なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

ワークシェアリング?

2008-01-31 18:27:31 | Weblog
 昨日本因坊道知のことを書いていて、思いついたのはワークシェアリングです。
  棋譜を見る限りにおいて・・・棋譜の何処がどうということは勿論坂田栄男九段の解説が無ければ分かりませんが、ある時期からお城碁の成績が不自然になりす。
 囲碁4家の当主は皆互い先で対局しますから、年に一度の御城碁では年毎に先と後手で打つことになります。
 これは確か寺社奉行の役宅で下打ちをしておいたものを、御城碁当日は黒書院で並べて見せると言うことらしい・・・そして将軍が実際に見に来るかどうかは決まってなかったらしいが、マア建て前としては上覧と言うことでしょう。
 囲碁4家としては「碁を持って仕える」と言うことですから、この日が義務であると同時に年に一度の花舞台であったでしょう。
 
 さて、道知は当時の力量で一人だけ抜きん出ていたらしい。
  もし仮に現代みたいに実力タイトル制なら問題ないけれど、家元制度の4家が仕えているわけで、道知が抜きん出ているのは良いとして、余りに差がありすぎるのは問題だったのでしょうね・・・ですから、余り差が無いけれど道知は強いみたいなところを狙ったのでしょう。
 それにしても黒番ならば5目、6目勝ちで白番なら2,3目負けと言うのは、見る人が見れば”おかしい”と感じたはずなのに。
 私は素人なりにそう思うのですが、道知本人が敢えてそういうことをしたように思えてならない。
 先番にコミの無い時代ですから、互い先の黒番は勝つことが義務みたいなものだったと思われます。
 ですから、本当に典型的な互角ならばお互い先番を入れあう見たいな形で良いはずです・・・つまり結果の目差は関係ないはず。
 (いや、もしかしたら結果の目差にも多少は意味付けがあったのだろうか・・・例えば2目勝ちより5目差のほうが実力差があるみたいに感じるような)
 ともかく「勝つことが義務付けられている黒番では5,6目キッチリ残します・・・そして白番では2,3目しか勝たせません!」そう言っているのではないだろうか?
 なんだか道知の憂さ晴らし的遊びみたいな気がする。
  当時の世の中の形として、道知の実力を誇示するより、4家が巧く生き残る方便として御城碁の結果を演出したと思われる。

 相撲で言えばお抱え力士のように大名家に保護されている力士が居たように、囲碁だって「指南」みたいに出入りして、所謂飯の種だったでしょうから、唯一の公式戦で惨めな結果になるのは家元として致命的だったでしょうし、4家制度を維持していくには形の上では競り合っていなくてはいけない。
 皆が奮励努力して頑張るのが建て前ですから、結果もそうならなければいけなかったのでしょう。
 小説・お芝居の世界では剣道などの御前試合で負けたほうが,主君に恥をかかせたみたいに「切腹」など・・・マアお芝居の見すぎ?
 でも余りに差がありすぎると・・・
 
 世の中には囲碁に限らずスポーツの世界などで、「頑張れば一流になれる」みたいな物が「一流を目指して頑張る」にすり変わっているところもあります。
 現実には、かなりの努力にもかかわらず結果として及ばない事だってあります
 そのことを「及ばないのは努力が足りないからだ」と言う評価もあります。
  だから、道知としては4家の平和共存のために「裏談合」に同意したのでは無いかと思われます。
  そのこと自体の是非は時代も違うしなんとも分かりませんが、ともかく年に1度の公式戦ですから、それを観戦した大名とか、所管の奉行などには分からなかったのでしょうか?
 年に一度の行事だし、担当者も数年で変わっていくとしたら気がつかなかった可能性はありますが、、、案外公然の秘密みたいに分かっていたのかも知れないと想像しています。
 旗本にしても大名の家来にしても,平時は無用の武官を文官として使うと言うか、不必要な人数を抱えていたでしょうから、安い給料でワークシェアリングしているようなものでだったろうと想像しています。
 ですからそういう体制では、一人が抜きん出て目立つのは向こう受けするものの、体制維持にはならないわけで、、、

 結果を想定して打つ碁を「作り碁」と言ったと思いますが、私昔プロの指導碁でおそらく「作り碁狙い」らしい指導碁を見たことがあります。
 こう書くとおそらく「プロがアマチュアに手加減」と思うでしょうが、そうではありません。
 生意気にも?アマが手加減では無いのですが「作り碁狙い」です(多分)
  私もそのプロに何局も教わっていますし、その時の指導を受けているアマはマア私の兄弟子みたいな人で、、、強いのですが悪戯好きな人。
 指導碁を観戦していて中盤以降でどうも黒の打ち方に不自然さを感じたのです。
  途中で先生が席を外した時に「もしかしたら、悪いことを考えているのですか?」と聞いてみると「2目勝ち狙いなんだけれど、難しいものだな」という返事
  置き碁で指導を受ける身としてあるまじき行為ではありますが、事の是非はともかくとして、不自然さは感じてしまうものです。
  ですから同様なことを先生も感じて、どのようにお灸をすえるか考えていたかも知れません。

 ともあれ道知の御城碁、もしかしたら結果をそろえることで宣言をしていたのかも知れません。
 そして感じる人は感じていたに違いない。

孤独の名人

2008-01-30 17:48:08 | Weblog
 現在「日本囲碁大系5 道知」の巻の棋譜は残り3譜となっていましてほぼ予定道りの進行です。
 尤も今回は「趙治勳傑作選1」も借りているので、こちらの方も予定通りとは行きませんでした。
 今週残り(木)(金)の二日で読んで(土)に図書館に返すのはまず無理。
  ですからこれはもう1週間延長するか・・・いや一旦返しておいて司書さんが書架へ陳列したところを再度借りると言う方法が良さそうです=これだとあと2週間のよゆうができます。
 
 さて囲碁大系のほうも多少余裕が出来てきたので、巻末の「人とその時代 五 本因坊道知」<林裕>を読みました。
 道知の生い立ち、争い碁のこと、名人碁所の話などかなり詳しく書かれています
  晩年の道知といっても彼は38才で死去しているから、なんだか晩年と言うものがあったと言えるかどうか・・・ともかく「孤独の名人」だったようです。
 それは坂田栄男さんの棋譜解説と読み合わせてみると”なるほど”です
  もっとも私は素人ですから今から2,300年前とはいえ専業棋士の碁が簡単に分かるほど甘くはないのですが・・・
 坂田さんによると「白踏み込みが足りないのでは?」とか「ここで黒を固めるのはおかしい」みたいな解説が目に付く
  それは御城碁の棋譜です
 年に1度、打たれた日付で言うと毎年11月の20日前後に御城で打たれた碁の棋譜です。
 道知は本因坊家の当主として他の家の当主と互い先の対局をしていた時代
  当時はコミという概念が無いから、例えば今年先で打つならば来年は後手で打つという具合で2局あわせて互い先な分けです
 (有名な話でしょうが)その頃道知は「先番ならば5,6目勝ち」「白番ならば2,3目負け」という結果が並んでいます。
 つまり、たまたまそうなったと言えるような「出現率」を越えて人為的な操作が感じられる結果です。
 
 黒番で5,6目勝つと言うのは、現代でのコミ6目半から見るとさして難しいことでは無さそうに思えるのですが、必ずそうなると言うと話は別。
 白番の場合2,3目負けと言うことは・・・あまり意味の無い例えかも知れませんが、現代のコミから考えると、本来白が3,4目優位な感じです。
 それらを考え合わせると(無理にこじつけて)現在アマの点数制の手合い割りで言うと、道知と対局相手との力量差は最低でも先の半分・先互先くらいは違ったはずですし・・・
 必ず狙い通りの結果を作り出せると言うことであれば、実際は「先」以上「2子」くらいの差があったかも知れないと感じる。
 素人の感想ですが・・・

