なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

友達を思い出す言葉

2009-07-31 01:49:04 | Weblog
 普通に話したり考えたりしている時・・・当然こういうことは言葉で行うわけですが、使う言葉・単語によって思い出がよみがえることがあります。
 言葉そのものは一般的なものであっても、あたかもそれが固有名詞みたいに心の中では特定な人と結びついているものもあるのです。

 昔・・・大学を出て社会人になったばかりとはいえ社会人の自覚が無く、学生気分の延長みたいな気分で生活していた頃の時代です。
 私としては趣味の中に囲碁は入っていましたが、それでも囲碁道場に通うようになる以前のことですので、趣味「囲碁」「競馬」「麻雀」が同じくらいの比率で混在している時代。
 社会人と言っても、単に仕事をして生活費を稼いでいるということであって、仕事をする主たる動機としては遊ぶために仕事をしているだけみたいな形でした。
  周りから見れば危なっかしい生き方でしょう・・・それでも俗に言う「飲む」「買う」は無い、専ら「打つ」専門で、しかも一定の限度内で遊んでいたところはあるので、要領よく遊んでいるとも言えなくも無い。
 マアそんな頃
  週末には学生時代の仲間が我が家に集まったものです・・・我が家と言っても2DKぐらいのアパートですが。
 これは恒例の麻雀で、土曜日の夜に集まれば徹夜という事ですが、麻雀独特の音を極力出さないことと不用意な大声を発しない事・・・これはアパートですから当然です。
 ちょっと変わっていたのは、はじめから打つ回数と順番を決めて置くことでしょうか。
 普通麻雀は4人で遊ぶものですが、徹夜で遊ぶのですから当然疲れる遊びです・・・ですから初めからメンバーは5人以上集まって、抜ける順番を決めてある。
 抜けたら仮眠を取るもよし、皆のためにラーメンを作るもよし。
  それと終わりの時間を設定して遊ぶ回数もあらかじめ決めて置きます。
 概ね、近所の食堂で「ランチ」が始まる時間に設定します。
  そしてその日一番勝った人が皆にランチを御馳走する栄誉に・・・
 従って一番勝ったといっても、大して儲からない場合は勝者の悲劇があるわけですが「御馳走する栄誉」は逃れられません。

 そういう時代友人にS君と言う人がいて、物静かですが時として鋭い指摘があるタイプ。
 彼の口癖は「膨大なゼロ」。
  彼の麻雀としてのタイプは「堅い」、大負けしないけれど大勝も少ない。
   見方を変えれば「巧い」けれど、力強くは無いかもしれません。
 従って一番勝ったとしてもそれは相対的な数字であることが多かったわけで、徹夜で労力を使った割には差が無いという意味。
 尤も、「皆にひれかつ定食を奢る栄誉は譲れない」と冗談を言っていたものです。

 こういう友人たちとの遊びはそれぞれが仕事の場での責任が大きくなるにつれ、それぞれが家庭を持つようになり自然に無くなっていくものです。
 そして彼も故郷に帰って行ったのですが、数年後に亡くなったという・・・
  帰郷後は誰ともつき合いが無くなったようで、所謂風の便りで知りました。
 今でも「膨大なゼロ」は彼の記憶が蘇るキーワードになっています。
  麻雀に限らず囲碁をであっても、対局数が膨大であって結果はイーブンみたいな時、ふと頭の中に「膨大なゼロ」がよぎります。
 「こんなに打っても成長するわけでもないのに」という自嘲めいた意味と、「こうやって仲間と遊んでいる」という思いと・・・さてこれは大いに無駄なのかそれとも幸せな事なのか。
 

鷹揚な打ち方が出来ません。

2009-07-30 05:07:07 | Weblog
 先日名古屋場所が終わりましたが、最近相撲を見ていて「横綱相撲」という感じの相撲が見られなくなったような気がします。
 表現が適切かどうかわかりませんが「勝敗を争うスポーツ」としての相撲になっているような気がします。
 昔ほど力士間の実力に差が無いというか・・・
 立ち会いのテクニックが勝敗を左右する確率が高い・・・相撲というスポーツでは当たり前でしょうが・・・それが早く立つことに意識が行って、きれいに立つという方はややなおざりにしているような気がして、私としては立ち会いに”いやらしさ”を感じる相撲が多くなったような気がしています。
 それと勝負の最後の瞬間・・・
 豪快に投げ飛ばすことも相撲の醍醐味なんですが、一方で既に勝敗が決しているような形なのに、なおかつ土俵下に突き落とすような場面が増えています。
 ”かばい手”のような相手を思いやるような形はまずは見られなくなっている。
 それだけ勝負が厳しくなっているともいえるし、力士間の実力差も小さいので、そういう勝負以外のところで気持ちを働かせる余裕が無いのかも知れないとは想像はしているのですが、一方で人間のスケールが矮小化しているようなかんじもするので、少し寂しい気もします。

 ところでアマのザルどうしの囲碁では横綱相撲というのは無理な話です。
  立ち会い相手十分でも受けて立って、がっちり相手の圧力を受け止めて、逆に前に出るとか圧倒する・・・
 これが出来るのは、例えば向こう3子くらいの相手が楽番で向こう先で打つような時くらいでしょう。
 いや、これでも横綱相撲などと恰好をつけていると“金星”を提供してしまうかもしれません。
  
 問題は多分対局条件での打ち方より、プレイスタイル・棋風の方でしょう。
  囲碁の場合は仮に相手十分でもこちらも十分という別れがあるはずで、定石と言われるならそういう形になるはずで、コミによって必ず勝敗が決まるとは言ってもそれは最後のヨセの場面までいかないとわからないはずです。
 勝負である以上「相手には十分な体制はとらせない」中で「自分十分を目指す」わけですが・・・どうも性格が悪いというか、後者の方に意識が行きすぎるようなところがあります。
 だから時として「囲碁って性格が悪い方が強くなるんですよね」などと言われてしまったりする。
 「よく考える」=「相手の邪魔をすることを考える」ような・・・
   
 水曜日に一局打ちまして・・・飛んだり跳ねたり、時には相手に目くらましをぶつけたり・・・まさに私らしい碁ではあったけれど、打ちながら自分でも「こんなんで良いのか?」と思いながら打ちました。
 徹底して相手に地を持たせない打ち方というか・・・自分でももうちょっと鷹揚な打ち方の方が良いような気がするのですが、具体的にはどうすればよいかはわからない。
 知り合いに言わせると「時として友達が出来ない打ち方」なんだそうで
  別な表現で言えば「厳しい」のなら良いのだけれど、単に「セコイだけ」だったりしますから、そこが問題です。

 勝負は運よく「中押し勝ち」でしたが、対局終了後の「たいへん勉強になりました」という文章が気になります。
 その言葉の上に「こんな碁も有るのかと」という言葉が乗りそうで、素直に喜べない1勝でした。
 これで今月は5勝4敗・・・星取りとしてはともかく、内容はマダマダ。

