陳列」「なおざりな品揃え」などと感じることが多いという話をしました。
  別のことで気になっていることがあります。
 先日寄った本屋だけだろうか?
  囲碁のスペースは小さいので、それほどたくさんは並ばないのですが・・・入門書の占める割合が大きいような気がします。
  全体の4分の1か5分の1・・・いや大きすぎるという話ではありません。
 ある程度のスペースが確保されているということについてです。
  これらの囲碁入門書あるいは初歩的な初級コースの本は誰が買うのでしょうか?
  囲碁人口の減少・停滞、、、少しでも囲碁を広めたいetcと絡めて考えたいと思います。
 
 私も「入門書」を買ったことがあります、そして自分の子供たちように「子供のための入門書」も買いました。
 人に囲碁を伝える時、何をどのように教えたら良いのか自信が無いので、まず自分の中で整理する必要があります。
 そういう、伝えるべきことを要領よく纏めて、順序良く教えるために本は役に立つと考えたのと、その本を子供に与えて子供が自分でも繰り返し読めるように・・・
 マア私については失敗しました
  最大の原因は普段の生活する中で、囲碁の楽しさを伝えられなかったからでしょう。
  ゲームだけを性急に伝えようとした嫌いもある。
 さて、「入門書」は私同様に「教えたい人」が買う本だろうか?
  まさか買い与えて、押し付けっぱなしということは無いでしょうが
 
 それとも、いろんなお稽古事やカルチャー活動の中で「囲碁でも憶えてみようかしら」と手にとって、とりあえず購入するための本なのだろうか?
 マアどちらもありそうな気はしますが、後者はかなり少ないと思う
  もしそうだとするなら、「入門書」は教えるためのテキストであり、「教わったことを整理して復習するための本」という位置づけでしょうか

 私の経験で言うと、中級以上の人に教えるのは比較的簡単とはいえませんが、気は楽です
  これは外国に行って言葉が通じるような安心感というか、あるいは初級者が努力くして中級まで来たというか・それなりの実績とか意欲があるわけですから話しがしやすい。
  ところが初心者は難しいですね
 「上手く説明が出来ないとせっかくの”お客さん”に逃げられてしまう」という強迫観念があります。
 それと「何処がわからないのかが解らない」みたいな焦り
  更にそういうこちらの動揺とか、自信の無さ、あるいは心配を見せてしまうと、そのこと自体が相手の人にはプレッシャーになるような・・・
 よくビジネス研修などでは「馬を水辺に連れて行くことは出来るが、馬に水を飲ませることは出来ない」・・・みたいなことが言われます
 周囲の誰彼かまわず、捕まえては囲碁の素晴らしさを講釈してもななかなか”お客さん”は見つからないだろうし、落語の「寝床」調では出来ないし。
  私に「碁を教わりたい」などと言ってくれる人がいたら、自分から「水を飲みたい」といってくれているわけで、張り切るのだけれど、どうも空回りしそうな。

 囲碁の知識が白紙に近い人には、囲碁が勝負事だといってもどのように勝敗が決まるのか皆目見当がつかないでしょうね。
 「囲碁は面白いよー、TVゲームなど問題にならない」と話しても、囲碁のゲームとしての目的、勝敗の決まり方、・・・何を争っているのかを説明できないと面白さを説明したことにはならないでしょう。
  ここが難しいところですね
 長初心者には「目」というもの、「生き死に」を理解して貰い、そこで「地」という概念を伝え、ゲームの目的を話す・・・
  基本的な知識が無くてはゲームを理解できないでしょうし、ましてや面白みなど解らないでしょう。
  だから「ゲームを憶えればきっと、囲碁の楽しさがわかるはずだ」という期待感を持ち続けられる人は続き・・・「私には無理」「向いていない」と思う人はやめてしまうのだろうか?

 いろんなゲーム、スポーツの中で囲碁は取っ付きにくいゲームでしょうね
  はまり込んでしまえば、これ程奥の深いものは無いのですが
 さて初めに戻って「入門書」です
   囲碁を教えたい人が「入門書」を買う・・・もしかしたらこれは重要なキーポイントでは無いでしょうか。
  そして私がそうですが、「入門書」は買ったけっれど目的を達成できずに失敗している・・・この事実も
  要するに、「入門書」として要領よく纏められたとしても、「人が人に伝える」とか「人にあった教え方」とか進行のスピードとかあるでしょう。
 つまり教える人の「教え方」も大きな問題では無いでしょうか
  「教育指導要領」があっても、教える教師によっても前々内容がちがうのと同じです
 ですから教える人、教えたい人のレベルアップが問題
  この場合のレベルアップとは単にその人に棋力では無いでしょう
   ”生徒”の応じて必要なことを適切な方法で伝えられる・・・そして意欲を引き出せること
  これは必ずしも高段者が上手いとは言えないところもある。
   勿論プロの先生が中心で進められればいいのだけれど、先生の数に限度はあるし、身近で教えてくれるボランティア的な人の存在が必要でしょう。
  ですから、そういう面での底上げというか強化の為に「教える人のためのカリキュラム」とか「教える人の為の教科書」「リーダーのための研修」などが望まれます。
 「囲碁祭り」や「囲碁大会」も大事です・・・”現”囲碁ファンに楽しんでもらうために
 そしてこういうイベントが、新たなファン層を発掘する機会でありますように
  更にそういうファンをキチンと受け止める受け皿を作るために。
 プロ棋士だけでは手が足りないでしょうし、棋院は入門者を増やす意味でもアマの力を使おうとは考えないのでしょうか?
 棋院のカリキュラムで、「アマがアマを教えられるようになる講座」が出来たら面白いと思うのです。
 「アマが教えると悪い癖がつく」とか、「ザルが分け分からないことを言っている」と哂っていても仕方ないと思うのです。  

本屋さんで・・・立ち尽くす

2007-11-28 16:18:11 | Weblog
 今日は総合病院で2ヶ月ごとの定期健診。
  3週間前に24時間心電図モニターをやったのですが、この報告らしいものがドクターの机の上にあるのですが、このことに触れた話が無かったと言うことは・・・マアさして大きな問題は無かったということと受け止めたい。
  本当は先生が単にウッカリしていただけなんていうのは困る
   実際のところ、よくなることは無さそうで、これ以上悪くならないように見張っているだけなんでしょう
  ところで次回はまた2ヶ月先なんですが、、、
   どうやらドクターが減るらしい、、、循環器は半減!
  そこで、開業医と総合病院で検診と検査などの役割を分担して患者の振り分けをするらしい・・・私も検診は近所の開業医で行い、必要な検査・入院を要するものは総合病院・・・もっともな話しだし、合理的な気もするけれど、何だか暗い気持ちにはなる。

 帰り道に久しぶりに大型スーパーの本屋さんに寄りました。
  ここに寄ると、いつも軽い失望みたいなものを感じるのですが、今回もやはりソウでした。
  このスーパーは大きくて、近くの団地などからお買い物専用のシャトルバスが行き来する。
 地下1階の食品コーナーは朝9時から、夜10時までやっているから便利に使っていますが、その他の階はめったに行きません
 1階は、化粧品、カバン、靴など・・・
 2階は洋服類
   どちらも私は必要な時しか行かないので、ぶらつくことは無い
ただし、3階は本屋さんがあるからたまには寄るのです。
 
 しかし酷い!
  元々囲碁・将棋コーナーは小さい
   しかも麻雀とかその他室内ゲームだとかを合わせても小さい
  その狭い棚で、将棋より囲碁は本が少ない
 「おざなり」というか「おしるし程度」という表現がぴったり。
   これは、この書店での売れ行きを反映しているのでしょうね・・・
  だからこのコーナーにはあまり店員さんが手をかけていないような気がします、、、陳列が酷い。
  囲碁と将棋の区別も怪しい感じ、「ここの店員さんは囲碁・将棋をやる人はいないんだろうな」ふと、そんなことを感じた。
  碁キチの店員さんがいたとして
   その人が気持ちを込めて陳列したとして・・・どのくらいの変化があるかはわかりませんが
   おそらく、劇的な変化は無いとは思うのだけれど・・・でも何かが違うと思うのですよね
 仕事だから本を並べる、、、だから動きの良い棚は気を使うけれど、ソウでないところは。
キャンペーンの文庫本はパネル2枚分のスペースで、百冊以上も現物で飾っている
   囲碁の本はああいう風には並べてもらえないんですよね
  本の品揃えも
    何だかここの本は配本業者が届けてくるものをそのまま置いているだけ
   棚を貸しているだけみたいな・・・何にもメッセージを感じない
  「本好きの人が本屋を始めた」みたいな本屋さんでは無い
    そういう本屋さんは殆ど無いかも知れませんが・・・ともかく「従業員」という感じですね。
  仕事はそれなりにマジメでしょうし、客には親切です・・・しかし「本への愛情」みたいなものはどうだろう?
  
