まもなく平成19年も暮れます。
いろんなことがあった年ですが、印象としては東大寺の1文字みたいに「偽」が明るみに出た感じです。
本当の怖さは、「あんなに偽物に取り囲まれて生活していたのか」ということではなくて、「あれは氷山の一角」に過ぎないという方でしょうね。
昔なら、そういうインチキは小さな町工場とか食品会社が生き残るために已むを得ず手を染めるみたいなイメージがあったけれど、現代では大会社・有名店がもっと儲かるための方便として日常化しているようです。
大きな会社でも製品のクレームを無視して製造を続けたりしている事件もあったし・・・
本人たちが弁明するような一時の「出来心」ではなくて、本当は「あらゆる(合法違法を問わない)選択肢の中から選んだに過ぎない」と思える
経営者習性というか、国民全体がそういう体質に変わりつつあるのかもしれないという空恐ろしさを感じるのです。
私が子供の頃、戦後の闇市なるものは姿を消してはいましたが、例えばパチンコの景品のキャラメルのなかに鉛が入っていたとか、缶詰の中に指が・・・などという粗悪品・杜撰な製品管理などが見られた時代でもありました。
だから日本からの輸出品は「安いけれど粗悪」というレッテルも貼られているようなところもあったと思えます
それに日本製品はオリジナルなものは少ないけれど真似するのが巧いと言われていた時代でもありますね
アメリカなどで開発したものを、短時間でコピーし改良を加えて安く売り出す
多分にずるい戦法ですが、でも今の時代の基礎を作ったのはこういうことだったかも知れません
(今,ある国の海賊版や、おもちゃがの輸入が問題になっていたりするのを聞くと、善悪の問題の前に「日本にもそういう時代があった」ということを思い出します)
それがいつの間にか日本製は世界の一流ブランドみたいな地位を得たような気持ちになっていますが・・・今年のような事件が数多く発覚する・それが氷山の一角に過ぎないかも知れないということは・・・いかにも豊かになったような気持ちでいたのが、本当は私らの子供時代と少しも変わっていないようなことに気がつかされた気持ちです。
人間、そう簡単に変わるわけが無いとも言えるかもしれませんが。
でも日本が(あまり好きな言葉では有りませんが)「サムライの国」と言うのなら、他人がどうこうでなく「自分に恥じない」ということを・・・
奇麗事の陰で巧く立ち回って金儲けをしようというのが多いですね
「サムライ」だけでなく職人気質の「見えないところも手を抜かない」も大事ですね・・・
いいところもまだまだ残っているはずなのに、本音と建て前を使い分けてしまう頭の良さが欠点なんでしょうか
さて年の暮、12月は個人的に相性?が良くない月で、この月を無事に過ごせば来年の12月までは何とかなりそうな気分になれる。
そういう意味では現代の習慣とは違うけれど、年の暮れに1年の清算をして、年が明けたら1つ年を取って、また次ぎの暮れまで何とか暮らすみたいな・・・
あと数時間で来年1年有効のパスを無事貰えそう
普段は老夫婦だけの生活ですが、年末年始休みで娘夫婦がやって来ました。
日常は夫婦の会話はあまり多いほうではない無いので、女房殿などは日頃の鬱憤を晴らすかのようにここぞとばかり・・・娘との会話が弾んでいる(弾み過ぎている)
私といえば居間にいても手持ち無沙汰だし会話の内容にもペースにも弾き出されて、(この時期面白いTV番組も無いし)結局は「自室オタク」になっている
ネットを楽しんでいるようにも見えますが、実態は自室に避難しているような・・・1年の疲れ?が取れていないし、何処かへ出かける気力も無いし、指先の運動でキーボードを叩くのが精一杯かも
相変わらずネット、碁を打ったり観戦したりですが、今CD作りをしています
イエ、オリジナルでは有りません
実はある人との会話で「囲碁」が話題になりまして・・・