 少しオーバーだったかも知れませんが、あながち出鱈目でも無いかも
 「林裕」さんの解説によれば、「他の3家による道知を碁所に推薦」が無いことに怒った道知が「今後の御城碁では誰と打っても思い切り戦いますぞ」と申し入れたところ、3家は震え上がったと言うことですから前の話の傍証になりそう。
 つまり道知が思い切り打ったならば、他の家の当主は惨めな負け方を続ける事になる=即ち「囲碁を業とする家として怠慢」となるわけで、あってはならない事態
 と言うことは裏で道知に頼み込んで「談合」が成立していたらしい。
  今のように実力タイトル制ではなくて、囲碁家元全体が幕府の保護の下に存在していたわけで、皆が生き残るためのある種の方便だったのでしょう。
 但し、その時代道知は存分に戦った対局は無いのでしょうね?・・・そういう意味では天才も一人だけしか居ないのも不幸かも知れない。
 現代のように天才と思われる棋士が数多く居て、尚且つ海外にも強豪が多い
  それはそれで大変なことでしょうが、一人だけと言う時代に比べたらなんと幸せなことでしょうね・・・アマですから暢気にそんなことを言っていられる?
 勿論です、勝手なことを無責任に言えるのがアマの特権です。

傍目(おかめ)話

2008-01-29 18:18:16 | Weblog
 リアルでもネットでも観戦する時に「自分ならここではこう打ちたい」と考えながら見ている・・・尤も対局者のテンポについていけない時や、そう簡単に判断がつかない場面では「当人はどう打つのか拝見」と言う単なる見物人になれるから気楽なものです。
 この時[対局者当人の懸命な読み]>[無責任な野次馬の見方]ならば”さすが対局者当人の読みにはかなわない”となり、反対の場合[対局者本人の主観的な状況判断]<見物人の第三者的な冷静な読み]ならば”傍目八目”となるでしょう。
 ”傍目八目”はいつでも正しいと言うことではなくて、確率的には50%を越える程度には正しいと言うことのような気がします。
 例えば観戦者・いつもは対局者に3つくらい置かされる人が、対局者当人たちが気がつかないような手に気がついたり、正しい形勢判断をしていたり・・・そういうことから相当オーバーに「観戦者という立場の実力」が評価された結果「八目違い」ということでしょう。
 但しいつでもそうではないと思うのだけれど、「流石は対局者」と言う部分は切り捨てられて、弱い野次馬の方がよく読んでいるということを面白がっているところもある。

 さてこういう事はアマの世界にも限らずプロの世界にもたまにあるらしい
ABのプロ対局で、Aさんの石は相当怪しい形にも見えるけれど本人が自信たっぷりに打っているので、Bさんの方も『どうやらAさんはしのぎを読んでいるらしい』と思い込んで・・・つまり両対局者の一致した認識ではそこは生きと言うことになってしまったり・・・プロでもそういうことがあったらしい。
 マア、怪しい形と言ってもプロレベルの話ですから、相当複雑な読みは必要だったらしいけれど・・・でもトッププロならば決して読めないはずは
 つまり打っている両者も盤側の観戦者も気がつかなかった・・・それを局後に記録係の少年が遠慮がちに「アソコで、こう打つとどうなるでしょうか?」と言う質問に一同唖然としたとか!!!
 Bさんの方は「ウーむ騙された!」と唸ったとか唸らなかったとか
 まさに傍目八目的なエピソードは、稀とは言えプロにもあるらしい。
  もっとも流石はプロと言うべきか、断然逆の方が多いでしょう
 局後の検討で「アソコでああ打てば実戦よりよかったでしょうか?」・・・良くある質問ですね
 するとすかさず「それはコウになるからやはりダメです」と言う返事
  その当時のトッププロ・全盛期の話です
 なんとその局面から3,40手先に必然的にコウの形になると言う読み・・・
 まさに「そこまで読まなければ打てないのか」という驚きであり、当事者はよく読んでいるというエピソードでもありますね。

 さてコチトラはアマチュアのジイサマです
 観戦と言えば『徒然なるままに・・・』みたいな、半分は暇つぶし的レクレーション(対局者の方々ごめんなさい)
 ウッカリすると終局にも気付かずにうとうとしていると言う失態も珍しくは無い
  それでも、「傍目八目」みたいなことはある
 「アッ!そこでは無いでしょ」「ウーム乱暴な」「なんとおとなしい人であることか」などと、リアル観戦ならとても口には出来ないことを、ネット観戦では呻いたり呟いたりしながら見ている。
 勿論対局者の鮮やかな読みに感心することもあるけれど、やはりアマですから「傍目・・・」が多いでしょうね。
 先日の観戦での話
 中盤で白氏が利かしを打った場面・・・一瞬「ん!?」
 これは黒にとって千載一遇のチャンス・・・それまでやや白の言い分を通してきた形だからここで反撃に出ないと流れが変わらない
 しかも白さん自分の石も少々薄いのに「薄みは力で補え」みたいな
  しかし黒さんは受けに回っている・・・
 さて野次馬としても考え込む場面ですね
  「私が好戦的なのか?」「この黒さんみたいにジックリ受けが本手なんだろうか?」
 マア野次馬としては「他所の家の火事と喧嘩は大きいほど面白い」・・・はこの際別として、こういう場面以降の観戦は迷ってしまいます。
 「このチャンスを逃してはもう見るべき所は無い」と「もう続きを見ても仕方が無い」などと生意気に判断するか、「自分の読みどおりなのか」あるいは「対局者のお手並み拝見」で引き続き観戦するか、さあどちらが良いか。
 もしネット対局室から退室するのもタイミングが難しいですね
  「もうみるべきものが無いよ」みたいにあからさまに出て行くか?「自分でも対局するので失礼、見たいに何気なく退室するか」
  ・・・案外考えながら見ていたり、退室にも気を使っているつもりですが、でも本質は野次馬でしょうね。
 私の場合は。
 

夜明け前の激闘

2008-01-28 18:42:32 | Weblog
 始めにタイトルを「払暁の大激戦」みたいにしようと思ったのですが、言葉のイメージ余り宜しく無いような気がしました・・・まるで大日本帝国陸軍みたい。
 それに本人だけが激戦だと思っているだけで、見る人が見れば単に喧嘩好きな軍鶏が暴れているだけにみえるかも
  ともかく今日・月曜日の朝にとんでもなく早く目が醒めてしまった。
 日頃から体が疲れるような仕事をしていない・・・
 一日に一度は汗をかくくらい体を動かすのが理想的だけれど、真冬ではあるしこの寒さで自転車で少々走っても汗などかきません。
 事務室はというと、省エネに相当協力的ですから事務服の上に防寒衣を着用している人も居るくらいです
 マア業務内容によっては冷や汗はかきますが、最近はなれもあり顔の皮も厚くなりそれさえかきません。
 土日などは余程の用事か図書館に行かなければ家から一歩も出ない典型的な「出不肖」ですから、次の月曜日などは用も無いのに目が醒めます。
 これも当人の年令と兼ね合わせ自然の摂理かもしれません。
 
