民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「早川義夫のエッセイ」 その1 

2013年02月06日 00時34分20秒 | エッセイ(模範)
 ここんとこ、民話の主題から離れているけど、
離れついでに、むかし、心に残ったエッセイを紹介します。

 

 早川義夫 エッセイ その1 「感動と本物 」 

 僕はいまだかつて、絵や写真や文章に対し、猥褻と思った事がない。
不愉快ならば見なければいいし、読まなければいい。

 ところが、電車の中のおしゃべりや街にあふれる騒音や排気ガスはいけない。
あれこそ猥雑である。
目はそっぽを向くこどができるが、耳や鼻はふさいでいられないのだ。(中略)

 歌は恋文のようなものだ。

 伝えたいことと、伝えたい人がいれば、才能がなくとも、歌は生まれる。
本当のことは本当らしく伝わるし、嘘ならば、嘘らしく伝わる。

 嘘を本当らしく伝えることも技術があれば出来るかもしれないが、見破られてしまう。
伝えられるものは本当のことしかなくて、伝わってくるものも、本当のことしかない。

 何も伝わって来なければ、何も伝えるものがないのであって、
かっこだけが伝わって来るのは、かっこつけてるよということを伝えたいのだろう。

 歌も文章も、写真も演技も、日常で会話を交わすことも、
怒鳴り合うことも、黙っていることも、すべてその人が伝わってくる。

 それは、言葉からではなく、息づかいからだ。(後略)

 これでいいのだ。
きどることはない。

 鏡に映る姿は歳とともに老いてゆくが、頭の中は何も変わっていないことに気づいた。
心は歳をとらないのだ。

 恋をしていいのだ。
恥をかいていいのだ。

 心の底に降りて行っていいのだ。
そう思ったら、歌ができるようになった。

 かつて感動したことは今でも正しいのだ。

 早川義夫 エッセイ その1 完