なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

長考タイプ

2009-10-31 18:14:26 | Weblog
 今朝も休みなのに、いや休みだからこそ早起きで、4時半には目が覚めてしまい体はベッドのなかにあっても眠ってはいられ中途半端な時間。
 マア行儀は悪くてもごろ寝で観戦・・・但しこの時間ですから打つ人は少ない。
  深夜の方は行動パターンがやや深夜化してきているせいか、対局する人はそこそこいるのですが、早朝は少ない。
 宵っ張りは眠ってしまい、早朝に置きだす人はまだ出勤していない状態、あるいはぼつぼつ顔は見せていますがまだ臨戦態勢では無い時間帯です。
 それでも同じくらいの棋力の人たちの対局と初段クラスの対局の2局は始まっていました。
 対局室にはあと3局残っていましたが、実際は入室者が各1名・・・つまり対局者が居残っているか、観戦者が観戦中に寝てしまっているか・・・。
 
 そういうことで、棋力的に近い対局の観戦。
  対局者はどちらも対戦したことがあるので名前を知っています。
 特に黒番のS氏は私か見ると苦手な人・・・それなのに点数が下がっている。
  今私が手合わせ願うとなると、向こう2子になってしまうではありませんか!・・・これは驚きです。
 オーバーに言えば、一体何が起きたのか不思議です。
  単に今不調なだけでしばらくすれば又元に戻るかもしれませんが、その辺りの謎の解明?も含めて観戦と言うことにしました。

 観戦していて、疑問に思っていた事の回答では無いかも知れませんが、もしかしたら関連があるかも知れないあることに気がつきました。
 「時間」の問題です。
  この対局は持ち時間各45分で、時間を使いきったらそこからは1手30秒以内で打つことになり、各着手で30秒を越えたら時間切れ。
 アマとしては問題は無いと思う・・・普通のアマ大会では運営の円滑化のために秒読み無しで45分切れ負けですから、それに比べれば随分気が楽です。
 しかし比較するのはおかしいのですが持ち時間45分はプロ棋士は大変でしょう・・・規定によりNHK杯みたいな早碁もあり、トレーニングみたいな10秒碁もあるようで、そこはプロですからそれぞれの設定で打てるでしょうが楽ではない筈。
 そこのところが・・・「プロだから出来る」ことが要するにアマですから難しいと言うことになります。

 囲碁ですから考えることが問題で、考える深度については個人の頭の中のことなので外から見えませんが、消費機関で表わされる方は量的な問題なの消費時間として把握できます。
 それで時間を含めた戦い方=経営戦略的にタイムマネージメント的にある程度割り切って考えるか、常に絶対の一手を求めて1手入魂式で全力・時間を投入するかの問題があります。
 勿論その中間もあるでしょうから、そんなに極端に分けられるとは思いませんが。
 プロの場合昔、梶原、加田、杉内先生などは序盤から惜しげもなく時間を投入していくタイプでしたから、その反動が終盤に来ることもあった。
  最後の場面で時間切れで泣く、あるいは性格に読み切らなくてはいけない場面で時間が足りない・・・。
 逆に、序盤の「どう打っても一局」と言う場面でではそこまで時間を使わない、あるいはいろんな場面を想定して事前にシュミレーションをしておく、最善手と言えるかどうかは検証できなくても割り切って後半に使える時間を残して置く・・・「タイムマネージメント」ってこういう感じでしょうか。
  
 さてアマの場合にも芸術家肌と言うか、時間をどんどんつぎ込む人も中にはいるわけで、時間の消費が相手の3倍ペースの人もいる。
 Sさんもどうやらそういうタイプに属するようです。
  だから強いとも言えるのですが、序盤で形勢が傾かない・つまり中盤以降の勝負になると分が悪くなる傾向にあるのかも知れません。
 野次馬としては「こんなところで何を考えているのだろう?」と不思議に思うのですが、本人としてはいろんなこと、あるいは先の先を考えているのでしょうね。
 原則としてはそれは当然のことですが・・・一方で無い物ねだり的な部分もあるような気もします。
 「青い鳥を探している」とも言えるし「○○の考え、休むに・・・」かもしれないし、でも囲碁は考えるゲームでもあるし・・・。
 そう考えるとマネージメントと言う本来囲碁とは関係のない事が、囲碁の勝敗に関与して居るのかも知れないのですね。

 さてS氏の最近の苦戦状態はこういうあたりも関係があるかも知れないと思いましたが、そうだとすると難しい問題もある。
  マネージメント的な打ち方をしたらS氏は自分で自分らしさを失ったと思うかもしれないし、そうだとすると彼なりの囲碁の楽しさの割引になるかもしれませんし・・・。
 マネージメント的な考え方はある意味では合理的なんですが、囲碁の楽しみ方の本質とは少しずれた所にあるのに、囲碁のゲームとしての勝敗にはかかわって来る運用法みたいな・・・でも勝敗にかかわることだから無関係とは言えないし。
 そういう意味ではどちらか一方では無く、そのバランスが大事なんでしょうね。

 ところで「下手な考え休むにしかず(似たり)」に疑問があったので調べて見ました。
 「下手」を<囲碁的に下手>と考えるのか<ヘタな人>の意味なのか。
  もしプロから見て下(シタ)手=アマと言うことにしても成立しそうな言葉ですから、もしそうだとしたらこの格言は囲碁・将棋が発祥元なのかと疑問に思ったのです。
 説明によると下手=ヘタで考えにかかるのだそうで、下手(シタテ)では無く
「ヘタの横好き」と同じようにヘタなのだそうで、安心?しました。
  いくつか置いている対局で考え込んでも「シタテの考え休むに似たり」の図ではないことは分かりました・・・マア「ヘタな考え」ではあるかも知れないところが問題ですが。
 

巨匠の絵から

2009-10-31 03:27:38 | Weblog
最近ネットで絵の検索をしていましたらレオナルド・ダ・ヴィンチの絵に出会いました。
 なんでも絵の中に作者の指紋が残されているのだそうで、それがダ・ヴィンチの指紋に似ているとかで、ほぼ間違いなくダ・ヴィンチの作品と見られている。
 早速その何とか大公の娘の肖像画をネットで取り込んでパソコンの待ち受け画面にして楽しんでいます。
 審美眼・鑑賞力などと言うと自信などありませんが、羊皮紙に描かれているのだそうでなんとなく当時のムードがある絵ですね・・・マアそれだから素人は騙されやすいのかもしれませんが。
 ダ・ヴィンチという先入観かも知れませんが本物にしかないムードと言うものを感じるような気がします。
  本物とか、あるレベルのムードと言うものはあるでしょう・・・きっと。
 ダイアモンドの鑑定のプロになるには本物を見続けることで本物では無いものを感じることが出来るらしい。
 骨董の場合も同じようなことが言えるらしい。
  では、囲碁の場合は?
 考えるとそれに近い人と出会ったこともあります・・・。
  自分とたいして変わらないザル仲間の碁など眼中にない態度で、その分プロの碁の方は崇拝している感じ・・・確かに分からなくは無いけれど、眼中にない方に入れられると感じが良いとは言えません。(脱線して愚痴になっています)

 元に戻って
 囲碁であるとして、プロの場合は修業時代に古い碁も並べているでしょうから古棋譜などでも棋譜集に載っているようなものは直ぐに分かってしまうかもしれませんが、ともかくいろんなレベルの碁を対局者の名前・対局日などを伏せて再現した場合どういう風に見えるかと言う想像です。
 ヘボ碁でも「打ち出しはヘボでも小目なり」というものであっても、どこかで馬脚を現しているだろうし。
 プロ級の対局に違いないと分かるものと、これは素人の碁でしょうと思うものがあるに違いない・・・それと「`これはアマチュアの初段クラスの碁でしょうね」と言うように分かる筈なんですが・・・。
 イヤ、わからなくては困ると思うのです。
  つまりテストで獲得する点数みたいなもので段位は出来ていないと思うのです、それに具体的に”どういう技術が備わっていれば初段”みたいなものもありません・・・が、一方で殆どの人が初段ならこういう強さはあるだろうとか言うようなイメージは持っていると思われるのです。
 それは単なる一つの技術では無くていろんなものが積み重なったり混ぜ合わさったりしたムードみたいなものかもしれませんが、「初段のムード」と言うようなものがあるような気がするのです。
 さあそれがどういうものか・・・昔なら隅の1合マスが出来たら初段だったそうですが、今は4,5段くらいでも怪しいのだそうで基準が変わって来ているらしい。
 基準が変わったと言うより基準が無くなったのかも知れないので、明確な基準では無くて「イメージ」が残ったのかも知れません。
 すると、「初段臭さ」と言うような臭いか、「有段らしい」というイメージを、何か感じるものはありそうです。