 ともかく表が真っ暗な時間に目が醒めてしまいました。
  この辺りは集合住宅街なので明け方は新聞配達のバイク・自転車が走り回る気配がするのですが、それがいつもなら3時半ころ
 それも聞こえないのですからおそらく3時頃でしょう。
 まあ、目が醒めてしまったものは仕方ないからとりあえずネットに
  そういう習慣です
 夜明け前ですが対局者は居るし、なんと知っている名前の方(ネット碁のお馴染み・お知り合い)が対局待ちになっている。
 彼も私みたいに目が醒めたのだろうか?
  年令が近いとか・・・
 彼の点数を見ると少しいつもより低い気がしますが、当店も連敗中につき下がっているので、相対的な距離は前に打ったときと同じくらいです
 対戦内容の記憶で言うと・・・確か2,3局は打っているはず
  かなり手こずっているような記憶がある。
   でもまあこんな時間に出会ったのも何かの縁ですから、1局お願いしなければ義理が悪いと言うもの。
 かなり手こずっているが、あれは両者普通の調子の時の対戦で、今回は両者不調同士の対戦・・・ハンデという距離は同じだけれど、どうなることやらです
 以前の対局内容はハッキリしませんでしたが,打ち始めて何やら蘇るものがある
  棋譜的な記憶では無いけれど、棋風というか打ち筋と言うか・・・
 『そうだ、この人は私と同系タイプだ!』
  これがリアルで、口に出して言ったのなら「失礼な、馬鹿なことを言わないで下さい」と叱られるかもしれませんが、私としては「てこずった理由」が分かった感じです。
 相撲で言うと、押し相撲は同型の押し相撲で先手を取られると意外と脆いみたいな感じで、得意なことを先にやられてしまって持て余すみたいな
 この方も地で先行して来る
  私もそういうのが好きだけれど、先に槍でつつかれるみたい・・・やはり丈夫な盾は必要な物ですね・・・矛も盾も
 さて中盤で私の方が上に、強引に・足早に地で先行した上に相手に出来かかった大模様に楔を打って3割程度値切った感じ。
 こうなるといくら温厚な相手でも堪忍袋の緒が切れるでしょうね
  囲碁の勝負は最終的にはどちらの地が多いかと言うことなので、早い話が相手よりたくさん地を作るか、相手の地をより削るかの分けですが・・・
 最終手段としては相手の薄みをついて、相手を根こそぎに出来ないまでも、ちぎって懲らしめれば形勢が逆転するわけで、、、
 プロレスなら力道山もジャイアント馬場も始めのうちは相手の汚いファールに我慢をしているのだが、最後は怒りが爆発して・・・と言うストーリーで最後は正義は勝つみたいなところがあるんだけれど
 囲碁の場合はそうはならないことの方が多いらしく
   我慢を重ねて受けてきた人が急に手の平を返したように戦いを挑んでも・・・変調みたいなところがあるので難しい
 (勿論空威張りみたいな相手ならお灸をすえることもあるから、どちらとも言い難いけれど)
 
 ともかく相手も一歩踏み込んで反撃体制を見せる
  私もそれなりに急所を疲れているのですからピンチではある・・・しかし相手も一杯一杯の反撃だから更に反撃を加えるチャンスでもあるはず。
 相手が「勝負!」と来た時に「御免」と謝るわけには行かないでしょう
  いや相当な大差ならそれも有りかも知れませんが、たいていの場合流れが悪くなりそうです。
 だから相手の勝負手・勝負体勢にまともに戦いに引きずり込まれるのは良くないし、さりとて逃げ回っていてはいつの間にか形勢を損じるでしょうからこの辺の呼吸が難しいかも知れませんね。
 そうは言っても・・・普段冷静そうな振りはしていても根は師匠ゆずりの鉄火肌・・・こう見えても○○の生まれ(関係ないか)
  大激戦の火蓋が切って落とされました。
 今朝は私に運が向いていたらしい
 先に仕掛けた相手の方がやや薄いのに仕掛けた形だから、その弱みを突く事が出来ました。
  相手の弱い石を追って相手の大模様に侵入・・・勿論私の地も減ったけれどそれ以上の成果もあったみたい・・・
  さて終局は4時前
 相手が投了した時に気がついたのだけれど、見物の人が二人居た
  これに気付かずに打っていました
 ネット対局室で並べ直さずに、一旦退室して自分の棋譜倉庫で並べ直し・・・寄せまで打つとどうなるかを確認、、、勝負どころでの確認、、、どの辺りで流れが変わったのか、、、
 さてそれでも未だ4時半・・・半端だけれどまた一眠りすることにします
   多分女房殿が6時半には起こしてくれるはずですから2時間ある。
 

また気分はチョンボ?

2008-01-27 15:37:33 | Weblog
 ネットでまた不本意な負け方をしてしまった。
  マアそう言ってしまうと相手の方にはだいぶ失礼ではあるけれど、敗者のたわごととして聞き逃していただければ・・・
 不本意な負け方と言いましたが、だいたい「本意の負け」なんていうものがあるかどうか怪しいのですから、負けは殆どみな不本意であるわけです。
 
 さて先日はいつもなら向こう先ぐらいの人と2子で打って負けた話をしました。
 普段向こう先なら、向こう2子で打てば負けるのは自然です
  もっともアマですからその日のお天気や風向きで結果が変わることも珍しく無いので、点数の差によって手合いを変動相場制みたいにしてある・・・
 これは誰とでも相対的な棋力の変動みたいなもので位置関係を計ってハンデを決めるみたいなもので、一応合理的な感じはする。
 但し「相対的」というところが問題で、ある特定の人との力量には絶対的なものも感じるのです。
 つまりAさんという人が、好調であろうはなかろうが、「この人にはこちらが先」とか「二つ置かなければ無理」とかの感覚がある。
 ですから現実にAさんが不調なのか・・・向こう2子であっても、「ウッソー!」と叫びたい。
 こういうときは、私の点数のうち1点をAさんに献上する気分で打つか、相手の方の好不調ではなくて私自身の力試しをさせて頂くという気持ちの切り替えですね。
 もっとも「私が力試し」と言うなら、Aさんが普段の点で私が好調な場合なら分かる・・・それなら私の力試しと言えるけれど、この場合は少し違うような
  ともかく「理不尽?」な手合いですから逃げるが一番かも

 ですから不本意?ながら、「飢えた虎に我が身を投げ与えた」・・・それほど大げさに言うほどでも無いか
 それに引き続きチョンボみたいな失敗話です。
  チョンボと言ってもルール違反は犯しては居ないのですが・・・
 ネットで打っていまして、相手の方をBさんとしまして、この方の先です
  マア、そこそこの進行で、何とか細かそうな進行で、寄せ地合い計算をかなり細かにやりまして、どうやら盤面1目以内らしいと見当をつけました。
 小寄せも概ね予定通りに進んで終局>地合い計算の結果パソコンの応えは「黒3目半勝ち」と出ました。
 これは私の計算とだいぶ違うから、「結果に同意」は即答できません。
 返事を保留して盤面を数え直すと盤面で黒1目勝ち・・・それでコミは・・・「アッ!」
 白から2目半コミだし=逆コミ2目半だからまさに黒3目半勝ちは正しい
  なんとコミを忘れていました
  と言うか、黒から6目半貰えると思い込んでいた。
   全く困ったうっかり屋です。

 ところでそれを知っていたらどうにかなっていたかどうか
  これは微妙な感じがします。
 例えば打っている最中に、できるだけ相手に差をつけて勝とうとしているかどうか・・・つまり目碁みたいに「これでもか」「もっともっと」と打つとは限らない
 寧ろある程度安全に勝てるのなら、多少は「最強」より「最善」を目指すことがあるわけで、この場合前者と後者は結果として勝ち目差は違うことになるでしょう
 従って相手もまた打ち方が変わる可能性が大きい
  Bさんからみて「安全勝利」が黒盤面1目勝ちだったのかもしれません。
 さて、そうなると逆コミはどうしたら克服できるのでしょう?
  なんだか「結果オーライ」みたいな気がしてきました
 ともかく「コミには注意」です・・・まるで詐欺か掏りにあったみたいな・・・
 それと『途中までは1目でも稼ぐことを考え、途中から最強から最善にシフトチェンジをする』と言うことでしょうね。
  

碁には明るすぎる?

