民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「コラム道」 その1 小田嶋 隆

2015年08月22日 00時37分58秒 | 文章読本(作法)
 「コラム道」 その1 小田嶋 隆  ミシマ社 2012年

 絵には構図がある。
 写真にはフレームがある。
 で、それらの視覚芸術は、額縁におさめられることで完成をみることになっている。
 何を言いたいのかというと「全世界は作品にならない」ということだ。
 もう少し具体的な言い方をしよう。
「自分の周囲をめぐる全天足下360度のあらゆる景色をあまねく描写することは画家の仕事ではない」
 そういうことだ。
 画家は、目にとまった一点を、でなければ、特定の場所から見た一定範囲の景色を、「絵画」という作品に定着させる。それが彼の仕事だ。
 で、この、「景色を限定する作業」ないしは、「主題を枠組みにはめ込む過程」を、絵画の世界では、「構図」と呼んでいるわけなのだが、その作業は、同時に、天地と奥行きを持った三次元の動的な世界を、静止した平面に翻訳する作業でもある。
 つまり、絵描きには、時間的にも空間的にも、「瞬間を切り取る」ことが、求められるのである。というよりも、絵を描く人間が最初に直面する問題は、「どのように描くのか」でもなければ、「どんな色を使うか」でもなく、まず第一に「何を描くのか」なのである。
 写真でも同じだ。カメラのフレームにおさまる景色は限られている。だから、どの倍率で、どこに焦点を当てて、いかなる被写界深度において風景を切り取るのかということが、カメラマンのウデになる。

 おわかりいただけただろうか。
 コラムは、短いライン数の中で、何かを言い切る仕事だ。
 そのためには、限定されたライン数の中にひとつの世界なり主張なりを閉じこめなければならない。
 やっかいな仕事だ。
 コラムニストは、画家がキャンバスの中に風景を封じ込めることや、写真家がレンズでもって世界を切り取ることと同等な作業を、言葉という道具を使って成し遂げなければならない。
 その意味では、コラムとは、「特定の枠組みの中で、言葉の小宇宙を形成する作業」であるというふうに定義することができる。うん、カッコ良すぎるが。でも、自分の仕事はなるべく素敵なカタチで定義しておいた方が良い。その方が仕事がはかどるし。