 雑誌・テキストコーナーでは通信講座などのテキストが溢れています
  そこに「囲碁ワールド」が平積みされていた。
   何だかぽつんと、場違いなところみたいな気が
  その奥の隅に「囲碁」(誠文堂)の12月号が1冊だけ目立たないところに並んでいる。
  さて、これは配本が少ないのだろうか?それとも売れ残っている最後の1冊なんだろうか?
  ともかく、囲碁の雑誌はここでも「日が当たっていない」印象

  ところで、(私は「NHK囲碁講座」の雑誌の愛好者ですが)今日久しぶりに手にとって見た「囲碁ワールド」についての感想。
  中身をざっと見ただけですが、、、そして裏表紙の価格
 棋院で発行しているもので、私は思うにこの雑誌は相当重要な役割があるのでは無いだろうかと考えています。
  自分では購読していないのに言うのも変ですが・・・しかし・・・ある程度棋力がついてきた碁キチは放っておいても碁をやりますが、問題は初段にはもう少し努力を要する辺りまでの級位者では無いでしょうか。
  この人たちに棋力アップだけでなく、囲碁の楽しさを伝える、楽しみ方を広める・・・そういう役割があるでしょう
  しかし900円近い価格は高い気がします
   中身を考えればこの値段でも苦しいと言われるかも知れませんが・・・・
  買う方としては”絶対値”も問題ですからね
   「NHK・・・」の方ならほぼワンコインです
 ところで発行者である棋院の担当者の方々
   本は一旦発行されれば機関紙であろうと本屋の店頭では商品です
  その「日本棋院」の名前が入った商品が店頭でどういう売り方、陳列をされているか御存知だろうか?
  いや無関心だとは思えませんが、でも私の寄った店での様子では、とても売れるような陳列とはいえないでしょう。

  これは、ここにこの本があることを知っている人は買っていくでしょうが、ここで初めて碁の本を手にとって「案外面白そう」とか「意外と簡単かも知れない」とアピールしていません。
 だから売り上げ数は尻すぼみ的になるだろうということが予感される陳列でし。 

嬉しい趙治勲さんの「上達法」の本

2007-11-27 17:34:22 | Weblog
 趙治勲先生に”さん”付けでは甚だ失礼かと思ったのですが、先日JFE囲碁大会でお顔を拝見(一方的に感じただけですが、アマチュア相手に楽しそうに指導碁を打っている姿を拝見したので、ついつい・・・”九段”と言うところでしょうが、それだとなんとなく距離を感じまして・・・同じ市民と言うことでお許しを)した事もあって、今は「発想をかえる とっておき上達法」と言う本を借りてきて読んでいます。
 この本は1996年発行ですから既に13年経っていますが、アマにとって上達は永遠の悲願であるのでテーマもまた永遠なる物でしょうね。
  私は趙先生の「達人シリーズ」は出版されると手に入れて何度も読み返しましたが、この本は初めてです。
 初心・初級者ではないので、正直言ってこの種の本を読むことがどれだけ役に立つのか解らないので、図書館の書架の前で少しはためらいました。
 しかし立ち読みで中を覗いて今回はこの本を借りることにした。
  と言うのはキーワードとして「発想をかえる」と「基本とは何か」です。
  (私は思うに)内容が易しく=解りやすく書いてあると、それだけで低いレベル向けの解説書と受け取られることは無いでしょうか?
  反対の意味では、高いレベルの人向けにはなにやら難しい内容?
   でも基本となるテーマは共通なことが多いのですから、解り難いより解り易い方が良いに決まっていると思うのです。
  そういう意味では趙先生の本は良いと思うのです。

 アマがレベルアップしてプロになる時には当然でしょうが、アマの中でもレベルアップするには発想を変えなくてはいけない時があるでしょう。
 私が思うには5級辺りから上級に進む時、級から段になる時、3段を越える時、
 更に5段クラスに進むとき・・・県の代表とか全国タイトルを争うレベルは私としては想像できませんのでこれは除外。(段級は普通の棋院のアマレベルで考えています)
 中でも段に上がる時と5段の時が大きなギャップがあるような気がする。
  このところを乗り越えるには「経験の集積」だけでなく「発想の転換」あるいは「視野の転換」が無いと越えられないと思います。
 ですから「万年○○」と言うのはこの堰を乗り越えられない鮎とでも言いましょうか・・・
 もう一つ大事だと思うのは「基本が大事」だと考えるのですが、ここでは「基本とはどういうことか」と言うことから触れているので、読んでいてモヤモヤしていたものがすっきりする感じがしました。
 「基本が大事」とはどんな本にも書いてあります。
  基本の定石とか死活、手筋など具体的に説明した本もあります。
 でも「基本」という考え方を説明していただいたのは初めてです
 
 この本から得たものは・・・直ぐに効能があるような薬みたいなものかどうかは知りませんが、当然自分のためであり、もしかしたら間接的に昼休碁で置き碁を打つ時にも多少は良い面がでるかも知れないと期待しています。

 ともかく本を読んで嬉しかったことがあります
 趙先生が、難解定石などを手馴れた感じで打つ人が、死活の基本とか手筋についてなおざりにしている人のことに触れています。
 基本の詰め碁に含まれることは「筋」、「急所」そして「読む」と言うこと
  最後に「碁の才能」という話で締めくくりです。
   アマとプロでは違うでしょうが、意味としてはわかるような気がしました。
 「正しい方法で努力すれば上達する」という・・・これは正しい筈です。
   自分については、努力すると言うエネルギーを維持できるかどうか?ジイサマだから。 
  
 

床屋で哀愁?

2007-11-26 19:01:17 | Weblog
 日曜日には”久しぶりに”床屋さんで散髪をしてもらいました。
 3ヶ月ぶりくらいだと思いますが・・・昔に比べたら物理的にヘアーカットの必要性が低下していることもありますが(常に頭に秋風が吹いていて)、主たる理由は、「床屋さんが嫌い」なのです。
 イヤ床屋さんには恨みは無いし、彼らには何の責任も無いのですが小さな頃から好きになれなかった。
 ですからこの年になっても放っておけば1シーズン1回で済ませてしまいます。
  マアそれでも若い頃と違って再生活動が鈍化しているので大きな差は無いだろうし、周囲の人に気にして頂ける年でも無いですね・。

 子供の頃に住んでいたのが市のはずれの町で海の直ぐそばでした。
  その町は東海道本線と海の間に位置していて、面積は広いのだけれど工場のほかは人の住む家は12,3軒で、お店など1間も無い。
 だから買いものも通学も踏み切りを通って行くのですが、床屋さんと急を要する怪我は別でした。
  家の横の川を渡ればもう隣の町(市から郡です)で、そこは製油工場で川に面して工場付属の診療所と床屋さんがあったのです・・・これが医療は地元への協力と言う意味でしょうか住民の面倒を見てくれたし、床屋さんは昼間の暇なときは近所の子供たちの散髪をしてくれました。(無料ではなかったですが)
  尤も本来が工場の社員用ですから気兼ねはありましたね・・・店を覗いて「いいですか?」と聞くところから始めますしね・・・
  それより何より「カミソリ」が大嫌いでした。
  顔にカミソリが当たるとなぜかくすぐったくて我慢できない
   これを堪えるのが大変なんです
  もし笑い出せば床屋さんに叱られますし、もしかしたら少しぐらいは怪我をするかも知れないし・・・床屋さんはくすぐられても我慢を要する時間。
 それでも母は「みっともない」「うっとうしい」から床屋へ行かせようとします
   これは子供ながらにも反発します。
 母の挙げる理由は外見と、他人から見たことで、私の都合では無いのです。
 それでも結局は床屋さんに行かざるを得なかった・・・因果関係は今でもハッキリしませんが、髪の毛が伸び放題になってくると軽い頭痛とか鼻血が出やすく・・・そういう傾向があったから仕方なく行ったのです。

 社会人というか、サラリーマンさんたちは本当にキチンと床屋に行きますね、感心します。
  私は流石にポニーテイルもどきに結べる程にはしませんが、毎月キチンと床屋さんで刈り上げるような几帳面さも無いですね。
  相変わらず床屋さんが嫌いなのですが・・・
   この年では顔にカミソリが当たってもくすぐったくなどありません。
  むしろ気持ちがいいくらい
 では何故いまだに床屋さんが嫌いなのか?
  床屋さんの料金がリーズナブルとは言い難い気がするし、私みたいな処理量でも同じ料金というのも理不尽だろうと言うのも理由の一つではありますが、最大の理由に気がついて納得してしまいました。
 床屋さんには大きな鏡がある!これがいけない
  鏡に最後まで正面から向かい合わざる得ない
 これがイヤなんですね(今回ははっきりそう思いました)
  鏡に映った何処かの叔父さん・・・あれが自分だなんて信じられないし耐えられない思い

