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「コラム道」 その3 小田嶋 隆

2015年08月28日 00時09分29秒 | 文章読本(作法)
 「コラム道」 その3 小田嶋 隆  ミシマ社 2012年
 
 ひとつの文を書き終えると、その文が表現していたところのものが、書き手にとっての当面の「足場」になる。
 と、次の一文では、今書いたことの一歩先に話題を進めることができる。
 そうやって、文章は、書き手の考えを、一歩一歩段階を踏みながら、敷衍し、拡大し、伸張させることができるのである。
 
 思考の最大到達距離が、5メートルである人がいたとする。
 その人間は、アタマの中で考えている限り、半径5メートルの範囲でしか自分の視野を確保することができない。
 が、文章を書くことで、彼の思考は、より遠いところに到達する。
 文章を書く作業は、たとえば、岩場にハーケンを穿つ動作に似ている。
 ひとつ文を書くと、足場がひとつ増える。と、一度文章のカタチで確定させた足場は、次の時から、自分にとっての「陣地」になる。こうやって、われわれは、徐々に高度を稼ぐことで、垂直の岩壁を踏破し、時にはアルプスのような巨大な山塊を超えて、新しい地平に到達することができるのである。

 さてしかし、文章を書くことで、かえって隘路に迷い込む人々もいる。
 自分の書いた出来の悪い前提に視野を限定されて、無茶な演繹を繰り広げたあげくに、最終的には手に負えないバカな結論に立ち至っている不幸な書き手は、文章を書くことで、むしろアタマの機能を低下させている。
 それとは別に、会って話している限りにおいては温厚な人物なのに、文章を書くと、打って変わって偏執的な原稿を仕上げてくるタイプの人々がいる。
 かと思うと、会話の上では、才気煥発に見える人が、文章を書かせると、どうにも散漫で支離滅裂である例も珍しくない。というよりも、もしかして、打てば響くタイプの人間多くは、文章が苦手であるのかもしれない。
 なぜだろう。
 どうして、アタマの良い人が、良い文章を書けないというようなことが起こり得るのだろうか。
 おそらく、このことは、魅力的な会話を成立させる能力と、マトモな文章を書くための能力が、まったくかけはなれているということに由来している。

 会話を魅力的たらしめている要素は、ボキャブラリーの華麗さや反応の早さといった、どちらかといえば瞬発的な能力に依存している。ほかにも、会話は、純粋な言語能力とは別の、人格的な魅力や、地位を背景とした圧力や、美貌や声そのものの豊かさみたいな要素によって、かなりその影響力を左右される。
 ひるがえって、文章を文章たらしめているのは、ひらめきや想像力よりは「根気」だとか「忍耐力」みたいな、どちらかと言えば地味な能力(「適性」と呼ぶべきかもしれない)だ。