2008-01-26 20:11:23 | Weblog
 今日は定期的にやってくる災難みたいな日です。
 巣篭もりの穴熊が突然追い出されるみたいに、ヌクヌクのベッドから突如追い出されるのです。
 ネットで人さまの碁を観戦しながら、時にはうつらうつらしながら、ジイサマ趣味ですが至福のひと時は突然打ち破られる。
 「パソコンを持ってリビングに移動して下さい」
 「いいよやらなくても・・・」
 「そんなわけに行きません!」問答無用である
 共働きであるから、晴れた休日は災難でもある
 ベッドの布団は剥ぎ取られ日に干され、部屋中に掃除機の音が響き渡る
  今は冬だからリビングにあるコタツに避難するしか手は無い。
  もし夏だって掃除中の部屋に居座れるほど神経は座っていません。
 今朝は丁度林門入と本因坊道知の棋譜をパソコンに入力中だったところだったので、渋々パソコン持参で移動。

 さて棋譜入力後ネット対局。
 これが大失敗!
  二重の意味でチョンボをした気分です
 「対局待ちリスト」にはお馴染みの方の名前が出ていたので早速申し込み。
 これがダボハゼというか勇み足と言うか・・・
  いつもならせいぜい向こう先の手合いのはずなのに・・・
   棋風も割合粘り強く決して楽をさせてくれない人なのに
 対局開始の場面で碁盤が出てきて気がついたのです、碁盤に石が二つ乗っている
 「一体どうしたのでしょう?」
 向こう先でも手こずるのに二つでは初めから悲観的です。
  『今日は災難続きの身の不運』の気分です
 向こう先で白から逆にコミを出すか、あるいは置石があってもコミを貰う方がいいのか難しいところですが・・・コミを貰えるという点で気持ちを落ち着かせるしか無さそう。
  いかに絶望的な戦いであっても始まってしまえば敵に後ろは見せられないと言う気持ち
 さりとて「やるだけやって、だめなら投げればいいさ!」といえば潔いみたいではあるが、反面と以下半面無責任みたいな感じもするから、ネットのこっち側では一人で勝手に気持ちが乱れている。
 
 その割には巧く打てたみたいではある・・・二子の置き碁だからゆっくり行って大寄せ辺りの勝負に持ち込む気分で・実際には性格上足早に稼ぎまわって・・・ともかく分裂気味なうち方ではあったけれど、何とか細かな碁に持ち込めそうになった途端に一瞬の暗転!
 決定的なところを見ていなかったので一手で投了
  こういう負け方をすると自分の弱さ・不注意を棚に上げて他に原因を求めたくなってしまいます。
 「棚に上げた」八つ当たり気分で言うと・・・
 最大の原因は(相手の方に失礼ではありますが)「めったに打たないリビング?」・・・そんなの理由にならないですね
 更にTVの音が入ってくる・・・更にベランダが明る過ぎる?・・・
  こうなると負け惜しみ以外の何でも無い
 この冬の日に、日が当たっているのはありがたいのに罰当たりなことです。
  でも明るすぎるのは敗因としてはこじつけになりますが、囲碁にはというか室内ゲームには向いているかどうか疑問・・・明るすぎると勝手に脳がはしゃいでしまうというか、落ち着いて腰が据わらないというか。
  と言うことは(私だけかも知りませんが)屋外の公園で芝生の上で打つのはもしかしたら向いていないような
  やはり広すぎない部屋でほどほどに明るい部屋で、無駄な音の聞こえない・・・これだけ条件を整えても果たして勝率50%を越えるかどうか。
 
 ともかく日に干した布団を取り入れるまでは、古巣?には戻れないわけで・・・
  仕方なく女房殿に付き合って、Jリーグの今期前半スケジュール調べ
 去年は息子と一緒に日本平に行っていたのですが、今期は女房殿と新宿発のシャトル便に乗ることになりそう。
 フクアリの予定とか柏での試合予定も確認

 それでもたまにはリビングに居ることも良いことはあるものです
  土曜の午後のBS「囲碁将棋ジャーナル」で女流のタイトル挑戦者決定戦の解説を見ることが出来ました。
 泉さんの気合の入った手と、謝さんの凌ぎ・・・
  凄まじい碁でした。としか言いようが無い。
  予選の途中で泉さんが勝ったので謝さんは敗者組から勝ち上がっての再戦
 謝さんと泉さん、これからも何度も戦うようになるでしょうから次も楽しみですね。

 

”本物”について

2008-01-25 17:53:18 | Weblog
 本物か偽物かという話題と言えば、TV番組では「お宝なんでも鑑定団」
 欲の無い人が思わぬ鑑定額に驚いたり・・・これはこれで出場者を祝福したい気持ちですが、反対の「相当に思い入れがあったり」「過度の期待を込めている」人が「本物では無い」という鑑定にがっかりするところが楽しい。
前者は昔話の正直ジイサンで後者は欲張りジイサンみたいに見てしまうのだから、出場者には失礼な話です・・・マア私の場合は持って行って鑑定をして戴く様なお宝が無いという僻みが入っています。
 性格が悪いのですね。
 特に自信たっぷりで出品した人が逆の結果だったりするとなんだか胸がすっきりするのだから・・・別に高額鑑定で私が損をするわけでも無いし、その逆で私が儲かるわけでもないのに・・・
 マア家にお宝らしいものが無いので気楽にはTVを見られるという特権?はある、、、貧乏人には失うものが無いという強み
  特に掛け軸の世界は凄いですね・・・トラック1杯分の掛け軸で本物は1本あるかないかなんて言います。(多少オーバーでしょうが)
 それなのに、「これは応挙です、鑑定宜しくお願いします」とか「雪舟」だの「崋山」「契沖」狩野○徳」だとか・・・素人がブラウン管を通じて一寸見ただけでも「一寸・・・」と思うのだけれど。
 でも戦前辺りまでは、きっと普通に家に飾られていたのでしょうね
  今では掛け軸をかけられるような床の間を持つ家は珍しいから・・・
 そういう意味で、多少怪しい品でも昔の家の形から言ってきっと「掛け軸需要」があったのでしょうね、そうでなければ、品物の絶対数が多すぎる。
 需要に応えるべく大家のものに似せて作ったり・・・それを手に入れた人が都合の良いように勘違いしたり・・・
 「○○もどき」「ナンチャって○○」が時代を経て、一人歩きを始めたかも
 勿論勘違いを誘導したり、騙して儲けようとする人がいるので厄介ですが
 
 さて鑑定する先生が時々口にする
 「こちらから(離れた場所で)拝見してもイケマセンね」はともかく
 「昔のものと紙が違う」「絵の具が違う」「構図が・・・」「広がりが・・・」「立体感が・・・」「筆の勢いが・・・」「落款が・・・」「署名が・・・」
 絵自体の巧い下手以前にいろんなチェック項目がある
  専門家は一瞬にして分かってしまうようです・・・時としてルーペで見ていますが、あれはおそらく間違いを犯さないように確認しているのいでしょうね。
 この様な鑑定はどうしたら出来るようになるのか?
  やはり本物を一杯見ることなんでしょうね。
 宝石の鑑定家の修行は本物を見続けることだそうですし
  宝石の鑑定に限らず「本物を見る」と言うことは大切でしょうね。
 何と言っても本物を見なければ「本物の何たるか」は分からないのですから
  例えばオリンピックの金メダリストの得意のポーズ・金メダルを噛む
 江戸時代なら小判を噛む・西部劇なら金顔を噛むというポーズでしょう
 噛んだ結果金の硬さ・軟らかさを確認して、表面が金メッキで無いことが分かって・・・と言う知識から来ているポーズで・・・勿論金メダルは24金では無いけれど・・・
 昔の人は手に入れた金貨を本物と確認するために経験的に噛んでテストをしたのでしょうね

 さて囲碁の場合
 仮に囲碁の専門家を目指すとした場合、両親とか身近に専門家がいるとしたら相当有利のはずですね。
 囲碁の知識を教わるなどの以前の問題として、常に本物を見て暮らしているわけだし・・・その割には少なく無いだろうか?
 小林泉さんみたいな囲碁の申し子みたいな人はいるし、張栩さんとの間に生まれた子供がやがてチャンピオンになれば「生まれる前から約束されていた・・・」みたいな伝説になりそうですね
 しかし江戸時代の本因坊家などでは実力で後継者を決めていったらしいのですが
 実際に血の繋がった継承はどのくらいあったのでしょうね?
  DNA・とか本物を見られる環境・修行・勉強の環境などなど絶対有利なのに不思議です。
 マア誰の子供であろうが本人の意志が最も重要なわけで、私のは雀のたわごとに過ぎない。

