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「文人囲碁会」 その1 坂口安吾

2015年08月14日 00時05分18秒 | エッセイ(模範)
 「文人囲碁会」 その1 坂口安吾 「教祖の文学」草野書房 所載

 先日中央公論の座談会で豊島与志雄さんに会ったら、いきなり、近頃碁を打ってる?
 これが挨拶であった。四五年前まで、つまり戦争で碁が打てなくなるまで、文人囲碁会というのがあって、豊島さんはその餓鬼大将のようなものだった。
 僕は物にタンデキする性分だが碁のタンデキは女以上に深刻で、碁と手を切るのに甚大な苦労をしたものだ。文人囲碁会で僕ほどのタンデキ家はなかったのだが、その次が豊島さんで、豊島さんはフランス知性派型などゝ思うと大間違い、僕は文士に稀れなタンデキ派と考えている。
 豊島さんの碁は乱暴だ。腕力派で、凡そ行儀のよくない碁だ。これ又、豊島さんの文学から受ける感じと全く逆だ。
 川端康成さんの碁が同じように腕力派で、全くお行儀が悪い。これ又、万人の意外とするところで、碁は性格を現すというが、僕もこれは真理だと思うので、つまり、豊島さんも川端さんも、定石型の紳士ではない腕力型の独断家なのでお二人の文学も実際はそういう風に読むのが本当だと思うのである。
 更に万人が意外とするのは小林秀雄で、この独断のかたまりみたいな先生が、実は凡そ定石其ものの素性の正しい碁を打つ。本当は僕に九ツ置く必要があるのだが、五ツ以上置くのは厭だと云って、五ツ置いて、碁のお手本にあるような行儀のいゝ石を打って、キレイに負ける習慣になっている。
 要するに小林秀雄も、碁に於て偽ることが出来ない通りに、彼は実は独断家ではないのである。定石型、公理型の性格なので、彼の文学はそういう風に見るのが矢張り正しいと私は思っている。
 このあべこべが三木清で、この人の碁は、乱暴そのものゝ組み打ちみたいな喧嘩碁で、凡そアカデミズムと縁がない。
 ところで村松梢風、徳川夢声の御両名が、これ又、非常にオトナシイ定石派で、凡そ喧嘩ということをやらぬ。この御両名も文章から受ける感じは逆で、大いに喧嘩派のようだけれども、やっぱり碁の性格が正しいので、本当は、定石型と見る方が正しいのだと私は思っている。
 喧嘩好きの第一人者は三好達治で、この先生は何でも構わずムリヤリ人の石を殺しにくる。尤も大概自分の方が殺されてしまう結果になるのだが、これ又、詩から受ける感じは逆で、何か詩の正統派のような感じであるが、これも碁の性格が正しいのだと私は思う。