 さて碁を打っていて対局を人に見られるのには慣れているというか、案外鈍感
  自分の碁を見ている人の後ろから、それを見るようなことが出来たら・・・想像だけで、できっこないのですが・・・きっと困惑を通り越して耐えられないかも知れませんね。
  よくTVでスポーツ観戦をするとき
<野球では>「ここに投げれば打たれるに決まっているのにアホかな」とか「全くコントロールが悪い、毎日何の練習をしているのか?」
<サッカーなら>「何でシュートが枠に行かないのか、それが不思議」
<バレーでも>「何で毎度同じミスをするんか、アホか」などなど言いながら見ているわけです。
 そして「見る」と「やる」では大違いなども解っているはず
   碁の観戦では、人の碁はよく見える、まさに傍目八目
  少々上手の碁でも細かなところまで見えることがあるような気がする
  ということは、慣れて鈍感になってはいるけれど、もし自分の碁を自分で観戦したら・・・床屋さんで鏡に映る何処かのオッサンを見るような・・・
 床屋の鏡はイヤだ!
  白雪姫の継母の魔法の鏡みたいに正直に写されてしまいます。
  
   

手間暇費用

2007-11-25 17:01:14 | Weblog
これは最近TVで報道のあった韓国のニュースです。
 出来事の粗筋は
「韓国での受験会場に向かうある受験校のバスに乗り合わせた受験生の中で、漏洩した問題が流れたという。そこで、そのバスに乗り合わせた受験生全員が不合格となり、次いで処分が広がり、その予備校からの受験生全員が不合格となった」
 どういう経緯で問題が漏洩したのか、そして何故発覚したのか、どの範囲で意図した人・利用しようとした人がいたのかは詳しく見ていないので知りませんが、自家用車で子供を受験会場に送っていったと言う親は、表現は悪いですが半狂乱で、門を叩いていました。
 この種の事件は何年か置きに起こるような気がします。
  携帯を利用したカンニング行為とか・・・
 尤も韓国だけの問題ではなく、受験制度が厳しい国では起こるようです
  つまり日本でも身代わり受験とか、組織立ってはいないけれど漏洩とか・・・
 大学受験では無いけれど、医師国家試験とか何かの国家検定
  これは資格を取れるかどうかは大きいですからよからぬ事を考える人もいないでも無いということでしょう。
 それらは、見返りがあるからこそ競争が厳しく、更にどんな手段を使ってでも競争相手より頭一つでも前に出ようという意識のヒートアップでしょう。
 一見お隣の国の出来事は極端な競争社会みたいに見えますが、日本だって中学生で学習塾とか予備校とかに縁の無い子供は殆どいないでしょうから、向こう岸の火事ともいえないでしょうね。

 私の姉の子の場合、一人っ子で商売をしている家で日本が景気の良い時代に育ったから、姉などは所謂教育ママだった
 教育環境とか、塾だとかお金を掛けられるものは掛けた・・・
  本人がそれほど勉強好きでは無いはずの姉(私の姉ですから)で、私と共通のDNAも受け継いでいるはずなんだけれど、ソコソコの教育的成果が上がったともいえる・・・本人の努力などは無視して言いますが。
 ですから私などから見ると「あれは投資効果」としか見えない。
  マア投資が無駄にならなかったのだからメッケものでしたが
 ところで、こういうこととほぼ反対の例も知っています。
  近所に住んでいた友人のお兄ちゃん
   この人の父親は漁師で「漁師のセガレに勉強は要らない」と広言してはばからないし、家では酒ばかり飲んでいる親父だったから、彼は親が家にいるときは自宅で勉強できなかった。
 それで勉強は学校の図書室を使い、家庭環境を見かねた塾の先生が場所を提供した。
 結果日本では一番難しいとされる大学に入学した・・・
  この場合教育投資と結果との因果関係は正比例ではなくなる。

 さて趣味の世界、スポーツの世界では見返りはプロ・セミプロにならないのなら現実的な見返りは無い。
  あるとすればその個々人の気持ちの中にあるかどうかということで
 だからこそ趣味にお金・時間・手間を掛けることを道楽と言うのでしょうね
 そして道楽にお金を掛ければ、ある程度までは「カリキュラム」などの効率的なトレーニングとか、用意できる環境とかに左右される面はあるでしょうね。
  但し超一流と言うか、碁ではプロになるとかアマでも県大会の代表を争うとかのレベルになろうと言う人は別の要素が必要でしょうが。
 碁の場合で言うと
 <お金を掛けるもの>
 囲碁教室会費・碁会所の席料などと交通費、あるいは仲間との交際費
 自宅でやるにしてもネット関連料金・パソコン購入費など
 大会参加費や指導碁の料金
 本・雑誌の購入費
   (道楽が嵩じて自分で碁会所を開くなどもありますが、そうなると桁が違ってくるでしょう)
  粗っぽい項目ですが、まあこういう出費があるでしょう。
  当然人によって割合は違うでしょうが・・・
 勿論こういうものにお金を掛けずに強くなる人もいるはずですし、費用を掛けずに楽しむことの上手な人もいるでしょう・・・その場合はおそらくそういう面ででの才能があるはず
 人並みと言うか私みたいな凡人にとっては、楽しみ+多少は棋力アップにある程度は「投資効果」が期待できなくては困るわけです。

 ただし、金さえ掛ければいいのかということではなくて、その投資を効率よく働かせるためには時間とか意識の集中といったものも大事。
 いずれにせよオーバーに言うと人生の中で多くの時間とエネルギーを割いて、且つソコソコにお金も使って来たはず。
 金額にすると(いやらしい話ですが)、私の収入にしては大分使っているでしょうね。
  相当大雑把な計算をすると
 例えば囲碁の本・雑誌 仮に少なめに月2000円としても30年で72万円
 指導碁は多分合計で30万円以上
 碁会所などの席料は30年で300万円は越えているはず・・・・
 ネット碁会の会費入会費・・・概ね5万円
 パソコンの主たる使用目的なので購入費とこれまでの接続料の半分くらい・・・20万円
  まあこの他にも交通費とか交際費とかかかるわけで(そっちの方が大きいかも?)
 家1軒分には程遠いでしょうが、高級乗用車は変えたでしょう
  もっとも超お金持ちなら碁盤1面でそのくらいになるかも知れけれど・・・
 でも「そのくらい手間暇・お金を掛けてその程度?」と言われると一言も無い
   
 開き直った言い方をすれば、その程度の出費で、時間を割いて、意識を囲碁に傾ければソノくらいにはなれるという見本ではあるかも。
  「ソレでソノ程度では益々魅力が薄れる?」・・・うーんシマッタ!。

  

半目勝負ではあったけれど

2007-11-24 16:52:00 | Weblog
 前の晩珍しく早く眠ってしまったので、その分早く目が醒めました。
 夕べ11時には寝ているはずですから朝4時なら5,6時間は睡眠をとっているから、私みたいな老人としては充分に近い睡眠時間だし、連休の真ん中でさして疲れてもいないし、翌日にこれといった予定も無いのだから気楽・・・昔なら朝刊を取りに行くところですが季節柄寒いし生来の怠け者なので、ベッドから手を伸ばしてパソコンのボタンです。
 さて、いつものネットに入ると・・・流石に対局中は少ないのですが、対局待ちの人がいました!
  この時間に待ってくれていた人がいる。
 マア私を待っていたということでは無いでしょうが、嬉しいことです。
  この時間にここにいると言う事は、彼も私と同じような世代という気がします。
 彼とは(仮にOさんとして置きます)過去かなり打っている筈です。
 私の一番多く打っているMさんの次ぐらいに多いはずで、過去3年くらいで多分30局は打っていると思う(月に1局くらい)。
 こういう対局数は碁会所などではそれほど珍しく無いとは思うけれど、ネットでは意外と特定の人とたくさん打つことはそうは無いのではないだろうか?
 それだけに相手の得意パターンというか、やってきそうなことをなんとなく感じると言うことはある(当然観戦でも拝見しているし)
  Oさんの場合は最近勢力を重視した序盤の打ち方のように感じている
 例えば相手の星に小ケイマでかかり、上ツケにハネると切り違えて、切った石を捨石にして隅も確保しながら背中に壁を作ってくる・・・解っていても厄介な戦法です。
 私が地取り路線なのでその対策でもあるのでしょうね。
  さて今日はどんな立ち上がりになるのかと楽しみでした。
 手合いはその都度の点数差なのですが、概ね互い先のはずがこの時はOさんの先でコミ黒から半目!
 これは白としてはヤヤ厳しいかも(もっと下さい!)。