 ところでプロ棋士がわが子に教える場面を1度だけ目撃したことがあります。 
 まだ小学校1,2年くらいの女の子で母親はプロ棋士
 子供大会の昼休に午前中に打った碁を並べ直して、問題の箇所を指摘していました。
 私はこの先生に2,30局打ってもらっていますが、やはり雰囲気からして素人に教える教え方とイメージが違います。
 アマに教える場合は相手を見ながら、マア悪く言うとおだてながら教えるのですがそういう雰囲気は全く無い。
 勿論スパルタ見たいな体罰とか、叱責とかがあるわけでは無いのですが、母娘の向かい合った碁盤の辺りになにやら緊張感が漂っている。
 この緊張感はやはり独特です。
 ある手を指摘して「これを打つときにどういう変化を見ていたのか」みたいな形で質問が飛びます・・・「それで、相手がこう打ってきたらどうしますか?」
 きっとプロ棋士が、プロ棋士として問題点を指摘している相手がたまたま娘だったというイメージに思えました。
 ベースには娘も出来ることなら自分と同じ道を歩ませたいと言う思いがあるはず
  さて娘さんは今後どうするのでしょう?
 素人雀としては是非母親と同じ道を目指して欲しいのですが、こればっかりは本人の意志と恵まれた資質が・・・さてどうなる。
 ジイサマとしては長生きをしないといけないですね。
 

天才少年話の余波

2008-01-24 18:37:10 | Weblog
 私、今日本囲碁大系5の道知の棋譜をパソコンになぞっていますが、並行して趙治勳傑作選1を読んでいます。
 その趙さんの方の本の冒頭に、治勳さんが来日したばかりに林海峰さんに5子で打った公開対局の棋譜が出ています。
 当時6才で、碁を憶えてから約1年・・・
  アマチュアとしてプロに5子で堂々の囲碁を打てるのですからアマとしてたいしたものです。
 (棋譜を見て、林さんは無理に勝ちに来ていなかったという趙さんの感想はあるものの、アマは先生の思惑に反して勝手にコケたり、プロとして負ける訳には行かないように仕向けてしまうわけですから・・・)
 そういう意味で天才少年だったのはまちがいないし、単に年齢的な意味だけでなく、将来性を感じさせる打ち方だったと思われます。
  そういう意味で、私としては今更ながらではありますが素直にその天才ぶりに驚いたのでした。
 さて、ある方からコメントを頂きました・・・大意は
『年を取ってから囲碁を始めたけれど、分からないので負けてばかり・・・囲碁は才能のある人がやるべしとの上級者の言葉・・・きっぱりやめる気になりました』
 うーん、『囲碁は才能がある人が・・・』と言うところは 、そんな恐ろしいことを言わないで下さい
  もしそうならば囲碁に限らず、いろんなスポーツ、ゲームにおいて「楽しむ」と言う立場で参加できなくなってしまいます。
 もし私の話で、「そのように」感じたのならそれは私の本意ではありません。
  是非是非囲碁を続けて欲しいと思います。

 ところで、『負けてばかりいるので嫌になった』と言うのは分からないではありません。
 これが例えば競馬やパチンコみたいにギャンブルなら、現実に続けにくくなるわけですからね
 囲碁の場合ギャンブルではありませんが、勝つこと自体が楽しいと言うのはあるでしょう、その裏返しとして負けてばかりは楽しくないでしょう。
 でも勝ち負けとは別に、自分なりに懸命に打ったと言う充実感とか、碁盤を挟んだ向こう側の人と碁を共有する楽しさみたいなものは感じると思うのですが、どうでしょうか?
 年を取ってから覚えた・・・勝手な想像ですがかなりの年配者なら、囲碁に限らずパソコンとか、機械物の操作やスポーツだって、若い時ほどには柔軟に行かないかも知れません。
 ですからある水準に達するまでは苦労するかも知れません・・・でもそれはある程度は仕方が無いというか、どんなものでもそうなんでは無いでしょうか。
 それに同時に何人かで始めたとして、皆同じペースで上達するわけではないでしょう・・・人によって早い遅いは当然あると思われます
  でも早く上達する人がいつでも早いとは限らないでしょう
 
 それに囲碁の場合はハンデ戦が可能なゲームですから、少々の棋力差は関係なく楽しめるはずです。
 それでも「一緒に始めた人と打つのに、石を置かされるのは面白くない」とか「ともかく負けるのが嫌い」と言うのでは囲碁とは限らず勝負事は向いていないかもしれません。
 と言うか、自分が勝てると言う種目を選べばいいわけです・・・但しその場合逆の立場に達人は・・・
 もう一つ「負けながらも、強くなっていく」というのもあると思うのです。
 負けてばかりといいますが、負けるにはそれなりの原因があるはず。
  そういう負け碁を大事にすると必ず強くなると思う
 「何が原因で負けたのかわからない」かも知れません・・・そこは問題ですね
  それこそ上級者とか先生の出番です
 ですからそういう頼れる人がいるような環境が得られれば必ず棋力は上がるはずです・・・きっと居ると思うのです。
 

  

みぞれ混じりの雨の日に

2008-01-23 18:49:58 | Weblog
 昨日は睡魔との闘い、今日は今日で大変な日でした(半日ですが)
 今日は例の月に1度の生活習慣病の定期検査です。
  こういう事は、数日前からなんとなく気が重いものです。
 「ちっとも良くなっていませんね」とか
 「ご自分のことですから、しっかり努力してください」とか
 検査結果によっては必ず言われる”せんせい”と名のつく方の常套句
  体重、尿検査(蛋白など)、血糖値、ヘモグロビン、血圧・・・
  本当は自分の体のことを数値として知るための検査なのに、ドクターに叱られないためのハードルテストみたいに感じてしまう。
 昔からよく言われました・・・教師に
 「勉強しろと日頃から厳しく言っているのは、憎くて言っているのではないぞ、お前たちのためになるから言っているのだ!」
 理屈では確かにその通りなんだけれど、どうにも教師が生徒に反論が出来ない言い方で威張っているようにしか聞こえなかったものです。
 更に「生徒の成績が上がれば先生の実績だから懸命なんでしょう?」みたいに捻くれた考えを抱いたり・・・
 マア、アノ頃から何十年経っても私は成長していない
  それでも、健康だけはドクターの言うとおり「私自身に即跳ね返ってくる」のはハッキリしているのだから困ったものです。
 ドクターに叱られるの嫌だし、「私自身の問題ですから放っておいて下さい」と開き直ったとしても、それでは何のために病院通いをしているのか分からない・・・
 
 気が重いところへ持ってきて、前の晩に重大なミスに気がついた
  同じ日の朝9時に総合病院の定期健診の予約がしてあった・・・10時にクリニック・・・
 方向が全く違う(院外処方薬局は同じにしてあるが・・・)
  全く! なんとオーバーブッキング!
 私の不注意で「その日、その時刻でお願いします」と言ったからこうなった筈。
 後ろの10時の予約を、「急な用事が出来たため」ということにして11時にずらして何とか乗り切った。
 総合病院へはみぞれ混じりの雨の中、自転車で行って来て一旦帰宅、雨合羽スタイルからコートに着替えて傘をさしてバスでクリニックへ・・・帰ってきたら二つの病院の薬を薬局に取りに・・・なんとも忙しい健康ラリーならぬ、病院・薬局めぐりの半日でした。
 