お盆絡みの話題かも

2009-07-29 05:23:34 | Weblog
 先日嘗ての同僚が残念なことに旅立った話をしました。
  彼とは1年半くらい机を並べた仲ですが、無口なタイプだし自分の話はしない人でしたから、彼が私と同じ県の出身だということは彼が病気で長期療養に入る直前まで知りませんでした・・・しかも大学も同じ・・・同じ時代に同じ場所で同じ空気を吸っていたという事です。
 マア、彼は真面目に勉強していて私は遊んでばかりいたので接点はなかったでしょう。
 残念なことになりましたが、葬儀は故郷でで行われこちらからは元上司と同僚が代表で参列しましたが・・・こういう種類の話・場面になると、よくわからないけれどオカシクなって来るのですから私の性格は悪い。
 人が悲しんでいる場面で・・・イヤ深刻な場面ほど笑いたくなるのですから困ったものです。
 これは他人事だからという事でなくて、自分の両親の葬儀でも火葬場でもそうだった・・・深刻な顔・顔・顔、湿っぽい読経・・・僧侶の顔を見て・僧侶の声を聞くとついつい「笑っちゃうしか無いではないか」という気分になり、そういう衝動に駆られてしまう。 
 さてさて困った性格ですが、今回は別の問題で笑ってしまいました・・・(公然とではなく心の中だけです)。

 彼の場合は病を得て、恐らくは本人も親族も避けられない問題と向かい合ったはずです。
 それは私など想像もつかない心理でしょう。
  しかし、同情する余裕があるのか無いのか?
 よく考えたら、事務所の中で仮に彼に続く順番をつけたら、かなりの確率で私は上位のはずです。
 しかも彼のように「向かい合う時間」は無いのかもしれませんし、日々向かい合っているとも考えられなくもない。
  少々品位に欠ける囲碁用語出言うと「アッと言ったがこの世の別れ」となるかもしれません。
 何といっても前の主治医には「あなたは数年後には必ずバイパス手術が必要になるでしょう」とタイコ判を押されているのですから。
 心臓周りの血管に難点があって、血圧が高くて、血液も不良品・・・そうして見るとよく生きていると感心したくなります・・・オーバーに言えば日々サバイバル
(本当はそういう生活を楽しんでいるところも少しはある)。
 さて、アクシデント(イヤ想像できるのでアクシデントとは言わないかもしれませんが)が現実になったら!
 毎日の自転車通勤は良いとして、軽いウォーキングは良いけれどジョギングはとんでもない話で、団地を訪問して5Fまで一気歩いてに上った話を担当医師にしたら「無茶はしないで下さい」と注意されたほどです。

 でもマア、仮にアクシデントが起きたら・・・
  盛大なお別れパーティは願い下げですが、家族と親族、知人ぐらいはお別れしたいものでしょう。
 ところがその時中央に飾る写真が無いことに気がつきました・・・例の菊の花に囲まれた額入りの肖像写真は用意が無い。
  私は自分の顔が写る写真が嫌いなので、一番最近なのは娘の結婚式の集合写真しかないはずです。
 モーニング姿は良いとしても、祝いの恰好の写真しかないなんてなんだか可笑しいですね。
 また従兄弟に肖像画専門のプロはいるけれど、アイツに頼むと相当ぶったくられるに違いないから、そういう無駄は出来ません。
  代案も思いつきました。
 顔ではなくて手の写真が代役にならないだろうか?・・・中指と人差し指で石をつまんで、まさに打ちおろそうとする瞬間の手・・・これならひそかに用意出来そう。
  「家族よりも囲碁を愛したヘボ碁のオヤジ」にぴったりでしょう。
  それに、自分の顔を見なくて済むし
 それとヘボながらも考えて打とうとする気持ちだけはあったという事で、手で湯呑を持っている場面の手と湯呑の写真も良さそう(顔は無し)・・・
  もうひとつオマケに、扇子で「パチッと鳴らす瞬間」の写真。
 出来たら呉清源師か石田芳夫先生の扇子が良い・・・

 こんなことを考えているのですから、楽しい想像で、悲しい顔にはならないはずです・・・昔から一人遊びの天才だったかもしれませんが、やはり、まじめに生きているのかどうか疑われるに違いない

減量目標15㎏!

2009-07-28 04:36:22 | Weblog
 先日”もののはずみ”で私が家族の前で「体重計が必要」と言ったために、女房殿が即注文をして、体重計が宅急便で送られて来ました。
 いつもなら支出が絡むことには消極的な女房殿が・・・何と早い反応!!
  そして私の部屋を3歩出たところに、固い床の上に置いてあるのです。
 電池式で、つま先でつつくとスイッチオンとなる。

 さて、体重計が必要と感じたのにはきっかけがある。
  毎月受診している生活習慣病クリニックでも必ず体重は量るし、循環器内科でも測るのですから少なくとも毎月の変化はわかってはいます。
 しかし、「毎日計測することで自分の体重を意識しなさい」・・・みたいな事がありました。
 職場で毎年受診している健康診断ですが、今年は8月に予定されている4回の内都合のよい日に受けなさいと受診票が送られて来ました。
 受診内容は毎月かかりつけのクリニックのもの・総合病院での検査と大差はないのですが・・・マアせっかくだし受診します。
 それに内科のレントゲンとか視力・聴力検査もあるのでやっておいた方がよさそうです。
 その受診票には過去の記録も打ち出されていますが、問診欄もあります。
  <自分の健康状態>・・・マアこれはどの程度不健康かの自覚を書く欄、それに<両親。親族の病歴>・・・父は高血圧で母は認知症。
 そして最後の方に<若い頃のベスト体重から10㎏以上増えているかどうか>という設問がありました。
 私の場合ははっきり「増加」している。
  つまり、この時の体重に戻す・近づける努力をしなさいと読める。
 一般に言う身長から割り出した理想体重というものではなく、若い頃の嘗ての体重に戻しなさいという、非常に具体的な目標設定とも言える。
 マア、それが体重計を意識した主たる動機です。

 先日この体重計に乗っていると息子がやってきて、「どう?何キロ」と声をかけられました(半分冷やかし気味)。
 彼も運動不足兼摂取量過多の傾向があるので、運動ジムに通っていいるくらいだから興味があるのでしょう。(尤も、体重を気にするのなら「オヤジに似ずに缶ビールばかり飲むな!!」と言う言葉を飲み込みましたが)
 「目標体重は?」と、質問は続きます。
 「そうだな、、、あと15㎏」
 「エッ!!あと15?・・・ハハハッ」
 
 とてつもない目標かもしれないけれど、半ば本気・・・マア挫折する可能性も大きいしリバウンドとも戦わなくてはいけないので「本気度は50%」としておきます。
 方法は、運動での減量ではありません。
  運動・これは努力する割には効果が余り期待できない・・・エネルギーの燃焼での効果は・・・運動は筋肉が減らない程度で良いと思っています。
 やはり、入って来るエネルギー・カロリーの素が問題でしょう。
  そこで方針としては
 「3度の食事はきちんと摂るが、過剰にならない事とバランスに気をつける」
 それと「間食は出来るだけ避けること、ことに夜8時以降はお茶以外は飲まない」
  方法はこれだけですが、後者の実行がなかなか大変です。

 さてさて、目標が大きすぎたかも知れないし、達成までに相当時間がかかりそうなので「覚悟の持続」がかなり難しそうだと初めから逃げ腰なのが我ながら情けない・・・やはり「口は災いの元」なのかも知れません。
 ともあれ「何かをやる」より「習慣化した事をやらない」方が難しそうです。

我が家の怪奇伝説?