暫く立ち上がれません

2009-10-30 17:58:06 | Weblog
 ネットで足腰が立たないほど打ちのめされたと言う程ではありませんが、半分は当たっています。
  9月の順風が10月には逆風に変わりまして、珍しくも無い・慣れっことはいえ天国イマ一歩から地獄のちょっと手前までの急降下はつらい。
 自己MAXまであと2勝に迫っていたのが、そこから7つ負け越してしまいまして、いつもの生息域の底を破ってしまった感じ・・・そこからやっと立ち直りの兆しが見えてきたところです。
 これが不思議ですね、MAXに迫ると普段やらないような無茶とか無理を繰り返してしまう。
 きっと相手の冷静な作戦を強引に打ち破ろうとしてしまうのでしょう・・・だから必用以上な、あるいは不要なことをしてしまい、一人芝居・自作自演で破綻しているのでしょう・・・もちろんそれをやらせる相手もたいしたもの。
 ですから、技術的なこと・知識的なことだけでなく、ここ一番で腰を据えた碁を打てることがまずは進歩と言えるかも知れません・・・未だ出来ませんが。

 ところでネット碁の方は随分負けた印象はあるものの、立ち直りつつあります。
 問題は本当の足腰。
  今日は仕事で歩きました!!。
 仕事の内容としては所謂「知的労働」に属する筈なんですが、これは必ずしもパソコン・紙・鉛筆の世界を指していないのです。
 いや、公共交通機関を利用せよと言う命令のもとで、バス・電車+歩きで仕事をこなさなければならないと言うことは・・・
 訪問先に駐車場などの負担をかけない。
 訪問先のご近所に迷惑をかけない。
 調査員が来ているみたいな目立つことが無い。
 交通機関+歩きですから経費が節約。
  当然と言えば当然の方針ではありますがその分肉体労働を伴うということでもあり、方針は画一であり、実施するのも元気な若者から私みたいなジイサマまでやはり一律に・・・。
 
 とマア文句タラタラ・・・丈夫な人から見れば言うほど歩いていると言うことでも無いのかも知れませんが・・・今日は20から25分を5本のウォーキング移動。
 距離ありましたが、時間制限もありかなりの速歩調、そして全てアップダウンのコースですから普段の平坦コースとは大違いで歩くクロスカントリーでした。
  下り坂の向こうに登り坂が見えているような、往く時は下りで喜んでも帰りは登り坂になる・・・そういうウネリ・雛壇コースの連続でした・・・そして微妙に距離がある(長ければ駅からバスなどの機関を探すはず)。
 長い一日の帰り道、事務所手前の最終難関は広い国道にかかった長い歩道橋。
  このあたりでは階段の手すりに頼らなくては重い体を動かせそうもないくらいで、『ラスト!ラスト!』と自分を励まして、ここを登って下りてラスト300メートル。
 スピードは変わりませんが気持ちはラストのもがき。
 もう薄暗くなりかけた道で、顔は笑いながらも心の中は必至のもがきです。
 
 そして最終仕上げは帰宅チャリ6・5キロ。
  これは低血糖・電池切れの不安との戦いもあるのです。
 そして艱難辛苦?の末無事帰宅。
  ンー足腰が立たないくらい疲労してますが、ブログを入力して、これからネット碁!。
 両足のふくらはぎはパンパンに張っている感じはありますが、目が見えて指が動かせればネット碁は打てるし,観戦も出来ます・・・しかし我ながらヨウヤル。

出来たら初段以上です!

2009-10-29 18:02:32 | Weblog
 囲碁ブログ検索のページがあるので、そこから入ると新着ブログが紹介されているので便利です・・・朝早くとか深夜で対局相手が少ない時などは利用しています。
 プロの方のブログ、初級者指導のブログ、それに(一方的に思っている)囲碁仲間のブログなどなど楽しいものが多いです。
 その中で少し前に目にした「初段を目指す本」と言う題の話で、その方が読んだ本が写真で紹介されていました。
 所持されている本の量から察するに相当な勉強家だと感心しましたが、そういう風に本で勉強するきっかけと言うのが碁会所での初級者の居心地に悪さと言う事なので、それはそれで考えさせられます。
 私も碁会所で打つことが長かったので、概ねどういう状況だったのか想像できます・・・碁会所で初級者・初心者にも楽しんで勉強して貰えるように対応できれば良いのですが、酷い時には放っておかれることだってあるようです。
 思うに席亭が碁の普及・碁を広めたい、碁の楽しさを皆に知って欲しいと言うことと、ご自分の囲碁に対する情熱が両方あれば良いのですが、中には自分が打ちたい、自分が楽しむことが優先みたいな席亭もいるのです。
 最近は前者のタイプが多いように思いますが、昔は後者タイプが道楽でやっていて、なかには「俺が好きでやっているのに文句あるか」みたいな人もいましたから、初級くらいでそういうところに迷い込むと「二度と行くものか」と思わせられるような経験をすることもありました。
 私も二級くらいの時にそういう経験があります・・・今は無くなってしまいましたが。

 ある程度打てる人たちは自分が打って楽しむことが中心という雰囲気のところもあります・・・でも考えようによってはそういうところで俗手筋で揉まれなくて良かったかも知れません。
 本中心の勉強ですと、実戦が少ない分初めは力碁や、嵌め手みたいな手にやられる確率は高くて、「筋は良いけれど力が無い」などとからかわれたりします。
 でも気にすることは無い、後の伸びシロが違うのですから。

 ともかくそういう勉強で強くなったのは立派です。
  私の場合は丁度5級くらいから2,3級の頃に街で「囲碁・将棋道場」という看板を見かけたのがきっかけで入門しました(特にプロを養成する道場では無くて、楽しむなら”本格的に”という呼びかけだったのではないかと考えます)。
 今にして思うと、迷った末ですが思い切ってそこのドアを叩いたのが良かったです。
 そこでは自由対局は禁止で先生の2面打ちでの指導を受けるか、先生に指定された相手との対局のみで、そのほかの生徒は(生徒と言っても私を含め全て社会人)盤の横で観戦です。
 先生は元将棋のプロですから囲碁の方の棋力はプロ並みと言うわけにはいかないとは思われますが、指導法はどうやらご自分の将棋の修業時代のやり方などを参考にしていたでしょう。
 とりわけ厳しく躾けるのが対局作法です。
  対局は石を置くことだけですから作法などは打つこととは関係ないような気もしますが、でもアマでも守らなくてはいけないこと、きちんと守るところは守って楽しむこと・・・挨拶・正座・膝を崩すタイミング・碁笥の置き場所・蓋の場所・・・こういうことは今でも思い出します。
 変な話ですが歯科大の待ち合い室で診察・治療に呼ばれるのを待つ間、出来るだけ背を伸ばして気持ちヤヤ前かがみ・・・なんだか碁盤の前にいるみたいだと苦笑してしまいます(他の人は長椅子に寄りかかっているので自分だけ場違いな姿勢だと思わなくもないですが)。

 さて私もこの時期にはたくさんの囲碁関連の本・雑誌を読みました。
  私の好みは梶原九段・坂田九段・石田九段、それに読み物は中山先生・・・この方は本の写真では趙治勲九段、依田九段が多いようです。
 すると少し(だいぶ?)世代が違うのでしょうね。
 共通の本もありました・・・「これが出来たら囲碁初段」
  基本的な詰め碁が並んでいますが、中には3段くらいでも間違えそうなものがあります。
 問題として出されれば案外解けるものでも、実戦では気がつかずにやり過ごしてしまうもの、問題があるのに間違ってしまうものなどがあるのですが、そういう意味では実戦で役に立つためには謳い文句より高いレベルの問題が解けないといけないようなところがあります。
 そういう意味ではペーパーテストで5段合格の場合・・・何日も考えたり、参考図書などを開いたりしたりだった場合、結果は大きな割引が必要でしょう。
 勿論出来ないより出来た方が良いに決まっていますが。
  
 昔勉強熱心な囲碁仲間がいまして、その方にもっと基礎的な力をつけて欲しいと「これが出来たら囲碁初段」を贈りました・・・しかし神経を逆なでしてしまったかも知れません・・・嫌な顔をされました。
  その方は自分では3段くらいの棋力はあると思っている・・・マア碁会所ではそうですし、場所によっては4段かもしれません。
 そういう人に「出来たら初段」の本を贈った私が非常識だったかも知れませんが決してからかっていたわけではありません。
 初段の問題の中に含まれている3段クラスの問題までも、一見して解ける力、間違わない力が無いと3段維持、4段以上に上がっていくパワーがつかないと思ったからです。
 まあ、おせっかいだったのかも知れませんが、自分では○段だと自負している人でも、この問題を全て出来るとは限らない。
 要するにどういう風に考えるかです・・・「問題を80%出来たら合格」と言う風に考えるか、「上の段を自称する、あるいは目指すのなら1問でも間違えてはいけない」くらいの気持ちで見るか・・・

失敗して成長!?

