★大西清右衛門美術館 サイト
秋季企画展『松籟を想う ~茶の湯釜を見ながら~』 ※12月13日(日)まで
前回に続き、今回もポスターなし、チラシなしで頼りにするのはサイトの告知のみ。
やや不安を感じながら、連休最終日(9月22日)の朝10時前に美術館前へ。
「とりあえず展覧会はやっているらしい」とホッとしたりして。
開館と同時に入館。
予想はしていたけど、展示目録は「用意していません」とのことで、
図々しく(?)も「白い紙を1枚ください」とコピー用紙をもらう。
3階に上がる。
右横の独立ケースにはすごく欠けまくった鉄風炉。
「わーすごい。銅のところなんて、大きい穴が空いてる~。これはもう、使い物にならないよねぇ」なんて思う。
そして、キャプションがない。いつの時代の何という風炉なの~?
ちょうどいいところにスタッフの方が冷房をつけに来たので、呼び止めて質問すると、
「当代を呼んで参ります」。
え、いや。そんな恐れ多い~。 ワタシ、クレイマーじゃないし~と遠慮すると、
「いえ。今回はキャプションなどまだ間に合っておりませんので。
とりあえず、解説があるところからご覧になってください」
はぁ。
ということで、とりあえず解説があるところから鑑賞。
常張釜。古天猫。室町時代(16世紀)
平鶴首(平)釜。 古天明 室町時代(16世紀)
姥口釜 天明 そこそこ大きいけど口小さい。
梅地文真形釜 芦屋 室町時代
鷺地文平丸釜 二代浄清
松肩釜 初代浄林?
どちらも環付は梔(くちなし)の実
大阿弥陀堂釜 辻与次郎(16世紀~17世紀)
箆被釜(のかづきがま)
箆被とは弓矢で鏃(やじり)が矢の竹に接するところをいい、釜の胴から底にかけての形が箆被に似ていることに由来。
風炉は七代浄玄
茄子ノ釜 十代浄雪 環付が茄子
芦屋釜と朝鮮風炉 風炉はひびがめちゃ入ってサビサビ。与次郎作。
肩が沈んだ霰釜 巴釜?姥口釜?
これがのる風炉は朝鮮風炉? 釜と接する部分には透かし模様。(少庵好み)名越家の柵。
達磨釜(だつまがま) 浄雪釜
そして、五徳が釜にくっついた釜~ 何コレ?
後で聞いたら、イギリス製の釜(Coludron)だそうで、当代だか先代があちらへ行った折に購入されたものとのこと。
一通り観たところで当代がご登場。
コロナの時期ということもあり、今回は時間が許せば自ら展示解説に出られているらしい。
(ご当代も奥様も学芸員の資格をお持ちだそうで)
「どういうことが知りたいですか?」と聞かれて。もじもじしてしまう。
来館者は茶道関係者のみならず、建築関係(鉄骨や鉄筋のビル絡み)など仕事目的の方もいるとのこと。
「うーーん。仕事はフツーだしなぁ」と、思わず天井を見上げて考える。
「ワタシ、茶道を習っていて、灰形も習い始めて、それで釜とか五徳とか風炉に興味を持ったんですよねぇ」
てなわけで、そういう切り口で解説をお願いした。
まず、手前の独立ケースに展示してあった穴が開いた欠(やつれ)風炉。
なんと、穴を塞いで使用できるし、実際に使っているんだそうな。
あと、釜に継いだ跡があるとか。
この釜は修理で預かったのだけど、修理に失敗してそのまま資料として大西家に入ったという紹介もあり、ビックリ。
(江戸時代なので、預かる時点で「修理に成功するかどうかはわからない」と施主の了解もとっていたとのこと)
まぁ、確かに昔はそうだよねぇ。
「この割れた部分の修理を頼まれて、繋ごうとしたけど失敗して、茶釜の方が沈み込んだのでは~」という推理に
「え、これはこういうデザインじゃなかったんですかぁ。言われてみたら、不本意に沈んでますねぇ」
そういった、錆びた釜や壊れた(といっても、素人目にはわからない)釜は資料として保存しているのとのこと。
どうしたらこうなるのか、これを修正して元に戻せるのか、技術を磨く上での貴重な教訓。
優れた釜の保存もまたしかり。いい技術を引き継ぐには手本は必要不可欠。
箆被釜(のかづきがま)も展示解説はあったけど、さらに直接に聞くとちゃんと理解できた。
他にも辻与次郎についても、「天正与次郎」と「慶長与次郎」というお言葉が出てきて、「ん?」
「あの、与次郎って、2人いたんですか?」
謎な部分ではあるのだけど、天正時代と慶長時代は作風がガラリと変わっているそうで。
同一人物ではないかもしれないという説もあり、時代の趨勢で作風を変えたのかもしれない。
天正と慶長の間に利休切腹があるわけで。利休の死によって、好まれる茶釜も変化?
