民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「老眼鏡」 マイ・エッセイ 2

2013年09月11日 00時20分54秒 | マイ・エッセイ&碧鈴
   老眼鏡
                        

 新聞に投書欄というものがある。そこには投稿者の名前と年齢が記してある。
エッセイも同じように作者の年齢を記すべきだと、私は思っている。
なぜなら、ジェネレーション・ギャップというものがあるからだ。
生きてきた時代が違えば、考え方・価値観も違ってくる。
この人はこういう時代に生まれたから、こういう考え方なのだと、
その人の時代背景を知るためにも、作者がどれくらいの年齢であるか、
知っておいた方がいいと、私は思っている。
 ということで、私も年齢を明かすと、団塊の世代である。
眼にガタがきて、活字を読むのに、老眼鏡が欠かせなくなった。
不自由だが、その不自由さにも、だいぶ慣れてきた。

 還暦を過ぎたころ、新聞を読むのが不自由になった。
大体の字は読めるのだが、こみいった漢字が読めない。
それで、虫メガネを使うようになった。
しかし、虫メガネはそのわずらわしさに、まもなく使用をあきらめた。
図書館で借りる本はほとんどが大型活字本になった。
だが、それでは読書欲を満たすことはできない。
そして、老眼鏡を使うようになった。
最初は、必要なときに老眼鏡が見つからなくて、ずいぶん、苦労したもんだが、
今はそんなことはない。
老眼鏡なしでは活字が読めないのだから、もう眼の一部といってもいいだろう。
 (老眼鏡を「シニアグラス」という呼び方があるらしいが、
市民権を得ているのだろうか。)
 そのうち、大型活字本も老眼鏡なしでは読めなくなった。
度数も一番弱いヤツでは不自由になって、さらに度の強いヤツが必要になった。
今は二種類の老眼鏡を、読む活字の大きさによって使い分けている。
不自由だが、これも一過性のことだろう。
実際、度の強い老眼鏡の方を使うことが多くなってきている。
 
 さて、年をとって視力はおとろえたが、
ものの本質を視(み)る力は強くなってきたように思う。
若いころには見えなかったものも、見えるようになってきた。
たぶん、仕事から解放されて、失うものがなくなったことが大きいのだろう。
もう、世間に自分を合わせる必要はないのだから。
 今まで、生活に追われて見えていなかったものが、
生活を離れて見るようになって、見えてきたのだろう。
それは老眼になって、ぼんやりとしか見えなくなった活字が、
老眼鏡を使って、はっきり見えたときの驚き、喜び、爽快感に近いと、
言っていいかもしれない。

 ところで、今、私の運転免許証に「眼鏡使用」の文字はない。
次はダメかなと、不安をおぼえながら、何度かの更新をしてきた。
けれど、いつか免許証に「眼鏡使用」と、記されるときがくるのだろう。