2009-10-28 16:32:07 | Weblog
 水曜日は予定通り総合病院で季節的(3カ月ごと)な検診でした。
  この病院までは自転車で片道15分足らずで検査などはここ、普段の診察とか治療は近所の医院と言うことになっています。
 ですからこの病院は私のような患者と、開業医から紹介された患者が中心。
 それと平日の夜間は市内の開業医の当番医による救急診察。
  もし日曜日の緊急な場合は別のところ(こちらは自転車で20分)に救急医療センターがあり、自動車事故でのけがの場合は先ほどの総合病院の横が県の救急専門の医療センターになっています。
 その他にも交通事故の医療センターとかもあり、そういう意味では恵まれている。
 マア健康な人には関係ない話ですが。

 ところで、最近は医療機関も電子化が進んでいるようです。
  医事課の職員の人数も減らしているようですし、看護師さんの不足は慢性化しているでしょうし、医師の不足対策もあるでしょうから電子化による効率アップは必要なことでしょう。
 元々緊急以外は予約患者と紹介された患者、入院患者しかいないのですから比較的電子化しやすいのではないかとは思います。
 機械化により扱われていると言う負のイメージは感じませんからマアマア上手く言っているような気がします。
 初めにカードで受付と予約確認をし、それぞれの診療科の前で待ちます。
  この時受付シートに自分の受付番号が出ているので、いろんな課の累積の番号ではありますが概ね何番目かが分かります。
 (予約患者は1番から始まり、それ以外の外来患者は千番台のようです)
 そして診察室の前には電子掲示板があり、チャイムが鳴って番号が示され指定された人の診察室への入室が促されます(患者が気がつかない場合はマイクで放送)。
 更に画面が切り替わり「現在どの先生が何番の患者を診察中か、次に呼ばれる予定の患者の受付番号が示される。
 これって意外と感じが良いですね。
  前の患者さんが診察室から出てきた時、次は自分かなと想像しながら待つのは場合によってはイライラするものです。
 全体的な番号は分かっているし、次の人まで表示されているのでイチイチ気にすることは無くなります・・・マア9時と言う予約の場合は9時台診察と言う意味ですから何時間も待たされることは無いにしても、性格上待たされることには弱いので、自分の順番が予想できるということは私にとって良いことなのです。
 性格上時間厳守で、約束あるいは列車の時刻などには余裕を持って行動しないとストレスになる性格なんですが、逆に理由がはっきりしないで待たされることにも弱いのです。

 ところで肝心なのは診察結果及び24時間の心電図モニター。
  場合によっては緊急拘束されるのですから・・・主治医も「あなたの場合は状況ではバイパス手術が必要になりますから、気をつけていないといけません。今回の結果では変化は無いようです。」と言う事で無罪放免では無く執行猶予みたいなものですがまあイイカ。
 前任の主治医の場合は「あなたは将来必ずバイパス手術が必要になるので気を付けてください(出来たら仕事も控えて、すぐにでも手術を受けた方が良いくらい・・・で)と宣告されていますから、執行猶予と言うか情状酌量というか。
 支払いも済ませて病院を後にする時は妙に晴れ晴れ・・・昔見たロバートレッドフォードの映画のラストシーン見たいな気分でした。
 マア直ぐに元のしょぼくれジイサマに戻りますが一時的にはいい気分。

 いい気分の時に反対の「失敗」のことを連想するのですから変な性格です。
  「失敗は成功の母」とか「失敗から学んで成長する」とか・・・これは多分正しい筈です。
 囲碁だって強い人が初めから強いわけがない、失敗を重ねて失敗をしなくなって強くなるわけです・・・アッ!ここに鍵があることに気がつきました。
 失敗は良い、誰でも失敗することはあるのですから失敗そのものを恐れては何も出来ません。
 これを恐れていてはソモソモ足を踏み出すことが出来ないわけで、問題は失敗の後にいかにそこから学ぶか、そして、別の失敗を起こさないように対策がとれるかと言うところ。
 私のように同じような失敗を繰り返すと言うことは・・・成長していない証拠。
  経験を生かすことが出来ないのでは何のための経験かと・・・
 囲碁で我ながら足踏みが長いと感じているのは多分この部分ですね「失敗をどう生かすか」あるいは「今までにないことをどう取り入れるか」
 そこのところで、今のレベルのフロアーにとどまるか、ステップを一つ上がれるかの分かれ目で、そこを続けられれば次のフロアーでしょう。(もっとも留まるにも努力はいるのでしょうから、階段の例えは間違いで正しくは川をボートで登る状況でしょうか)

 さて仕事での話ですが・・・仕事で毎週市内の事務所を立ち入り調査をしていますが、ある事務所の調査を終ってビルから出たところで、左足を踏み出した下に着地する筈のフロアーが無かった!。
 平らだと思っていたのが実際には階段で二段分も差があった。
  見ていないで横に歩いている。
 チャップリンの映画ならバナナの皮で滑るのがお決まりのシーンなのですが、私の場合は”御決まり”では無いにしても、普通人がやらないような馬鹿な失敗をする・・・囲碁でも実生活でも。
 マア、柔道の受け身みたいなもので済みましたがしたたか腰を打ちました。
  もう自分でも笑ってしまうしかないような・・・きっと同行者が他の人に話せば良い御茶の話にはなりそうです。
 但し同行者は口の堅い人で、未だ話のタネになっていません。
  マアしかし、この種の失敗は絶えない人間ではあることを自分で再確認しまして、これでよく60年以上生きてこられたものだと感心しています。
 

台風一過・光の朝

2009-10-28 02:52:33 | Weblog
 月曜日は台風の影響で強い雨が降り、風は深夜まで続きましたが、どうやら当地は朝までには通過した様子です。
 それでも、いくらかは風が吹いてはいますが、台風一過と言って良いでしょう。
 通勤で水路沿いの道の歩道を自転車で走りますが、ここは広い歩道で横は広い片側2車線の道路で真ん中に分離帯がある道ですが交通量は少なく、歩道はマテバシイの街路樹と水路沿いの緑地は松が植えられているので絶好のジョギング・ウォーキングコースです。
 この水路沿いの道を1キロちょっと歩けば海岸の海浜公園とか花の美術館と言う名前の花壇と温室のある公園につながっている道。
 自転車で走っていると前に年配のご婦人二人が歩いていてその横をエスコートらしき男性自転車、追い抜いた時に耳に入ってきた会話「朝早いって本当に気持ちが良いですね」「そうなのよ」・・・通り抜ける瞬間ですから会話はそれだけですが一瞬で想像のスイッチが入ります。
 多分・ご夫婦の方の婦人がもう一人の婦人を「朝早くのウォーキングって気持ちが良いのよ」と誘ってウォーキング。
 そして誘われた人が感謝の気持ちを込めて感想を言ったところ・・・。
 一種のマナーとも言えるし、今朝の天気では本当の感想でもあるのでしょう。

 実際今朝は気持ちの良い朝。 
 まさに台風一過で空は青く腫れ、穏やかな風に変わり光が溢れています・・・但し欲を言えばもう少し気温が低ければ最高。
 贅沢と言うか、文句を言う性格と言うか・・・寒がりのくせに冬でもアイスクリームを食べる性格と言うか、真冬でも窓を少し開けて眠る癖と言うか・・・空の青さにもケチをつけたくなるのですからやはり性格が問題かもしれません。
 これは死んでも直らない部類かもしれません。