2009-07-27 17:44:30 | Weblog
 この間の週末のことです、家のすぐ近くに保育園があるのですが、そこから例の”アラレちゃん音頭”が流れてきました。
 これはこの時期恒例の保育園の「夕涼み会」,,,毎年この歌がエンドレスで流れるのです。
  昔はもっと大音量のスピーカーから繰り返し音楽が流れてきて、「アラレちゃん音頭シンドローム!?」になりそうなくらいでしたが、流石に最近のご時世というか、音量が小さくなってきたようです。
 マア、うちは子供たちがお世話になったので、自分の子供たちがいなくなった途端のクレームをつけるようなことも出来ないので、こういう場合はひたすら耳を塞いで耐えるしかなかったのです。

 息子にとっては、この曲は夕涼み会の時に行われる「お化け屋敷」の思い出とつながっている。
 パネルで迷路を作って、その上からシートを被せただけの簡単なものですが、まさに子供だまし的な効果はあったようで、これがあると息子は一人でお風呂に入れなくなったり、トイレのドアを閉められなくなったものです。
 子供ですからそんなものかも知れませんが、幾ら幼くてもやや情けないムードはある。
 
 私も子供時代には、この夏の時期はずいぶん鍛えられたものです。
  本家の従兄弟は一人息子なので、家にいてもつまらないらしく夏休みなどは年中我が家に遊びに来て泊っていたものです。
 この従兄弟がうちの姉(次女、三女)と一緒になって私を鍛えたものです。
  (若しかしたら、その楽しみがあるから遊びに来ていたのかも・・・)
  従兄弟は講談調の語りものが得意で、夏ですと円朝の得意な「牡丹灯籠」を訊かせるのです、更にはどこで仕入れたのか怪奇話が得意でした。
 私は内心怖くて仕方が無かったのですが、意地・見栄を張って平気な顔を装っていたものです・・・それでその代償が夜のお使い係ですから割に合いません。
  末っ子はこういう時に便利係だし、怖いから嫌だとも言えない性格だし・・・

 今でもあるかどうか確かめていませんが、一時ネットに「心霊スポット」というような記事がありました。
 そういう表現に当てはまりそうなものが、家の近所にもあって夜のお使いコースには4つも・・・
 「無人踏切の脇にある慰霊碑」、そのすぐそばの「おばあさんが溺死した池」、「女子工員が殺されて遺体が隠されていた農道わきの小屋」「首吊りのあった神社の中の大木」・・・これらが私が夜に父の本家の神社にお使いに行く時の最短コースにある要注意スポットです。
 幸いにも怪奇現象にはあったことがありませんが・・・マア今と違って夜の道はせいぜい電信柱にぶら下がっているブリキの傘つきの電球程度しかない時代ですし、農道にはそれすらないのですから・・・ともかく鍛えられたものです。

 実際に説明不能なものを目撃したことはありませんが、後で聞いて嫌な気持ちになったことはあります。
 若いころ妻の実家に遊びに行って、その頃趣味にしていた渓流釣りに行きました。
 狙いはヤマメなのでうす暗い時間には釣り場となる渓流に降りて、朝6時程度には日が昇ってしまうので納竿となるような薄暗がり専門の釣りです。
 従って、真夏とはいえ夜中の2時ごろには人気のない山道を車で走ってしかるべき釣り場に入る・・・釣りの性格上近くに人家はないし、人通りも全くありません。
 道路わきの多少道が広がったところに車を止めて、道脇の小さな小屋の横を通って渓流に降りて行く・・・この時間は、懐中電灯の明かりが頼りの時間帯ですが、魚を驚かさないように足音も立てないように、灯りも振り回さないように足元だけを照らすような感じで歩くのです。
 さて、釣り場に行くときも、渓流での釣りでも何も起きませんでしたが・・・実は道脇の小屋は「殺人事件の遺体を隠してあった場所」だと聞いて・・・なんとなく嫌な気持ちになった。
 マアその時に何かを見たり聞いたりした訳ではありませんから、実害的なものは何もないのですが、やはり気持ちが良いものではないようです。
 尤もその後数回そこには同じような時刻に行ったのですから、私もずーずーしいのかも知れません(いつも単独行です)。

 ところで、私の姉の中学校当時の担任の女性教師は、その方のお母さんとの二人暮らしでしたが、住居はお寺の墓地のすぐ横の一軒家でした。
 見方によってはお墓の中に家があるようにも見えるところで、例えれば「耳なし芳一が墓場の真ん中で琵琶を弾いているような感じかも・・・人に「先生、そういう寂しいところに住んで怖くありませんか?」と聞かれると先生は「生きている人間の方が怖くありませんか?」と答えるのが常でした。
 私も当時子供でしたが「ナルホド」と思ったもので、こういう経験が夜のお使いに耐えられる力になったのかもしれません。
 その「生きている人間の方が怖い」は今でも真理だと思っています。

 ところで「我が家に伝わる怪奇話」、実は代々伝わる話、私の母が見た夢の話、私が創作した?話などありますが、別の機会に・・・。

久し振りの2子局

2009-07-26 14:58:40 | Weblog
 土曜日の朝にサッカーの話を書きましたが、実はその前に一局打っていました。
  サッカーと囲碁ですから全く関連はないのですが、気分的にはその日の試合の結果を占うような気分です。
 全く根拠がない話ですが、勝てばなんだか縁起が良いみたいに気持ちよく観戦に行けるし、万一囲碁の方が負けた場合には「元々、囲碁とサッカーは関係ない」という都合のよい言い訳が用意されている・・・要するに都合が良い解釈をするのですから戦勝祈願みたいなもので、何かにこじつけて対局している。
 おそらく相手チームも必勝祈願をしているわけで、祈られた神様もたまったものではありませんねキット。

 さて朝も早くからネットの碁会所はお客が入っていまして、名前だけですが知り合いが数人打っていますから、彼らの対局を観戦しました。
 これはスポーツでいえばアップのようなものです。
  単に人の碁を見るだけのことではありますが、見ることで徐々に神経を囲碁モードに変えていくようなところがあると思っています。
  感覚というか神経作用というか、こういう準備運動が必要だと思っている。
 もし仮に、目が覚めてすぐに対局とか、あるいは仕事から帰って即ネット接続・対局、リアルの場合ですと碁会所に顔を出してお茶も飲まずに即対局・・・こういう時私の場合は最初の口開けの一局は半ば捨てゲームなる可能性が大きい。
  相手にも失礼ですし、自分本人にとっても何にもならない一局のように思えます。
 初めの一局はゆっくりとお茶など啜ってから打つベシと考えています・・・この方が相手にも失礼が無いし、結果に不本意な部分が少なくなると思うのです。