 クリニックの帰りはバスで、自宅より手前のバス停で下車
  そこから歩いて薬局に行き、薬局からも歩いて帰宅
 雨の中、普通の人なら10分程度の距離なのに、20分はかかった
  体が重いというか、足が重いというか・・・全くな情け無い話。
 雨だから仕方ないのだけれど、自転車よりは運動になるだろうと、諦め・慰めるしか無いですね。(また帰宅してから雨合羽に着替えて自転車で行くのも有りだけれど・・・着替えるのが面倒くさいし・・・)
  傘をさして、みぞれ混じりの雨の中を歩きながら考えました。
 『ウォーキングは体に良いと言います。それも一定以上のスピードで歩くと効果がある。では今私が歩いていることにどれだけの効果があるのだろう? 人に追い抜かれるような鈍重な歩きで・・・私としたらこれしか出来ないのだから、歩くといえばこれしかない・・・それで結構疲れるのだけれど、このスピードではウォーキングの効果は望めそうも無い・・・しかし疲れるし、自分のスロースピードにイライラする・・・こんなことで何かの効果があるだろうか?疲れるだけで効果は無し??』

 さて晴耕雨読では無いけれど、午後は「棋譜入力」と「趙治勳傑作選1」
 先程言ったような・・・努力みたいに見えても、効果は出来ないもがき?
  ウーム そうかも知れません。
 (そうでないことを祈りつつ)でも楽しければいいか

惰眠癖もあるけれど

2008-01-22 18:07:40 | Weblog
 今日は久しぶりに睡魔との闘いが続いている
 事務所の中で私の席は外来のお客様から良く見える場所だし、他の職員が良く通る場所だし、事務所の中央付近だから目立つ場所です。
 こういう時に限ってお客が少ないし、電話も少ない・・・全く皮肉なものです
 但し閑を持て余しているわけではなくて、本当に眠い 
  パソコンに入力中に・・・知らない間にキィを押しっぱなしになっていて・・・天文学的な桁数が入力されていたり、エクセルの果ての方までカーソルが移動していたり・・・全く油断も隙も無い!?

 原因はハッキリしているのです
  まあ老人性の寝ぼけ癖は有り、惰眠壁も有りの下地があるところへ
 夕べはなんとなく早く眠ってしまって、目が醒めたのが草木も眠る丑三つ時・・・には少し早いけれど、午前1時半には目が醒めてしまった。
 私は多少オカルト的なことも嫌いではないのですが、生憎ここは古くからある町ではない。
 つまり元海の中が埋め立てられて町が出来たところだから、古い町みたいな風情が無い。
 目が醒めてベッドから手を伸ばしてカーテンを少しめくって、「雨も雪も降っていない」と確認するのがせいぜいで、計画的な街路とコンクリートのブロックみたいな町ですから・・・
 整然としてるといえば言えるが、風情も無いわけで・・・冬の丑三つ時ですからタダ寒いだけです。

 と言うことでネット接続、対局リストを見たけれど今ひとつ興味が湧きそうな対局が無い、対局待ちリストにも”先”の範囲での名前が無い・・・しかし直ぐに眠れそうも無い。
 そんなことで棋譜入力を始めてしまいました。
 2局入れた頃には眠気など全く無し
 それで、土曜日に借りてきた本を読み始めたのが運の尽き・・・
 面白くなってしまって・・・気がつくと既に5時半を回っていて台所から朝ごはんの支度をする音がしているではないか
  それでそこから7時まで眠ったと言う次第
 やはり変則的な睡眠・絶対的な睡眠時間不足らしく、今日の午後はたっぷりとツケを払わされている感じです。
 
 午後3時に頂き物のお煎餅が配られました(マア薄焼きせんべいの小袋)
 いつもなら食べないことが多いのですが、今日は眠気対策?で食べる。
  ポリポリやっている間は眠らないでしょう
 メントール入りののど飴を嘗める・ペットボトルのウーロン茶を飲む・・・なかなか涙ぐましい努力の甲斐あって何とか乗り切れたようです。
 後は帰り道に事故の無いように帰るだけです
  車通勤で無いから・・・自転車通勤ですから居眠り運転はしないでしょう。

 さて、眠気の方は夕方の薄暗がりが近づいてくると霧が晴れたように薄まっていくのだから不思議ですね。
 私などアフター5で提灯の下がった店に行くわけでも無いし、真っ直ぐ家に帰るだけなのに夕方になると自分でも不思議なくらいシャンとした気分になるからおかしなものです。
 昔この時間から碁会所に行って・・・その後麻雀に明け暮れていた時代の名残だろうか?・・・「いい年をコイテ」と笑われそう・・・いや自分で哂ってしまいます。

バッティングの話

2008-01-21 17:22:26 | Weblog
この間の土曜日からNHKで「フルスウィング」というドラマが始まりました。
 元中日のバッティングコーチをしていた人の実話とかで、前宣伝があったのでなにやら気にはなっていたのですが、第一回目放送の当日「土曜スタバ」を見て感じることがありました。
 ドラマのストーリーの本筋ではありません。
 主役の高橋さんがドラマに当たってプロから教わったと言うバットスィングの件です。
 そう、言葉にして教えて、形をやって見せて教えるならああいう風に言えば良かったなと、昔子供たちの野球チームのコーチ手伝いの頃を思い出しました。
 当時私はよくティーンバッティングに付き合っていましたが、感じることがありました。
 要領よく練習をする子がいるのです・・・いや本人は必ずしもズルをする気持ちではないでしょうが、こういうことです。
 例えば守備練習でノックを受ける時、ギリギリのタイミングで追いつけるかどうかと言うゴロに飛びついてまでチャレンジしない。
 失敗をしそうもないゴロはキチンと捌く。
  つまり、見てくれだけではエラーをしませんから、もしかしたら上手に感じてしまう。
 意識してそうしているのかは知りませんが、多分育ってくる過程で「失敗をしない子」を期待されて、その期待に答えるような行動が沁み付いてしまったような気がした。
 ティーにしてもそうです。
 練習は上手です。
 バットにボールを当てるのが巧い・・・本人もそういう思っているらしかった
 私はそういうものに不満を感じて
 「最短距離でバットをボールと当たる位置まで振る」
 「バットを思い切り振りぬく」
 このことばかり言っていましたが、サテ何処まで当時の子供たちに伝わったか
 
 こんなことを言ったのには実は古い記憶に基があります。
 私が高校を出た年にその高校に入学してきた1年生がいました。
 彼はその年に新しく監督になった人の方針にも合い、1年からショートでレギュラーとなった。
 尤も部員が少ないチームでしたから可能性にも恵まれていたでしょう
 ともかく先輩部員などから見ても「あいつのユニフォーム姿が一番カッコ良い」と言われていたから、野球センスがスタイルにも反映していたらしい。
 それと何と言っても彼の打球が違った。
  バットに当たったときの音が違う・・・同じヒットでも金属音がする
 当時は木製バットの時代です。
 彼は大学卒業後当時の大洋ホエールズでショートで1番で活躍した。
 だから、プロにまで行く人は打球のノビが違う・・・ということをプロになる前から見せていただいたと思う。
 逆にああいう打球を打てるようでなくてはプロになれない・・・
  マア子供の野球にそういうことを言っても仕方ないのですが

 そういうことでプロで活躍する人は子供時代から違う・・・
  それは先に行って振り返ってみて都合の良いところだけ取り上げると言うのではなくて、、、囲碁でもそういうところはありそうですね。
 皆が皆そうなのかどうかはプロの先生方に聞かなくてはいけませんが
 このことについては、今「趙治勳傑作選1」を読んでいて改めて感じました
 冒頭の一局は趙治勳さんと林海峰(当時六段)の五子局です
 それは木谷一門百段突破記念大会公開碁として打たれた・・・ステージでの安永氏の紹介の言葉
「この子は昨日羽田に着いたばかりです。まだ6才ですよ。オギャーと生まれて直ぐ碁を打ち始めても、まだ6年ですからねえ」
 実際には5才の時に憶えたらしいから正味1年程度・・・
 なのに、プロに5子で堂々の打ちっぷりです
 しかも「幼いのにいろんな手を知っていて・・・」という打ち方ではなく、多少は「知らない手などで白に騙されるようなところは有っても」自分の考えで乗り切っていく・・・そのハンデが5子
 勝敗は問題では無いというけれど、やはり堂々の勝利です。
 趙さんが棋譜を振り返って見て「林さんは下手を負かしには来ていない」とは言うものの、普通のアマなら先生が「勝たせよう」としても勝手にコケしまうのですから・・・ましてや6才。
  