 序盤はOさんの趣向と言うか、いつもはやらない布石だったようです。
  イヤ特に珍しいわけでは無いのですがOさんとしてはめずらしい・・・
 黒は星と小目の組み合わせですから、中国流かと思っていると5手目は白の星にかかってきた(これは小林流では無いかかり)。
 Oさんの気分で、いつもと変えてきたのかも知れない。
  さて布石の嗜好とは別に(本当は関連があるのでしょうが)「得意な流れ」みたいなものがあるでしょう?
 私の場合は「得意」といったら言い過ぎでしょうが、「自分らしい」と言うか「気持ちよく打てる」と言うか・・・そう感じる流れがある。
  1局の碁がストーリーとしたら、その物語展開と言うか
 早い時期に相手がミスとかしてくれて、最初から最後まで押し捲ってしまうことが出来ればそれは言う事は無いけれど、それは初めに相手のミスが無くては出来ないことですし、これを得意パターンとは言えませんね。
 私は地が好きですから、ともかく稼いで・且つ相手の模様の中で仕事をするのが好き。
 ですから攻められるのはいつものことで、逆に攻められながら仕事をするのが好き
  つまり攻められながら、相手の弱点を狙うとか・・・攻めている方が戦線が延びきるとか。
 攻められながらギリギリで凌ぐことに快感!?
  悪趣味かも知れませんが、でもかなりの爽快感はあるのです。
 
 ところでこのOさんとの対局もそういう展開に近かった
  但しこの碁はOさんも結構地を稼いでいて3隅を地にしている・・・これは私の得意技?封じかも。
  しかも私の大石を攻めて、私はコウで辛くも凌いだけれど代償に白石2子とダメで合計9目相当の損をした。
 直後にOさんの勘違いか、後手とはいえ6目分取り返したので形勢不明と思われる。
 最後に思わぬところに1目出来て・・・白半目勝ち
  何だか申し訳ないような勝ち方です。
 ですから急いで退室し、いつものように棋譜倉庫から棋譜を取り出して・・・並べると、確かに黒には白に1目作らせない手はある、しかし黒もこの間に半コウをつないでいるから見合いみたいなものだと言うこともわかりました。
  半目のコウと言うのは計算上のことで、この時期になるとやはり1目の価値でしょう
   結果としてははどちらに転んでも半目だったようです。
 半目勝負ではあったけれど、細部にまで注意が行き届いてキメの細かな碁とは言えないところが素人の哀しさ。
  相変わらずの結果オーライみたいな「結果半目」です
 さて自主研究?が終わって対局室一覧表を出すと,Oさんと私の対局室に”灯りがついている”。
 Oさんは先に退室しているし・・・観戦者が二人居残っているようです。
  マア、この碁を並べ直しているのではないでしょうね、きっと。
    朝5時ですからね 
 

「ごめんなさい」観戦記

2007-11-23 15:44:26 | Weblog
 ネットでの対局が終わって、自分の棋譜倉庫から棋譜を取り出して再現・反省をするのが一応私の手順です。
 さて誰かにもう一局お願いしようかとか、誰か面白そうな碁は無いかしらと対局室一覧表を当たった時に、私がさっき打っていた部屋がまだクローズされないで残っていることがよくあります。
 これは対局相手の人が部屋に居残って検討をしているか・・・(実際はこれは少なそう)・・・観戦していた人が一人でも残っている場合のどちらか
 これが自慢できるような快勝譜ならまだ良いのですが、何とも情けない負け方をした譜であると、『早く閉じてくれ!』と手を合わせたくなるくらい恥ずかしい。
 それでも見るのは人それぞれの自由なわけで、恥ずかしくない碁を打てばいいのはわかっている・・・でも
 見るに耐えられるような碁だろうかと、いつも身が細る思い(嘘!要ダイエットですから)
 但し、本当に検討とまで言わなくても、並べ直しているのだろうかと疑問に思うのです・・・なぜなら自分を物差しにすると大いにありそうな・・・

 <また迷惑をかけてしまったようです>
 夜の10時ごろ、湯上りのホカホカ気分でベッドに潜り込む・・・これは眠るためではなくて、もし万が一眠ってしまっても布団の中と言う安全策みたいなもの
 次にパソコンの電源を入れて、ネットに接続
 一方で枕元に積んである本から読みかけの本を選んでその辺に転がっている眼鏡をかけます。
(この眼鏡をかけるという行動も私のいい加減さが出ている。少しずつ度が違ったり乱視が入っているものなど3つあるので、そん中の一番手近なもの・・・)
 目が疲れている時とか、細かなものを見るためなどの使い分けの為にあるのですが、実際は一番手の届くところにあるものを使う
 ともかくホカホカヌクヌクベッドの背もたれに寄りかかって本を読みながらの観戦ですから・・・これだけでも不謹慎
 でも本人には至福の一時なんです。
 観戦は序盤戦が特に好きですね
  人それぞれの個性が出るみたいです
 自分とは違うものを感じて、勉強させてもらえるような気がするのは特に序盤だと思っています。
  尤も、観戦に入ったところが中盤ですと、状況を把握するのが大変なことが多い
  戦いの焦点が見えなかったり、酷い時には石の生死や接続・切断が見えなかったり・・・
 さて失礼な事を言うと面白い碁だと良いのですが、あまりにワンサイドですと興味が薄れていく・・・イヤそこからどう挽回を図るのかを探るみたいな見方もあるでしょうが。
 それでも状況がソウですと反って退室しにくい場合もある
  観戦をそっちのけで目は本の方が中心になったりしていく場合もある
   そして何時しか老人性転寝症候群と言いましょうか・・・転寝が本格的睡眠となって、気がつくとパソコンの画面が暗転
  フィンガーパッドをこすると[黒、○目半勝ち]などとなっている。
 これが深夜2時!・・・と言うことは終局してから2時間は経っている
   自分で嫌だと思うことを自分でやっている
  こういうのはお互い様とは言わないでしょうね

 深夜2時に目が醒めて、直ぐに寝直せばいいものを!
  懲りもせずまた対局覗き・・・今度はかなり強豪同士の一戦
 「流石に高段者、勉強になる」と観戦していたはずですが・・・気がつくと朝の6時!
 歴史は繰り返すイヤ、ジイサマは繰り返す!
  「観戦してもいいけれど、眠るなよ!」と叱られるか、あるいは
 「どうせ眠くなる碁で小よ」と嫌味の一つも言われそう。

 さてこれを避けるのには観戦をやめるしか無い!? それは困った。

族譜・家系図

2007-11-22 18:30:18 | Weblog
 お隣の国の韓国についての報道番組で「族譜」と言うものを見たことがある。
 電話帳みたいな厚い綴りにビッシリと一族の名前が記されている
  途中で誰かがサボったら続いていないし、火事などの災害や戦乱などに巻き込まれたら復元は不可能だと思われますから非常時の持ち出し最優先でしょうね。
 何があっても守り抜く、何か事あれば真っ先に抱えて逃げる・・・などと言うことを代々続けてきた結果でしょうね。
 「○州の○氏」のように譜に書き込まれた人の割合はどのくらいなんだろうか?
 当然族譜を持たない人、族譜に属さない人もいるだろうし
 
 そこに自分の名前が書かれていることでどういう恩恵があるのだろうか、一族、或いは本家に何がしかの義務も生じるでしょうし
 共通の先祖を祀るというこが第一義でしょうが、そういうものが連綿と続いていると言うことに驚きを感じるし羨ましくもある・・・一方で何か拘束というかわずらわしさは無いのだろうか?
 ともかく、一族の者同士が何かにつけ助け合うと言うことはありそうですね。
 「周りの人を助けるのが人間としての道」以上に「一族なんだから当然」という理由付けも生じるでしょう。
 そういう意味で族譜に名前が書かれていると言うことが一族の証として大事なことなのかも

 さて自分については?
 私は祖父の代のことまでしか知らない・・・それも祖父の兄弟のことは全く話を聞いたことも無い。
 お隣の国から見たら薄情な国民かも、いや冷たい一族と言うことかも
 明治の中ごろ、祖父の代には系図なるものが伝わっていたらしい・・・
  その頃、町で何かのミニ博覧会見たいな催しがあって、その際に出展を頼まれて出したところ、何かのドサクサで戻ってこなかった、と言う話が伝わっている。
 「無い」事のアリバイ証明みたいな説明です
 ただし祖父は責任を感じて記憶に頼ったかメモなどがあったのか、新たに系図をを書いたと言います。
 よく時代劇などに出てくる「巻物」スタイルらしい。
  ただし私は系図の複製の実物は見ていません。
 その話の元は祖父の家の本家の従兄弟・一人息子の跡取りで現当主だから、先代辺りの叔父から聞いたのかも知れない。
 ただし家系図の内容については、???で?がもっと一杯並ぶでしょう。
  ?の数が問題ではなくて、、、もっともらしく作ってあるのが問題
 しかも代々伝わったものが失われて、先々代が自分で作ったと言うのだから
 