 さて「対局待ちリスト」を見ると丁度互い先くらいの人がリストアップされていたので、これはタイミングが良いのでこちらからもオファーを出すことにしました。
 ところが、これが微妙なタッチの差で、私のオファーが誰かのオファーに何分の一秒か遅れたらしく、リスト上には私の名前だけが残って「対局待ち」となりました。
 マア、そうなったら誰かが来るのを待てば良いだけですが、気分としては「ヤヤ、気合いをはずされた感じ」ではある。
 時間が空いて、誰も来なければいったんリストアップから自分の名前を外そうかなと思って、ボタンを押しかけたら今度も微妙なタイミングで対局申し込みがやってきました。
 このネットの場合はこれで対局は決まりです。(ネットによっては相手によっては対局を避けるとか、合意しないというところがありますが)

 手合いは向こう2子局で白からコミ3目半出し。
  これは褌をしめるというか(これまでの人生で一度も締めたことはありません・・・手術用のT字帯も・・・)、しっかり打たないといけない対局条件です。
 どういう条件でも真剣に打つつもりではあるが、いつも以上に気持ちを引き締める必要がありそうです。
 2子局は相手の力も自分の力はそんなに変わらないのにハンデを負っている、しかも白からコミを出しているわけですから、白から見て油断のならない相手との対局と言える。
 しかも相手にはある程度ヤヤ上手との対局という気楽さがあるはずですから、メンタル面では黒の方が少し有利のハズです。

 対局を始めると・・・案の定相手は強い。
  部分的な折衝はほぼ互角だし、互角の別れを繰り返せば進行とともに黒の優位が固まっていってしまうでしょう。
 ですから白としてはほんの少しずつでも無理をしなくてはいけないわけで、変な表現ですが「無理なく無理を出来るかどうか」、そこを反撃で突かれるかどうかが勝負の分かれ目になることが多い。
 こういう時私は白番で、やや暗い気持ちで打つことが多いかもしれません。
  「無理のない無理」は難しいもので、結局は「露骨な無理」になるので、自分の打っている手の「悪手性」「強引さ」「インチキまがい」を自分で感じながら打っていたり、「少し恥ずかしい」「ちょっとおかしいかな」などと思いながら打つのですから、悪人になりきれないのに悪事を働くような感覚?なんでしょう
 
 今日は結果では何とか白星を貰いましたが、多分これは部分的な戦いでは相手にも互角以上に打たれながらも、全体的な作戦地図が見えていたおかげかなと思います。
 部分では負けながらも相手の主力を捉えたような・・・
  という事で7月は4勝4敗。
 なんとか互角のあい星になりましたので、ここからが勝負ですね。
  ただ結果オーライ的な勝利でしたので油断は禁物「勝って兜の緒を締めよ」です。
 

家族で燃える!?日

2009-07-25 08:34:52 | Weblog
 血液型の特徴で言うとB型は協調性に問題があるとか言いますが、たった4つの型で複雑な人間の性格を分類するのは流石に無理だとは思う・・・のですが我が家は夫婦と娘息子4人全員がB型で、残念ながらマイナス面の特徴は当たっていないとは言い切れない面がある。
 人づきあいが良いとはいえない面、趣味などは幅が広くなく狭い範囲を深く、、、そんなですから微妙なバランスの上に成り立っているような感じもないではないが、少なくとも夫婦に関しては25年以上のキャリアがあるのだから案外バランス感覚が良いのかも知れません。
 尤も女房殿に言わせれば「私の忍耐と努力で成り立っている!」と言うに違いないので、この話は家の中では市内に限ります。
  マア、たった4つの血液型で性格云々を言うのも無理がありますが、それでも「B型家族」としては”そう”かなと思う面はある。
 現在は息子を入れて3人家族ですが・・・たった3人のほぼ唯一の共通の話題はサッカーです。
 それも、結構プレーの内容にうるさくて、試合を見ていても作戦やらプレイテクニック、あるいはファールの内容やレフェリングについて・・・
 ですから贔屓チームが勝ったか負けたかだけでなく内容が伴わないと皆の気分が高揚しない・・・要するに「勝てば良い」では駄目、いわゆるうるさ型に属するのでしょう。
 マアそれでも全員が同じチームを応援しているので、家族内でのサポーターどおしの諍いはないから安心です。

 尤も贔屓チームが不本意の結果だったり、内容がひどかったりすると家庭内不和ではないのですが沈んだムードが漂う。
 こういうときはサッカーの話題は一切無し・・・マア週の半ばぐらいまでは続きます。
 結果が良ければ晴れ晴れとした1週間という事で・・・考えてみると単純な家族ではある。
 それでも結果だけでは無くて、観戦しているときは作戦だとか選手それぞれのプレーの質とか、あるいはファールについてやレフェリングなどに話題にしながらの観戦ですから、家族以外の人が見たら”うるさい家族”でしょうね。

 サテ贔屓にしているのは私の出身地を本拠にしているチーム。
  いつもはTV観戦が主ですが、生観戦もある。
 たとえばカップ戦での国立での決勝戦とか・・・あるいは地元チームとの試合に贔屓チームがやって来る時、または私の故郷に帰省ついでに応援に行く時・・・
 いや、表現が間違っていました。
  観戦・応援のついでに帰省が正しいでしょうね、今年で言うと8月末に私の故郷での贔屓チームのホームゲームでのダービーマッチ・・・その”ついで?”に両親の墓参りと姉の家に泊めてもらう・・・
 もしその時期にダービーマッチが無かったら墓参りもしない親不孝息子!?・・・マア親孝行息子では無いことは確かですが、私の兄姉とか親戚にはそういうキャラだとほぼ公認されている。
 そして土曜日は住んでいる地元チームと贔屓チームとの試合が予定されています。
 当然家族そろってスタジアム観戦。
  少し早めに家を出て、スタジアムでのアップ・練習から見て、スタジアムでの選手紹介から楽しむ予定。
 試合だけでなくこういうことも見ないとスタジアムで観戦する甲斐がありません
  さてさて前日は、「遠足の前の日気分」
 
 試合はまずは内容に期待。
  プロとしての試合を見せてもらう事が一番、ついで結果が伴えば最高。
 更に選手が怪我をしなければもっと良い。
  悪質なプレイ、アンフェアなプレイ、あるいは拙劣なレフェリングは減点要素です。
 土曜日は試合が7時ですから夕方に出かけて10時過ぎには帰宅出来るはずですが・・・さてどうなっている事やら。
 