 ともかく青空が広がっているのですから良いのですが、青さに不満。
  水色の青さで・・・智恵子では無いけれど本当の青さでは無いような気がしました。
 確かに「今時」の「当地」ではこんなものかもしれませんが、若い頃に本物を見てしまっているので、心から喜ぶには少し違和感が残る。
  学生時代は毎年2カ月は長野の高原でアルバイトをしていましたから、どうしてもその時の「蒼さ」と違います。
 高校生の時に南アルプスの近くの尾根道で夜中に起きだして見た満点の星空を今でも忘れられないのと同じですね。
 比べるのはどだい無茶ではあるけれど、台風一過の好天はうれしいけれど、どこかにひっかかりがあると言うところ。

 さて「台風一過」と言う言葉。
  川の横で海のすぐ近くに住んでいた頃、やはり台風が無事に通り過ぎた時に抜けるような青い空を見上げた記憶があります。
 ラジオのニュースでは「台風一過」と言う言葉が流れて来るのですが・・・当時の言葉って文語をそのままで放送するようなところがあり、子供にはやや難しいところがありました。
 難しい弊害と、難しい言葉を理解する勉強と言う良い面があるのですが・・・
  ともかくその土地柄としては広沢寅蔵の「次郎長一家」の土地ですし、その時代にはまだ「昔本物の次郎長と子供時代に銭湯に一緒に入ったことがある」というバアサマも存命の時代ですから、「いっか」と言うとイメージは「一家」の方がつながりやすい。
 そこに「台風一家」とくれば何だか石原裕次郎か宍戸錠あたりが出て来そうな感じでした。
 子供の時に台風が通過した青空を見上げて「これが台風一過と言うものの空なんだ」分かったのです。
 漢字ではわなくてもそういう絵として理解したと言うことでしょう。

 さて明日は総合病院で3カ月ごとの検診とこの間24時間心電図モニターの結果発表・・・期待できるものはありません。
 悪くなっていなければ良いと言う程度。
 それも、年々、実年令なりに老朽化する部分は折り込み済みとして、そういう体質の劣化の範囲ならOKと言うのですから何ともハードルが低いのです。
 それでもそういうハードルに引っ掛かれば即入院宣告となるわけで、その場合は家にパソコンとかラジオ、囲碁の本、ボールペンとメモ用紙を取りに帰ることになります・・・もちろん着替えに洗面道具も。
 マア今のところ確率的にはそうなることは無いでしょうが、それでも万が一に備えて悔いの無いように碁を打っておかなければいけませんね・・・と言う事でネット碁へ。

安部吉輝九段

2009-10-27 04:15:25 | Weblog
 夕方仕事から帰ってネットに接続して、いきなり囲碁クラブに行く前に囲碁関係のブログなどを読んで頭を仕事バージョンから囲碁バージョンに切り替えようと思いまして・・・遊びながら仕事をしているように見えて、これでなかなか真剣にやっているのですぞ!、只、他の人よりマジな仕事の中に冗談の種を見つけたり、真剣と息抜きの切り替えが素早いところはあります。
 マアこういうところは、かなり親しい人でも結果として私を理解しにくい面であり、二重人格的に見えるところでしょうネ。
 くそまじめみたいなところと、いい加減で冗談が好きなところが同居していますから、他からはどこに照準を合わせたら良いか難しいらしい・・・これは自分でも難しい・・・どっちも私ですから。

 さてブログ検索ネットに週刊碁ブログの更新記事が出ていまして、これは井山新名人の記事とか対局取材のきじ・・・
 その上にもう一つ週刊碁ブログの記事がありまして、私はそちらに釘付け。
  「記事は10月26日10:46更新・・・安部九段逝去」
 詳しい内容はわからないのですが、発信元が週刊碁ブログですから信憑性は高い筈です・・・日曜日にNHKでネット関連の番組で迷惑メイルとかナリスマシメイルの話対策の番組がありましたが、これはそうであって欲しい。
 細かな話が無い、第一報の見出しだけですからただ驚くだけでどう受け止めて良いやら分かりません。
 勿論先生とは会ったこともなければ話したことも無いわけですが・・・でも「安部ちゃんの・・・」というシリーズは読んでいましたし、中山先生の囲碁講談にも登場していましたから、イメージとして親近感があります。
 有名人が地方に来た時に「いつもTVで拝見しています」と挨拶をする感じでしょうか。
 安部先生の話と言えば、中山先生の本で「動物園のサル山で安部先生が”サルは可哀そうだ”と言った」という話が頭に浮かびます。
 可哀そうな理由は「サルは碁を打てないから」だそうで、プロ棋士でもそこまで囲碁が好きだった人も少ないでしょう。
 職業プロ棋士・且つ趣味が囲碁の筈ですね。

 さて私も60を越えまして着々と平均寿命年令に近づきつつあります。
  平均と言うのは生まれてすぐ無くなった赤ちゃんから相当な長生きの人までの平均なので、実際には所謂平均よりは長生き出来そうですが、それは健康な人に限るでしょう。
 私はいつどこでゲームオーバーを迎えるか分かりません・・・そういう意味では緊張感とか、ドキドキ感はあります。
 いたって健康な人なら今日は昨日の続きに過ぎないでしょうが、私の場合は「ヤッ!今日もなんとかいけそうだぞ」という喜びに似た気持ちにはなります。
 ま、それでも「一日一日を無駄にしないで生きる」と言うような生真面目さには縁遠い「今日も一日楽しいことを探そう」くらいですから。

 さて安部先生。
  詳しい情報が入るまではお悔やみの言葉は控えます。

PS.
 この記事を更新した後で、他の方のブログにも出ておりましたので、どうやら間違いなさそうです。
 私のようファンにはただただ残念なこととしか言いようがありません。
 合掌。

新型対局時計を

2009-10-26 00:32:49 | Weblog
 囲碁のプロの先生は数百人いらっしゃるのですが、やはり名前と写真でしか知らない先生と、じかに話したことがある先生、打っていただいたことがあるとか無いとかでは全くアンテナの反応が違ってきます。
 これは何十局も打っていただいた先生の消息が気になる当たり前ですが、じかにお話しした事があるとか、出版される本のファンで、購入して読ませていただく先生とか、同じ地元に住んでいる先生、この土地の出身の先生、あるいはこの土地の知り合いの人と何かしらの関係があった先生とか・・・やはりアンテナ感度に優先順位があります。
 そういう意味では森田、三村、高尾の三先生は気になる棋士です。
  皆出身地が同じ千葉と言う事で、同じ先生(アマの田岡先生)に出会いその縁で藤沢門下になったと言う共通点があります。
 森田先生とは4段当時に私が常連だった碁会所に来てくれまして4子で教えて頂いた思い出があります。
 生意気にも「4つも置いたら行くしかない」みたいに先生の石を潰しに行きまして見事に潰された思い出です。
  初めてプロの先生という人を見たのが津田沼で福井進先生で、初めて打って頂いたのが信田先生で森田先生は3人目・・・まだ先生と言うより青年でした。
 高尾先生は地元の支部対抗戦に来てくれたことがあり、近くでお顔を拝見し声を聞きました。
 希望者は打ち碁を見てくれると言う事でしたが、流石に大勢の前でもあり恐れ多くて出来ませんでしたし、指導碁を受ける機会も失ってしまいました。
 マアそれでも私の先輩のK畑先生が高尾先生がこどものころに打ったことがあるのだそうで、そういう意味でも一方的ですが親近感があります。
 三村先生の場合は、そういう具体的なエピソードは無いのですが、三先生のアマ時代の御師匠田岡先生との関連で思い入れがあるのです。
 田岡先生は私が通っていた碁会所から2,3分のところに住んでいましたので、よく子供の指導にこの碁会所を利用することがありました。
 子供を連れてやって来て「ちょっと借りるよ」と言う先生。
  本当に会話はこれだけです。
 (碁会所って言うのも面白いですね、先生から席料を貰うわけでも無し、御茶とか御茶受けを用意する・・・囲碁の繁栄みたいなことには何気なく協力させて貰う・・・そういう文化みたいなものが良いです)
 先生は窓際の明るくて暖かな席に座り、相手の子供の棋譜再現を見るのです・・・指導は相手が子供でも相当厳しく批評していました。
 ともあれ、三先生と言えば田岡先生、田岡先生と言えば三先生と言う具合に思い出すのです。