 家系図については江戸時代に大きなブームがあったらしい
  戦国の実力主義の時代から安定期に入って「家系」みたいなものが幅を利かせてきたと言うので、もっともらしく家系を創作するのが横行したとか
 家の場合だってそういう時代を通過しているのだから・・・
  苗字帯刀と言ったって、郷士の家だから実質的な家系図の御利益は無かったと思うのですが・・・
 周辺のいくつかの神社の神事を担当していた神主の家だったので、そういうところに見栄みたいな物があったとは思われます。
 家系図の始まりは清和天皇!・・・子供が50人とか,60人とかいう人ですから、その先がどうなっているかは誰も判らない・・・判らないから自由裁量?
  まあ出だしは”箔ツケ”みたいな物でしょう
 ”オリジナル?”的な御先祖様は500年前に、私の故郷の地にやってきたらしい・・・ここのところが不思議ですね
 どういう文献なのか、或いは一子相伝の話なのか
  まあ大いに眉毛が唾で濡れる話なんですが、そういうことになっているらしい。
 
 従兄弟が当主なのですが、数年前に一族の「500年祭」をやろうと言い出した。
  何かの時代錯誤的な発想なのか、或いはこういう御時世なんだからせめて一族と呼べるもので助け合って行こうと言うことなのか?
 こういう事は韓国の族譜に繋がるような発想でしょうか
  でも家系という点では巻物の記載事実が万が一事実であったとしても、一族の本流中心でしょうから族譜とは全く意味が違いますね
 こちらではせいぜい3代前程度の親戚しかわからないでしょう。

 でも今私がここにいると言う事は当然御先祖様がいるわけで、誰しも皆同じ
  家の系図を誇ること自体奇妙なことだし、そういう時代でも無い
   生物学的に言うと、女性の細胞の中に母系で伝わっていくものがあるそうで、それによると人類の母系の源は4人となるとか
 地球上に60億人いようが元の御先祖で言うと4系統しかないのだから最低4人に一人は親戚みたいなもの・・・

 ともあれ私は500年祭パスしました
  どういうことをやろうとしているのかは興味が無いわけではないけれど、私の父が先々代の次男で私はそのまた次男。
 どう考えたって脇役と言うか、傍流なわけです。
 もし主役になりたければ、いまから500年後自分の子孫に祀られることを狙うしかない・・・
 
 こんな荒唐無稽なことを言っている場合では無い!
 500年先の心配より目先の1勝の方が大事な関心事です
  せっかく好調維持していたのに、今日は連敗
   連敗までは許容範囲ですが3連敗となると黄色点滅から赤ランプに変わりそうだから次ぎの一戦が一つの正念場ですね。
 気持ちを引き締めて打つとして、さてさて相手のあることだし
 あちらにはあちらの事情があるかも知れないから、とかくままなら無い。
  

タダについての話

2007-11-21 17:26:09 | Weblog
 先日買い物に出かけていた女房殿が大喜びして帰ってきた。
  例えは余りよくないが、道で100万円くらい拾ったくらいの勢いです。
 実際は全くたいしたことでは無いと私は思うのですが・・・人によって違うのでしょうね。
 女房連と言うか、女性特有なものがあるかも
   これは近所のTガスの代理店での定期的な催しで、抽選で1等が当たったということなんですが・・・1等といっても「車」とか「ハワイ旅行」みたいな豪華景品ではない(法律の規制もあるでしょうが)。
 1等は季節柄「新潟コシヒカリ5Kg」!
  家ではこの代理店の手をいろいろ煩わせています
 瞬間湯沸かし器の交換を初め、洗面所のリフォーム、風呂ユニットの交換・・・それを考えたら・・・1%の値引きの方が嬉しいのだけれど
  女房殿の喜びようはそうでは無いのですね。
   彼女が当てなかったら誰かのところへ行っただろうし、初めての1等だといって興奮状態、果ては外国にいる息子から電話があったら真っ先に報告・・・
 確かに今は老夫婦の生活だから5Kgのお米は長持ちします。

 私は実はこういう抽選会みたいな客寄せ商法は大嫌いなのです。
 商品は品質・サービス・メンテナンス・価格などのバランスで考えればいいと思っている。
 だからこのような催し自体に生理的に胡散臭さを感じてしまうのです。
 そう、最近あった「減らない電子マネー」みたいな・・・
 私は景品のサービスではなくて、初めから値引きのストレートで無いと嫌なのです。
 だって、業者がサービスとして何かをくれる為の元は、私たち消費者が払った代金から出ているのは間違いないのだから、素直に喜ぶのはシャクな気がします。
  それとか、新聞の勧誘も大嫌い
 片手に洗剤などチラツカセながらの勧誘にはムカムカしてしまうのです。
 「どうだ、欲しいか」って言われているみたいで気分が悪い。
 こういうセールスをする人に何を言っても通じないでしょうから、単に断るだけですが、腹の中では「何かを欲しくてその新聞を読んでいるでは無いぞ!」と叫んでいるわけです。
 むしろこういうセールスをする新聞は絶対に取らない・・・新聞の使命とか社会正義とかと新聞の売り方は関係ないといえば関係ないのでしょうが、そう感嘆には割り切れない。
 たぶんに「高楊枝」ですが、これは自分らしさを失わないため?には仕方が無い「高楊枝」・・・けっこう肩肘張って生きています。

 景品ではないのですが囲碁についての”ただ”の話で、日頃思っていることです
  少し偏見気味ではありますが
 初めに「コミュニティの碁」について
  これは場所が公共施設で、道具が有志の寄贈ですから席料は無料ですが、それが当然と言い切っていいのかヤヤためらいはあるのです。
  照明や空調にかかわる電気料はかかっているし、畳などの消耗とか清掃などの経費もある・・・それらは税金から出ている筈です
 ですから年に数日しか休みが無い碁席が無料で利用できる・・・時間は午後1時くらいから7時までですからヤヤ短いかも知れませんが、ともかくただ
  ですから常連にとって財布の負担はせいぜいロビーで100円のコーヒーなど飲むくらいなものです
  費用負担からみたら碁会所とは比較になりません・・・碁会所なら月会費で1万円はするでしょうから
 それではほぼタダみたいに楽しめるコミュニティが良いのか、これが微妙
  多少言いにくいことをはっきり言うと(わたしが感じているだけなのかもしれなせんが)
 若い方でこれからドンドン棋力を伸ばしたいと言う人にはコミュニティは向いていないのでは無いかと考えるのです・・・私の知っているコミュだけかもしれませんが・・・
  碁を打つのに「棋力向上」第一義に考える道場的なところ、あるいはプロの主宰する教室など、碁会所・囲碁クラブ・日本棋院支部、コミュニティなどまでいろんな色合いがあります。
 よく楽しく打ちながら棋力向上と言いますが微妙に意味が違うのでは無いでしょうか?
 楽しく打つのは問題ないのですが、楽しいの中身で「棋力向上」部分を意識している楽しさと、打つこと中心の楽しさ・・・これはやはり場所によって違いそう
  そして有料と無料とも多少は関係がありそうな気がする
 料金が高いほど○○というみたいな正比例では無いとは思いますが
  タダというありがたさには、その裏側に軽く扱うと言うか、無駄に使っているのに気がつかない面があるような気はする。

 少し違った面から見ると・・・例えばゴルフなどで初心者が初めからレッスンプロに教わるのと、初めから仲間とコースに出てしまうのでは相当違うでしょう
 囲碁の場合必ずしもプロに教わることは少ないでしょうが、きっかけはともかくなるべく早い時期にきちんとした碁を教わることは大事でしょう
 そのために、多少は出費を伴うかもしれない・・・
  例えば囲碁の本・雑誌を購入するのにも費用は掛かります。
  レッスンとか、○○会みたいな碁会に参加するのもタダではありません。
 碁会所は当然有料だし、ネットも有料、無料様々
  尤もネットの場合はネットそのものが無料では無いのですが、それでもかなり強豪が集まる無料ネットもありますが・・・
 いやお金をかければいいということでは無く、手間・暇をかけるというか・・・「楽しむためのスタンス」というか
  気の合う友人と打てればそれだけで楽しいと言う人に”棋力向上”などと言っても煙たがられるだけでしょう。
 イヤ、強くなりたくない人はいないから真っ向からの反対は無いでしょうが、「何を一人で力んでいるのだ?」という存在にはなるでしょう。
 