 さてさてドラマ「フルスウィング」でのバッティング話と今読んでいる趙さんの本が何処かダブって感じました。

星打ちが無い

2008-01-20 15:55:53 | Weblog
 江戸時代全ての話ではありませんが、今入力している道的、因碩、道知の辺り、時代で言うと富士山が最後に噴火した宝永年間くらい・江戸時代になってから100年くらいでしょうか、棋譜を見ていて星打ちが有りません。
 勿論この時代の全ての棋譜があったとしたなら膨大な量になるでしょうし、本に収録された棋譜だけで判断するのは木を見て森を論じるようなものですから断定は出来ない。
 それでもこの時代を代表する打ち手の棋譜に現れないと言うことは、無かったのかもしれませんね。
 家元制度みたいな形で囲碁の打ち方が継承されていくようなところがあって、或る家元では”小目にかかられたら,挟みは2間”みたいな定型があったりします。
 ですから、もし何処かの流儀で研究され、お師匠さんから”これは良い”などと認められれば必ず棋譜に現れると思うのです。
 一門挙げての研究されるはずだし、逆に「非常識」なるものは問題外で視野の外
 研究成果は剣術の免許皆伝とか奥義みたいに研究結果は門外不出的な感じです。
 私としては囲碁を憶えたては「打ち出しはヘボとは言えど小目なり」みたいなもので、自分の小目に打った石の方向の組み合わせを考えるのがせいぜいでしたが、あるときから「星打ちのほうが簡単」と言うか「単純?」な感じがして、星打ち派に転向した。
 これは碁の理屈が分かっているわけではなくて、どちらかと言うと「星打ちの方が序盤の省エネ」みたいな感じがしただけです。
 実際に一時期相手の布石と関係なく「二連星」ばかり打って来ましたが、そういう「二連星居士」と言うか硬直化したことではダメなので多少は工夫らしきことはするようになりました。

 ともかく今の所星打ちが出てこないので、逆に言うと小目関係の勉強にはなっているはず・・・なんですがマア、ミリ・ミクロ単位の進歩でしょう
 圧倒的に多いのが小目、次いで意外と目ハズシが多くて、高目もけっこう出てきます。
 つまり星だけが無いという感じです
  「囲碁大系4」の大平九段の解説にもあったようにこの時代の布石は辺の意識が強いそうです・・・そういう意味でも目ハズシや高目が出てくる頻度が高いのでしょう。
 星のほうは甘さだけが目立っていたんでしょうね。
  小目に小ケイマかかり、安井家流の2間挟み、あるいは本因坊家の3間挟み
  小目に小ケイマかかり、かかりっぱなし、あるいはかかられっぱなし
  小目に小ケイマかかり、コスミ受け・・・相手が手抜きの場合後にカケ・・・一間とび受けもしくは2本ハイ
  このような展開がたくさん出てきます。
 かかりっぱなし、とかかかられたままでの手抜きの呼吸がイマイチ理解できないので、分からない部分が多い・・・と言うことは勉強しているのかなと・・・
 たくさん棋譜に接していけばなんとなく呼吸が分かるようになることを期待しています。
 もっともこういうところは素人なので、「相手が定石どおりに打ってくれないので困ってしまう」とか「相手がちゃんと打たないからこっちが間違ってしまった」などと・・・冗談みたいな未来が今から予測出来ます。
 囲碁・落語が好きで囲碁も落語的な落ちに向かって進んでいるかも。

碁隠居さま

2008-01-19 15:59:51 | Weblog
 今日は土曜日ですから、図書館に行く日です
  朝の9時半には出かけます・・・片道自転車で5分しかかかりませんが、寒いのが苦手なので重装備に時間がかかります。
 行き帰りの時間と同じくらい手間がかかる
  さて前回借りた本は無事棋譜入力を済ませて返却
今回は5冊借りたうち2冊が囲碁関連の本です
「日本囲碁大系5 道知」 解説 坂田栄男  昭和50年 筑摩書房
  初版の発行年月日を見て驚きました。
  かなり昔から見かける本だとは思っていましたが、私が27,8才のころ発行されているのですね。
 丁度この頃会社勤めに、なにか物足りなさを感じていた頃で、たまたま町で見かけた「囲碁将棋道場」の看板に魅かれて入門した時期と重なります。
 学生時代には仲間で打っていましたが、社会へ出てから数年のブランクがあり・・・もしあのまま囲碁を打たないでいたら今囲碁人口が1人少なかったかも知れません
 あの日を境にザル・碁キチの道に進んだと言うか、碁キチトラップに落ち込んだと言うか、そういう分かれ道みたいな出来事でした。
  まあ、当時は多分5級くらいでしょうから、この本みたいな立派な本とは縁が薄かったでしょう。
 本屋さんで見かけたとしても、内容は勿論大きくて重い本ですし、おそらく値段もなかなか・・・
  推薦が日本棋院、関西棋院、監修は岩本薫、橋本宇太郎、木谷実、呉清源、高川格、坂田栄男とずらり大御所が並んでいる・・・名前の重みで言うと相当力が入っていたと思われます。
 
 前回思い立って棋譜を入力し始めたのですが、1冊終わったところで「2冊目はどうしようか」決めていませんでした。
  どうせやるなら「囲碁大系1」に戻って始めるべきか・・・それが良さそうな気はしていましたが、囲碁大系4の解説を読んで現代と布石があまりにも違うと言う事を読み、(生意気にも)確かにそうらしいと感じたので・・・戻るとしたら「道策」かなとは思いましたが、たまたま貸し出し中なのでこのまま「囲碁大系5」に進むことにしました。
 マア「入力する遊び」みたいなものなので、今後は気分でスキップしたり行ったり来たりしそうです。
 「囲碁大系5」は本因坊道知で、収録は全部で28局ですから1日の平均は2局
  何かの都合で出来ない日があるかも知れないので、時間と気持ちに余裕があれば3局が望ましいというところ
 これは、年の初めに「1日1局」で始めたのに、なんだか風向きが違いますが、これも遊びですから、やれれば続くしやれなくても誰にも迷惑はかからない
  そして無謀にももう1冊
「趙治勳傑作選1」(名人への道) 1993年 筑摩書房 を借りてしまった
 これは全3冊のうちの第1冊目、著者は趙治勳自身と小掘啓爾氏です
 正直言って他の本もあるので2週間と言う期間は短いでしょうが、期間延長という手もあるしボチボチ楽しみます
  
 そういうことなので、かなり忙しい日々が始まりそう
  と、言っても掃除・洗濯などしないし気が向いた時しか家の用事はしないし、出かけることも少ないから、女房殿から見ればこれまでとなんら変わったところは無い。
 ご飯を食べてお風呂に入って、TVの気に入った番組を見る(あまり多くは無い)以外は自分の部屋でネット碁を打つか観戦するか本を読むか・・・
 これで仕事に行かなければ「立派にご隠居」です
 何時定年退職しても生活のリズムが変わって変調をきたす心配は少なそうです
  もっともこういう生活は何かを生み出すとかと言うこととは縁が薄そうですから、所謂生産性が・・・
 だから「もっと表へ出たら」とか「部屋に閉じこもってばかりいないで」ということになりそう。
 なんだか「マイナス面」見たいな所を強調されているようなところがある。
  実際は逆なんですけれど
 落ち込んでいるから自分の部屋に閉じこもっているわけではない
 棋譜の入力にしたって、パソコンを居間に持っていってTVを見たり聞いたりしながら出来ないわけでもなさそうですが、自分の部屋で集中してやるのが好きなだけ。
 疲れたらネット観戦したり、居間でTVを見ながら休んでからまた囲碁に戻ると言う感じです・・・
  囲碁が分からない家族から見ると部屋に閉じこもって一人で何かをやっているのは「暗い」と映るようですね。
 面倒だから反論も説明もしないけれど・・・
 加えて何も生産しないから「非生産的」
  まさに碁隠居です
 ただし周りが恐れ入るような印籠が無いのが寂しいですね。

アホな子ほど可愛い!