オヤジに訊くなョ!イツマデモ・・・

2009-07-24 17:53:56 | Weblog
 久し振りに・・・本当に久し振りに息子から勉強のことで質問されましたイマダニ)。
  
 娘と息子が子供時代には、家の中で「何でも相談」ボランティアみたいに訊かれたことに答えていました。
 尤も息子などは理解のスピードが遅いので、数学で幾何学的なの証明とか公式を使った計算など、早口で説明すると「早すぎる!!」とクレームがついたものです。
 それでいて、丁寧に教えると「わかっていることに時間をかけすぎる」と文句が出るのです。
 挙句成績が悪ければオヤジの教え方が悪いくらいに思われるのですから全く割に合わない話。
 勉強でも技能でも自分の子供に教えるということは、親としても子供としても感情コントロールが難しいようです。

 そういうことが分かっているらしく、女房殿は初めから面倒な事と面倒な問題が発生する可能性を回避して要領よく安全圏に逃げています。
 「私は家事で忙しい」「疲れているから今は駄目」・・・から「それはお父さんに訊きなさい」
 それは決して亭主を立てているのではなくて、「精神的な面倒と労力の回避」なのです。
  職業が教員なのですから義務教育程度なら教科書的問題に答えられないとは思えませんが、自分の子供に教えることの難しさを知っているのでしょう・・・

 そういうことで娘などの勉強には中学時代・高校入試・高校2年辺りまで付き合わされた・・・数学と英語は自分でも感心するくらい現役時代に叩き込まれた遺産があるらしく苦にはなりませんでしたが、さすがに生物・物理・化学・歴史などでは曖昧なこともあるので自分用に参考書を買ってひそかに予習などした記憶がある。
 息子の場合はそこまで熱心にはなれなかった・・・
  数学などの説明が理解できないと「オヤジの説明スピードが速すぎる」「わけわからない説明の仕方」などなど、出来ないのがオヤジの責任みたいなクレーム・出来の悪い息子がオヤジの出来の悪さにクレームをつけるのですから、教える方もやっていられないわけです。
  まさにわが子にものを教える難しさを経験して、「出来ないのは自分の責任だろ」という事を自覚するようにさせたい半面、「お前は出来ない」と断定的には言えないところが親のつらさです。

 それなのに勉強が好きではないはずの息子がいまだに学生をやっているのだから困ったものというか世の中面白い、、、自分のことを振り返ると彼もあと1年はしかたないのかと思うことにしている。
 「外国人に日本語を教える資格」を取りたいのだそうで、彼の現在の課題は「日本語」・「国語」なわけで、これは私にとっては最大の苦手科目。
 現代国語でも古文でも漢文でも文法と名のつくものはアレルギーを感じるくらいに苦手意識・コンプレックスを持っている。
 
 それなのに私の部屋に息子がやってきて「”ふくし”の事で教えてくれ』・・・
  一瞬私は「福祉活動」とか「医療問題」あるいは「奉仕活動」に関する質問だと思ったのですが・・・そんなことがあるわけがなくて「副詞」でした。
  学問的なことはともかく60年以上日本語を使って暮らしてきたのですから、敵前逃亡みたいに門前払いも出来ないので困りますが、そんなオヤジの気持ち理解していないらしい・・・嘗ての『わからない事はオヤジに訊こう』みたいに。
 「きちんと」「しっかり」「ちゃんと」について・・・「微妙な違いを説明せよ」・・・正しいかどうかは自分でも疑問ですがどうにか答えて、まるでオヤジがテストされているみたいでかなりの疲労感がありました・・・最もた正しいのは「オヤジに訊かない」こと!ダゾ。

知っている人が一人減りました。

2009-07-23 17:46:02 | Weblog
 地球上に50憶とか60億人生活していたとしても、話したことがある、顔馴染みである、同僚・・・そういう人は面倒ではあるけれど数えようと思えば数えられそうで,それは限りのある数字です。
 ましてや、一緒に仕事をした同僚ともなれば相当絞られて来ます。

 昨日市内出張から夕方事務所に戻ると訃報が机の上に置いてありました。
  昨年まで一緒に仕事をした同僚です・・・イヤ年令は私が2才上で、最近知ったのですが大学も同じところで私が先輩格、但しこの仕事に関しては彼の方の専門であり私の方が教わる立場でした。
 一昨年に同時に新しい職場に転勤して初めて出会って、昨年彼が長期療養に入るまでの1年半余り机を並べていました。
 昨年の秋に「故郷の病院で手術を受けるので長期療養に入ります」という事でしたから、印象としてはどこかの不具合を手術を受ければ回復するものと安易に受け止めていました。
 ですから、送別会も開かないうちに彼がさっさと入院したのも、復帰したらお祝いをすれば良いという程度に考えていたのです。
 思えば既に相当悪かったらしい・・・

 彼の思い出は仕事上のことを除けば、19年度の勤め先での休憩室の様子です。
  昼休みは私と囲碁将棋仲間3人は畳のある休憩室で囲碁あるいは将棋を指すのが日課でした。
 彼もその休憩室の常連ですが、彼の場合は囲碁を覗くでもなく、将棋をみるでもなく、ひたすらごろ寝でTVを見ていたものです。
 囲碁将棋には全く興味が無いらしいのですが、もしも昼休み風景という事でこの休憩室を写真に撮ったならば、碁盤を挟んで向かい合っている人の向こう側に必ず彼が寝転んでいるのが写っているはずです。
 そういう写真を見れば、その限りでは全く興味を持っていない人には見えないでしょうね。

 無口で愛想が良いわけでもない・・・彼の口から冗談を聞いたことが無い・・・それでもそこに彼がいないと寂しいものです。
 今の事務所に統合されて二人とも一緒に移動したのですが、ほかのメンバーは皆別の事務所に転勤という事なので、必要書類・資料の荷造り・整理は彼と二人やり、新事務所の二階に人力で運ぶのも二人でした。
  ともかく、お互い名前を知っていて、顔を合わせれば挨拶をして、仕事上の疑問点は教えて貰える・・・そういう人が一人減ってしまいました。

 大腸癌とか・・・一番手術をしやすいというか治りやすい癌だと聞いているもですが・・・発見が遅かったらしい。
 普段健康だったのでしょうね、きっと。
  私みたいに万病息災の方がしぶとく生き残っています。
 それと、まだまだ遊び足りないという執念の差で生き残ってりるだけかも知れません。
 良い人は早く神様に呼ばれる?・・・「良い人になる」心配はないから、後は「潔くならないこと」が肝心かもしれません。
  昔に本因坊の辞世の句に「碁なりせば・・・」私は薬に頼って「無理コウ」みたいに・・・。

アリバイ碁?