 最近当地では碁会所のお客が伸びないというか減る傾向にあるようです。
  ですから経営的に無理が出て碁会所が減る傾向にある
   ところがコミュニティや高齢者用の公共クラブなどの娯楽室は賑やかになっている
 つまり単順に言うと有料の碁会所は客が減り、一方で無料施設はにぎわっている
  無料施設についてはありがたいと思う一方、本当にこれでいいのか疑問に感じることもあるのです。
 殆どが公共施設の場所提供ですから行政の施策が町の碁会所を圧迫しているのも事実ですし、タダで遊べる場所が出来たことで喜んでいる人も多いのは事実。
 
 碁会所これは多少形が違っていて様々あります。
  一流ホテルを借りていて女流プロやインストラクターが揃っているところなど、料金も超一流らしいのですがそれなりに流行っているらしい。
 一方で地方で囲碁好きのオジサンが開いている町の碁会所は苦戦しているでしょうね。
 尤も、自宅の離れなどを使って趣味でやっているのなら経営の問題は少ないでしょうが。
 私の知っているところは首都圏で、ビルの1部屋を借りて家賃を支払っている碁会所・・・そこは日本棋院の支部でもある。
 こういう碁会所はお客の数は生命線でもある。
  マア碁会所が客で溢れて、席亭は左団扇ナンテ時代はあったかどうか知りませんが、最近はごたぶんに漏れず客数では苦戦しているようです。
 私の師匠のK畑さんなどは主な原因を「ネット」の存在だろうと思っているようなのですが・・・私はそれは2番目くらいの原因だと思っている。
 一番はなんといっても当地の行政でのサービスだろうと思う
  それでこのこと自体良い事であろうから碁会所としては抗議は出来ないでしょうね
  ネットについては無料のクラブがあったりしますが、ネットに接続すること自体は有料ですね・・・マア料金が違いますし、囲碁以外の利用法が幅広いから無料に近いレベルかも知れません。
 尤も囲碁の普及とか初級者も参加しやすいなどの利点もあるはずなので一概には功罪は言えないとは思うのですが・・・これを書いてる私自身がネットで打っているので出不精を決め込んでいられるのだから、やはり碁会所の苦戦にはネットも絡んでいるのでしょう。
 
 ”タダ”の話がまとまりのないことになってしまいました(いつものことですが)
 このことを別の角度から・・・イヤそれほど大げさの話では無いのですが・・・「趣味に<囲碁に>どれくらい時間とお金をかけられるのか」と言う風に見ると面白いと思っています。
 このことは、趣味に対する気持ちの問題も絡んでくるでしょう。
  ではその話は別の機会に 

突然の寒さ!

2007-11-20 02:04:54 | Weblog
 今日の寒さはなんと言うことだろう
  こう言う寒さは二重にダメージが来ます。
 一つは「何でこんなに寒い!」と言ううらみ節的な気分
 気温だけで考えたら、今年の一番寒い時よりは寒くないはずなんですが、もう
その寒さ綺麗さっぱり忘れています。
 喉元を過ぎれば暑さも寒さも忘れるタイプ
 「暖冬とか温暖化なんてホンマかいな?」などと文句を言います
 もう一つは、急な寒さでしょう
 徐々に寒くなるのなら体も少しずつ慣らされていくのですが、一気に気温が下がるのにはついていけない。
 誰しもそういうところはあるのでしょうが、私は極端に弱いらしい
 徐々にと言う緩やかな変化には強いのですが・・・つまり馴化というよりも鈍化らしい。
 
 「布団の中に入れる電気マットは何処にしまってある?」と慌てるわたしに
 「全く暖かなところの生まれは寒さに弱いんだから・・・もっとも人間が弱いのだろうけれど・・・」と、我が女房殿は冷たいものです。
 いえ、私は逆らったりしません!。
 家の中での力関係はともかく、言われているのがマア事実らしいのですからね

  昔の方が寒かった筈です。
 私の子供時代・・・18才まで住んでいた地方では積雪は1回だけでした(それも2cm)。
 それでも一番寒い時期は道端には大きな霜柱が出ていたり、水溜りが凍っていたりしたものですが、今住んでいるところ・時代も場所も違うけれど、真冬でもそういう景色は見られないようです。
 私の育った家では、居間に畳半分を切った掘り炬燵1つが唯一の暖房でした。
  生活レベル?、あるいは家族の好みなどありますが・・・マアそういうことでも冬を越せたと言う事でしょう。
 兄や姉が受験勉強で寒いだろうと母の用意したのは「湯たんぽ」と「白金カイロ」だったのですから・・・その程度の暖房で育ったのだからもう少し耐寒性が身に付いても良さそうなのに、この年になっても毎年寒さに泣いています。
  ストーブにあたった思いでもあることはある
 1年保育で保育園に行くようになる前は、父の勤めている会社の休憩室に”出入り御免”みたいに通っていた時期があります。
 工場付属の社宅暮らしで工場の隣に社宅があったし、父がその工場の工場長だったりで、「オヤジのところのセガレ」みたいな感じだったでしょう。
 ここはダルマストーブが部屋の真ん中に置いてあって、真冬でも下着1枚でいられるような場所でした。
 朝の10時頃、お昼頃、3時休み・・・最低日に3回は通っていた筈です。
 ここで繰りひろげられる縁台将棋みたいな素人将棋を見て育った。
  将棋とストーブは(私の記憶の中では)切っても切れない関係ですね。
 小学校入学前の1年は保育所に通いましたが、ここもストーブはありました。
 大きな部屋の真ん中に金網でこしらえた仕切りの中にストーブが置いてありました・・・ただしこれにあたって暖を取った記憶は無い・・・
 走り回って寒くなかったのかも知れない。

 ストーブはここまでです。
 小・中・高と私の地方では教室には暖房は一切無し
 職員室はホカホカでしたから、大きな矛盾だと思うんですが、当時の感覚では「子供は寒さで鍛える」でしょうか?・・・今にして思えば”都合の好い”とんでも無い思い違いだと思うのだけれど。
  ともかく12年も暖房の無い学校生活を経験して「寒さに耐えられるように鍛えれた」筈なんですが、実際は全くダメ。
  寒さには弱い・・・さりとて暖房で空気が汚れるのにも弱い
   真冬でも畳の上では素足で無いと気持ちが悪い・・・
 石油臭いのとか、換気の悪い暖かさとかに弱い
 逆に冬の寒さには弱いのだけれど、窓をホンの少し開けておいていつでも綺麗な空気を吸いたい・・・あるいは寝ていても顔の周りを新鮮な空気が通り過ぎるのを感じていたいと言う矛盾?

 寒がりなくせに、暖かければ良いと言う分けでもない贅沢?
 ですからこの季節から・・・これからの冬のネット碁は
  体は温かに布団に包まって(この布団の中には電気マットなどが入っています)、ただし上半身(顔と手は)出ている・・・座りダルマ?
 ネットでなくてはこんな格好では出来ませんね。
  傍らにはポットにコーヒーなど淹れておいて・・・但し飲みすぎは厳禁・・・夜中にトイレにたつのは寒いし面倒くさい。
 寒さに弱いだけでなく、寒くなると冬眠したくなるモノグサでもある分けです。

勘違いかも知れない「投了」

2007-11-19 17:28:54 | Weblog
 先日の夕方にネットで対局しました。
  相手は九州方面の人で過去に何度か打ったことがある
 記憶では互い先くらいか向こう先の手合いですがこの時は私の先番
 最近調子が良い?・・・いや腕を上げたのかも知れないので要注意
  特に打ちにくいような相手と言うことは無いと思いますが、しかし現実に相手の方が上手になっているのだから、きっと進歩みたいなことがある筈ですから、そこのところが注意点ですが、具体的な棋譜・序盤の好みの形などの記憶は無いから・・・マア名前からは打った事があると言う記憶はあっても出たとこ勝負みたいなものです。

 さて私の2連星に対して白は両小目。
  何か記憶と違うような気がします。
   この立ち上がりだからどうだということではありませんが、彼の立ち上がりの形が変わって来ているのかも知れません。
 いや、たまたまこの対局だけ変えてきたのかも知れませんが
  ともかく碁は大きな石の死活、模様の張り合い、地模様の消し合い・・・
 こういう進行は好きですね。
  K畑師匠に何局も一番手直りで打った貰っている碁の殆どがこのような捻り合いの碁・・・得意の進行と言うよりこれしか出来ないみたいな情け無さはある。
 