マア私が話題が狭いので合わせてくれたのかも知れないのですが
「碁会所では囲碁を教えてくれる人がいるのですか?」という質問があった。
その時はあまり深くも考えず「教える先生がいたり、席亭などが教えてくれるはずですよ」
「一人でも教えてくれるでしょうかね?」
「勿論ですよ、喜んで教えるはずですよ」そこまではよかった
「でも一人というのは多少問題は有るでしょうね、1対1の個人教授になると教える方は気にしていないのですが、教わる方の人が気を遣ったりするのです」「囲碁ってある程度は続けていないと捉えどころが無い感じがあって、初めの取っ付きが難しいかもしれません。そんな時期に”先生を私一人につき合わせてしまって良いのかな”なんて遠慮勝ちになってしまうことがあるかも知れない」
などと・・・話をしてしまった(これが気にかかる)。
後になって考えてみると、彼は囲碁も将棋もやらないけれど、もしかしたら・・・「もしかしたら囲碁をやってみようかと思って、私に打診した?」と思いついた。
気がついたというより希望的推測に過ぎないかもしれないが。
例の会話の中で「私は他人に教えるのが下手でしてね」などと世間話調に話したのも引っかかります
『私の話は教えるのを拒否したみたいに聞こえなかっただろうか?』
『相変わらず、気がつくのが遅い!』
と、いうことで、この休みの間に「入門CD」を作ることにしました。
もしかしたら押し付けになるかも知れませんが、マアその時はその時で諦めればいいだけの話。
「入門CD」などとかっこいいことを言ってもオリジナルは無理なので、ネットでいろんな所の門を叩いて、無料で紹介しているページをコピーしています
自分のためのコピーでは無いけれど商売で使うわけでは無いから海賊行為にはなりませんよね?
さて、何とか超初心者向けのCDは出来そうですが、年が明けて年始の手ぬぐい代わりに渡したらどんな顔をするでしょう、楽しみのようなちょっぴり怖いような
いろんなことがあった年ですが、印象としては東大寺の1文字みたいに「偽」が明るみに出た感じです。
本当の怖さは、「あんなに偽物に取り囲まれて生活していたのか」ということではなくて、「あれは氷山の一角」に過ぎないという方でしょうね。
昔なら、そういうインチキは小さな町工場とか食品会社が生き残るために已むを得ず手を染めるみたいなイメージがあったけれど、現代では大会社・有名店がもっと儲かるための方便として日常化しているようです。
大きな会社でも製品のクレームを無視して製造を続けたりしている事件もあったし・・・
本人たちが弁明するような一時の「出来心」ではなくて、本当は「あらゆる(合法違法を問わない)選択肢の中から選んだに過ぎない」と思える
経営者習性というか、国民全体がそういう体質に変わりつつあるのかもしれないという空恐ろしさを感じるのです。
私が子供の頃、戦後の闇市なるものは姿を消してはいましたが、例えばパチンコの景品のキャラメルのなかに鉛が入っていたとか、缶詰の中に指が・・・などという粗悪品・杜撰な製品管理などが見られた時代でもありました。
だから日本からの輸出品は「安いけれど粗悪」というレッテルも貼られているようなところもあったと思えます
それに日本製品はオリジナルなものは少ないけれど真似するのが巧いと言われていた時代でもありますね
アメリカなどで開発したものを、短時間でコピーし改良を加えて安く売り出す
多分にずるい戦法ですが、でも今の時代の基礎を作ったのはこういうことだったかも知れません
(今,ある国の海賊版や、おもちゃがの輸入が問題になっていたりするのを聞くと、善悪の問題の前に「日本にもそういう時代があった」ということを思い出します)
