「コラム道」 その2 小田嶋 隆 ミシマ社 2012年
会話における言葉のあり方は、文章のうちにある時のそれと比べて、ずっと自由だ。
いや、「自由」というだけでは足りない。
会話の中の言葉は、文章の構成要素となっている時のそれに比べて、より短期的で、感覚的だ。さらにいえば、それは反射的であり、テンポラリーかつ限定的で、揮発的ならびに局所的であり、多くの場合あまり論理的ではない。であるから、会話を模写する形式で書き起こされた文章は、通常の散文に比べて、より混乱していて、曖昧であり、その一方で、鮮烈でもあれば闊達でもあり、要するに自由かつ断片的なのである。
たとえていうなら、文章の中の言葉が、壁の中の煉瓦の一片、ないしは、石垣を形成する城石の一部であるのに対して、会話の中の言葉は、独立した石ころとして一個たり得ている。だから、手に持って振り下ろせば撲殺用の凶器にもなるし、古池に投じれば、カエル君が飛び込む時の水の音を奏でたりもする。
会話は、だから、使いようによっては文章を賦活するスパイスになる。が、使用法を誤れば石垣全体を崩壊に導く。石組みをして瓦解せしめるには、不適切な石を一個紛れ込ませるだけで十分だからだ。石積みに乱れが生じれば、論理はガレキ化し、理路は道を失い、言葉の壁は廃墟になる。であるから、肝要なのは引き際を心得ることだ。引き際について語っているテキストにおいては特に。
一方、散文は、論理で出来ている。論理学や数学が対象にしている論理ほど精密なものではないが、それでも、文章のアタマから終わりまで一貫したロジックが流れていないといけないという建前は常に書き手を縛っている。
文章の途中の一部分を取り出してみた場合でも同じで、ひとつの文、ひとつの段落は論理的に整合した一個の主張なり感慨なりを表現していなければならない。そういう決まりになっている。
文章を書くことの厄介さは実にここにある。
すなわち、文章を書くということは、前のページで書いた内容と、いま書いている一行が矛盾していないかを不断にチェックし続ける作業を含んでいるのだ。その確認の作業のややこしさもさることながら、「文章の形式でものを考える」というそのこと自体がまた猛烈に面倒くさい。
おそらく、この作業(文章の文体でモノを考えるということ)は、脳にとってあんまり自然な作業ではない。
別の言い方をするなら、文章を書くという過程を通じて、人は、はじめて論理的にものを考える習慣を身につけたのである。
さよう。たとえば、原稿用紙換算で20枚になる分量の論考を、自分の頭の中だけで組み上げることのできる人間はほとんどいない。
それが、文章の力を借りることで、多くの人間にとって可能になる。
というのも、文章は、思考の足跡を書き残すことで、思考の到達距離を広げるツールだからだ。
会話における言葉のあり方は、文章のうちにある時のそれと比べて、ずっと自由だ。
いや、「自由」というだけでは足りない。
会話の中の言葉は、文章の構成要素となっている時のそれに比べて、より短期的で、感覚的だ。さらにいえば、それは反射的であり、テンポラリーかつ限定的で、揮発的ならびに局所的であり、多くの場合あまり論理的ではない。であるから、会話を模写する形式で書き起こされた文章は、通常の散文に比べて、より混乱していて、曖昧であり、その一方で、鮮烈でもあれば闊達でもあり、要するに自由かつ断片的なのである。
たとえていうなら、文章の中の言葉が、壁の中の煉瓦の一片、ないしは、石垣を形成する城石の一部であるのに対して、会話の中の言葉は、独立した石ころとして一個たり得ている。だから、手に持って振り下ろせば撲殺用の凶器にもなるし、古池に投じれば、カエル君が飛び込む時の水の音を奏でたりもする。
会話は、だから、使いようによっては文章を賦活するスパイスになる。が、使用法を誤れば石垣全体を崩壊に導く。石組みをして瓦解せしめるには、不適切な石を一個紛れ込ませるだけで十分だからだ。石積みに乱れが生じれば、論理はガレキ化し、理路は道を失い、言葉の壁は廃墟になる。であるから、肝要なのは引き際を心得ることだ。引き際について語っているテキストにおいては特に。
一方、散文は、論理で出来ている。論理学や数学が対象にしている論理ほど精密なものではないが、それでも、文章のアタマから終わりまで一貫したロジックが流れていないといけないという建前は常に書き手を縛っている。
文章の途中の一部分を取り出してみた場合でも同じで、ひとつの文、ひとつの段落は論理的に整合した一個の主張なり感慨なりを表現していなければならない。そういう決まりになっている。
文章を書くことの厄介さは実にここにある。
すなわち、文章を書くということは、前のページで書いた内容と、いま書いている一行が矛盾していないかを不断にチェックし続ける作業を含んでいるのだ。その確認の作業のややこしさもさることながら、「文章の形式でものを考える」というそのこと自体がまた猛烈に面倒くさい。
おそらく、この作業(文章の文体でモノを考えるということ)は、脳にとってあんまり自然な作業ではない。
別の言い方をするなら、文章を書くという過程を通じて、人は、はじめて論理的にものを考える習慣を身につけたのである。
さよう。たとえば、原稿用紙換算で20枚になる分量の論考を、自分の頭の中だけで組み上げることのできる人間はほとんどいない。
それが、文章の力を借りることで、多くの人間にとって可能になる。
というのも、文章は、思考の足跡を書き残すことで、思考の到達距離を広げるツールだからだ。