 ともかく白を取りに行った黒に白もコウ絡みでシノギ、あるいは逆に黒を取ってしまうという争いで、そのコウ立てに別のお互いの大石の生き死に絡みのコウ立てが交わされる・・・
 まだダメも多いし、コウに勝った時、あるいは相手のコウ立てに手抜きでコウを解消したときの計算が難しい。
 実戦では私がコウを解消した時に白は黒の辺の石に攻め掛かり、ここに手が無くて黒の生きを確認して白は投了となりました。
 ホッとした一瞬ですが、でも、私の第一感は「唐突の投了」でした。
 確かにコウ絡みで白の大石は取れて、且つ自分の石の一団は1手手抜きで生きを確認した・・・しかし「勝負はこれから」だと思っていた矢先のこと。
 
 相手は投了し、定型の挨拶を交わしネット対局室から去って行きました。
 対局の観戦者は二人
 私としては自分なりに「盤上で知りうる投了の真相?」を考えたいのですが、この内容では何時までも対局室に留まるのはなんとなく気が引ける・・・一旦対局室を退散して、自分の棋譜倉庫から今終わったばかりの棋譜を取り出しました。
 ここなら”秘密?”の研究会みたいです
 そこで、棋譜を取り出し場面を投了のところに一気に進めました。
  その場面で、白が投了せずに打ち続けた場合の地合いを確かめます。
   これが意外と難しく、寄せの手順を変える度に結果が変わる。
 黒1目半勝ちから白5目半勝ちまで・・・
   この寄せ勝負だけで何回も繰り返したのですが、決定的な結論らしきものが見つかりません。
 次に勝負どころのコウ争いのコウ立ての場面でのシュミレーション
  これもどうも白からコウ立てが幾つもあるのに対して、黒からのコウ立てが足りなかったようなのが確認できたから、途中で解消したのは已むを得ないことがわかりました。
 となると、あの時点で白は投了せずに打ち続けていたら、どうやら負けていたのは私の方だったようです。
 では何故白は投了したのだろうか?
 もしかしたら、私が気がつかない決定的な手があって、白氏には見えていたのだろうか?・・・それなら理解できる。
 それから暫くの間盤面とにらめっこ状態でしたが、どうにもわからない。
  それに、もしそういう理由ならば、私ならばこれ程潔く無いからもう数手打ってみて、相手が決め手を認識しているのを確認してから投了するでしょう。
  推測ですが、「一見大きな石を取られ、黒に危ない石を凌がれたので気落ちしたのだろうか?」・・・どうもそんな気がする。
 (急用が出来たかもしれませんが)
 「運が良かった」と喜ぶ気にもなれないし、さりとて酷い碁を打ったと言う気もしない不思議な対局でした。
 さて白氏は今頃「しまった!早まった」と思っているだろうか? 
 

都合の良いDNA

2007-11-18 16:32:56 | Weblog
 ”行き着く処に青山在り”・・・それほど大げさなものでもありません。
 生まれ育ったところが嫌いで飛び出したわけでもありません・・・その時代というか、次男で五番目の子供と言う自然な流れに乗って漂ったと言うことでしょう。
 それに回帰本能と言うか帰巣本能とかが希薄な様で、糸の切れた凧・ガス入り風船というか・・・今はまがりなりにも自分の家というか、自分のゲージみたいなところに住んでいますが、それほど住むところに拘りがあるわけでも無く。
 私は暑がりで且つ寒さには極端に弱いので、程ほどのところに住めればイイナという程度で性格もぬるま湯人間です。
 将来の夢みたいな目標としての夢ではなくて、単にそうなればいいなと言う夢物語で例えば<伊豆の西海岸辺りに住んで、海が前にあって後ろに山があって暖かな土地で(地震と津波は心配ですが、それを考えても仕方が無い)美味しい海の幸と山の幸があれば・・・囲碁はネットで打てることが条件ですが、小さな小屋があって3面ほど碁盤を置いて、通りがかりの人が世間話のついで打ちに来たり、あるいはたまには知人が遊びに寄ってくれる・・・他には欲しいものはない。
  これだけでも相当虫の良い夢物語なんですが、別段実現に向けて何の努力もしていないから、責任もない話。
 打ち出の小槌があればきっとこのお願いをするはずです。
 本気になってやろうと思えば出来そうな気もしますが・・・カミサンの御意見は聞いたことはない・・・怖くて。
 
 先日朝TVをつけたらBSで西伊豆の戸田(ヘタ)漁港が映っていました。
 若い漁師さんが二人・・・大学で海洋学の実習で来たことがある人が、卒業後ここにやってきて漁師になって半年近い人、先月漁師になるために会社勤めをやめてやって来たその友人の二人が、船持ちの漁師さんと3人で漁をしている。
  駿河湾の中ですから比較的穏やかですし、富士山も綺麗に見える場所、水深が2500メートルもあるところで、タカアシガニなどをとっています。
 こういう話を見ながら頭の中は思い出が浮かんできます

 この辺りには高校2年になる直前の春休みに友人と二人でヒッチハイクで来たことがあります。
 伊豆半島の西側の海岸線を南下して、先端の下田辺りでターンして中伊豆、天城越えで三島までの旅行で、野宿あり廃校の校舎に泊めてもらったり、農家に泊めてもらったりユースホステルだったりの4泊5日でした。
 さてその初日がこの辺り
 沼津から三津(ミト)浜経由でやってきてこの戸田の外れの浜に上げられた廃船の中で一夜を明かした。
 テントも持っていたけれど屋根もあるし壁もあるし寝袋にもぐり込めばいい・・・灯りがないから真っ暗で、漁船としての機能も失われているから船倉には何も無くガランとした部屋、波の音だけが聞こえると言う不思議な空間でした。
 もっとも疲れていたので波の子守唄で朝までぐっすり眠ってしまいましたから、案外神経は図太い面もあるかも(鈍いとも言えるかな)。
  暖かな春の陽気と穏やかな海が記憶に残っているのです。
 西伊豆の海岸線は・・・今は多少変わっているでしょうか・・・隣の入り江の町に真っ直ぐ行く道は無いのです。
  海越しに直ぐ近くに見えているのに・・・です
 一旦後ろの山に上がって道を辿って、そして山を下って次ぎの町に下りるのです
 今はきっと隋道とか出来て便利になっていそうな気がしますが、当時は戸田から土肥に行くのにもヒッチハイカーは苦労したものです。

 戸田・土肥は死んだ親父に関連する思い出もある。(実際にはどう関係があるのか全く具体的ではないのだけれど)
 オヤジは時々休みの日曜日に船で駿河湾を横切って西伊豆に遊びに行くのです。
 伊豆方面行きの定期便です
 数便しかないのですが、朝の1便で行って夕方に帰る最終で戻って来る。 
 誰も誘わないで一人で行くし、何処で何をしていたのか話さない(考えてみたら相当怪しい行動でもある?)ので具体的なことはわからない・・・考えたら何をしていたのか質問したこともなかったのですが
 ともかく天気が好い日に行くのですから、景色はよかったでしょう。
  和歌でも読む人なら「田子の浦ゆ・・・」ですが、それは無い
 仮に「隠し○○」みたいな話ならば多少は納得がいくのだけれど、そんな器用な人では無いし、第一5人の子持ちのサラリーマンでは財布の中身が知れているから無理な話でしょう。
 やはり「魚を食べながら一杯やる」程度でしょうね
 お酒が好きな人で、名の通った一級特級より気に入った地酒を飲むタイプ
  きっと戸田・土肥辺りにそういう割烹みたいな茶店みたいな気に入った場所があったのでしょう

 酒・伊豆・旅と言う三題話ならば祖父も・・・連想は続く
 祖父が存命だった頃、伊豆七島の何処かの島に毎年通っていたと言います。
 何処かの島での神事・祀り事だったらしいのですが、どの島で何をしていたのか家族は誰も知らないのだから暢気な話ですね。
 まあ神職ですから、その類の仕事と言うことで誰も聞かなかったのでしょう
  なんとなく祖父も親父も似ているか?、イヤ周りの家族が似ているのかも
 さてどちらもお酒が大好き・・・なのに私は全くの下戸ですから所謂鬼っ子?・・・
 「人は一生に飲む酒の量は決まっています。若い頃から飲んでいる人は晩年量が減るし、途中から飲み始めた人は量が増える。程々に飲む人は一生そのペースと言います。さて私の場合は、私の分は既に祖父と父が飲んでしまって残っていないのです。」

 さて伊豆の西海岸、祖父の場合は伊豆七島ですが
 そっち方面に縁があると言う都合の好いDNAは無いものだろうか?
 そうすれば、さして努力もせずに自然に縁が出来るかも知れない・・・他力本願なんてものを通り越した勝手な願望です。
  やはりDNA頼りでは無理でしょうね
 私、私の息子を含めて祖父からの4代はフラっとどこかに出かけるという遺伝子ならしっかり受け継いでいそうです。 

アマ初段はプロに7子?