 ところで三人の先生の中でブログをやっているのは三村先生と高尾先生。
 ブログ検索ネットでは更新されていれば必ず拝見しています。
 三村先生のブログは、24日は対局時計の写真・・・イヤーいろいろ持っていらっしゃる。
 ところで、時計に関しては昔から疑問と言うか不満に感じていることがありましたので、思わず先生のところに「商品開発」みたいな書き込みをさせていただきましたが・・・本当は棋院の姿勢とメーカーも問題ですね。
 私が欲しい対局時計は。
  時計は普通白番あるいは上手の選択するサイドに置いて使用します。
 ですから両者右利きの場合は黒番の人は右手で打った後、右腕は盤上を横切って左手の方向に移動して時計のボタンを押します。
 「打った手でボタンを押す」ルールですからこうなりますが、慣れれば大したことが無いと言えるのか、もともと大した差は無いのかも知れませんが、私には大げさに言えば対等な条件で対局すると言う原理から言えばこれは理不尽な差別だと思うのです。
 1局で280手打つとすれば140回は相手よりやりにくい作業をすることになる。
 私の場合は左手で石を打ちますから相手が右利きでしたら何の問題もありませんが、仮に左利き同士だと同じ問題が発生します。
 ところが時計はいろいろあっても全て「一体型」なのです・・・時計表示も押しボタンも二つとも一つの機械についている・・・これはどうして?
  一つにまとめてあってコンパクトとも言えるけれど、一つにすることで弊害もあると思う。
 仮に時間を表示する部分はどちらに置いたとしても、ボタンの部分は押しやすい所に、例えば自分の膝の前に置くことができれば問題は発生しない筈なのにそういう商品は見たことが無い。
 仮にメーカーで作るとしたら・・・
 ①時間の設定、残り時間、秒読みの部分を表示する本体。
 ②対局者(白番)の押しボタン
 ③対局者(黒番)の押しボタン
  これら3つをコードあるいはコードレスで接続すれば良い。
 碁盤周りのコードの見てくれが問題なのか、あるいは大きな部屋で複数の手合い時計を同時に使う時にコードレスの電波が問題なのか、携帯とかパソコンなどに影響があるのかその辺はよく分かりませんが、でも対局者は出来るだけ平等な条件で戦うのが原則なわけで、製造上の理由とか見た感じと言うのは二義的な問題な筈なんで、不思議と言うか怠慢な感じがします。

 三村先生ごめんなさい、先生のところに唐突な書き込みをしてしまいました。
 これからもブログを拝見しに寄らせて頂きます。

 
 
 

もうすぐ燻製の冬

2009-10-25 09:22:04 | Weblog
 今朝は女房殿が他県に住む母親の顔を見に行くと言う事で朝早く出かけて行きました。
 遠くと言っても夕飯には帰れる程度ですから、とりあえず飢える心配はありませんが、息子は日曜日のサッカーの試合を私の出身地のスタンドで観戦するために昨夜から出かけているので全く静かな日曜日です。
 ということで、やることが無いから?、いや他にやることがあっても・・・私の行動の選択肢は「碁会所もしくはコミュニティに行く」「本を読む」「好きな番組があればTVを見る」「ネットで打つか観戦あるいはブログ」のどれか。
 他にも「近所のお店を覗く」とか「材料を買って来て何か作って見る」もありますが、これは確率が低い・・・気が向けば結構手の込んだ食べものを作ることもありますが、そこは「食いしん坊」と「ものぐさ」の相反する性格と思われるものが同居しているので、なかなか行動とは一致しません。

 燻製についてはかなり昔に本屋さんの棚で燻製の本を見かけたのがきっかけです。
 普通男性ですと本屋さんでも手芸とか料理コーナーの本棚には近づかないものですが、そういうことを気にしないのでその辺りも出没します。
 実際手芸とか料理とかは興味がありますし・・・最近「男の料理」みたいなタイトルが流行りですが、マアさきがけみたいなものだったかもしれません・・・ただの食いしん坊ですが。
 燻製、これはもう少し寒くなると例年スイッチが入ります。
  例えば、燻製に向いた材料を仕入れて来て「下ごしらえ」「燻製用の液を作ってつける」「低温・乾燥などで干す」「燻製にする」・・・これらは夏の暑い時期は都合が悪いので家庭では冬の楽しみです。
 半日もかからずに出来るものもあれば1週間はかかるものもあるわけで、思い立って直ぐに出来るものとかなり計画的に、更に意思を継続させなければならないものもある。
 いずれにしても女房殿は「無駄にならないように作り過ぎないでね」と言う態度で、食べる時には「今回はマアマアかな」「塩気が問題ですね」などとうるさいことを言う係に徹していて、口は出すけれど手は出しません。

 家にあるのは当然家庭用冷蔵庫で業務用の大型冷蔵庫では無いし、燻製作業なども低温作業室なども無いので冬の寒くて乾燥している時期が食品をダメにしないためには向いているようですので、これは12月くらいから3月初めくらいまでの、食いしん坊の遊びです。
 大型店の鮮魚とか肉の売り場を回って材料を見るのも面白いですし、塩や砂糖、調味料やスパイスを見るのも好きです。
 更に飲むわけではないけれどお酒も必要ですからこの時期は酒コーナーにも行きます・・・私は「見てくれは飲ン兵衛」なので酒を見て歩く自分の姿を見て笑ってしまいます(飲まないのに結構真剣)。

 さてさて、燻製の一連の作業は下ごしらえが出来れば、「つける」「干す」「煙をかける」など御天気と時間の経過任せになるので、後はネット碁とか本を読むのに最適なのでこれらはセットで楽しむ感じです。
 燻製の煙番をしながら本を読むみたいな・・・
 (そうそう、アジとかサンマとか冬はベランダで自家製干物を作ります、それを更に燻製にしたり・・・やり過ぎて不評な時もありますが)
  天気が良くて乾燥していて寒い方が上手くいきますから、寒いのは苦手なのに最近の暖冬傾向は困まると言う矛盾・・・いずれにしてももうすぐ楽しみな季節がやってきます。

 話は変わります。
  パソコンの横にリンゴ・カキ・ミカンが1つずつ置いてあります。
 これは、朝・昼の食事の支度が面倒で食べなくても、最低限飢え死にしないためでしょうネきっと。
 これにパンと冷蔵庫の牛乳があれば・・・
  冷蔵庫には何か作れる材料はある・・・それが面倒ならレトルトのご飯・カレーなどもあり、それが面倒なら自転車で10分もかからないところにレストランなどもある・・・それでも面倒なら!対策。
 性格を見抜かれている・・・30年以上も暮らしていれば当たり前かも知れないが。
 ところで、果物の匂いが良い。
  私は鼻が悪いので、年中朝は鼻水が出るし匂いセンサーの感度も悪いのですが、果物の匂いは感じるのです。
 薬品的な脱臭とか香水などでは無くて本物の果物が匂っているのが良いですから食べるのには惜しい気がします。
  果物を見ながら、匂いを感じながらキーボードを打っています。

 
 
 

まだまだ知らないことだらけ

2009-10-25 00:18:47 | Weblog
 先日グーグルで絵の検索をしていたらレオナルド・ダ・ヴィンチの絵らしい作品が発見されたというニュースを読みました。
 写真で見るとムードがいかにもその時代の感じだし、”指紋”が絵の中にあったと言う事です。
 (こういう絵が好きなので早速マイピクチャーに取り込んで勤め先の2台と家のパソコンの背景にしました・・・マア著作権の問題は無いでしょう)
 真贋はともかく新しく発見されると言うことは”ある”事なんですね。
  日の下に新しいもの無しなどと言う諺がありますが、どっこいパソコンの検索にも引っかからないことだってあるのだから、何が出てきても不思議ではない。
  私などこの年になっても新発見?が多くて情けないやら恥ずかしいやら・・・『エ!そうだったの』『知らなかった』『そういうことだったのか』などと言う事が多い。
 マア、おかげさまでいつまでも新鮮な気分で生きておりますが。
 これはそういう話の一つで、知っている人には何で知らなかったのかと嗤われそうですが、ともかく私にとっては新知識が多く含まれています。
 
 自転車で通勤している道は家を出て西に向かいますが暫くすると海に続く水路沿いの広い歩道を走ります。
 そこを700メートルほど走って右折して橋を渡ります・・・そこは通勤路唯一の標高差があるところです。(ここが唯一1メートルの高低差)
 さてこの橋から下の水路を見ると・・・かなり汚れた泥が溜まっているように見えるのですが、それでも一頃よりは奇麗になって来てはいるみたい(臭いも気にならなくなってきています)。
 潮によっては海から海水が上がってきますが、季節によって・夏の終わりか秋の初めの頃にはボラの子供が群れで上がって来るのが見えます。
 それを狙って大きな白い鳥とか鵜みたいな黒い鳥が見られたりもします。
  そういう意味では多少は季節感がある橋。
 