2009-07-22 17:58:29 | Weblog
 今年も夏休みのシーズンに入りました。
  家が小中学校の近所にあるので、これから夏休みの間・暫くはは通勤時に通学児童たちとすれ違わないことになります。
 そして自転車通勤の途上で自転車通学の高校生たちともすれ違わないことになりますから、歩道の上ですれ違うことも無くなり走りやすいけれど少し寂しいかも知れません。
 私は仕事上休みはカレンダー通り+たいていは毎水曜日休みで、特別に夏休みというものはありません。
  休みたければ年休がまだ25日分くらい残っているのですが、これが多分に絵に描いた餅みたいなところがあります。
 というのは、仕事の量と配置されている人数を考えれば年休の完全休暇は恐ろしくて計画出来ません。
 夏休みにしたって皆が交代で休暇を取るのですから、取りたい時に取れるれるわけではありません・・・というわけで休みの権利を何かの時のために保留しているようなものです。
 たとえば20日の連続休暇がもし可能なら土日休みなどを加味すれば1カ月は休めることになる・・・日数的にはヨーロッパに行ってノンビリ出来そうですが(お金さえあれば)、現実的には1カ月で手術入院の可能性が最も高い・・・。
 ともあれ、今年も夏休みが始まりました。
  カレンダーでは土日月(祝日)で3連休ですが、今週は仕事の関係で水曜休みが火曜と入れ替わって4連休になっている。
 家族の中で私だけ4連休!だと思い込んでいて、『明日は家で一人で何をしようかな?』と思ったのですが・・・考えてみたら女房殿の職業は教員で、同居の息子は学生・・・ということは夏休み?かもしれない。
  自分だけ休みでないとちょっとつまらない、嬉しさ半分です。

 そうそう昔の話ですが、女房殿は教員なので夏休みに入った初日には「たまには手作りのお弁当」なるものが作成されることもありました。
 但し、これは2日とは続いたこともない。
  そして生涯で今のところお弁当を持って仕事に行った回数は片手の指で数えられそうです・・・夏休みの初日とはそういう日なのです。

 ところで7月に入って囲碁の成績は良くはないし、対局数が増えていません。
  4連休のうち3日を消化してこの間の対局は0。
 観戦も疲れ気味で減ってしまっています。
  これではならじと月曜日には気合いを入れて(?)観戦しました・・・形勢判断やら手所で工夫など、単なる見物気分では無くてまるで対局者になったように考えながら観戦。
  自ら碁キチを名乗るのであれば連休中に対局0なら「碁キチ返上」ですから、ここは対局しなくてはいけない。
 これまででも4連休で対局0はなかったはずです。

  久し振りにMさんとも打ちまして、結果7月のこれまでの成績は4勝5敗。
 マイナスは数字上1でしかないのですが、この1の壁を越えるのが大変かもしれません。
 囲碁は1局1局が楽しみであり勉強なのですが、戦績がプラスかマイナスかで気分は大きく違うような気がします。
 そういうことも影響して+スパイラルとか負のスパイラルとかも。
  ともあれ碁キチは打たなくてはいけない。

親友と幼馴染の話

2009-07-21 17:33:21 | Weblog
 私には親友と言える友達が出来にくい性格らしい。
  特に周囲の人から毛嫌いされてるとは思いませんが、特に親しい人も出来にくらしい・・・マアほどほどに親しい人はいるのですが。
  振り返ってみれば小学校時代で特に親しかった友達は二人(だけ)・・・それが中学校高校と親しかったのは一人・・・大学時代にも一人だけ。
  実はそうなるにはそうなる理由があって、自分でもだいたいはわかっているつもりです。
  第一にマイペースでしか周りと付き合えないところがある・・・これが主たる原因か?
  それに親しい人でも親友とは簡単には思うことが出来ない心理構造みたいなものがあるようです。 
 「お付き合い」的な人間関係を拒否・忌避するところがあるので、人と人との最初の接触の部分で入口が狭い。
  清濁併せ飲むみたいな幅の広さはないし、”嫌なものは嫌””駄目なものは駄目””身内・知り合いには帰って基準を厳しくする”ところもある
 こういうところは人間の性格として年とともに丸くはならずに、この年でも変わらずに尾を引いているかもしれません。
  宴席などでは概ね2時間程度で”中締め”=一次会解散となるのだが、この2時間が苦痛に近いことが多いのです。
  途中で外の空気を吸いに行ったり、”早退”したり・・・
 特に自分の席を離れて宴席を回る人が増えてくると、隣の席の人との会話も普通の大きさの声では聞き取れにくくなるし、こうなると「エスケープ欲求」が増大してくる。
 
  知り合いが大勢いるような状態で孤独感を意識するようなところがあるし、都会の雑踏の中で知っている人が誰もいないような時に安心感があったりするので、周囲からは付き合いにく人間なのだろうとは思う。
  人から見れば親しい付き合いかと思っていると、突然突き放されたような感じを受けるかもしれません。
  好意的に解釈しても「気分屋」に見えるでしょう。
   加えて血液型に関する(俗説かもしれませんが)B型の特徴のステロタイプ
 ですから私が親友と呼べるような人は、もしかしたら善意のボランティアみたいに本当に良い人です。
 そして”良い人”は少ないのです。
  
 中高の時の親友は関西方面の大学に行って以来疎遠、大学時代の親友は若くに亡くなってしまいました・・・従って親友がいない時代が20年以上続いている。
 今後どうなるかはわかりませんが、私みたいな性格の人間に今後所謂親友ができる可能性は非常に低いでしょうが、それが寂しいことなのかそうは感じないものなのかの判断は・・・慣れないことなのでわかりません。
 
 幼馴染の方は生まれ・育った場所・条件などで決まるので、幼馴染は私にも何人かはいる。
 尤も高校卒業以来たまに帰郷することはあっても故郷で暮らしていないので幼馴染と再会することは今のところはない。
 いや、一度だけあった。
  父の葬儀の時に昔隣に(社宅仲間)住んでいたオジサンが来てくれて、その人の息子さんたちの消息を教えてくれました。
 私より一つ上の男の子、同級生の男の子、3才下の男の子がその3兄弟。
  私は5人兄弟の末っ子だし、年の離れた兄のほかは姉が3人もいるので、同年代の男兄弟の彼らが羨ましかったので、年中隣の家に入り浸っていいました。
  韓ドラでは良く男と女の幼馴染みが大人になっても親しい間柄という設定がありますが・・・私の場合もそういう幼馴染はいたことはいた・・・
 一つ上の近所のMチャンには遊んでもらいましたが、大人になるにつれ疎遠になる・・・母の葬儀の時に母どうしが親しかったので娘のMチャンが手伝いに来てくれていましたが、名前を聞かなければわからないくらいだから時間の流れは恐ろしい。

 広い町内に14軒しか家が無い町だったので住んでいる人どうしは皆知り合いだし同年代の子供は皆遊び仲間・幼馴染。
 そう言えばS木材のMMちゃんも幼馴染。
  ちょうど夏なんだと思う・・・家に遊びに来ていたMMちゃんが突然「汗かいたからお風呂に入ろう」・・・いくら子供でも女の子としては大胆な言葉、少しは驚きます。
 ところが私の母は横にいてすましたもので「そうだね,入っておいで」
  今みたいに各家庭に風呂がある時代ではなく、工場に隣接した社宅なので風呂は会社の風呂なのです。
 通常は社員と社宅の家族が利用していますが、近所の人も利用したし、午後になればいつでも入浴可能なのです。
 年齢からしても、当時の環境からしても混浴という言葉に変な意味は全く無い時代の話です。
 さてさて実際に入浴したかどうかの記憶は全く定かではない。
  でも再会したなら絶対この話をしてからかってやろうとは思うのですが・・・
 そのMMちゃん、同じ年齢ですからもしかしたら「ばあちゃん」と呼ばれている可能性は大きい・・・ばあちゃんのMMに会ってみたい気はします。
 

