GIは、いつもの学生時代からの お仲間とゴルフ。
H氏のドイツ?土産。この花は、去年から咲き続けています。
BAは、夕飯に 茄子の肉詰め の下ごしらえをしてから 映画「ザ・ダンサー」へ。
このブログ(他人にも見せる日記)を書くようになったお蔭で、映画をかってのように見るだけではなく ブログに載せるために自分の人生をも、自然に振り返るようになりました。 ブログって、一種の遺書のようなものですね。いつか孫たちも読んでくれるかな?との想定で・・・。 映画やブログは、老後人生の時間つぶしでもあるかな?
5人姉妹の末っ子の私は、
長姉から、音楽を。(カラヤンとジェームス・ディーンが好きなロマンチストでしたね。7歳上)
次姉から、運動と流行歌を。(我が家随一の、のど自慢の ひまわり娘でしたね。6歳上)
三姉から、文学を。(芦川いづみ風の文学少女は、詩を書く 弁論好きでしたね。5歳上)
四姉から、お洒落を。(色白で腰までの長い髪が自慢のクールビューティーでしたね。2歳上)と、こんな個性的な姉たちから様々な影響を受けて育ちました。
さてさて、今回の映画「ザ・ダンサー」。 イサドラ・ダンカンを懐かしく思い出しました。
体操部?ダンス部?の元気な次姉と私は、毎晩柱をバー代わりに 足上げの練習をしていましたね。平行棒の歩き方とか、エビそりとか、屈伸とか競い合って・・・。 で、私は秘かに 高校受験に失敗したら、東京に出て『SKD』に入ろうと思っていました。(今、娘がこれ読んだら笑うよね。ハッハッ。サルサ下手だったの知ってるものね。)
あの頃は、庶民は『SKD』、裕福な家庭の子女は『宝塚』が憧れだったんですよ。 誰にも言ってない その頃の私の悩みは、ラインダンスの一番端っこのまま、背が伸びないんじゃーないかしらでしたよ。
今はもう無い『SKD』ですが、倍賞姉妹が有名で、日曜の午後にはTVで放映されていました。『宝塚』もね。どっちも同じくらい人気がありましたよ。
だから一度でもダンサーを志したことがある人は、イサドラ・ダンカンに憧れるのですよ! 創作モダンダンス。自由な舞いにね。
モダンダンスの祖・ロイ・フラーって、知りませんでした。映画「ザ・ダンサー」は、ロイの伝記物語。
「サロメ」好きのパリ・オペラ座を目指す、アメリカからやってきた腕っぷしの強い企画力のある25歳の女優ロイ。
時は19世紀末のベル・エポック時代。(帚木蓬生の『薔薇窓』の時代。時代の雰囲気の描き方が『薔薇窓』良かったね)
ジャポニズム。画面には、川上音二郎らしき人物と貞奴もチラッと出てきて、新しい とロイは評価していたけど、三味線と舞妓の大道芸って軽く扱われていたね。
照明をドレスの中に入れて腕を振り回して、七色の光を踊るロイ。まあ、ジュディ・オングのあの舞を大きく長く光でと思ったら・・。ロイこそ、良い意味での大道芸でしょ? バレェが高級で 創作ダンスは、低級?の時代だったの?
誰も言わないけど、ロイを見出し、理解し、励まし、成功させたのは、パリで出会った あの女性マネージャーでは?
やっぱり 彼女との友情を もっと描くべきでしたね! 伯爵?んー、自殺したね。んーん。理解不能。
イサドラ・ダンカン? 裏切り者のように描かれていましたが、イサドラは、自分の肉体を使っての裸足の創作舞踊。ロイは器具 装置を使っての舞台表現。 根本が違いますもの ね。ロイがイサドラより15歳年上。出会った時の若さ、肉体が違うし、感性もね。 でも、どちらも独創的なアールヌーボー(新芸術)でしょ?
私が映画を見ていて思ったのは、
元バレェダンサーの先生とその相棒さんの10周年を迎えられた股関節患者のための体操教室のこと。
映画の画面に さりげなく重要ポイントごとに出てくる女マネージャーと、あの相棒さんが被りましたよ。
先生に寄り添い、支えてこられた お優しい笑顔の相棒! これからも、デリケートな先生を支えてあげて下さいね!
絵画は色彩、音楽は音、ダンスは動き、詩は黙想。これを、4芸術というそうな・・。
かっての我が家には、芸術が溢れていたんだね。こんな生意気・妹の面倒を見てくれて ありがとう。4姉ちゃん! これからも 遊んでね!
阿蘇白水名蘭、冬から まだ頑張ってるよ! もう夏が来るよ。アガパンサスが咲きだしたものね。
紫陽花とは これで さようなら。