 ところで珍味とされるカラスミってボラの卵だと言うことは知っていましたが、ボラそのものを食べると言うことは知らなかった・・・。
私は鶏卵は食べるけれど鶏肉は食べられない(単なる偏食ですが)のとチョット似ているので、ボラも卵を食べるけれど身は食べないみたいな感じで不自然ではない・・・(私にとっては)。
 イヤ、子供の頃育った海の近くの町では、ボラは何かに驚くと海面にジャンプして筏の上に乗ってしまうこともあるので、手づかみで捕まえることも出来るのですが誰も食べる人はいなかったのです。
 近くの海では小アジ、コハダ、クロダイなどが釣れますがボラを釣ろうとする人は見たことが無い。
 もっとも、ボラは臭いとか骨が多いとかで食べるのに適していないと言う話を聞いたことがありますから、食べようとチャレンジした人はいる筈ですが、そういう評価なので海にボラがたくさんいても誰も釣ろうとはしないのですねキット。
 ともかくボラは食用には適さない魚だと思っていました。
 ところがたまたまネットで検索すると、なんと「刺身で美味しい」などと出ているではありませんか・・・。
  「淡泊な味なので韓国風のタレが案外合っているかも知れない」などと。
 関西では美味しい魚とされているとか・・・関東では東京湾などの水質の悪化が原因で臭いのある魚と言う事で食べなくなったとか。
 昔は東京湾でボラを養殖していた時代もあるのだそうです・・・と言うことは食べていたと言うことですね。
 ネットの説明では「非常に美味!・・・環境によっては臭いものもある」となっていて、刺身、ソロバンと称される部分、カラスミなどが写真で出ている。
 と言うことは我が故郷の海は東京湾並みに汚染されていたと言う事のようで、製油所、造船所、アルミ工場、食品・缶詰工場、家庭排水などなどの為に環境によってしまったのでしょう。

 いずれにせよ、今眺めている水路の先の海から上がってきたボラの子たちも、元気に群れていますが食欲はわきませんね。
 よくこの辺りの海でも春には潮干狩りなどのまねごとは出来るようです。
  アサリ、赤貝なども少しは採れる・・・しかし家に持ち帰る気はしない。
 海岸の防波堤では釣りをする人もいますが、仮に釣った魚はどうするのでしょう?
  持って帰る人もいるような気がする・・・時々麦わら帽をかぶったおじさんが自転車の荷台に釣り竿とクーラーボックスを乗せて走って来るのに出会うのです。
 クーラーボックス!と言うことは釣った魚を持って帰る?・・・勇気を通り越しているような気もするのですが、人それぞれ?好き好き?なんでしょうね。

 さてボラに関する辞典の受け売りです。
 ボラは出世魚なんだそうでオボコ(5-18センチ)→イナッコ→スバシリ(10センチ未満程度)→イナ(10から25センチ)→ボラ(30センチくらい)→トド(50センチ以上)となるそうです。
 オボコはオボコイ=可愛い、イナはイナセ=元気でカッコイイの語源、トドはこれ以上は大きくならないトドのつまりの語源だそうで・・・。
 それで言うと私もそろそろトド年令かも。
 いずれにせよこんなに細かに名前がついているということは生活に密接していたということですね。
 それが今でも身近にいるのにこの辺りでは誰も気にしなくなったのは、やはり水質による味と臭いでしょうね。

 さてトド。
 トドと言うほどの巨体ではありませんが、もうこれ以上の進化も出世も無いと言う事でトドジイになっている。
  今度何か自分の名前を名乗る時はこっちも使ってみようと思います。

ハッピーフライデイ

2009-10-24 03:16:20 | Weblog
 前の日はブルーウェンズデイなどと泣き言を言っていたのが、次の日はハッピーフライデイですから、さっき泣いたカラスがもう笑っているようなものです。
 良く考えたら・・・いや考えなくてもブルーな日は休みの後の日で、そのまた次の日は休みの前の日ですから、単純にハッピー。
 全く単純にブルーとハッピーが一日おきにやって来ることになりますから、まさに”禍福はあざなえる縄のごとく・・・塞翁が馬”。
 全く子ども時代から休み前の日はハッピー,月曜日はブルーの繰り返しでこの年まできましたから、成長が無い・・・これはきっと孫が出来ても、その孫は隔世遺伝でもしかしたら私のDNAを濃く受け継ぐだろうから、一緒になってブルー・ハッピーをやっていそうな気がします、まだ見ぬ孫はかわいそうですが。
 
 それでも、どちらか一つしかないと言うよりは好い筈です。
  ブルーだけでは困りますが、ハッピーだけでもきっと弊害があります。
 私の母などは毎日の心配は無く、やらなくてはいけないことが無くなってスッカリ緊張感を無くしてしまいました。
 子供たちには本を読めとかいろいろ言っていたのが、その子供たちが成長してしまい、連れ合いを亡くしてしまうとやることが無い・・・自分で楽しむことを持っていないのが問題でした。
 確かに生きて行くだけでも大変な時代に子供を5人も育てたのですから、自分の楽しみは後回しだったでしょう。
 だから無趣味を責めるわけにもいかないし、何ともつらいところです。
  一転して、その息子の私はやらねばならないことなどがあっても、自分の趣味、やりたいこと優先みたいな人ですから、褒められることは無いにしてもやりたいことをやらないで我慢するストレスとは遠いところにいるようです。

 さて今朝も起きてすぐにネットで囲碁と接続。
 朝5時半頃なのにKさんが対局待ちになっています・・・私も打ちたいのはヤマヤマでしたが、目が覚めたばかりなので「ごめん!起き抜けなので見るだけ」みたいな感じです。
 暫くして対局が始まったようで、良かった良かった。
  誰も起きてこないようですと、ネットを覗きながら知らん顔をして素通りするみたいで、なんとなく責任を感じてしまいますから、「7時までに終局できそうなら・・・」などと言う仏心?が起きそうです。
 イヤ他人の救済では無く自分が打ちたいのを我慢しきれなくなっていくだけです。

 ところでこの近くの歩道、いつもの自転車通勤の道はどこも街路樹が植えてありまして、私の通勤路で一番長い直線は2,3キロにわたっては1種類の街路樹になっています。
 海につながる水路があってそこが大きな交差点で、そこまではポプラ並木だったのがそこからナンキンハゼに変わります。
 ハゼと言う名前がつくのでウルシの仲間だと思いますが、紅葉はそういう仲間の赤系一色ではありません。
 丁度今少しづつ色がつき始めたところで、この木はいろいろな色に変わります。
  赤は勿論、濃いめの赤に茶色に近い色、黄色黄緑などなどいろいろな色になるのです。
 葉が薄いので僅かな風で揺れ動きますし、日の光を半分くらい通して明るい感じがするので、太陽に向かって走る時に紅葉しているナンキンハゼは光の中で点描画のような感じがするのです。
 但し、ここ2年ほどは上手く色づきができなかったようで、それほどは良くなかったのですが、今年はなんとなく奇麗に紅葉しそうな予感がします。
  そうなったらここは直線2キロは絵のような道になる筈。
 でも、こういう風に期待して見ているのは私の他には少ないような気がします・・・地元で話題にならないのです。
 皆気がついていると思うのだけれど、こういう身近なものを「美しい」と褒めるのは気が引けるのかな?。

ブルーマンデイ、ウェンズデイ

2009-10-23 01:38:52 | Weblog
 休み明けは忙しいものですが、私の場合は”休み明け”と言うものが週に2回あるのです。
 60を過ぎていますからワーキングシェアーと言う事で実働週4日なので、水曜日が平日でも御休み・・・それはそれであり難い面もあっていろんな用事を無理なくこなせるのですが、実際にはちょっと疑問なところもあるのです。
 例えば勤務については週に4日だけですが、見方を換えれば4日しか出勤してはいけないとも言える。
 どんなに忙しくてもそういう規定です。
  そこをまた反対から見ると、今年は年休が35日分あるけれど、こういう勤務体勢ではとても消化は難しい絵に描いた餅になるのです。
 マア非常事態が発生した時に土日休みを含めれば二月近くが保障されているのでちょっとした手術も出来てしまうし、地球の裏側だって旅行できそう・・・とはいえ、残された仕事仲間に恨まれても平然としていられる自信は無い。
 ともあれ、勤務体系がどうあれ、自分が担当している仕事があるわけで、これは他の方が手伝ってくれるのを期待できるほど甘くない。
 つまり課全体の仕事を課員で割り振って消化しながら、それぞれ担当の仕事を遂行するわけで、これが休み明けには山になっている。
  この辺りは幾ら親しいチームメイトでも、よほどのことが無い限り他人様の守備範囲まで手を出さないのが暗黙のルールみたいなものです。
 従って月曜日の朝、木曜日の朝は出勤して自分の机の上を見るのが・・・
  マア、どんな状況だろうとやるしかないのですから逃げられないので、憂鬱であろうと休みボケであろうとやるしかない。