2007-11-17 17:21:21 | Weblog
 昔の常識と言うか、相場らしきものでプロに7子で打てれば初段という・・・規則ではないのだけれど、そういう話でした。
 しかしこれは少し胡散臭いすり替えがあるようなきがするのです。
 1段差置石1子の7子なのか、江戸時代風の手合い割で[互い先][互先互][先互先][先先先][先二先][二先二][先二先][二二二]みたいに7ランク差を置石7つとすり返られたものだとしたらどうだろうか?
 イエ、何の根拠も無い話で、ふと思いついただけのことなんですが、もしそうなら大変です。
 これはプロならば一律互い先という時代ではなくて、プロもアマも無い時代の手合い割りで専業高段者・準名人クラスにに2子で初段ですから・・・殆どプロの初段と同じでしょう。
  ・・・江戸時代に秀策とたくさん打った有名な方とか、地方在住でかなりの力自慢の人など居たことは居たにせよ、現在ほどアマのトップクラスは充実していなかったと想像できます(出版物・ネットなど情報量が違いますから)
 今でも新入段者の記念対局の企画では2子か先番コミ貰いだから似ている。
 そしてアマでもタイトル争いの常連みたいな強豪で先とか先のコミ貰い・・・

 この辺りの話は雲の上の話なのでよく分かりません。
 ともかくプロに7子で打てればアマ初段なのか?
  私の考えでは「当然」な気がします。
 と言うのは「アマが7つで打てるのなら」と言う条件の問題でしょう
  「打てる」のではなくて多くの場合「打たして戴いている」のでは無いだろうか?
 明治か昭和か知りませんが、何処かの時代にプロの段位とは別にアマの段位というものが出来たと思われます。
  趣味の世界で「初段」という響きは格別のものがあるのでしょう、何かその道で一人前みたいに認められたみたいな感じですね。
 免状発行と言う世俗的な問題もあり、商売・教える側としてはなるべく免状を出したいし、欲しがる人=需要もあったでしょうが「段」としての権威も守らなくてはいけない・・・そういう微妙なところで、素人でもそれなりの努力で到達できる辺りにアマ「初段」が設定されたのだろうか?

 プロの先生に7子で教わっていて初段と認定されたような人がアマの高段者に7つ以上置くことは珍しくない。
  プロの先生の7子局では先生の対局はあくまでも指導目的、アマだとて7つも置かせるような人なら「勝負」意識は無いとは思うのだけれど・・・
 例えば碁会所などで6段あるいは7段格みたいな人と、初段あるいは1級の人が打つとしたら点数制度で手合い割が決められ、おそらく6から8子局でしょう。
  点数制度はたくさん石を置かなくてはいけない対局を可能にしたみたいなことは言えます。
 1対1ハンデではなくて相対的な格付けです。
 但し、こういった”功”の裏に”罪”みたいな面も存在すると思うのです。
 それは点数制度の大前提で勝てば1点上がって、負ければ下がるということ。
 制度の根幹部分ですから・・・どういう手合いであろうと負ければ下がるのですから、どういう対局であっても負けるわけにはいかないという意識がでてくるでしょう。
 だから教えると言う意識ではなくて「勝負」優先になるでしょう
 勝負となるとやはり上手が力を発揮する場面が多くなりそう
  プロに5子で教わっている人が、アマの高段者に7つでも勝てないみたいなことが起きてくる
 ではプロの先生とアマの強豪は同じくらい強いのかと言えば、結論は明白。
   当然そんな事はありえない
 アマの高段者に点数とは関係なく「指導」として打っていただければ良いわけだけれど、これは下手の側からは”上手の手を手を煩わせる”みたいで言いにくいのか、あるいは上手も下手も「点数」という賭けでなくては緊張感を感じないためだろうか・・・
 下手潰しに執念を燃やしてガンガン打ってくるような上手に鍛えてもらうのも無いわけではないだろうけれど、さてそれで力がつくのは良いとして、オーソドックではないクセまで身に付けてしまうという副作用もありそうです。
  さてさて鍛えてスクスク育つと言うのは実は大変なことであるのですね

 *碁会所・コミュニティなどでの初段を設定する時に、プロに初段として認定されているような方(指導碁で7つ)などを基準にしたりすると別の問題も発生することもあります。
 点数制度で、仮にコミ6目として(半は決着をつけるための方便でしょう)12点刻みで段を設定していくと、上の方は7,8段相当の点になってしまうことがあります。(実際に強い人はいますが点数制度のアヤみたいなことが多いでしょう)
 逆に強い人を例えば6段と設定して、そこから下に物差しを当てると、プロに初段と言われている人が2,3級相当の点数になってしまうことは珍しく無い。
 ともあれ初段と認められて、気持ちよく趣味の道に励むのは一概に邪道とも言えないと思うので、この辺りの調整は難しいですね。
 

不調対策舌禍事件かも・・・

2007-11-16 18:07:37 | Weblog
 久しぶりに昼休みにFさんと対局(Fさんの方から誘ってくれました)
  10日ぶりぐらいになるだろうか?
 以前絶不調対策の話で「私限定の特効薬としては、打たないに限る」と書いたことがあります。
 その次の日以来ですから、もしかしたらこのブログを見ている??
  その話の説明として、「冷静に碁盤が見る事が出来るまでは観戦を主とした方が良い」と言う趣旨を補足説明したはずで、他意はないのですが誤解される可能性は大いにありそう。
 マア結構言いたい放題のことを言ってしまうところがありますが、「クセ」みたいなものです(言い訳にはなりませんが)
 
 さて1Fの対局場(休憩室)に降りながら最近の調子を聞くと・・・(前日はライバルのF・K対局があったと予想できる)
 「今、やっと先に戻りましたよ」とのこと
 普段はこの二人はKさんがFさんに先か2子置くくらいだと思うのですが、先日まではKさんが4つ置いたと思ったら、逆にFさんが2つ置くようになっていました。
 3番手直りですから15連敗とか18連敗は無いにしても、僅かの間に15程は負け越したことになる
 マア結果について全てFさんの不調を原因にしてしまうのはヤヤKさんに失礼かとは思うのですが、Fさんの実力発揮+好調と同時にFさんの不調はあったでしょう。
 ともかくあと置石一つ分で完全復調といったところ・・・復調のきっかけを掴んだというところか。
 その日もFさんの3子局でした。
 これはF・K対局の上下で6つも動く変動相場制とは無関係です
 Kさんの場合は4つでお願いしている・・・もし二人とも置き石を減らしたければ減らせばいいし、増やしたければ増やせばいい・・・あちらさん任せ

 アマ、しかもザル碁界では手合いは大いに流動的
 (但しコミュニティなどではいつも同じ人同士が同じ手合いで打つと言う例外はあるものの)
 私のネットでの好敵手(私が勝手にそう思っているだけで、最近は大いに分が悪い)Mさんとの手合いは、各々好調時と不調時でお互いに2つ置く可能性がありました。
 実際にその方と打つならばMさんが私に2つ置かなければいけない場合・・・
 表から「遊ぼう」と来ても裏口からコソコソ逃げる一手
 いくら不調といっても、普段互い先の人に2つ置かせるなんてトンデモナイ
 勝敗はともかく、好んで苦しみに行くようなものでしょう
 逆に私が2つ置かなければいけない場合・・・
 『負けたらカッコ悪いし恥ずかしい、、、それに反して相手は気楽な立場』などと見栄っ張りな理由で仮病状態。
 どちらかの先でしか対局していないのですが、点数制度ではお互いの2子ですか
ら4つ分の幅があるらしい。

 ともあれKさんとの対局復活
ただ気になることもあるのです。
 「1局15分ですからね」・・・・(これが急激な変動の理由?)
 確かにこの対局時間では3時間もあれば10連敗は可能です。
 勝ち負けはともかく、このくらいたくさん打つのが楽しいのなら言うことは無いのですが、でも棋力向上のこととか、碁の中身を考えたら・・・
  昔趙治勲さんが他のプロに話したことですがある
 それは早碁のことがメインではなくて、大きな手合いで思い切った手を打つことに関してだと記憶しています。
 「普段から早碁でいろんなことを試して置けばいいのです」(つまり大一番で思いつきの手を打っているのではないという説明)
 「どう打っても一局の碁」だとか「別の作戦では・・・」と言うようなことを「あらかじめ早碁で試して置けば良い」と言った話です。
  アマ・ザル碁界の早碁とは次元が違う話ですね。
 我々ザルにとって「超早碁」が何かのためになるんかどうか大いに疑問ですが、これは好みの問題かもしれないし、自分と好みが違うと言うだけで否定しているような言い方も出来ない。
 「相手が早打ちで、釣られてしまうかもしれないけれど、早打ちにお付き合いしなくても良い訳だし・・・」マアその程度の話しか出来ない。