2008-01-18 18:29:33 | Weblog
「アホな子供ほど可愛い・・・」実は私自身のことでも有る
  昔友人からズバリ指摘されましたね
 家は裕福ではないし、それ程甘やかされて育ったと言う記憶は無いのですが、何でも勝手にやらせてもらっていた点はやはり「甘い親」に育てられたと言うことかも
 尤もそれにはそれなりの努力は必要なわけで・・・家では良い子でいるわけです
  別段猫を被っているということでもありませんが、家の中で無用なトラブルは起こさないことが肝心
 だから高校生時代モダンジャズ喫茶の薄暗い席が定席だったり
  そういう費用を少ない小遣いでやり繰りするのに、パチンコ名人になったり
 そういえば大学が受かった時パチンコ屋のお姉さんに「当分は来られないよ」と挨拶をしたら、「え!?浪人ではなかったの」と驚かれたことがありました。
 マア高校時代は部活4つを始め、良いことはともかく、好きなことをやっていた時代でした(お巡りさんのお世話になるようなことはしませんでしたが・・・多分)
 この時代の同級生が大学を卒業して何人か兄の勤める会社に就職・・・兄の部下になった。
 「彼にはいろんなことでかなわなかった・・・」とバラされてしまった。
 「いろんなこと」が問題ですが
 さてあれから40年、自分が親になって、我が家にも可愛い息子がいる
 夕べ久しぶりに電話がかかってきました 
  いや、本当は「久しぶり」と言うのはおかしいです
 せいぜい10日か2週間ぶりに過ぎない
  私自身は大学生時代に最大2年間家と音信不通という記録?がありまして、市役所の人から「住所不定」になりますよと叱られたことがありますが、それにくらべたら2週間なんて「甘えん坊」
 しかし母親は違う!
  何だかんだと長話をしている
 生活に無駄使いをしないように注意をしながら、長電話なんだから・・・
  最近は携帯も安くなったとはいえ長電話は長電話
 むかしなら電話は用件を伝える道具でしたが、今は話をする道具ですね
  「ルームシェアの相手にガンガン言われてしまって(ドイツ人に英語で)落ち込んでしまったので今日は学校をサボって・・・」親に言うか?
 「○○の町のお店を覗いて気晴らし・・・」昔なら落ち込んだら部屋・家から出なかったのだから、多少の進歩?だろうか
 そう思うところが、「アホ子供」と「親馬鹿」の見本ですね
 
 さて、いつもなら私は電話に出ないのですが、本人からオヤジ指名
「Jの移籍とか、どうなっている?」
  なかなか巧い・・・「オヤジの機嫌を取るにはこの手の話題が好い」と分かって来たようだ。
 そういえば二人で、日本平、国立、フクアリによく行ったものです。
  電話で、向こうでの生活のこととか勉強のことは一切話さなかった
 専らサッカーのことだけでした・・・多分女房殿も呆れているでしょうね
  アホな息子と、アホなオヤジです
 サッカーの話題をもう一つ
  あちらで、スペインの草サッカーグループと日本からやってきた仲間が公園でサッカーの試合をするそうです(息子もメンバーに入れてもらっている)
 そこへブラジルからやって来ている人たちのグループが入って、週に2日はサッカーだそうです。
 マア何の勉強か・・・
 学問と言うより語学中心ですからそれも有りかも知れない・・・
 バドリッドダービーの試合は後援会みたいな会員しかスタンドで感染できないらしい・・・代わりにバル(バーと言うかレストランというか)で放送を見るのだそうです
 いずれにせよ、これが勉強だなんてうらやましー

 いずれにせよ向こうではサッカーを通じて何らかの交流はあるようです
  するともし、囲碁を教えておいたら、囲碁で交流が出来ただろうか?
 数は少なくてもきっと何らかの交流は出来たと想像
  惜しいことをした様な気がする

シーラカンス

2008-01-17 18:20:02 | Weblog
 夕べNHK・TVでシーラカンスを見ました。
 感動と言ったら少しオーバーですが、いかにも古代魚と言った様子に見入ってしまいました。
 手足みたいな骨の有る鰭とか、相当丈夫そうな鱗とか、光を反射して光る目
 タンザニアで船からリモコン操縦して潜航する機械でシーラカンスを撮影に成功
 南アフリカでは人間が潜って撮影に成功・・・こちらは深さ100m
 10mで1気圧ですから、10気圧の世界は想像を絶します
 先日5800mのキリマンジャロ登山では、ゆっくりゆっくり・ポレポレで体を慣らしながら登っている映像でしたが、深い海も慣らしながらのゆっくり潜航
 急ぐと血管が詰まる事故が起きるのだそうです。
 それはそうですよね、頚動脈など皮膚に近いですから水圧の影響もおおきいでしょうし
 また、浮上するのも急ぐと確か血液が急に圧力から開放されて沸き立ってしまうような潜水病の危険があるので、水中で時間をかけるので一人が5,6本の酸素ボンベを持っての潜水です
 まるで100m下のシーラカンスにボンベの配達みたいですね
 危険を乗り越えて苦労の甲斐あって撮影成功
 まるで逆立ちみたいに静止したかの様な姿勢から、通りかかった小魚を一気の丸呑みの場面
 上あごまで動く様子、普段は省エネの様子など・・・
 ところで今世界でシーラカンスが確認できるのはタンザニア、南アフリカなどアフリカで3箇所とインドネシアを入れて全部で4箇所
 そしてそれらのDNAを調べると・・・およそ3500万年前からこれらの地域のシーラカンスは交流が無いということらしい。
 DNAでそういうことが分かってしまう科学の力も凄いけれど、3500万年経っても4箇所のシーラカンスは皆同じ形をしているのも凄いことなのだそうです。
 極端に言うと3500万年という時間はネズミが霊長類みたいに進化していくことが出来るくらいの時間だとか・・・変わらないと言うことが凄い
 確か人間の祖先の骨は40万年前くらいの地層から発見されたような記憶が有りますが、その後の40万年に今の形に変化したとすると・・・高々40万年の進化でこれだけ変わるのですから、3500万年変わらないと言うのは・・・

 囲碁で言うと中国で紀元前3000年くらいの物ででしょうか、原型のような盤が発見されて・・・使い方が今とは違うでしょうが、ともかく5000年くらい
 石を幾つも盤上に置いてから打ち始める形から、日本で今のように何も無いところから打ち始める形になって1500年くらいだろうか?
 コミというものが考え出されてからですと100年も経っていないはず
  そのコミも4目半から、6目半に変化している
   さてこれからどんな変化があるでしょうね
 一番起きそうなのはルールの改正でしょうね。
  棋院ルールとか中国ルールとか「生き死にの処理」についても若干の違いがあるとか聞いていますし、地の数え方も違います。
 さて国際化が進んで、統一ルールになるのか、それともそれぞれの国では別々に進むのだろうか?
 少し心配なのは柔道みたいな変化です
  国際化と言う中で、日本が始めた柔道とは若干イメージが違ってきている
 世界スタンダードになったともいえるし、別の柔道みたいな感じもする
  ですから碁の方も考えてみると、日本国内しか見ていないと日本の碁は日本でしか通用しない様なものになりはしないかと言う気がしてならない
 日本が今国際戦で不調と言うか実績が残せないと言うか、そう言うこととは無縁であって欲しい・・・一過的な現象だと良いのですが・・・
 変化で言うと、例えば段位の評価・表示の変化が起きないだろうか?
  例えば、国際プロ免許見たいなライセンスとか、従来の段位表示ではなくS・A・B・C程度のクラス分けとか。
 「囲碁は中国で出来たけれど日本で発達した」みたいな意識も最近の国際戦の不振などで薄れつつはあるでしょう、しかしまだ「老舗の暖簾」意識を引きずっているような気がします。
 きっと気がつかないうちに世界スタンダードと違う道を歩いているかも。