 さてそんなブルーな木曜日の早朝
  朝早く目が覚めて・・・つまり老人には珍しく昨夜からぐっすりと眠りまして、目が覚めてやっぱりネット碁。
 これはどうやら火曜日に市内の調査で歩き回った後遺症が1日では回復しきれないで、2,3日尾を引いているようです・・・結果、よく眠ってしまう・・・。
 同じくらいの点数の人は対局待ちになっていましたが・・・起き抜けで対局場に顔を出せば「待っていました」とばかり御馳走にされてしまうでしょうから、これは”見るだけ”が無難。
 しかも待ちかまえていたのはKさんで、この人は「つけ切り専科」という名前を奉りたくなるほどの切り専門家で、ケンカ碁も好きそうだし、切りさばいて塗りたくって来る人・・・マア怖い人ですからKさんとは打たないでKさんの碁を観戦・研究するのが良さそうです。

 早朝と言うこともありなかなかず相手が現れなくて対局が始まらないので、、既に始まっている碁を覗きました。
 その方たちは点数で言うと手合いは向こう3,4子と言うところでしょうか、マア下手の碁ではありますが、どう言う碁になっているのかは興味はあります。
 自分でも何時か通った道でしょうし、私の碁だって強い人・プロから見れば相対的には似たようなものかもしれないし・・・
  それにもしかしたら近い将来に2,3子ぐらいの置き碁で打つかも知れない相手かもしれません。
 だからそういう時に役に立たないとも言えません・・・まあ楽しければ良いのですが。
 見ている碁は互い先の碁でも、置き碁であっても何かしら感覚と言うか、その人の傾向と、そのレベルの傾向が出て来るかもしれないと思うのです。
 例えば私が互い先で打つ碁の感覚とプロにいくつか置いて指導を受ける時、性格が出る部分と、今の棋力が反映される部分があるでしょう。
 マアそれだからプロには軽く捻られるでしょうが・・・。

 今朝の観戦では・・・
  思わずうなってしまう場面がいくつかありました。
 黒先白死なのに活かしてしまった場面・・・詰め碁の問題として出されたらそれほど難しくは無いのに、実戦は別物らしい。
 逆に、白先白死の筈なのに、なんだか上手い振り替わりを堂々とやっていたり・・・
 対局は両者の暗黙の了解の上に成り立っているので、第三者の口出しすることではないし、ネット碁ですから見るしかない。
  きっとこれは授業参観の父兄の心理に違いない。
  「それなら、お前がやって見ろ」と言われればきっと同じようなミスをする可能性はあるのに、、、ともかく見ていると分かる。
 更に生意気にも、見ていて少し眩暈と憂鬱な気分に。
  私の碁を観戦したらきっと同じような気分になるに違いないのだが、自分で自分の姿は見れないので、そこは知らないと言うことにして置きます。

無駄ではあるけれど・・・

2009-10-22 00:15:12 | Weblog
 水曜日は私的休業日、60才を過ぎるとワーキングシェアーではありますが、週の半ばに休みがあると言うのは助かります。
 これで”虚弱体質”でありながらも仕事を続けられます。
  マア収入としては5日連続の方が良いに決まっていますが、住むところは一応はあるし、食べることも心配は無いし、子供たちは勝手にやって行くだろうし、この先大きな出費はなさそうだし、後はマイペースで行ける筈です。
 尤も今までもマイペースだったので”これからはマイペース”などと広言すれば女房殿からは間違いなく異議申し立てがあるか、最低でも片方の頬はピクピクひきつれるでしょうね。
 と言う事で、水曜日は休養日であり病院等の検査日に充てる日、あるいは何か用事があればその日に済ませる日です。
 ですから前日の火曜日に女房殿から「明日は仕事御休みですよネ」とチェックが入った時は要注意なのです。
 これは何やら当てにしている事があると言うことですから、瞬時に頭の中に黄色のランプが点滅します・・・『イエスと言うべきかノーと言うべきか・・・』
 ノーと言えば嘘になるから、重ねて「では仕事ですか?」と畳みかけられたら嘘を重ねなくてはいけない・・・これはしんどい。
 イエスの場合は必ず「それでは御願があります」が来るに決まっている・・・これも面倒・・・これは迂闊に返事がしにくい状況ですが、流石に3回重ねて聞かれれば本当のことを言わなくてはなりません。
 
 マア複雑なこと、面倒なことでなくて良かった。
 ① 近くの大型スーパーでサービスの美味しい水をペットボトルに汲んで来る。
 ② 水曜日は天気が良さそうだから、外に干した洗濯物は3時ごろには取り入れる。
 この程度で良かった。
  場合によっては役所とか銀行とかで何かの手続きとか、管理人のおじさんに何かの交渉とか、重いものでお米を買っておくとか・・・必要ならやらないでもありませんが、気分は逃げ腰です。

  さてそういうことで大型スーパーに行ったついでに本屋さんでNHK囲碁講座11月号を買いました。
 現在「厚みの戦略」の講師を担当している横田9段のコラムが良いですね・・・  まず、ご自身の棋風の変化について
 猛烈に地に辛い棋風だったのが厚みの碁に変わったきっかけの話・・・レベルは違うので同列に話すのは気が引けますが、私も地は大好きであり、相手によっては
そこを逆手にとって料理されている気がしないでもないのですから、地一辺倒はダメだと言うことは感じています。
 しかし勢力・厚みの活かし方が上手く出来ないと、ただの暑がりになってしまうわけで、そこがアマ・ザルの悩みであるのです。
 非常に大雑把な話ですが、地か厚みかと言うような二者択一的な場面では確率的な意味では地の方が成功率が高そうな感じだなと感じています。
 マア、そこが個人の好みなのか、自分にあった形なのか・・・イヤ地の利が幅を利かせる程度の棋力レベルと言うことかも知れませんが、あくまでもザルの話。
 
 御話の最後の部分も良かったです。
 「必要な無駄」と言うこと。
 確かに現在は仕事にしろ「これをやれば、どういう効果がある」とか「何かに役に立つか」と言う事が重要視されます・・・マアそれはそれで意味は分かる。
 しかし効率を追求するあまりに全てが規格品ですから、規格外の事柄に対処できなかったりしますから、冗談みたいなことも起きます。
 マア、その話は置いて。
 「必要な無駄」を言い換えれば「物事に無駄な物は無い」みたいな感じはある。
  厳密に言うとイコールでは無いですが・・・
 私みたいな性格ですと、他の人から見ると無駄なことばかりやって来ていますので、「その無駄はいつ役に立つ予定だ?」とからかわれるのです。
 「物事に無駄と言うものは無い」「いつかは役立つ」と胸を張りたいところですが、本心で言うと「役に立つ日が来るのだろう」と確信して何かをやるわけではない。
 勿論『役に立つ事があるかもしれない』『あったらいいな』とは感じてはいる。
 ですから声に出しては言えないものの『良いじゃないか、楽しければ』ですね。
 実際勉強でも仕事でも効率を重視するあまり必要な事まで切り捨ててしまう誤りを冒しているところがあると感じています。
  やってみて楽しい事が一番、それでいつの日にか役に立つことがあるなら「オマケが大当たりみたいで幸せ』なのではないでしょうか。

インフルエンザ対局?

