「おなかが本体、あたまは飾り」 小出 瑤子 ブログより
思考も、感情も、体感も、ぜんぶぜんぶぜんぶ、ごくごく勝手にやってきては、
ごくごく勝手に去っていくだけなんです。つまり、どこにも実体はないんです。
そうなってくると、思考と感情と体感の寄せ集め、
もしくはその組み合わせである「自分(自我)」というものも、
当然、実体のないもの、ということになりますよね?
この事実を、まずはしっかり腑に落としてしまいましょう。
でも、これって、あたまでは「そうだろうな~」と納得できても、
なかなか、実感としては掴みづらいところなのかもしれませんね。
ということで、今日は、実際に、これを「腑に落とす」方法を書いてみたいと思います。
やり方としては超簡単。文字通り、腑、というか、おなかを使うんです。
使う、というか、単純に意識するだけ。具体的にどう意識するのか?
「自分の本体は、あたまではなく、おなか(おへその下のあたり)にある!」
いう風に、意識するんです。ただ意識するだけでいいんです。
どうしてもむずかしく感じられる場合は、呼吸と組み合わせてやってみると、
少し、掴みやすくなるかもしれません。
うまいことおなかに意識を持っていけると、そこを中心に、からだ中がぽかぽかしてくるのが
感じられるかと思います。
(この感覚は派手なものではないので、最初は「これ!」というのがなくても大丈夫です。
「あたたかいような気もするけど……?」ぐらいの感覚があれば、それでOKです。)
あとはもう、その状態を保ったままに、日常を送るだけ。それだけです。
めーちゃめちゃ簡単です。単純です。シンプルです。「やり方」というほどのことでもないです(笑)
うまくいかなくても、何度もやっているうちに、次第に感覚が掴めるようになっていきます。
「自分の本体はおなかにある、あたまは飾り」
という風な意識をもったままに日常を送っていると、思考も、感情も、体感も、
すべて、まるで風のように、色も残さず、形も残さず、匂いも残さず、
ただただ、「自分」を通過していくだけだ、ということが、理屈じゃなく、理解できるようになります。
そうなれば、あとは起こることが起きてくるだけ、ですね。
いくら文章を読んで、あたまで理解したところで、
おなかの底から「ほんとう」を実感できなかったら残念なことではありますからね。
実際にやってみて、そして、「うわ~! ホントだ!
“自分(自我)”なんか、どこにもなかった!」ということを感じてみるのが、
結局は、いちばん手っ取り早かったりするんじゃないかな。
……となると、“自分(自我)”なんか、どこにもなかった!ということを「感じる」のは、
じゃあ、いったい、誰なんだ?……ということになっちゃうのですが、
まあね、それも含めて、感じてみてください(笑)
そうとしか言えないところの話なので。「感じる」は、「考える」より、しなやかです。
思考も、感情も、体感も、ぜんぶぜんぶぜんぶ、ごくごく勝手にやってきては、
ごくごく勝手に去っていくだけなんです。つまり、どこにも実体はないんです。
そうなってくると、思考と感情と体感の寄せ集め、
もしくはその組み合わせである「自分(自我)」というものも、
当然、実体のないもの、ということになりますよね?
この事実を、まずはしっかり腑に落としてしまいましょう。
でも、これって、あたまでは「そうだろうな~」と納得できても、
なかなか、実感としては掴みづらいところなのかもしれませんね。
ということで、今日は、実際に、これを「腑に落とす」方法を書いてみたいと思います。
やり方としては超簡単。文字通り、腑、というか、おなかを使うんです。
使う、というか、単純に意識するだけ。具体的にどう意識するのか?
「自分の本体は、あたまではなく、おなか(おへその下のあたり)にある!」
いう風に、意識するんです。ただ意識するだけでいいんです。
どうしてもむずかしく感じられる場合は、呼吸と組み合わせてやってみると、
少し、掴みやすくなるかもしれません。
うまいことおなかに意識を持っていけると、そこを中心に、からだ中がぽかぽかしてくるのが
感じられるかと思います。
(この感覚は派手なものではないので、最初は「これ!」というのがなくても大丈夫です。
「あたたかいような気もするけど……?」ぐらいの感覚があれば、それでOKです。)
あとはもう、その状態を保ったままに、日常を送るだけ。それだけです。
めーちゃめちゃ簡単です。単純です。シンプルです。「やり方」というほどのことでもないです(笑)
うまくいかなくても、何度もやっているうちに、次第に感覚が掴めるようになっていきます。
「自分の本体はおなかにある、あたまは飾り」
という風な意識をもったままに日常を送っていると、思考も、感情も、体感も、
すべて、まるで風のように、色も残さず、形も残さず、匂いも残さず、
ただただ、「自分」を通過していくだけだ、ということが、理屈じゃなく、理解できるようになります。
そうなれば、あとは起こることが起きてくるだけ、ですね。
いくら文章を読んで、あたまで理解したところで、
おなかの底から「ほんとう」を実感できなかったら残念なことではありますからね。
実際にやってみて、そして、「うわ~! ホントだ!
“自分(自我)”なんか、どこにもなかった!」ということを感じてみるのが、
結局は、いちばん手っ取り早かったりするんじゃないかな。
……となると、“自分(自我)”なんか、どこにもなかった!ということを「感じる」のは、
じゃあ、いったい、誰なんだ?……ということになっちゃうのですが、
まあね、それも含めて、感じてみてください(笑)
そうとしか言えないところの話なので。「感じる」は、「考える」より、しなやかです。