新たな強敵!?出現

2009-07-20 13:22:47 | Weblog
 土曜日は休みで家でのんびり・・・なんですが、女房殿が仕事で出かけているので完全に筋肉を弛緩させてゆったりも出来ません。
 それに朝9時から循環器系のクリニックで定期健診(このためには8時半には順番取り)、その後近所のスーパーやら図書館に寄ったりするので結構忙しい。
 そして女房殿不在であるので、ジイサマと愚息は放置されているので昼食は自己調達するしかない。
 マア、自分の分だけ用意して「息子の分は知らない」という態度をとれなくもないのですが、それだと「食べ物の恨みは怖い」から後々シコリが残る危険性がある。
 多分に女房殿からも息子本人からもあてにされている・・・そうは思うとちょっと癪なのだが、結局自分の分のついでに作ることになる。

 さてそういう”最愛の”息子との二人の昼下がり、ソレはやってきました。
  ドアのチャイムが鳴って、宅急便で届いたのです。
 それはいわゆる「ヘルスメーター」です。

 私各種持病の保持者なので元々は総合病院の御得意さん・定期検診のメンバー?でした。
  最近の地域医療の見直しみたいな方針で、地元の開業医を紹介され通常の定期検診は開業医で、機械設備の必要な検査は総合病院で受けることとなっています。
 ですから循環器の内科と生活習慣病クリニックの定期検診メンバーであり3カ月ごとに総合病院のチェックを受ける”ありがたい”身分なのです。
 少々嫌味な言い方ですが「手厚い医療」で守られている・・・なんだか”ヘルスのセコムしていますか?”みたいな感じです。
 さて、そんな中で定期健診した日には必ず血圧などの簡単な検査は受けるのですが、そのほかに過程で測定したものを記録した手帳を持参して医師に見せなくてはいけない・・・。
 これが、確かに自分の状態を自分で把握するために必要なんでしょうが・・・朝起床してトイレに行った後、夜寝る前、それに出来たら職場で昼間に・・・そんなに測っていられません。
 イヤ、その気になれば5分とはかからない事なんですが、実は心理的に・・・測定している自分に嫌な気分になる・・・「そこまでしてコントロールが必要なのか」みたいな気分。
  開き直って「どうせ良くはならないのだから、これ以上悪くならなければ良いという程度が保てれば良いのでしょう?」くらいの・・・
 記録した手帳を毎月医師に見せるのも・・・必要ではあるのでしょうが、なんだか夏休みの宿題を登校日ごとに見せに行っているようで、なんだか気が重い・・・値が良ければ良いでペットの飼い犬が飼い主に自慢そうに獲物を見せるような感じだし、悪ければ当然お小言を貰うわけだし。
 その点で私は我儘な患者を演じている(素かも?)
  要するに持たされている手帳に記録を書かない・・・先生に見せない、検診時に持参しない。
 だから医師には「ぜひ手帳を私(医師)にも見せてください」とあきれ顔でやんわりと嫌味を言われ続けている。
 実際には家に血圧の自動測定器があってベッドサイトには置いてあるのですが・・・まるで患者=お得意様の我儘みたいなものを通している。
  マア通っている医院・クリニックでは毎月血液・尿・血圧などを検査しているのだからそれほど神経質になることもなさそうではあるし、職場での健康診断で毎年胸部レントゲンを含めた検査もある。
  医師としては毎日の自分の状態を把握しておくようにということでしょう。

 但し医者としては目を離せない患者らしく、家庭での血圧のほかに「体重コントロール」ということで毎日体重を量りなさいということになる。
  我が家には以前体脂肪測定機能付きのヘルスメーターがあったのですが、多分娘が結婚するときに持って行ってしまったらしい。
 だからここ何年も自宅で体重計に乗ることも無かったのですが、医師からの話がどこからか漏れたらしく、女房殿が手配したらしい・・・それが宅急便で届いた。
  これは一度年令身長をセットしておけば後は乗るだけ。
 自分の部屋を出たところに置いてある。
  常に歩いて通るところに置いてあるのだから・・・
 「面倒」という理由は当てはまらないなら困る。
   血圧測定器も体重計も健康保持に必要ではあるが、プレッシャーの素にもなりそう。

インフレ・切り下げ

2009-07-19 06:51:45 | Weblog
 ここのところコミュニテイの囲碁クラブで打っていません。
  図書館は同じ建物の中なのに・・・CDレンタル屋さんとかスーパーに行くときは必ずこの建物の前を通る、しかも仕事帰りに寄り道をせずに来れば1局くらいは打てるはずなんですが。
  一度何かのはずみで足が遠ざかると、またそこに戻るのには多少のエネルギーが必要な感じです。
 元々誰かと諍いをしたわけでもないし、特に嫌な人とか顔も見たく無いような人がいるわけではない・・・ただ、「暇つぶしに打っているだけ」みたいなところがあって、それに対して何も私見を言う機会もないのが寂しいというか・・・そういうことに多少の反発を感じて足が遠のいたようです。
 尤も、だからと言って「ああしろ・こうしろ」みたいなことではないし、自分自身の碁だって素人の暇つぶし碁の範囲を出ていないし、偉そうなことを言えるどころか思うことだっておかしいのはわかっています。
 だからこそ、「それで良いのかな?」とか「何となく足が遠のく」という結果になるようです。
 素人のお遊びであっても、例えそれが勘違いであっても「何か」を感じられないと寂しいものです。

 ともあれしばらく行っていないと、こういうことが起こるのです。
  そのクラブでは点数制度でハンデが決められて、勝つと1点プラス負ければ1っ点マイナスになってハンデが変化します。
  それで、対局者は結果をカードに記入する義務があるのですが、それはゴルフの自己申告制度と同じように行われないと、こういうシステムは維持できない。
 つまり、もし「勝った時はキチンと記入」し負けた時にはしばしば「故意に記入するのを忘れた」場合、制度の危機となります。
 仮にすべてのカードをチェック出来たらプラスの総量とマイナスの総量が食い違っていることが分かりるはずですが・・・
 更に両対局者がキチンと記入しているかをチェックできるはずなんですが、自主運営のクラブではそういうことがやれる体勢ではないし人もいません。
 ですから建前として会員の自主性とかマナーに任せるしかない・・・これは会員を信頼するしかないのですが多分に偽善的な主張みたいな話・・・結果としていつの間にかインフレとなる・・・インフレが必然的に起こるのがインチキくさい。
  極端に言えばフレンドリーな雰囲気であっても、対局結果を「記録し忘れる」人が確実にいるわけです。
 対策として、チェックの強化などは出来ないので結局点数の一律切り下げということしかできない・・・
 それは確かに一つの解決方法ではある。
  (但しその効果は、例えば持ち点数を段位に換算した場合に高段者が増えるとか、場合によってはアマ9段みたいな常識を越えた段位が発生してしまうことは防いでいる)
 しかし弊害もあり、どういうことが起こるかというと・・・
 切り下げは記入漏れをした人もしない人も関係なく一律の行われるので、結局「正直者がばかを見る」結果となるのです。
  暫く顔出ししていない私なども「一律」という手法で切り下げの対象になる・・・これが暫く行かない間に何回か行われると・・・今まで向こう2子で打っていた相手に私が2子置いて打つようになる。
 