2009-10-21 06:24:47 | Weblog
 最近インフルエンザワクチン接種のニュースがありました。
  まず医療機関の担当する医師・看護師、ついで重篤化したら危険な老人、妊婦、乳幼児・・・当初二度の接種が必要と言われていましたが1回で済みそうだとか。
 手間と費用、ワクチンの量などからして助かります。
  さて私は基礎疾患と言うものが一つや二つでは無いので相当優先順位は高そうなんですが、そういうことは喜んでいいやら、素直には喜べないですね・・・。
 生活習慣病クリニックの医師に相談すると、「まずは、このクリニックでは接種はしませんが、予約はできるのでして行ってください。」「私が責任を持って手続きの書類を書きます」と真剣な表情で言ってくれました。
 マア事務手続き上の事なので”真剣”も”熱心”もないのですが、あり難いと思う反面「そこまで心配な状況?」と言う不安もチラッと頭をよぎるのですから、素直では無いですね。
 ともかく来月あたり体勢が整ったら接種を受けられるでしょう。
  それで安心なのかどうかは運次第みたいなところがあるので単純には喜べませんが・・・
  勤め先の同僚には「虚弱体質のジイサマなので優先順位が高いそうです」と言っておきました。

 ところで、病気は確実に広がって来ているようで、近くの小中学校でも学級閉鎖も少し出てきています。
 それに大好きなサッカーのプロ選手の中にも少しインフルエンザの感染があるようで、そういう選手は当然試合には出られないし、練習だってもってのほか・・・チームメイトとの接触も困ります。
 仮にチームの一人とか二人でしたら・・・要の選手の場合は困りますが、それでもなんとか試合にはなるでしょう。
 しかし学級閉鎖では無いけれど一定以上の割合で感染者が出た場合・・・さて選手が11人残っているからと言って試合を強行するのでしょうか。
 尤もそこまで広がれば、観客も集まらない可能性が高いので、スポーツ興行として成り立たなくなりますね・・・少なくとも一時的には成り立たなくなる筈です。
 政治的理由とかみたいにTV中継のみの、無人観客試合?

 さて囲碁は?
  アマチュアがネットで対局するのには、インフルエンザの感染は心配は無い。
 碁会所・コミュニティなどは心配です・・・そうですリアルの碁はある程度区切られた空間に複数の人間がいるし、対局では一定以上向き合っているし、心配ですね。
 それに碁会所で、全員大きなマスクをして向かい合っている絵を想像すると異様ですし、誰かが軽く咳払いなどしようものなら他の全員から睨まれたりする光景を想像してしまいます。
 やはり学級閉鎖並みに、一定以上人が集まるものは一時閉鎖とか・・・なんだか一昔前の集会禁止令みたいですね。
  ですからプロの碁はもっと心配・・・予定通り対局できるのかどうか。
 もし感染していると分かれば棋院に入場できないでしょうから、感染者入場禁止で当然対局不可能と言う事で不戦敗?。
 もし両者感染していたとしたら、その場合は引き分け?
  タッチの差で、感染の確認が遅れ、棋院に来ることができれば相手の不参加により不戦勝獲得?・・・なんだか変な心配ですね。
 でも、感染かどうか不明な場合、感染拡大を防ぎつつ対局をするには、通常のリアル対局のように対局室での対局では無く、碁盤を使わない対局なんていうのも用意されたりして・・・
 両者別室でパソコンでの対局と言うものが用意されたりして・・・それなら家にいても良さそうなんですが・・・
  対局の公平性を保つために、例えば棋院職員が介添え兼監視員的に同席するとか、あるいはパソコンを大会議室のようなところで、10メートルくらい離れたところに置いて、両対局者は離れた位置で向かい合って対局するなども考えられる・・・。
 公平性と言う意味では、各自の家でのパソコン対局はなさそうな気がします。
  プロの先生たちですから、試験のカンニングみたいなファールは無い筈ですが、それでもゲームの性格上家でのパソコン対局は公式戦としては認められないような気がします・・・
 しかし、私もこういう心配はしなくても良さそうなのに、空想がスタートするとブレーキがかかりません。
 私の場合の心配事は万が一の時、入院先にパソコンを持ち込んで対局・観戦・ブログが普段と同じように出来るかどうか・・・
 仮に病気にかかったら、そちらの方は運と御医者様任せなのですから、心配することといったら、そういうことと好きな物を食べること。

 さあて、スポーツを囲碁将棋もインフルエンザ対策と言うものは取れるのでしょうか?
 やはり感染がある程度で収まるように神頼みしかないかも知れませんが。

不可解!?

2009-10-20 18:47:08 | Weblog
 私の長女が6才の時に息子が生まれまして、片方は保育園の年長組でもう一方は赤ちゃんなわけです。
 長女が中学校に入る年に息子が小学校入学で、当然いつまでたっても6才の差は変わりません。
 従って姉から見れば弟は常に子供扱いで、成長してもお説教をする対象であり、近所のコンビニに行くパシリ的な存在でした。
 これがやっと弟も殆ど一人前だと姉が認めているかなと感じたのは、息子が20才くらいになってからでしょうか、二人で夜中に話をしていたり、姉が弟を買い物に連れて行ったりして行くようになりました・・・尤も一人で買い物に行くのが寂しくて連れて行っているだけでしょうからパシリは変わっていないのか?。
 ともかく弟から見れば両親より怖い、天敵みたいな存在から一応姉弟に慣れたということでしょう。
 それでも、今でも姉に何か言われると素直に・・・

 私の場合は5人兄弟の一番下で、一番上からは14才違う。
  3才上の姉、6才上の姉・・・姉は3人。
   比較的年の近い姉たちも、女性ですから比較的精神的な成長は早いでしょうから、私などは全くの子供扱いで、まともに一人前の兄弟として話ができるように実感したのは30才近かったような記憶があります。
 娘が生まれて私も親になった頃に兄弟として話ができるようになった感じですから、丁度同じ時期に自分の娘と息子の関係を見ていると内心可笑しかったものです。
 
 さて、囲碁においては、天敵・苦手と言う存在はあるようです。
  それが10戦して10敗と言うようなものでは無く4勝6敗とか3勝7敗みたいにコンスタントに負かされる感じであり、ココと言う時にやられる感じで、そういう1敗がいつもの2倍3倍に感じられるような場面で勝てない相手。
 囲碁そのものに問題があるだろうとは想像ができるのですが・・・
  例えば自分が好きな布石が、実は相手にとって勝率の良い布石であったり。
 そういう布石の問題点・弱点となる部分を使っている私が認識していないのに、相手は実は熟知していたり・・・
 あるいは、積み重ねられた敗戦の記憶・刷り込まれた苦手感がマイナスに作用したり・・・
 そういう人はいる!
  そういう相手ばかりですと負けてばかりいることになるから、点数がどんどん下がってしまうとか、負けてばかりりの勝負事は嫌いになる・・・現実はそこまでは行かないでどこかでバランスが取れているのですから、その辺は微妙な力学が働いているの違いない。

 そういうことに一つを見てしまったかも知れません。
  ネットでMさんとNさんの対局です。
 私がMさんをお得意さんとしているわけではありませんが、比較的打ちやすい感じを抱いています。
 概ね同じ布石の立ち上がりが多いし、局面の分かれ道で、ここでMさんならこう来るだろうなと言う予測がだいたい当たります。
 そういう意味では打ちやすい筈です。
  過去5年くらいの対戦成績を調べてみないとはっきりしたことは言えませんが、勝率で言えば5割は越えている(6割と言うことは無いとは思いますが)とは思う。
 相手のMさんがどう感じているかはネットだけに分からないですが、ともかく私にとってはこのネットでは一番対戦が多い相手です。
  冗談みたいですが、私が不調に陥って成績が悪い時には、もしMさんが手が空いていれば「一局お願い!」と言う感じでしょうか。
 勝ち点1を頂き、気分もそこから反撃・反発ムードになると言う事で。

 反対にNさんは殆ど天敵だと言えます。
  対戦成績では記憶では2割程度の勝率しかないと思います。
 Nさんに聞いてみないと分かりませんが、きっと私の方に決定的な欠点、Nさんから攻めやすい弱点がある筈なのです。
  そうでなくてはこんなには偏らないでしょう・・・もしそこが克服出来れば一ランク上がれるかも知れない・・・そこが出来ないので現状維持なんでしょうか。

 さてMさんとNさんの対局。
  私から見たら憎らしいほど強いNさん、一方でどちらかと言えば与しやすいMさんの対戦ですからNさんの圧勝の筈なんですが・・・そうはなっていない。
 中盤過ぎてもMさんの優勢は揺るがない。
  もしいつもこういう結果が多いとしたら、これは「3すくみ」状態?
 古い例えで「石川五エ門、ガマ、ナメクジ?」でしたっけ。
  まあ、「グー・チョキ・パー」でしょうか。
 余りに不思議な感じがしたので棋譜倉庫から「最近観戦した棋譜」を取りだして再現してみました。
 どこがどうだと言うことは言えないのですが・・・強いて言えば早い時期に大ヨセに入っている。
  その辺がカギなんだろうか?
  んー解りません。