ほかには上部と下部の継ぎ目はあるけど羽落ちや羽根がない寸胴に近い茶釜は
「これはお寺で常に懸かっていて、ちょっと白湯を飲むのに使ったのでは」という用途についての説明も。
「あ、ポット使いですね」「いや、こういうものが現代のポットになったわけで」←確かに、そうだ。
ご当代の説明の中に「うぶがま」という単語がでてきて、「何?」。
前後の説明からして、「生釜(うぶがま)」ってことになるのかなぁ。
茶釜も使い続けて50年100年経つと、底が痛んで交換せざるをえない。
もともと茶釜は上部と下部を別々に作って、それを接着するものだから、下部を取り換えることはよくある。
上部より小さくして、その円周の差が「羽根」となる。
生釜(うぶがま)とはその下部の作り替えがまだされていない釜のことをさしていたのだろうと思う。
そういう視点で欠けとか継いだ部分とか下部や底の部分に注目して茶釜を鑑賞するのも面白いなぁ。
最後に材料の鉄についての話が興味深かった。
和銑(わずく)を用いるのだけど、配合によって鉄の質は当然のことながら変わってくる。
成分のことを考えながら調整するのだとか。
陶磁器の土のように、鉄も地域によって成分は変わるんですかぁなんてこと、改めて気づかされる。
地域といえば、古い茶釜は芦屋(福岡)か天明(栃木県の佐野)のどちらかの産とされているのだけど、
本当にそうなのかといえば、確証はないらしい、
確かに芦屋と天明は茶釜の名産地ではあったけど、それ以外の土地でも茶釜の生産はされていたのではないか。
という話もあった。
確かに日常生活に鍋のような鉄器はその土地土地で作られていたとは思うし、
そのなかで茶釜も作ったことも考えられる。
「それこそ、成分分析で産地とかわかるのでは?」「うーーん」
後から思うに、技術的に不可能ではないけど、コストをかけて成分分析をする意義が?なのだろうなぁ。
実はここの感想記をどうまとめようか、かなり困った。
成分分析のこともと引っかかっていた。
旅行と前後して、NHKで戦国時代の3英傑における海外との交易を扱った番組を3回観た。
(なぜか、NHK特集、BSプレミアム特集、歴史秘話ヒストリアで同じ映像材料を使っていた)
その中で長篠の戦いで信長軍が使用した火縄銃の鉄砲玉はその成分からフィリピンで採掘された鉛でできていたことがわかった。
また、たまたま観たBSプレミアムのコズミックフロント「アイアン・プラネット」。(つい、深夜なのに見入ってしまった)
最近、トルコのあたりで古代の製鉄遺跡の発掘がすすみ、いろんなことがわかってきたんだとか。
エジプトのツタンカーメンの遺跡から出てきた短剣の刃は鉄隕石だとか
鉄はそもそも地球の核の部分にあるもので、それがマグマとともに噴火で地表に出てきたとか。
そういえば、ヒッタイトが鉄器の生産に成功して強大な国になったと世界史で習ったなぁ。
ヒッタイトの東にはスキタイというもっと優れた鉄文化を持った国もあったとか。
鉄鉱石ねぇ。
マグマや噴火で地表に出るなら、日本にはたくさん材料あるし、鉄のものはいろいろあるよねぇ。
茶釜も奥が深いわ~
もっと、勉強が必要だなぁと思った。
そんなんて、茶釜展を観に行ったというよりば、茶釜と鉄についての対面講演を受講しに行ったような、
本当に勉強になった美術館訪問だった。
滞在時間は1時間35分! 次の来館者が展示室に入ってきたので、慌ててお譲り(?)した。
(来館者が来なかったら、もっとお話しが長くなってしまったかも~)
ちなみに、「展示リストは今後も配布しないのでしょうか」とお尋ねしてみた。
3か月間に展示入れ替えもするそうで、リスト発行は難しいみたい。
それに茶釜の名称も形をそのまま名称に起こしたものだしねぇ。
今後はノートを持参して、筆記しやすい準備をして行こう。
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