 カードに記入されている点数に基づいてハンデが決まるわけですから、仕方がないと言えば仕方が無い。
 でも、記入漏れの灰色の本人に「二つ置くように」平然と言われてしまうと複雑な心境です。
  数回のインフレ対策で40点くらいの調整幅があったことになる。
   これを仮に会員数100人として計算すると4000点が調整というこてで消えた計算になる・・・ということは4000回記録記入漏れがあったということなのか。
 実際「普段向こう2子」の相手に2子置いて3連勝したけれどおかしくも面白くもない感じでした。
  もし万一負けたりしたら「自分にがっかりする」し、勝っても当たり前だし・・・勝敗に拘るわけではないにしてもこういうことも足が遠のく原因でもある
  個人的な解決方法としては、カードの点数制度では打たずに気の合った人とオープンマッチで打つしかないようですが、そうなると対局相手が限定されてしまう。
 
 悲しいけれど、こういうことも無料で利用できるとしても自主運営の限界かもしれないし、「性善説」だけでは無理もあるのかもしれません。
 

サドルの高さ

2009-07-18 14:45:55 | Weblog
 以前はちょっとした移動でも車を使っていましたが、当時仕事をしていた場所と自宅の2か所の駐車場の負担が重くて、いっそのこと自家用車には乗らないことにしたのです。
 となると、通勤にバスと電車1区間利用しなくてはいけない・・・これが大した距離でもないのにばかばかしい・・・と言って歩くと4,50分はかかる。
 これは毎日の通勤では苦労なので、結局自転車に乗ることにしました。
  自転車との付き合いは小学校3年くらいからですが、大人になってからはこの時から再開した。
  そして、自転車に再び乗り始めて大変違和感があることに気がつきました。
   「自転車ってペダルを回すのにこんなに疲れる?」という感じ。
 まあ、体重に応じてタイヤが凹むので、そのタイヤを回すのに足の力は普通以上に必要ではあるのですが・・・。
 その頃たまたまNHKの趣味の番組を見ていて参考になったのです。
  それは自転車を使ったレジャー、サイクリングの奨めでした。
   その中で、サドルの高さについて教えてもらった(放送ですが)
 サイクリングでは、自転車を止めたときに足の裏全体で地面につくサドルの高さではなく、軽く曲げた状態(足先の指部分)で足がつくくらいのサドルの高さがちょうどよいのだそうです。
  つまりこれはペダルを回す時の膝の角度の問題。
 街なかの自転車走行と違ってサイクリングでは止まることは少ないので、この方が効率よくペダルをこげる。
 一方ママチャリみたいに、前後に子供を乗せて走るような人は足がキチンとつかないと危険なわけですから走る時の効率を犠牲にしているわけです。

 私の場合は二人乗りなどは無いわけで、足さえ危険なくつけるならサドルが高いほうが楽に走れる・・・以来サドルは高いのです。
 楽なうえに、見栄もある。
  こうするとまるで背が高くなったみたいだし、まるで足が長いみたいの見えるのではないかと・・・
  さらにこれだけ高くしておくと普通の人は「ちょっと拝借」という感じの断りもなく利用しようという人もいないようですし、何台も自転車が駐輪してあっても自分の自転車を見つけるのがやさしい。

 他の人より高くしてゆっくり走る・・・恰好つけている割には遅い(よくいえばマイペース)ので、どんどん抜かれる・・・そういう目立ち方をしている面もある。
 まあ、ともかくサドルが高いと走るのが楽。
  恰好つけだけではありません。
 今朝自転車で出がけにサドルの位置を再調整・・・1,2センチアップして、潤滑油を前輪・後輪の軸とペダルの回転軸に注すと、何とも楽に走れました。
 暑い季節ですが気分爽快に風を切って走る気分です。
  尤も、自分では颯爽としているはずなんですが・・・追い抜かれ走行です。
   マイウェイというか、マイペースで走っている素振り・・・ということで走っている。

屏風谷

2009-07-17 17:58:07 | Weblog
 今日は午後に少し暇ができたので、自分のパソコンで遊びました・・・もちろんゲームではありません。
 パソコンを立ち上げたりした時の待ち受け画面はメーカーに用意されたものなので、ほとんど軒並み同じような待ち受け画面がならんでつまらないので、自分用に変えました。
 と言ってもペイント機能を使ってのイラストは得意ではないので、マア無難に写真を背景にすることにしました。
 出身地にちなんで富士山の写真をいくつかのホームページから拝借
  商売で使うのではないし、プロテクトがかかって無いので著作権の問題はなさそうなので使いました。
 それで、同じ富士山でも・・・何と言ったらよいか座りが良いというか、昔風の大工さん風に言うと「おさまりが良い」ものと悪いものがあることに気がつきました。
 どことなく違和感のある富士山と、安心して見られる富士山。
  この違いは善悪とか、美的感覚ではなくて自分の経験からくるものだということに気がつきました。
 それは季節も関係ありません。
  要するに「被写体としての富士山の左側の傾斜がやや急で、右側がなだらか。
   そして右側の稜線の途中に少し吹き出物っぽい出っ張りがある形。
 これが生まれて以来毎日眺めてきた富士山なんですね・・・つまり静岡県側から見た富士山。
 ですから東京・神奈川・山梨の方から見た富士山は同じ富士山でも違うイメージなんです。
  そういうことで、富士市の方から撮影したもの、三保の海岸越しの富士山、日本平から見た富士山・・・こういう写真をマイピクチャーに取り込みました。
 もしあれば田子の浦越しの富士山もOKのはずです

 ところでこういう作業をしている時間帯に事務所も外の影響で熱くなってきました(本当に28度で仕事をしながら耐えられるかどうか疑問です)。
  日本平からの富士山の写真を見ていて、日本平=蒸し暑いというイメージのつながりで発想は屏風谷の思い出に飛びました。
 300メートルの日本平からほぼまっすぐな壁のような斜面を下るとそこは太古海の底だったらしい河原みたいな石ころだらけの谷です。
 狭くて風通しの悪い谷で、夏などはむっとする暑さで、ここを通って日本平から隣の久能山に行ける・・・お金のある人はロープウェイ出し、物好きしか通らないルートです。
  さて「屏風谷」を検索すると、最も有名なのは神戸の方にあるらしい。
 日本平の裏の「屏風谷」はヒット1件・・・期待して読むと数年前に自分で書いた記事の引用で愕然。 
 懐かしいような恥ずかしいような・・・自分の書いたものとgoogleで出会うなんて・・・そんなんで良いのですか?