それがいつの間にか日本製は世界の一流ブランドみたいな地位を得たような気持ちになっていますが・・・今年のような事件が数多く発覚する・それが氷山の一角に過ぎないかも知れないということは・・・いかにも豊かになったような気持ちでいたのが、本当は私らの子供時代と少しも変わっていないようなことに気がつかされた気持ちです。
人間、そう簡単に変わるわけが無いとも言えるかもしれませんが。
でも日本が(あまり好きな言葉では有りませんが)「サムライの国」と言うのなら、他人がどうこうでなく「自分に恥じない」ということを・・・
奇麗事の陰で巧く立ち回って金儲けをしようというのが多いですね
「サムライ」だけでなく職人気質の「見えないところも手を抜かない」も大事ですね・・・
いいところもまだまだ残っているはずなのに、本音と建て前を使い分けてしまう頭の良さが欠点なんでしょうか
さて年の暮、12月は個人的に相性?が良くない月で、この月を無事に過ごせば来年の12月までは何とかなりそうな気分になれる。
そういう意味では現代の習慣とは違うけれど、年の暮れに1年の清算をして、年が明けたら1つ年を取って、また次ぎの暮れまで何とか暮らすみたいな・・・
あと数時間で来年1年有効のパスを無事貰えそう
普段は老夫婦だけの生活ですが、年末年始休みで娘夫婦がやって来ました。
日常は夫婦の会話はあまり多いほうではない無いので、女房殿などは日頃の鬱憤を晴らすかのようにここぞとばかり・・・娘との会話が弾んでいる(弾み過ぎている)
私といえば居間にいても手持ち無沙汰だし会話の内容にもペースにも弾き出されて、(この時期面白いTV番組も無いし)結局は「自室オタク」になっている
ネットを楽しんでいるようにも見えますが、実態は自室に避難しているような・・・1年の疲れ?が取れていないし、何処かへ出かける気力も無いし、指先の運動でキーボードを叩くのが精一杯かも
相変わらずネット、碁を打ったり観戦したりですが、今CD作りをしています
イエ、オリジナルでは有りません
実はある人との会話で「囲碁」が話題になりまして・・・
マア私が話題が狭いので合わせてくれたのかも知れないのですが
「碁会所では囲碁を教えてくれる人がいるのですか?」という質問があった。
その時はあまり深くも考えず「教える先生がいたり、席亭などが教えてくれるはずですよ」
「一人でも教えてくれるでしょうかね?」
「勿論ですよ、喜んで教えるはずですよ」そこまではよかった
「でも一人というのは多少問題は有るでしょうね、1対1の個人教授になると教える方は気にしていないのですが、教わる方の人が気を遣ったりするのです」「囲碁ってある程度は続けていないと捉えどころが無い感じがあって、初めの取っ付きが難しいかもしれません。そんな時期に”先生を私一人につき合わせてしまって良いのかな”なんて遠慮勝ちになってしまうことがあるかも知れない」
などと・・・話をしてしまった(これが気にかかる)。
後になって考えてみると、彼は囲碁も将棋もやらないけれど、もしかしたら・・・「もしかしたら囲碁をやってみようかと思って、私に打診した?」と思いついた。
気がついたというより希望的推測に過ぎないかもしれないが。
例の会話の中で「私は他人に教えるのが下手でしてね」などと世間話調に話したのも引っかかります
『私の話は教えるのを拒否したみたいに聞こえなかっただろうか?』
『相変わらず、気がつくのが遅い!』
と、いうことで、この休みの間に「入門CD」を作ることにしました。
もしかしたら押し付けになるかも知れませんが、マアその時はその時で諦めればいいだけの話。
「入門CD」などとかっこいいことを言ってもオリジナルは無理なので、ネットでいろんな所の門を叩いて、無料で紹介しているページをコピーしています
自分のためのコピーでは無いけれど商売で使うわけでは無いから海賊行為にはなりませんよね?
さて、何とか超初心者向けのCDは出来そうですが、年が明けて年始の手ぬぐい代わりに渡したらどんな顔をするでしょう、楽しみのようなちょっぴり怖いような